新しい伝統

文字数 1,253文字

 腕が当たって、カップがひっくり返った。
「あぁっ」
 柳瀬(やなせ)はキーボードを遠ざけると、ペーパータオルを引っ張り出した。ベチャベチャになった書類を拭こうとして、あきらめる。
 ゴミ箱に捨てようと身を捩った所で、加地尾(かじお)と目があった。
「重要書類の破棄はシュレッターがけでは? 教授」
「ああ、そうだったな……」
 気落ちする柳瀬の後ろで、加地尾は浮ついた声をあげた。
「しかし、これは例外ですよ!」
「いや、そういうわけにはいかない」
「コーヒーにつつまれているのに?」
 柳瀬は書類をペーパータオルで叩いた。
「決して口外するなよ」加地尾が小脇に抱えているものに気づいて、柳瀬は念押しする。「小説にするのもダメだ」
 加地尾は目を輝かせて、冊子を掲げた。
「すでに作品になっていますよ」
 柳瀬はうんざりしてかぶりを振った。
「ふざけている場合じゃないんだ。過去作がたまたま現状に酷似していたとしてもだなーー」
「教授、よく見てください。書かれたのは明治時代です。我らが文芸部の名誉会長、つまり、初代総長である善哉(ぜんざい)朝宗(あさむね)の作品ですよ!」
 柳瀬は怪訝そう題名に視線を走らせた。
『天下御免の調合(ブレンド)珈琲葬送(ベリィ)
「なんだこれは?」
「タイムマシンを開発した未来人が、遺失物について議論する物語です。千年も前の地層から、未知の機械部品が発掘されるとして、過去人たちへの影響を最小限にとどめるにはどうしたら良いのか」
 なにがなんだかわからないまま、柳瀬は手に取ってページをめくった。
「遺失物の発生は許容するのか」
「確率的にゼロにできないと判断したんですね。無論、土に還る物質を推奨してますが、全部というわけにはいかないのでしょう」
 柳瀬は息を吐いた。
「レントゲンが発明されていない時代までならなんとかなるのかもしれない。内部は普通の金属ではないようだが」
「キトラ古墳のように、今の技術で開ければあっという間に劣化すると思います」
「問題はそうして残る遺跡へ不審だ。下手をすれば私たちの過去の研究すべてに疑義を生じさせるだろう」
「つまり、これは発表すべきではないんですよ」
「未来の物質であるとは証明できないだろうから、おそらく言及はしない。ただなぁ、未来の物質が混在しているなんて、たまったもんじゃないよ」
「保護剤にはコーヒーの成分が含まれていました。まだ調査が必要ですが、無視してくれってことです。コーヒーベリィは未来の考古学の在り方であり、我が大学がトップランナー、あるいはスタンダードを確立したという嬉しい発見でもあるんです!」
 柳瀬は座り直すと笑顔を見せた。
「にしても、信じられないな。未来を掘り出してしまうなんて」
「私は感動しました!」
「確か(いしぶみ)文庫にはウェルズのタイムマシンの翻訳もあった」
「翻案にした小説群を寄贈してますね」
「でも、なんでコーヒーなんだろうな」そこで柳瀬はひらめいた。「あれか。鬼ごっこで『豆』は鬼にならないハンデがあるよな?」
 加地尾はこれ見よがしに肩をすくめた。
「もう忘れたんですか? うっかりといえば、ガシャンっ!ってことですよ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み