第1話

文字数 24,716文字

 本の山



鴨川にかかった橋から北山を見た。山の頂上あたりは残雪で白かったがそれも日に照らされて時期にとけるのだろう。桜の蕾は時期に花開く生命力であふれていた。観光客達は浮き足だって橋を渡っている。幕末の志士たちの刀傷も残る三条大橋を。まだ冬の匂いが残る風が頬を軽く緊張させた。
もしかしたら君に出会えるかなと周りを見渡したが、見知らぬ人がそれぞれの目的に向かって通り過ぎるだけだった。ぼうっとしながら鴨川を見ると鯉がゆったりと泳いでいた。そのまま鯉を見ていると、瞬間鯉と目があった気がする。鯉はすべてを見透かすような目をして。そして僕は学生自体に過ごしたこの街のことを思い出した。

蒸し風呂のような暑さのなか蝉は元気に鳴いている。僕はクーラーのきいた大学の図書館でひたすら法律の本を読んでいる。わざと読みにくく書いてあるような専門書。法律解釈の論理のパターンを頭の中にたたき込んでいく作業をひたすら続ける。僕は全く楽しいとは思えなかったが、嬉々として勉強してる奴もたまにいる。
「そんな奴には絶対に勝てないだろな」
と内心感じて勉強しているから、勉強はさらにつらくなる。ネットを見ると不況で廃業した弁護士のブログがポツポツと出てきた。
「俺、完全に斜陽業界に進もうとしてる」
そう思うと、さらに勉強をする気がなくなる。気力を振り絞って基本書を読んでいると前頭葉が割れるようにもやもやしてきて、もうこれより一ページも先へ進めない!無理だ!と断念した僕は休憩室に行った。ボーッとしていると、ずっとアメフトに打ち込んでいてこの春から法律の勉強しはじめたという伊藤と目があった。頭の疲れで弱気になった僕は、弁護士業界の不況について同意を求めるように根暗に話していると
「間抜けな弁護士が落ちていってるだけや、稼いでる奴は稼いでる」
伊藤は体育会系らしくポジティブに言った。そしてシュパッっとライターを取り出しタバコに火をつけ吸い出した。鍛えた腕の太さが存在感を放っている。
「アメフトやめて法律に打ち込む決意のタバコやな」
僕が言うと、伊藤はニヤっと笑って
「高校の時からずっと吸ってるよ」
と明るく言って、タバコを吸い終わると颯爽と図書館に入っていった。ガタイのいい体でチョコッと椅子に座りながら本をかじりつくように読んでいる伊藤を僕は毎日のように見ていた。勉強を始めた時期は僕の方が早かったがじきに抜かれるのは目に見えていた。
「こんな奴にもかなうはずない」
と思いながら半分くらい脳の疲れがとれた気がしたので自分の本の置いてある机に戻った。とにかく無理矢理、頭に何かをねじ込むように本を読む。法律を勉強している学生の日常だ。気力を振り絞っているはすなのに集中出来きない。
「なんでこんなことしてるんだろ?他に楽しいことあるんじゃないの」
頭の中で愚痴をこぼしながら大学の友人た



ちのことを思い出した。
経済学部で商社マンか金融マンになると決めてるサークル仲間の竹内はピザ屋のデリバリーのバイトをしながら彼女と楽しくデートしていた。数学者になると決めた理学部の横沢は数学書を仙人のように読んでいた。社会での成功不成功は我関せずらしい。新興宗教に洗脳されて大学に来なくなった奴もいたな。カンニングがバレた奴も。不幸な人のことを思い出して楽しんでいる自分がいる。
「あっ、俺あかん、、、、」
自己嫌悪が襲ってくる。他人のことはどうでもいい。自分に集中しよう。そう言い聞かせて民法の本を読んだ。休憩して回復したはずの思った頭はまだモヤモヤしている。脳に得体のしれない老廃物がたまっている。脳の芯が疲れてしまってる。ブラック企業の社員が過労で鬱になって自殺するニュースを日本では定期的に見るがきっと今の僕と同じように脳がなってるはずだ。僕なんて所詮学生の疲れ。社会人の疲れはもっとキツイに決まってる。そう考えると人生、気が重くなって来る。そんな時、ふと逃げるように読み始めた自己啓発本は
「自由に生きろよ」
