全話

文字数 5,038文字

 陽が昇り陽が沈み、月が昇り夜を経てやがて朝が来る。雨の降らない日が続けば、それが繰り返されるのみだ。水中から見上げる白い雲は美味そうに見える。
 晴れた日は水辺に上がり草陰で甲羅干しをする。俺は甲羅干しが大好きだ。真夏はしんどいが、春や秋にはなんとも言えぬ心地良さについ、眠りに落ちそうになったりもする。だが、水から上がると言う事はこの身を危険に晒すことでもある。我らは、沼の濁った水に身を隠す事により生き延びて来たのだから。寝ている時に襲われたりしたら一巻の終わりだ。それは、単に俺の命が無くなると言うことだけでは無く、ひょっとすると、種族を滅ぼすことに繋がりかねない。代々天敵から身を隠す事により生き延びて来た種族を破滅に導くようなことだけは絶対に出来ない。
 だから、心地良さに眠りに落ちそうになるのを必死で堪えなければならない。そんな訳で、俺は本当に心地良い甲羅干しをしたことは一度も無いのだ。それは、何も俺に限ったことでは無く、誰もが同じだし、代々受け継がれて来た用心深さでもある。長い歴史の中には、天敵に姿を晒してしまう間抜けも時には居たらしいが、決定的な事態には至らずに済んでいるようだ。
 
 我らは家族で生活するような種族では無い。生まれて三年が経つと、母親は子を見知らぬ沼まで連れて行き放す。幼生は、水と一緒にミジンコなどを飲み込み水を吐き出して栄養を取るが、大きくなるに連れ小魚を、更に成長すると鮒や鯉、蛙やザリガニなどを自ら捕食して食料とするようになる。
 そして、この頃には、我らの身体は大きく変容している。肺が発達し、(えら)呼吸から肺呼吸に変わるのだ。大(はまず)のような外形から脱皮し。四肢を持った形態へと変化する。我らの先祖は蛙なのかも知れない。
 成体になっても、我らは主に水の中で生活するが、息をしなければならなくなる。従って、ずっと潜ったままでいる事はできないのだが、地上には最大の天敵ヒトが居る。彼らに見付からず何百年も千年も過ごして来た事が、我らが生き残れた唯一の理由となる。もし、はっきりと確認されて何匹も捕らわれたりしていたら、ヒトは我らを探し出して捕まえる遊びを考え出していたかも知れない。そして、我らの種族は絶滅していたに違いない。
 ヒトと言う生き物は恐ろしく我が儘な生き物で、全てのものは自分達の為に存在していると思っているし、自分達は他の生き物とは全く違い、神によって特別に創られた特別な存在なのだと思い込んでいる者も多い。数多の生命の種の中の一種に過ぎないのだと言う自覚がまるで無い。だから、自分の命を繋ぐ為という正当な目的が無くとも、平気で他の生き物を殺す。実際に危害を加えられていなくても、その恐れが有るものは殺して良いとされている。虫、中でもゴキブリは見付かれば問答無用で叩き潰されたり薬剤を使って殺される。猿、猪、熊なども、人を襲う恐れが有ると言う理由ばかりでは無く、ヒトの巣に迷い込んで食料を掠めたと言う理由だけで殺される事さえある。それどころかヒトは、巣の外に有る木の実を食っただけでも許しはしない。他の動物なら、縄張りから追い出すだけで済ますのに……。そんなとんでもなく利己的な天敵であるヒトから身を守る。それが、我らのDNAに刻まれた最大の命題である。

 幸いにしてヒトとは恐ろしく鈍重な生き物である。万一我らが姿を見られてしまったとしても、素早く姿を隠してしまえば、今見たものは錯覚だったのかと思わせる事は容易い。その上、彼らは嗅覚も鈍いし聴覚も弱い。追跡される心配は殆ど無い。ただ、用心しなければならないのは、彼らの下僕である、犬や猫だ。彼らは、ヒトのように鈍重でもないし、嗅覚や聴覚もヒトとは比べ物にならないほど優れたものを持っているから、犬や猫に追跡されるような事態だけは、なんとしても避けなければならない。

