あるバスケ少年の夜と朝

文字数 2,632文字

 2020年。新型コロナウィルスに、世界中が蹂躙された年、ぼくらは高校二年生だった。

 学校は休校と短縮授業とリモート授業を繰り返し、体育祭も文化祭も、インターハイも修学旅行も全て中止になった。
 望みや夢を口にすれば『身勝手な若者』と呼ばれて、友だちと楽しく過ごすことにさえ、罪悪感を植え付けられた。

 2021年がやって来ても、先が見えない日々が続いている。
『諦めよう』と『仕方ない』に、押し潰されてしまいそうだ。息を殺すようにして、ようやく長い夜を超えて来たのに。

 好きな女の子の笑顔さえ、マスクに隠れて見えない。寒さで赤くなった頬も、歯並びが悪いからと小さく開いた唇も、忘れてしまいそうで怖い。

 ある晩、ぼくはバスケットボールを持って、夜中にこっそりと家を抜け出した。こんな寒い夜なら、誰にも会わずに済むかも知れない。

 真夜中の、ガラガラに空いた五日市街道を自転車で走る。ペダルを踏み込むごとに、やるせなさがこみ上げて、大好きな歌をマスクの中で、何度も繰り返し歌った。

 バスケ部は体育館クラスターに巻き込まれて、部員から十二人もの感染者を出した。ぼくも濃厚接触者だ。
 部活は春まで再開されない。顧問の先生からそう連絡が来た。先生は新婚さんで、奥さんが妊娠中なのに、PCR検査で陽性だった。今はどうしているのだろう。

 小学校でミニバスをはじめてから、こんなにもバスケから遠ざかったのは初めてだ。受験の時でさえ、週に二回は区民体育館へ通っていた。ゴールに向かってジャンプすることに、禁断症状があるなんて知らなかった。

 校門を乗り越えて校庭へと向かう。

 暗闇に浮かぶ白いゴールボードが目に入った途端、ぼくは我慢できなくなって、手袋とジャケットを脱ぎ捨てた。ボールを突く。ターンという音が、夜に吸い込まれる。もう一度、もう一度。跳ね返るボールの感触が、コートの喧騒と体育館の床を鳴らすバッシュの音をぼくの耳元に連れて来る。

「くっそぉぉー!」

 ぼくは半分無意識で叫んで、走り出した。

 あとどのくらい我慢すればいいの。あといくつ、諦めたらいいの。どれだけのため息を飲み込んで、ぼくらは大人になるの。

 誰のせいでもない。誰もがみんな我慢を強いられている。もっと困っている人だっている。死んでしまう人だっている。

 だけど。だけど……だけど! だけど‼︎

 この行き場のない気持ちは、どうしたらいい! ぼくらの高校生活は台無しされてしまった!!!!

 走って、飛んで、シュートする。

 かじかんだ手のひらに、ボールの吸い付く感触が戻って来る。

 走って、飛んで、シュートする。

 ゴールネットが揺れる。

 ぼくはもっと低く、もっと速く、もっと自由に走れたはずだ。毎日毎日飽きもせず、ボールを突いて走っていたのだから。

 あの日、日常が、壊れてしまうまでは。

 シュート寸前に、ボールが中指をかすめて離れてゆく。ボールはリングに当たって、大きく跳ね返った。


 もう一度飛ぶことが出来ずに大きく息を吐くと、見覚えのある大きな影が、ボールを無理やりリングへと押し込んだ。

 驚いて、そして、笑いが込み上げて来る。

「なんだよ、おまえもかよ!」
「おまえこそ、自粛しろ! この、濃厚接触者め!」
「バーカ! おまえもだろ! 通報するぞ!」

 軽口を叩きながらボールを渡して走り出すと、ふわりと胸元に収まるようなパスが来た。身体に染みついた二歩目で地面を蹴って、手とゴールを繋げるようにしてリングへボールを置いて来る。

「ナイッシュ!」

 息を吐くように声が飛んで来た。当たり前のように、毎日口にして、耳にしていた掛け声。ずいぶんと久しぶりに感じる。


 それから二人で、馬鹿みたいにボールを奪い合って、競うようにゴールへと飛んだ。笑いながら、何度も何度も仕切り直して、くたくたになって校庭の真ん中に身体を投げ出した。

 いつの間にか二人とも、マスクを外していた。いつもは隠れている唇が、夜気に直接触れるのがなんだか居心地が悪い。

 星空を見上げながら、お互いの息が徐々に整っていくのを黙って聞く。リュックから持ってきたペットボトルのスポーツ飲料を出してゴクゴクと飲んだら、俺にもひと口ちょーだいと、声をかけられた。

「ダメだろ。間接キスはリスクが高い」
「間接キスとか言うなよキショイ」

「俺ら、戦犯かな? “自分勝手な若者”かな」

 バスケ部は部員の殆どが濃厚接触者で、PCR検査で陰性だった者も二週間は自宅待機するようにと保健所から通達が来ている。ぼくらはそれを破ってここにいる。

「わかんねーよ、そんなの。わかんねーけどさ……もう、勘弁してくれって感じ」
「ああ。俺も……。俺もそう思う」

 いつの間にか東の空が明るくなっていた。太陽が顔を出し、朝焼けがはじまる。

 途端に、胸がすくような、ホッとした気持ちになった。なぜだろう? 太陽が昇っただけなのに。状況は何ひとつ変わっちゃいない。それなのになんで『良かった』って思っているのだろう? たかが、ひとつの夜が終わっただけなのに。

 大きく息を吸い込むと、なぜか、立ち上がる気力が湧いて来た。

 人間は、結構単純な生き物なのかも知れない。朝が来て太陽が昇れば、何かがリセットされてしまうような……そんな風に出来ているのかも知れない。

(“それでも日はまた昇る”って、こういうことなのかな……!)

 朝ってすげぇな! それで何となく少し元気になって、また立ち上がる人間もすごい。
 そうやっていくつもの夜を越えて、こんなにも増えて進化して来た。

 ちっぽけなぼくらは、今日も、更にちっぽけなコロナウィルスに翻弄される。だけど見てろよ! 人類はおまえらなんかに滅ぼされやしない。

(人類のしぶとさ、見せてやんよ!)

 ぼくは立ち上がり、目下の人類の敵に宣戦布告をした。

 それは徹夜でボールを追いかけたゆえのテンションなのか、はたまた朝の清々しさに血迷ったのか。どちらにしても悪くない気分だった。

「じゃあな」「リモート授業、サボるなよ」「起きられる気がしねーよ」「俺も」

 ぼくらはマスクをはめて自転車に跨り、手を振って校門をあとにした。「また明日!」と普通に手を振れる日常はいつ戻って来るのだろう。

 明日じゃない。明後日でもないだろう。でも、きっとその日はきっとやって来る。

 なぜなら、夜が明ければ朝になるからだ。僕らはまだまだ負けるわけにはいかない。


 明日は今日より、昨日より、きっと未来に近くなっている。
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