と僕を誘惑する。著者は見た目は癒し系だ。俺はお前たちダメ人間と同じだよ笑って慰めてくれる。
「なんでこんな規格にはまった法律なんて勉強しているんだ?」
「しかし、内気な僕はブランド資格でも取るしか生きていけない気が、、、」
「その弁護士ブランドも暴落中らしい」
僕は頭の中で問答していた。
「こいつは癒し系みたいだがベストセラー書いてて単なるやり手やな、、、僕とは違う、、、」
自己啓発本のくれた癒やしとハイがふと消えた。そして結局さらに冷静になった僕は半分くらいしか理解出来きてない刑法の本を読んでいた。自己啓発ハイを利用して上手く前進する人。そんな奴には今はなれそうに無い。

「次はランニングマンの練習や」
ガリ勉だった僕は大学に入ったら少しはチャラくなろうとストリートダンスのサークルに入った。高校までハマったオタク文化とは決別しようと思って。経済学部の竹内とそこで知り合った。ランニングマンは二十年前に流行ったストリートダンスの有名ステップで最近また流行ってる。柔道の黒帯持ってる竹内はすぐに出来るようになったが、僕はなかなか出来なかった。出来るようになったがどこがぎこちない。遊びなんだからそれも味だ。サラリーマンのカラオケみたいなもんだ。体育館の前の鏡に向かって同じステップを飽きず練習している。ランニングマンは疲れるステップなので疲れたらアップダウンというそれほど体力を使わないリズム取りの基礎もやる。音楽を聴いてると脳内麻薬が出てくる。身体を動かして汗をかくのも気持ちい。
「バイト行ってくる、じゃあな。それと来週末にクラブに行く話、またメールする」
竹内はスクーターに乗ってピザ屋のバイトに出かけて行った。竹内は大学生活を謳歌している。三人目の彼女も出来たそうだ。僕は屈折している。大学デビューしようと思ったものの未だに童貞のまま。合コンにも何度か参加したが、上手く女の子と話せず空回りした記憶しかない。リア充生活をしている竹内と僕は何故か気があった。
 一汗かいたあと、また図書館で涼みながら勉強した。「運動すると脳が働く。完璧」なんて自己啓発本を読んだので、今度こそ民法の条文が頭に入ってくることを期待したが、席に座って三分で今までと何も変わらないことに気がついた。膨大な量の条文、判例、学説、、、、途方に暮れるしかなかった。
父親が法律事務所をやっている流れでズルズルと法律を勉強している。圧力はなかったが無言の期待はあったかもしれない。まあ、所謂ボンボンだ。
「人を救いたい。社会正義を。エリートに絶対になってやる」
そんな決意を秘めて弁護し目指す奴とは根性が根本的に違う。昔は、弁護士業界も悠々自適だったらしいが、今は違う。父親の友達の弁護士も客の金を二億持ち逃げして懲役八年くらってた。そんな話ばかりの業界だ。無駄なことを考えても脳がまたモワーンとした疲労に包まれた。やばい、なんとかせねば!とコーヒーを飲んでハイになったら十分くらいは回復した気がする。僕の脳はこんなにへろへろなのに他の机を見ると吸い付くように専門書と向かいあってる集中している奴もいる。
「ああ、勉強をするために生まれて来たような奴がいる。人種が違う。無理だ」
気がつくと僕は法律の本でなく太宰治を読んでいた。

「サンマ焼くし食いに来うへんか?」
数学者志望の横沢からLINEが入った。
「行くよ」
と返事して自転車で下鴨にある横沢の下宿までほどほどに飛ばしていった。ぼろぼろの古い長屋だ。部屋は二階で階段を一歩踏みしめるごとに長屋全体がぎしぎしゆれる。五感を刺激する貧乏下宿。足音を調整しないと神経質な住民に文句を言われる。なんかたまらない。
「ひさしぶり」
「入れよ」
横沢の六畳間に僕は入った。理科系らしく部屋は整理されている。頭の中もきっと整理されているんだろう。高校時代の同級生なので気心知れてる。よもや話をだらだらした。
「彼女出来た?」
僕が聞くと
「そんなおったらお前を呼ぶわけない」
もっとも横沢の今のオタクな風貌見て彼女がいないのは分かりきっているのに聞いた僕の精神は病んでいるに違いない。数学の専門書が綺麗に狭い下宿に並んでる。