 我らの酸素を取り入れる器官は頭頂部に有る。円形の皿状の器官で、哺乳類の鼻とは違い、大きな穴が開いている訳では無く、水は通さず皿面全体で空気を吸収するような構造になっている。この構造によって、水を被った場合でも肺に直接水が入ることを防げる。皿の周りに付いている繊維状のものは、擬態の役割を果たし、水草のように水に揺れて皿の形状を曖昧にぼやかす効果を発揮する。また、皿は魚の(えら)とも違う。(えら)が毛細血管から水中の酸素を吸収しているのに対して、皿は飽くまで空気中の酸素を取り込む器官なのだ。
 我らは、姿を晒さない為に頭頂部だけを水から出して、蛙泳ぎによって水中を移動する。静止する時は立ち泳ぎだ。何れにしても、潜る時以外は頭頂部だけを外気に晒している訳だ。皿から取り入れられた空気は、首の背中側を通って肺に送り込まれる。気管は背中側に有るのだ。また、哺乳類のように弁によって気道と食道が切り替えられる訳では無いので、水中で大きく口を開けて水を飲み込んでも、その水が誤って肺に入る心配は無い。この気管を保護する為、我らの背中には甲羅が有る。とは言っても、それは、亀のように危険を感じたらそれに潜り込めるような大きなものでも頑丈なものでも無い。蛙泳ぎをしている時に、例えば急降下して来る猛禽類に背中を突付かれ、背側の極浅いところを通っている気管に決定的なダメージを受けない為の保護構造といった程度のものでしか無い。

 秋の或日。その日は高い空が僅かに揺れながら見通せる日だった。俺は素早く手を出して大きな鯉を捕まえて、頭から丸飲みにする。この沼には大きく丸丸と太った鯉が数多く居るので、食い物に不自由したことは無い。
 満腹となった俺は、草陰に体を伸ばし甲羅干しをしたくなった。岡に上がり草陰で発見されにくいお気に入りの場所へ向かう。その時、俺は何かを感じて草越しに周りを見回した。そして、ヒトが一人、沼に向かって来るのに気付いた。肩までも有るゴム長を履き網を担いでいる。棒も何も付いていない大きな網だ。ただ、網の端には重りらしきものが沢山付いている。嫌な予感がした。
 ヒトは、沼辺まで来ると浅瀬となっている辺に踏み込んで来た。そして、網を腕で抱えて体を左に捻ったかと思ったら、右肩に担いだ網の端を持って、体の捻りを戻しながら大きく投げた。網は綺麗に広がって水面に落ちる。網は、周りの重りに引きずられるように沈んで行く。大きな網の中心には綱が付いている。網が沈むと、ヒトは綱をたぐり始めた。上がって来る網の中では大量の鯉や鮒などが跳ねている。綱を手繰られる事によって、重りの付いた網の裾が絞られて行き、魚達はヒトに捕われた。魚を逃さないように更に網の裾を絞ると、魚の入った網を抱えたヒトは岸に上がり、網の底を開いて容器の中に獲物を移す。
 そして、ヒトは、空になった網を担いで再び沼の浅瀬に踏み込んで来た。

