第1話

文字数 1,995文字

「ねー!ママー!見て、見て!」
 航平が薄い引き戸の向こうから大きな声で私を呼ぶ。オンライン会議の最中だというのに。画面の中の社員達から苦笑が漏れる。
 逃げ場のない狭いアパートで、それは毎日繰り返された。
 「ママはお仕事なの!」と何度言い聞かせたってまだ六歳の航平には通じなかった。今日はこちらの部屋に来て走り回らない分、まだましだ。
 航平はこの春から小学校に入学したが、入学式もないまま休校になり、学童もお休みになった。この部屋に二人でいるほかはない。 
 頭が締め付けられるように痛む。
 航平の父親とは婚活アプリでの出会いだった。妊娠を告げた時「ごめん俺本当は既婚者」と短いメールが来、その後一切の連絡は途絶えていた。

 会議が終わり、隣の部屋がやけに静かなことに気が付いた。
 部屋をのぞいたが、そこに航平の姿はなかった。
 そういえば、この間テレビの子供番組で『お家でかくれんぼ』という遊びを紹介していた。航平はあれをやっているのだろう。
「あれれー? コー君がいなくなっちゃったよお」
 大げさに驚いて私は言った。
「どこに行ったのー? ママ、寂しいよお」
 部屋のテーブルの上にはプラレールが並んでいる。私の仕事中に航平が一人で遊べるようにと買い与えたものだ。
 プラットホームに駅名が書いてある。『当駅・やよい』。そして隣の駅は『←』で示され『きさらぎ』。反対の駅はまた『→』で『うづき』。
 私の名前と同じ『やよい』駅を航平はとても気に入っていた。
 
 テーブルの下を覗いたが航平はいなかった。
 他に隠れられる場所は作り付けの小さなクローゼットくらいのものだ。きっと航平はそこで息をひそめ待っているのだ。
 「わっ!」と言いながらクローゼットを開けたが、航平の姿はなかった。
 その時、あるものに気づいた。
 クローゼットの奥に小さな扉がついていた。入居して2年近くなるが全く気付いていなかった。
 扉を開けてはみたものの薄暗いクローゼットの奥のその扉の向こうには全く光が届かず中は真っ暗で何も見えなかった。だが、どこかから風が吹いてきて空気の流れが感じられた。退屈している子供にはこういう場所は恰好の冒険の場かもしれない。
「コー君、いるの?」
 呼びかけたが返事はなかった。
 私はやっと通れるその真っ黒な四角な『穴』に頭を突っ込んだ。

 穴を通り抜け立ち上がると、そこは明るく何もない真っ白な壁に四方を囲まれた10畳ほどの部屋だった。私はここはずっと空き家だった隣の部屋なのだと思った。
 だがその部屋に航平の姿はなかった。
 見渡すと、この部屋の向こう側の隅にも小さな扉がついていた。
 その扉を開けてもまた同じような白い壁の部屋があるだけで航平はいなかった。一つ前の部屋より広いような気がした。その部屋の向こう側の隅にも小さな扉がついていた。前の扉より少し大きいように見えた。
 私はその扉を開け次の部屋へ行った。

 何度それを繰り返しただろう。扉をくぐり次の部屋に入るたび、部屋は広くなり天井が高くなっていくようだった。
 航平を探して扉から扉へと走り続けるうちに転び、鼻血を出してしまったようだった。拭うと手が赤く染まった。洋服が体に張り付いて気持ちが悪い。
 コー君、どこにいるの、ママ寂しいよ、と私は声をあげて泣いた。航平がいなければ私も生きていられないといまさらながらに思い知った。産まなければよかった、と何度も思ったことを恥じた。私はぼろぼろに疲れた体を引きずり立ち上がって次のドアを開け続けた。

 そしてついに体育館のように巨大な部屋を横切った先の、真っ白なその壁についた大きく背の高い扉を全身の力で押し開けると、そこには駅のプラットホームがあった。
 『当駅・やよい』。そして隣の駅は『←』で示され『きさらぎ』。反対の駅はまた『→』で示され『うづき』。
 そのプラットホームには航平が立っていた。
 駆け寄って抱きしめると航平の体はなぜかぐっしょり濡れていた。
 まもなく航平のお気に入りの青いプラレールの電車にそっくりな『回送』電車が入ってきた。
 止まるはずのない回送電車がプラットホームで止まり、ドアが開いた。私は航平の手を引いてその電車に乗り込んだ。電車はきさらぎ駅方面へ向かって出発し、安堵した私はウトウトと眠り込んでしまった。
 目覚めると目の前にパソコンがありオンライン会議が始まっていた。

 育児ノイローゼにコロナ鬱が引き金となって、我が子を刺し殺してしまった母親、蓮見(はすみ)やよい。
 発見時、二間続きの奥の部屋の小さなクローゼットのなかで、全身返り血に塗れながら、すでに息絶えた子供を抱きしめていたという。
 自殺を防ぐため、今はこの隔離病棟の四角くて真っ白な壁に囲まれた部屋に閉じ込められている。

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