「読んでみていい」
と僕は線形代数なんて書いた本を手に取ってみたが何が書いてあるかもちろん分からなかった。
「すごいな、こんなん分かるなんて」
「趣味みたいなもんや。サンマ焼くし食べよ」
と横沢は話を言った。僕はコンビニで買った安ワインを持ってきて二人で乾杯した。安ワインの酔いが心地よく回ってくる。
「数学は気持ちよいよ。俺は頭が働いて右手で字を書けて数学さえ出来たら後は何もいらん。女もいらん」
「凄えな。どこが気持ちいいの?」
「美しいんだよ」
「美しい?」
「そう、美しい」
「美しいって気持ちいいってこと?」
「そうや、気持ちいいな」
横沢は安ワインを飲みながら光悦とした表情を浮かべた。二時間ほどだらだら話して家路についた。自転車を全速力でこいで鴨川沿いを駆け抜けた。タイヤが石を踏んで軽くこけそうになった。

「美しい学問。そんなことがあるんだ。僕も法学でそれを感じよう」
そう思って朝から民法の本を読んだ。債権者代位権についてだ。机に座ってるだけで足がもぞもぞしてきた。二時間座ってるのに一ページしか進んでいない。なのに頭は相変わらず重くなってくる。気晴らしにTwitterをやりだした。法律の知識は小賢しくついたので、政治についてひたすら連続で呟いた。現実の政治は妥協の芸術だから、法的正義からはかけ離れてる。その矛盾点をひたすら呟いた。たまにいいねがつくのが快感だった。気がつくと四時間たっていた。こんなことを一週間ほど続けてた。僕のことを連続でふぁぼる人も出てきてなんか満たされた。スマホの四インチが僕の世界になってきた。
ツイ廃、、、
と揶揄される。まさにそうだその通り。だけど法律の本を読んでる時より生きてる感じがした。リツィートされてきたイニエスタのゴールの動画を三回連続でウットリして見ていた。
「美しいって」
横沢が数学書に見た美しいという概念が気になってしかたなくなった。読まねばならぬ法律の本は机の上にきっちりと並んでいるが、僕は完全に上の空だ。やらねばならぬことを投げ出してどうでも良いことに真剣になる。よくあることだ。イニエスタのゴールは美しかった。ふらふらっと小説コーナーに向かって歩きだして三島由紀夫の金閣寺という本を手に取った。澄み渡った文章だ。脳が透明に整理されてくる。法律の本を読んでいると頭がよどんでくるというのに。まじめそうにギョロリと思い詰めたように三島の目と一瞬目があった気がした。その後、刑法の本を読んだら、なぜか気持ちよかった。

「あさって、いい感じのパーティーあるし行こう」
図書館の僕に竹内からLINEが入った。いつもの図書室で刑法の本を読みながら、チャラく浮ついた夜を妄想した。クーラーの効いた部屋の中、耳をすませば厚いガラス窓を通して蝉の鳴き声がかすかに聞こえてくる。
「あいつらは今青春真っ盛りやな。七日の命やけど」
僕の青春真っ盛りは来るんだろうか?その日はひたすら刑法の本と向かい合ってた。なぜか恐ろしいほど頭の中に学説が入ってくる。
「なんだ?この透明な脳のさえ具合は?」
冴えすぎて急に不安になってきた。冴えた頭で週末の夜遊びを妄想した。

「おお、久しぶり」
クラブの前で夜の八時半に待ち合わせだったけど、竹内は八時四十五分になってやってきた。テカリのある黒いシャツに銀色のネクタイもしている。僕はリサイクルショップで買ったアルマーニの緑のシャツを着ていった。二人ともおめかししている。土曜の夜は人が列をなしていた。刺激と欲望の予感のする緊迫感のある行列。九時までは無料で入れるので、そのための行列。クラブはミーハーなナンパ箱と、マニアックな音楽通のための音箱と言われるのに分かれる。今日来たのはミーハーなナンパ箱だ。このクラブでは昔、ヤクザの抗争で異臭を放つガスを投げ込まれるって事件があったらしい。クラブ経営のバックにはわりとその筋の人が絡んでいることも多いらしい。海外じゃクラブでのテロ事件は多発している。図書館にいつもいるせいか極端な知識だけは充実している。クラブに入るのは今日が初めてなのに。
