第1話

文字数 2,780文字

ただ薬局で働いているだけじゃない。最近の薬剤師というのは患者さんの家に訪問をしたり、ケアマネジャーと連絡を取り合ったりしている。そして患者さんの家でテーブルの上に薬を出して、ちゃんと薬が飲めているかを確認して、患者と看病をしている人に話を聞いて、その記録を残している。
時代の流れとともに、医療の形は変わっていっている。薬剤師もそうだ。すでに高齢者が多すぎて、病人をすべて病院に任せておくことはできなくなった。今の時代は必要に応じて患者さんを自宅で療養させなければならないのだ。

「むかしは全然楽だった」と五十代の先輩薬剤師は言った。
「むかしは処方箋のまま調剤していればよかったからね。だけどこれからはもうそうもいかない。」

そう言われたって、こっちは大変なんだ、とぼくは思った。
認知症になったおじいさんの家に行ったり、交通事故で寝たきりになったお兄さんの家に行ったり、日々訪問をして、薬が大量に残っている患者さんがいれば医師に報告をした。
もちろん通院ができなくなったパターンばかりではない。余命が残りわずかとなった人の自宅にも行く。
末期癌。
最後となった人生を住み慣れた家で過ごそうと帰ってくるのだ。

「あの、言いにくいんですけど、本当に麻薬を使っても大丈夫なのですか?」
とそのおばあさんは言った。
胃癌だった、強烈な痛みを取り除くためには医療用麻薬を使わなくてはならない。看病をしているおばあさんはそのテーブルに置かれた薬を見つめた。
「癌の痛みは強烈なので、麻薬を使うのです」とぼくは説明をした。「服用量を調整しているので中毒になったりはしませんから。」
「そうですか」とおばあさんは言った。
麻薬に抵抗を示す人は多い。世の中で麻薬といえば基本的に悪者なのだ。おばあさんは隣のベッドで眠っているおじいさんの顔を見た。気の強いこの人に付いて生きてきてきたのに、気づけば最後を見守る側になっている、どうすればいいのだろう、そう思っている。
ぼくは「大丈夫ですから」と言った。
「はい、やってみます」とおばあさんは頷いた。

「気になることがあったらいつでも連絡してください」ぼくはそう言って患者宅を出ていった。

看病する人の熱意というのは驚くほどに違う。
「この人があまり長生きしてもねえ」と言う人もいたし、「年金がもらえるから長生きして欲しいのよ」と言う人もいた。このおばあさんは「一番好きな人だったのよ」と言って、おじいちゃんが写っている写真を見せてくれるような人だった。
麻薬を使うことを不安と言っていたけれど、そのおばあさんは献身的に看病をしているうちに麻薬を使うことにも慣れていった。
その患者さんに処方されていたのは、毎日張り替えるフェントステープという貼付剤と、突発的に痛みが出たときに使うアンペックという座薬だった。どちらも麻薬だ。

ある日、「もう食事が取れなくなったみたいなの」とおばあさんが報告してくれた。
それはもう身体が死に接近しているという証拠だった。癌というのは最後が早い。食べ物が食べられなくなってから一ヶ月以内に死ぬことが多い。絶対とは言い切れないが、そういうパターンは多いのが事実だった。
ぼくはいつものように記録を残しながら、次の訪問はないかもな、と思った。
患者さんにとって一週間というのは長い、それが生死を隔てる期間になってしまうかもしれないのだ。

そしてある日、いつものように業務をしていると、主治医の病院から連絡があった。「〇〇さんがお亡くなりです」そして、続けて「麻薬の回収もお願いします」と言われた。
これが一番苦手だった。患者さんがいなくなってから使わずに残った麻薬を回収しにいかなかればならない。
もう患者さんがいないのに、どういう言葉をかければいいのか分からなかった。

「お世話になります」と玄関のドアを開けながら言った。
おばあさんはすぐにお辞儀をして、「この度はおせわになりました」と言った。
「大したお力添えもできなくて」
とぼくは言って、業務的なやりとりをした。「最後はどうだったのですか?」と聞いた。

いつもはそんなこと聞かないのだが、その人のことはどうも気になった。

「痛みもなく静かにベッドの上で亡くなりました」とそのおばあさんは言った。

そして、「最後はちょっと苦しそうな瞬間もありましたけど、それでもあなたが毎週薬を持ってきてくれたおかげです」と言った。

「そうですか」ぼくは静かに聞こうと思った。

「最後の瞬間はね、麻薬を張り替えようとしたときだったの」とおばあさんはまだ喋った。
そして後ろを振り返って棚から一枚のフェントステープを取り出した。「名前を呼ばれて、ベッドの横にいったの。そしたら急に顔をしかめだしてね。
「ちょっとアンペックをあげるから」って言ったけどじっとこちらを見たまま、そのまま亡くなったの」
「そうでしたか」
どう言えばいいのか分からなかったけど、とにかくちゃんと最後まで聞こうと思った。
「それでお願いなのですけど、この最後に張り替えようとした麻薬をもらってもいいですか?」とおばあさんは言った。「形見にとっておきたいの」
その手には新品のフェントステープがあった。
「それはできないです」とぼくは言った。
最後の麻薬は、確かに形見としていいかもしれない。だけどそれを許すわけにはいかない。
「そうよね」
とおばあさんは明るい表情で言った。「最初から分かっていたことだから、これは返しますね」
ぼくは少し考えて「ゴミ箱を見せてもらってもいいですか?」と言った。
使用済みのフェントステープがあるかもしれないと思った。そして探すとそれはあった。最後におじいさんの痛みを取っていたフェントステープ。それならもう成分も抜けているし、渡すことができると思った。
「これを形見にとっておくのはどうでしょう?」
それを手に取ってみると、貼付剤は指先で無気力にだらんと垂れ下がった。一応粘着面は折りたたんで皮膚に触れないようにしている。
おばあさんは嬉しそうに「それはいいわね」と言った。
それを後日ラミネートして渡しに行った。

おあさんは「ありがとう」と言った。玄関先で短い会話をすると、ぼくは「お邪魔しました」と言って立ち去った。

この薬がこれから先はおばあさんを守ってくれますように、と胸のなかで思った。

薬局に帰ると「これからはお前たちが時代を支えていくんだぞ」とら先輩は笑いながら言った。

そう簡単じゃないんだよ、とぼくは胸の中で思った。しかし時代に合わせて働くというのは誰かに求められるというこもでもある。それもいいことだと思った。そしてその日の午後も、日本の医療状況のなかで、一人の薬剤師として訪問へと行くのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み