第1話 カッパッパー

文字数 1,847文字

 朝、目が覚めるとぼくはカッパになっていた。緑色の皮膚に黄色の嘴。手には水掻き、頭頂部はご丁寧に皿のようなものまであった。
 
 鏡で自分の顔を見ながら何でカッパになどなってしまったのだろうかと考えたが、分かるはずもなくてぼくは大きな溜息を一つだけついた。誰だって目が覚めてカッパになっていたら、溜息の一つもつきたくなるはずだ。

「やれやれ」

 そう口にしてみた。どういう仕組みかはわからないが、どうやら以前と変わりなく声は出るようだつた。

「やれやれ、参ったな」

 もう一度呟いてみた。だがそうしたところで状況が変わるはずもなく、ぼくの声は何をどうするでもないまま宙に霧散していく。
 
そうして途方に暮れていると、外で雨が降っていることにぼくは気がついた。ぼくは雨音に耳を澄ませてみる。
 
 そう。昔から雨の降る音がぼくは好きだった。小雨の音、にわか雨の音、土砂降りの音。子供の頃はベッドに寝転んで一日中、雨が降り注ぐ音を聴いていた。
 
 でも、いつからだろうか。あれだけ好きだった雨の降る音がぼくの耳に入って来なくなったのは。耳に入って来てもそれを雨が降る音だと認識しなくなってしまったのは。
 
カッパになってから雨が降る音に、かつては耳を澄ませていたことを思い出すとは思わなかった。ぼくは雨が降る音を聞きながら、カッパになって困ることを考えてみた。
 
 仕事に行けない?
 失業中だし。
 
 恋人に会えない?
 恋人はいないし。

 友達に会えない?
 友達はいないし。
 
 外出できない?
 ほぼ引きこもりだし。

 家族に会えない?
 天涯孤独だし。

 ……今のところ、決定的に困る事柄はないように思えた。長い目で考えればお金の問題が出てくるのだろうが、二年や三年ぐらいであればこのまま引きこもりを続けられるぐらいの蓄えはあった。
 
 会社の元同僚たちはぼくがカッパになったと知ったらどう思うだろうかと考えてみた。驚くのだろうか。それとも大変だなと同情してくれるのだろうか。そもそも、ぼくがかつて一緒に働いていたことなどもう忘れてしまったのだろうか。
 
 恋人だった彼女はどうだろう。悲しんでくれるのだろうか。それとも、昔の恋人がカッパになっているのを見て関わりたくないと迷惑がるのだろうか。
 
 それらのどれもが当てはまるような気がし、そのどれもが当てはまらない気がして、ぼくはそれを考えるのを止めた。
 
 取り敢えず食事にしようと思い、ぼくはキッチンへと向かう。カッパは何を食べるのだろう。やはりきゅうりだったりするのだろうか。そんなことを考えながら、ぼくはトマトパスタを作った。
 
 出来上がったトマトパスタを口に運ぶ。何の違和感もなくパスタは口の中へ入り、嚥下することができる。トマトパスタを普通に食べられることも驚いたが、何よりもこの黄色い嘴で不都合もなく食事ができるごとにぼくは驚いていた。まるで生まれた時からこの嘴と共に生活してきたようだった。
 
 ぼくはパスタを食べ終えて食器をシンクに置くと、リビングのソファに座った。
 これまでの考えをまとめてみると、ぼく自身はカッパになってしまったことで特に今すぐ困ることはないように思えた。カッパになったことで雨が降る音を聴くのが好きだったことを思い出したし、逆に恩恵があったぐらいなのだから。
 
 ぼく自身も、かつてはぼくの周りにいた人たちもぼくがカッパになったことで困らないのであれば、それは何の問題もないことのように思えた。突然カッパになったのだから、突然人間に戻るのかもしれない。

 いや、そもそもがぼくはカッパだったのかもしれない。それが突然人間となっていただけのことなのかもしれない。その想像はぼくをとてもわくわくさせた。

 
 ぼくはソファに座って静かに降る雨の音をただ黙って聴いていた。雨音がぼくを浸し包んでいく。このままたったひとつの瞬間だけでなくなってしまう雨音になれれば良いのにとぼくは強く思った。

 虚実が入り混じった情報。認識できる域を超えて溢れるほどに情報が存在するのに、現実とは明日でさえ誰にも見えない世の中なのだ。そして、皆は虚実が入り混じった中で繋がりを求め、繋がった結果、そうではないと言ってまた離れて行く。その時に繋がった者が虚なのか実なのかもわからないままで。
 
 そんな世の中でぼくがカッパになったところで、誰も興味は持たないし困りもしない。そして、世の中が困らないのであれば、きっとぼく自身も困りはしないのだろう。

「カッパッパー」

 ぼくは独りそう呟いた。
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