「ズンズン、ドゥッ、ドゥッ」
爆音がクラブの中から聴こえてくる。音の振動が皮膚にも伝わってくる。女性客はメイクもきめててみるとドキドキする。後ろから見るウエストから腰のラインがたまらない。僕は見てないふりをしてひたすら凝視していた。
「人、入りそうやな」
クラブ慣れしている竹内は落ち着いた風情で漏れてくる音に感じて首を前後に軽く揺らしている。僕は緊張しているのを隠すために深呼吸した。筋肉ムキムキのセキュリティーにボディーチェックをされた。ボディービルか総合格闘技をやってるような体つきが存在感を放っている。髪だけはサッカー選手のようにスタイリッシュに手入れされているムキムキの男。 キャッシャーの女の子にスタンプを押してもらい、ドリンク代を五百円払ってクラブの扉を開けた。青く薄暗い空間に刺激的な光が舞っている。
「ああ、これがクラブか」
と少し大人になった気がした。客はまばらなダンスフロアに低音の振動がリズム一つ刻まれるごとに吹き抜ける。ズンズンズンズン。ひたすら単調に。DJは猫背でパソコンをいじくっている。
「なんか飲もうか」
初めてのクラブの店内に見とれていた僕に竹内は言った。バーカウンターに言ってドリンクを選ぶ。なめられちゃいけないと思って通ぶった僕は首を前後にゆらした。薄暗くてドリンクの名前が見えそうで見えないので少し焦る。とりあえず目に入ったカクテルをびびりながら注文した。
「ジントニック」
なんとか声が裏返らずに言えた。髪を後ろに束ねたバーテンダーが、けだるく手際よくプラスチックのカップに液体を注いでいる。カップを手に取ると僕はまた首を前後に動かしていた。竹内は慣れた様子で注文していた。
「乾杯、いい感じに遊ぼうや」
とカップを軽く合わせて僕はジントニックをチビチビ飲んだ。爽やかな刺激的な酒だ。質が良いのか悪いのか判断する舌は僕にない。安酒なのはわかりきったことだ。
「実はクラブは初めてやねん」
「知ってるよ、まあ、俺を見とけば良いよ」
と竹内は優しく言った。ズンズン、ドゥッ、ドゥッ、低音だけは相変わらず鳴り響いている。
「リズム取りを練習しよう、アップからや」
竹内はそう言って、伸び上がるようにしなやかにリズムに乗りだした。なめら動きに見とれながら僕もカクカクと
「アップ!アップ!アップ!」
と心の中で呟きながらリズムについて行こうと必死に身体を動かしている。
ズンズンズンズン。低音は相変わらずだ。しなやかに動く竹内とカクカクとぎこちない僕。
「ニュルニュルニュルニュル」
竹内はリズム取りの合間にウェイブを入れてくる。片方の手から反対の手へ。波は体幹を通り足にいき、また戻って頭まで。
「凄えな」
レベルが違いすぎるので見とれるしかない。レベルが違いすぎると嫉妬心みたいなものは生まれないので気が楽だ。周りを見渡すと女の子達が竹内を見ていた。当然の敗北だがそれにはわずかに嫉妬した。いや、かなり嫉妬していたのかもしれない。それでも理性を取り戻して
「あそこの女の子がお前のことを見てるよ」
と僕が言うと
「まあ、いつものことやな」
と竹内は余裕しゃくしゃくに髪をかき上げた。自分が大好きなナルシストだ。自分のことが二割くらいしか好きになれない僕は竹内を羨ましく思った。
 そうこうしている内にクラブの場にもようやく慣れてきた。ジントニックの酔いも少し回ってきた。カップを片手にもって首を前後に動かしながら僕は竹内のダンスに見とれていた。まばらだったダンスフロアには徐々に人が増えてくる。DJは相変わらず猫背でパソコンとターンテーブルを光悦とした表情でいじくっている。ブースの周りに張り付いてDJプレイの様子を見ている人もいる。猫背でパソコンをいじくる兄ちゃんを見て何が楽しいのかと思うが。人が微妙に入った盛り上がる前のクラブ。やることがなくてみんな手持ち無沙汰なだけ。暇つぶしに来たのに暇になる瞬間は誰にでもある。客は学生、フリーター、OL、サラリーマンといったところ。
