第1話

文字数 1,165文字

 いわずと知れた寺山修司の作詞だが、その楽曲の冒頭とタイトルしか記憶にないし、いま改めて聴きなおそうとも、そんな感興にはなれない。
 しかし犯罪の多くは母親の記憶によっておしとどめられ、あるいは助長されることは論をまたないだろう。正直ぼくだって母の存在がなければどんな犯罪に手をそめたかわからないし、ぼくの人生は母をけっかとして、あるいはその過程として裏切ってきたという歴史だが、それでも世間的な重い罪を犯さなかったのは、それをしたら母との断絶がおきるのがこわかったからだ(そう「ぼくがわるいことをしたら」母がかわいそうだというのと同じくらい、いやもっと根本のところでは母親との断絶をおそれたのだ)。そして母は聖母ではないが、世界とぼくをつないだ(母がいなければつながらなかった)。
 肉体屈強な男性でも(という例はよくないのかもしれないし、それはどのような肉体的条件・性自認であっても)、その死が不慮の死であれば、そして声が残っていれば「お母さん」が最期の言葉になるというのはそのことだろう。
 愛情を示すことのない、あるいは虐待する母親がいかに子を苦しい人生に導くかは、それが短絡的な観方だというのがわかりつつも、ぼくとして信じざるをえない。
 そしてそれは母親を求めるがゆえだ。

 そしてある場合には、「生きてたくもない人生なのに」「生きていたくすらないのに」ぼくたちは生きるのだ。

 母親がいなければラクなのに。そういう逆説は、じつのところ逆説ではない。

 そして、実は上記は欺瞞であり、もっとも根源的なことは意思の力であり、真実は意思によってのみ達成可能なのだ。というのは、アニー・エルノーに『できごと(日本語翻訳では、事件というタイトルになっている)』という中篇があるが、それはフランスで中絶を非合法とした時代に、自分の人生を生ききるために中絶を覚悟をもってやりとげた作者自身の経験を描いた一人称小説(日本でいう私小説)である。映画化されて『あのこと』という映画になっている。
 映画ではあいまいになっているが、それは字幕翻訳の不備なのだが、小説はで、アニー・エルノーは堕胎したことを「わたしは勝利したのだ」と明確に表現している(映画は胎児を処理したあとの部分で、原作のもっとも大切なテーマであるところのものに対して誤解を受けかねない画面構成で無神経な字幕をだしている)。センティメントがいかに強制されたものであり、それを抜け出ることがいかに困難な勝利であるか、「真実は(といっておおげさなら、人生は)個人の力によって達成されうる」ことを示した傑作である。
 「ほんとうのこと」は、個人それぞれがかかえながらも、それは人はよわいものだから、その「ほんとうのこと」は消えていく。
 アニー・エルノーは自分のほんとうのことを消さなかった人だ。
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