第1話

文字数 1,998文字

狭いトンネルの入口に差しかかったとき

かすかに懐かしい香りがした
バニラのような甘い香り
いつだっただろう
この香りを日常的に感じていたのは

記憶の隅の小さな引き出しが
妙に気になった

開けてはいけないと
しまい込んでいた禁断の場所

ふと現実がかすみ
夢との境界が曖昧にずれた気がした


幼い私がいた
というより、その子に私が重なって
視線がいつもの半分くらいの高さになった

私の手を引いているのは
少し髪の乱れた女性…母…だと思う
私は母の姿をあまり覚えてはいない

幼い頃
そのトンネルは長い長い暗闇に見えた
かすかに遠くに見える出口は
薄暗くなるにつれもっと遠くなった

なぜこの道を歩いているのか
どこに向かっているのか
わからないまま
疑問を口にしてはいけない気がして

ただ少し足早に歩く母に必死でついて行った
出口のまぶしさに一瞬 目を閉じたとき
もう一度甘い香りがした

あ、まってお母さん、お花を…つんで…いい?

目を開けた
こっちが現実か…?
私の手を引いているのは夫だ

行きたいところがある、と珍しく彼のほうからの誘いだった

花の香りはもうしなかった
そういえばそんな季節ではない気もする

夫は出会った頃から
この世界の空気にまだ慣れていないかのような
ぎこちない生き方をしていた

変わった人だなと思ったけれど
変わったのは私のほうかもしれないなと思ったりもした

まっすぐに目をみて話す彼を真似して
ときどきじっと彼の瞳を見つめてみた

それに気づかないかのように
彼は話し続けた

無垢な瞳はいつも真剣で
全力で言葉を紡いでいて
私はそれを見ると、自分の心が少し汚れてしまったような恥ずかしい気持ちになった

愛おしいとはこういうことかなと思いながら、我が子を見守るように眺めたりした


私は感情のなかの何かが欠けているのではないかと思うことがよくある

感情を表して誰かと意思を伝え合っていいのだと気づく機会がないまま、大人になってしまった

それと対照的に、夫は心のうちを巧みに表現する人だった
だが、その率直さを受け取れる人はあまりいなかったのだろう

誰ともわかり合えないという虚しさにおいては、私と大差なかったのかもしれない

私が彼の話を楽しそうに聞くことに、最初彼はとても驚いていた
そして嬉しそうだった

心の不安を隠すかのように
ひたすら続けて話す彼は
ときどき幼い子供のように
どうして、とか、わからない、とか言った

先日、彼は相変わらず覗き込むように私をみて唐突に話しだした
目を通して心が見えるのかと思えるほどにまっすぐに

「どうして?どうしてきみはお母さんに会いに行かないの?」

そうだった、その言葉によって私は今ここにいるのだった

その言葉に、その無垢な瞳に、私はしばし固まって、視線が宙をさまよった

わかった…と言うしかない
これは疑問文ではない、優しい命令文なのだ
そうするしかないと腹をくくった
母に会いにいくと

母は私を施設に預けたあと
振り返ることもなくトンネルのほうに帰っていった
私は泣いていなかったと思う

そのほんのすこし前まで母と私はごく普通の仲の良い親子だった

私が摘んで渡した花を笑顔で受け取って
わぁーいいに香りね、
なんていう花かなあ、
〇〇に似てるかわいいお花だね
ありがとう、うれしい
と言った

そんな穏やかな日々のなかで
母の心は影のような黒い霧にときどき覆われるようになった

何がどうなったのか私には理解できなかった
ただ、母が私を迎えに来ることはないだろうと、ただそう思った

悲しいとか嫌だとか早く帰りたいとか
当たり前の感情は湧いてこなかった

幼い私は自分の気持ちを表す言葉をまだ持っていなかった
というより大人になった今でさえ、それに当てはまる言葉を見つけられない

「一人で生きていくんだ」そんなセリフを自分に言わせて
もう一人の自分が物語の中の悲劇のヒロインぽい自分を外から眺めていた
子供の頃はそうやって、いつも空想の中で生きていた


あれ、バニラの香り…
目の前に差し出された花
「見て、ほら、すてきな花だね
きみに似てる
可憐でさりげなくて
ほっとする香りがする
こんなに咲いてるよ
すごくきれいだ」


夫は見つめないではいられないのだ
世界のトゲを
人の罪を
つくられた嘘を

「いいかい、許すというのは
その人の罪をなかったことにするということではないよ
その罪の責任はその人が背負うべきものだ
許すとは手放すことだ
自分の手からその罪を、遠くに離すんだよ」

夫の言うことに私はいつも、わかった、
と答えることにしていた

それ以外の答えを彼が受け入れられないことを知っているから

そして、
夫の言うことが間違っていないことを
私はわかっていたから

この世界の空気に慣れてしまった私が
まちがっているのだということを
わかっているから


私は母を許すだろう
彼女の罪をこの手から手放すだろう


「ありがとう、連れてきてくれて」
「うん、よかったね」

私は小さくうなづいた
すこし泣いてみようかなと思った

この花の清さに紛れないほどきれいな
夫の心が
とても誇らしくて、うれしくて

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