 そこへ留学生っぽい集団も入ってきた。イケメンからフツメンからキモメンまでいろいろいる。まあ外人だっていろいろだが、歩き方が日本人とはなんか違う。みんな妙に背筋が伸びてる。なんだろう、リベラル民主主義風って感じだ。日本人だと意識高い系に分類されそうだがみんな自然だ。
 ライトにも照らされたイケメンの彫刻のような顔は妖艶だ。男だって思わず見とれてしまう。日本人と違ってリラックスしてクラブになじんでる。そりゃそうだ。子供の時からパーティー文化に馴染んでいるんだし。イケメンの留学生に反応して髪を直しだした女の子がいた。

「ウィッス」
そんな響きで竹内はイケメンの留学生と手を握って拳を互いに差し出して合わして挨拶した。完全なリア充同士だ。お互いに常連のようだ。僕も真似して拳を合わせた。少しは遊びの修行がレベルアップした気がした。男同士の挨拶をすませた後、イケメン留学生も竹内も涼しげに
「かわいい女の子はいないかな」
とフロアを物色し始めた。涼しげに熱の入った目つきをして。まだまだクラブに馴染みきれてない僕は
「間抜けな奴と思われたくない」
そう自分を繕うのに必死なのに。内心焦った僕は取り憑かれたようにダンスフロアでアップのリズム取りの基礎トレーニングの踊りを繰り返した。留学生の集団と目が合って「なんか頑張ってるなお前」と笑われた気がした竹内はイケメン留学生と話し込んでいる。何か作戦を練っているのであろうか。
「アップ!アップ!アップ!」
僕は膝を伸ばしては縮めてと単調に踊っている。ズンズン、ドゥンドゥン相変わらず音は大音量だ。人は徐々に入ってきて、多少混雑してきた。ブラブラと不器用に揺れる僕の手が女の子の上腕に一瞬すれた。なめらかな吸い付くような感覚を僕は手の甲に感じた。正直言って快感だった。
「あっゴメン」
と僕は謝ろうとしたが、女の子の黒いキャミソールの後ろ姿が目に入るだけだった。触れたのは腕だ。過失であり故意でない。つまり痴漢じゃない。法律的な思考で自分を強く納得させた。一瞬皮膚の感覚を楽しんだ卑近な自分を少しは恥じた。
 ヒットチャートを賑わす流行のダンスミュージックがナンパ箱ではひたすらかかっている。音楽通は顔をしかめるが、誰でもミーハーな気分になれる音楽。竹内は相変わらずしなやかに自分に酔って踊っている。ダンスのテクがあるので多少のナルシズムも見てて苦にならない。イケメン留学生も竹内の横で踊っている。二人は様になってる。ダンスフロアのスターだ。オスととしての存在感が否応でもくっきり分かる。二人ともそれを分かっている。女達は二人を見ている。僕はほとんど飲み干したカップを持ちながら首を今度は左右に揺らしてみた。
「YO-YO!調子はどうだ!」
DJの横にMCが入ってマイクパフォーマンスでフロアを上げだした。マイクを奇妙な持ち方をしてハイテンションで叫んでる。僕は上がらきゃいけない!そう思って無理に上がった。女の子を見ている時の方が上がったかもしれない。ウェイ系のいかつい兄さん達はこんな時はノリがいい。自然に上がってる。上がりながら横の女の子と共感している。正直うらやましい。
ボーイミーツガール。ナンパ系のクラブの王道だ。図書館ごもりの僕は圧倒されながらも場の雰囲気に徐々に適応しようとしている。
「竹内どこ行ったのかな」
フロアを見渡してもいなかった。一人になったことが気がつくと若干ビビって手持ち無沙汰になったが、まあいい。今度は僕はひたすらダウンのリズム取りの練習を始めた。ダウン!ダウン!ダウン!リズムに合わせて膝を曲げる。なんだかんだとガリ勉してきただけあって、正直に言うと規格にはまってる方が気が楽になる。規格にそった勉強が嫌になり自由になるための自己啓発本を図書館ではふらふら読んでいたのに、クラブでは自分を規格にはめて安心しようとしていた。そんな時にテカったシャツを見つけた。
「あっ!竹内だ!どこ行ってた?」