 水辺の草陰からその様子を覗き見ていた俺は、いつしか警戒心や恐怖心を忘れ、腹が立って来た。確かにこの沼には多くの魚が生息している。毎日、俺が腹一杯食っても、また、イタチや鳥が食っても、魚は多くの卵を生みその何割かが育って餌となってくれるから、魚が居無くなる事は無いだろう。だが、あんな捕り方を何度もされたら、そのうちこの沼は魚の居ない沼になってしまうに違いない。ヒトと言う生き物のやり方を目の当たりにし、俺は怒りに体が震えるのを覚えた。
 俺は「クワッ!」と一声鳴いて怒りの気持ちを表した。ヒトは何かと思って辺りを見回すが、鴉か何かだと思ったのだろう。直ぐに漁を再開した。俺は、ヒトに見付からないように草陰を辿り水中に入った。出会った魚達を脅すようにしてヒトの居る辺りから離れた方向に追いやる。
 俺は、自分自身が網に掛からないように用心しながら、深く潜ってヒトの居る方に近付いた。
 上を見ると、網が大きく広がるのが見えた。俺の脅しによって大分少なくはなっていたが、それでも何匹かの魚が網の下に居た。彼らは慌てて逃げようとするのだが、重りの付いた網の端が素早く沈んで魚達の逃げようとする方向を塞いでしまい、裾が絞られるように閉じて行く。小魚は網の目を潜って逃げたが、五、六匹の鯉と鮒などが捕われて引き上げられて行く。
「チクショウ、間に合わなかったか!」
 そう思った。
『もう一度網を投げてみろ、俺の鋭い嘴で網をズタズタに切り裂いてやる』一旦はそう考えた。しかし、落ち着いて考えてみれば、それでは、網を切り裂く何かが水中に居ることを教えてやるようなものだ。ヒトがその気になれば、人数を集めて、大掛かりな底ざらいだってやりかねない。やはり、それは危険過ぎる。網が何かに引っかかって上げられないと思わせる方が利口だ。素早く泳ぎ回って、その辺りに近付こうとする魚達を追い払いながら、俺は、どう仕掛けをすれば良いかを考えた。
 また、網が投げられた、更に魚達を追い払いながら俺は、落ちてくる重りを避けて網の外へ逃れる。
 獲物が入っていない事を確認した筈のヒトは、入っていたゴミを捨てると、また、網を投げた。大きく廣がる網を見て、落ちて来る重りに気を付けながら、俺はまた、魚達を追って網の外へ出た。
 二投続けての収穫無しをどう捉えたのか、それきり網は投げられなかった。諦めて引き上げたのだろうか。
 暫く様子を見ていたが、網が投げられる事は無かったので、俺はその場を離れ、水草の生い茂っている辺りまで移動して水面に顔を出し、ヒトの居た辺りを覗き見た。
 ヒトは網を担いだまま、沼の縁を回るように歩いている。あの場所が駄目なら他の場所を探そうと思っているのだろう。対岸の一番深くなっている辺りに来ると、ヒトは水に入らずに網を投げられるところを探している様子だ。やがて、水辺に近く足場を確保出来るであろう場所を見付けた。まだやるつもりだ。そう判断した俺は、潜って手足の水掻きを駆使して最速でヒトの居る辺りに近付く。
 その辺りは沼の中で一番深い場所ではあるのだが、同時に道路に近い場所でもある。潜って行くと、ヒト達が投げ込んで行った実に色々なものが底に転がっているのが見える。猿が果樹園の果物を食い散らかした、猪が芋畑を掘り返したと言っては大騒ぎするくせに、ヒトの中には俺達の棲家にこんなものを平気で投げ込んで行くような連中が大勢居るのだ。二つの輪の付いたものや大小様々な四角く白く硬いものが、半分泥に埋もれて散乱している。これも、天敵であるヒトの悪行の結果でしかない。普段は見たくも無い光景だ。しかし、その時閃いた。俺は、ゴミの中に面白いものを見付けた。ヒトが乗って爆音を立てて走っているのを何度も見たことが有る。それは、前と後ろに大きな輪の付いた鉄の塊だ。そこいら中に突起物が有るから網を引っ掛けるにはお誂え向きだと思った。俺はヒトが網を投げるのをじっと待った。少しすると網が水面に広がるのが見え、端の重りに引きずられて落下して来た。俺は、その重りの一つを掴んで、輪の二つ付いた鉄の塊をヒトが走らせる時握っている棒の一つに、網の端を急いで引っ掛けて外れないようにした。
 ヒトは直ぐに網を手繰り始めた。しかし引っかかっているので上がる訳が無い。尚も引こうとしているが、鉄の塊が少し揺れて泥が舞い上がり、水が更に濁るだけで上がりはしない。もう一度綱がピンと張ったタイミングを狙って、俺は思い切り綱を引いた。
『ドボン』と言う音を立ててヒトは落ちた。そして沈んで来る。ヒトは手足を動かして浮き上がろうとするが、胸まであるゴム長靴を履いているので、そこに水が入って簡単に浮き上がる事は出来ない。ヒトはゴム長靴の肩に掛かっている部分を外してそれから抜け出した。水には慣れているらしく、慌てずそのまま浮き上がろうとする。
 俺はすーっとヒトに近づいて行き両足を掴んだ。ヒトは盛んに藻掻くがどうにもならない。このまま掴んでいれば、間も無くヒトは溺れ死ぬだろう。酸素によって呼吸している点では、ヒトも我らも変わりはないのだが、我らはヒトの数倍も呼吸せずに潜っていられるのだから。俺は、間も無く達成感と大きな満足感を得る事が出来るだろう。そう思った。そう。満足感を得られる筈だと確かに思ったのだ。だがその時俺は、『餌場を荒らされたというだけの理由でヒトを殺そうとしている』と気付いてしまった。
 俺は思わずヒトの両足を離した。ヒトは必死に手足で水を掻きながら浮上して行った。
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