と声をかけようとしたが、白いツルツルした身体に密着するシャツを着た髪の長い女を竹内は連れていた。竹内は女をリードしながら一緒にフロアで踊っている。フロアの空気も音楽のリズムも女の気持ちも竹内は読みきっている。女はうっとりした顔をして腰をくねらしている。京男の竹内の態度は上品でまろやかだがオスとしての戦闘力は凄い。僕は相変わらずダウン!ダウン!ダウン!とぎこちないエクササイズのようなダンスを続けている。竹内の手が女の腰に伸びる。女もまんざらでなく竹内と溶け合ってる。竹内は女の目を見てそのままリズムと溶け合った。二人の顔が近づいていく。絶対に二人はキスするだろう。いやそんな漫画みたいなことはない!と思ってたら竹内と女はお互いに口づけしながら踊りだした。手の絡んだ腰は前より近づいてる。絶対に二人は舌を絡めてるに違いない。エロチックだ。僕はそんな二人を見ながらひたすらダウン!ダウン!ダウンとリズム取りを続けた。初めてのクラブ体験にしては上出来だ。ベース音の効いたヒップホップがかかっている。曲の速さがダンスの練習には丁度いいと僕は分析していた。
 さっきの留学生達は輪になって踊っている。僕もその輪に入って
「ウッホ!ウッホ!」
と飛び跳ねながら入った。酔いは回ってきている。なかなか楽しい。初めての刺激で僕は興奮状態だ。壁際に目をやるとイケメン留学生がクールビューティーな女子大生らしき女に何かを問い詰められるように睨み付けられている。痴話喧嘩だろう。
「もてる男も大変だな」
僕はバーカウンターでテキーラを注文し、ぐいっと飲み干し我が身の平和に乾杯した。だんだんグルグル目の前の世界が回ってきた。気が付いたら自分の散らかった下宿で電気を付けたまま寝ていた。どうやって帰ったのか分からない。竹内があの後どうなったか少し気になったが、そんなことはどうでもいいや!と二度寝して起きて時計を見たら午後一時だった。夜更かしで頭が痛いが図書館に行って憲法の本を読んだ。頭に内容はまったく何も入らない。なのに堕落の予感が何故か僕を少し楽にしてくれた。
 平日は図書館に相変わらずこもっている。勉強に向いているのか向いてないのか分からない。気がつくと毎週一人でクラブに行くようになった。女の子を見ながらひたすらぎこちなく踊るだけだが、大音量と安酒の酩酊が僕に生きてる実感を与えてくれた。図書館での文字の洪水とを音と酒の洪水を行き来するようになった。
図書館のライバル達は黙々と勉強していた。

「民法177条を言ってみろ」
弁護士やってる父親が聞いてきた。
「えっと不動産に関する物権の得喪は、、、、」
重要条文だけど、さくっと答えられなかった。
「お前何してんだ」
と父親は僕をなじる。親と同じことを勉強すると、僕がどこでどうサボってるのか全てお見通しで、ごまかしようがない。父親は不機嫌になってくどくど説教しはじめたが、親がかりの生活をしているわけだから反論のしようもない。
「二年も勉強してるのになにやってる。半年あれば出来ることが全く出来てない」
言われるがままに聞いていた。
逃げるように神戸の実家を後にして京都の下宿に舞いも戻った。死に物狂いで勉強はしていないが、努力してないつもりもない。とにかく法律の本が頭の中に入ってこないのが悲しい現実だった。
「そうだ場所を変えよう」
と喫茶店でコーヒーを飲みながら勉強することにした。カフェインでハイにして前頭葉に意識を集中して本を食い入るように見つめる。頭が割れそうになる毎日。そうしてるうちに京都のカフェ巡りをしていた。オルタナティブ系のカフェから、自家焙煎してる店。ジャズカフェなんてのもある。つまり僕は馬鹿なボンボンだ。理由をつけて苦痛を快楽でそらそうとしている。ロックが流れるカフェでジミ・ヘンドリックスのポスターの思いつめた目と目があった。そんな時、脳にスゥーっと透明な快楽が染み渡ってきた。今までとは違う。それだけはわかる。どこか脳にスイッチが入ったようだ。死にかけだった脳が異常に元気になった。二十七歳で薬物中毒で死んだジミ・ヘンドリックス。世界が解けていった。
「回ってる。回ってる。脳が回ってる」
僕の頭はかつてない爽快さに満ち溢れてる。へんな薬は何もやってない。身体も爽快だ。不思議な万能感を感じている。
「世の中はみんなつながってる。生きてるものは全て。つながっている」
宗教じみた考えが脳の中を駆け巡る。何かが僕に起こっているのは確かだ。吉兆が凶報かは分からない。
「覚醒した?狂った?」
そんな判断もつかないまま刑法の判例を読み始めた。すとーんと頭に入ってくる。解説を書いてる学者の考えが馬鹿に思えてきた。
「こんなの学問本質とは違う。学説のための学説。学問のための学問。学者どもは知性のための知性を振りかざして自分たちの安全とささやかな生活を守るゴミだ。大学なんて意味がない。ただの忍耐力の養成所だ」
ありきたりの考えが脳に次々に浮かぶ。思考が拡散した自分の発想に酔っている。勉強は進みようがないが人生は大きく転換して進んでる気がしている。我が身に起こった変化を感じながらいつものクラブに行った。音がいつもより鋭利に耳に響いてくる。ダンスをしながら自分の身体が液体のようになったのを感じた。身体が流れて流れて周りの音に溶けていく。まるでアメーバだ。酒と音楽とダンス。意識変容の快楽と同時に一抹の不安。それでも踊り続けた。すると尾てい骨のあたりから背骨を通って脳にエネルギーが届いた。
「絶対に僕は今やばいな」
と内心分かってはいたが、平静で理性的だと自分に言い聞かそうとした。テレビで理科系の学生が警官を包丁で襲撃したニュースが流れてた。優等生だったらしい。なんとなくその犯人の頭の状態が想像出来た。僕も同じ種類の人間かもしれない。いや違う。僕は覚醒して新たな人間になったんだ。本当はそう思ってた。酒にも酔ってる。暴発しそうなエネルギーが内に抱えながら、僕はさっき入ったばかりのクラブを後にしてフラフラと自転車に乗って北上した。京都御所の森の茂みが目に入った。夜の御所は平安時代の魔界のようだ。そのまま吸い込まれるように御所の公園に入り自転車をこいだ。自転車を降りて森の中を歩く。そらを見上げると月が見える。都市の中に突然出現した幻想的な光景。僕は何かに突き動かされて行動している。自分の意思なんて本当は無いのかもしれない。酒のせい?違う?月のせい?違う?自分が自分でない。頭の中は支離滅裂だ。怖くなって御所を出てまた自転車をこいだ。
 鴨川の橋を渡って東に行くと丸太町の駅にまた小さな人だかりが出来ていた。なんかパーティーしてるなというのは分かった。夜遊びの中毒になりつつあった僕はそんな感だけ冴えてた。自転車を下りてその人だかりに混じった。虹色のビラが看板に沢山貼ってある。そのクラブに入場しようとしている人はアート系な人が多い。さっきいたナンパ箱とは違い音箱というのはすぐに分かった。みな僕には全く思いつかないお洒落をしている。男か女か分からない高いヒールを履いて宝塚歌劇をもっと派手にしたような化粧の性別不明の人達が数人腰をクネクネさせて歩いている。妙に訓練された歩き方で。
「あなたって包茎?」派手な性別不明の人は身体をくねらせ聞いてきた。
「いや、違います」
僕は言ったが実際は包茎だった。羞恥心で胸の奥が熱くなり頭もトランスする。入り口からわけの分からない空間。吸い込まれるように二件目のクラブに行くことにした。頭の中は透明なようであいかわらずグルグルしている。ただ刺激を求めてここにいる。現実逃避にすぎないのはわかっている。スマホを見ているよりは現実的な現時逃避に思えた。音箱ではさっきいたナンパ系のクラブとは違ってかかる音楽はテクノやハウスミュージックがかかる。ラジオ流れるヒット曲はかからない。
ドゥン、ドゥン、ドゥン
薄暗い店内に硬質で透明な低音が連続して流れている。薄暗いコンクリートの店内にはタバコの煙が充満している。前のクラブとは少し違う低音具合だ。コスプレしたようなお姉さんが台の上で踊っている。胸の谷間のぱっかりあいた派手なレオタードのような服をきて。オタク系のコスプレとは違いアートだ。コスプレなんて思っちゃ失礼かもしれない。ライトに照らされた太ももがなまめかしいく光っている。よく見るとお客さんは割と普通の人もいる。みな派手な格好をしているばかりではない。それを見て少し安心した。バーカウンターに行ってテキーラを頼んだ。アルコールで知性を麻痺させると同時に興奮させられた脳は普段では拒否する刺激も同時に大量に受けいれる。VJがプロジェクターに極彩色の幾何学模様のコンピューターグラフィックを映しだしている。かっこいい。
ドゥン、ドゥン、ドゥン
重低音は相変わらず続いている。空気の振動が肌に伝わる。意味なく僕は飛び跳ねてた。クラブのパーティーは続く。派手な空間のようでみな自分の内面に意識を向けている。そして溢れ出した内面が外に飛び出して融合する。そんな時だった。
目が合った瞬間に溶け合った気がした。吸い込まれたのかもしれない。地味な半袖シャツを着てた白目の多いショートカットの女だった。いくつか年上だなとは思った。動きの鈍いヤジロベエのように手をブラブラさして踊っている。大音量の中、アルコールが回って大胆になっている僕は女が椅子に座ったのを見つけてわざと横に座った。
「こんにちわ」
「こんにちわ」
冗談っぽく大音量の中、耳をそばだてながら挨拶した。
「私は運動しにきたの」
女はそう言ってタオルを見せた。
「僕もそうかな」
と適当に相づちを打った。大音量の中での会話はとにかくしずらい。そのまま沈黙の時間が流れる。女はちょっとアスペルガーな気がした。僕もそうだ。同じ特徴的な脳の使い方をする物同士は共鳴しあいやすい。ぎこちなく不器用な空間を二人で共有していた。
ドゥン、ドゥン、ドゥン。
テクノミュージックは単調に繰り返し激しく流れてる。仮装した女は台の上で相変わらず自意識過剰に踊っている。
「踊ろうか」
と僕は言った。
「違う運動しない」
女は突然言った。
「えっ」
「セックスなんて言う名の運動」
「えっ」
僕はどぎまぎしながら答えた。非日常のありえない展開。
「出ようか?」
「そうね」
そうして女と二人でクラブを出て夜道を歩き出した。二十歩ほど歩いてから
「私は近くに住んでいるの、送ってくれない?」
「うん」
僕は受け身に答えた。浮遊感漂うぎこちなくロマンチックな夜の散歩道がしばらく続き女のマンションに着いた。古い鉄筋のマンション。
「お茶していかない?」
「うん」
僕もまた受け身に答えて二人でエレベーターに乗った。
「私、こんなことするの初めてたの」
女は少しうつむいて恥ずかしげに言った。僕もこんなことは初めてだ。十階の1DKが女の部屋だった。アンティークの家具が置かれた落ち着いた部屋。合板でない木の家具は落ち着いた存在感を放っている。壁を見ると本、本、本、本。背が高い本棚が壁にいくつか置かれて大量の本が高さを揃えて綺麗に整理されてあった。こんなに大量の本がある部屋を見たのは初めてで圧倒された。
床には籐の敷物が敷いてあって異空間を作っている。部屋に入ってから徐々にトランス状態に入っていく。大音量のクラブよりもこの静かな夜の部屋の方がむしろ刺激的な空間と感じた。僕が脳内麻薬の分泌を感じながら部屋を眺めていると女は
「お茶入れたよ、飲まない?」
と僕に言った。そしてアンティークの卓袱台に向かい合って座ってお茶を飲んだ。カップは古いウエッジウッドだった。しばらく何も話さず、向かい合ってお茶を飲んだ。
「将来ピカソの絵が欲しい」
僕は唐突に言った。異次元を感じる空間ではおかしな言葉も不自然でなくなる。
「おかしなことを言うね。私も最近絵を描くのにはまってるの?見る?」
「見たい」
デスクトップのMacのイラストレーターを開いて描いたタマネギの絵を見せて貰った。普通に上手い絵だった。
「上手いね」
「最近、引きこもりがちだし時間があるの」
「僕は絵を書けないから凄いよ」
女は何をしてるんだろうと疑問に思ったが問い詰める気にもならなかった。すると
「最近、野外のフェスにもはまってる」女は言った
「おもしろい?」
「外の空気は気持ちいいね。あとはだいたい布団に寝転がって本を読んでる」
とりとめない話をそのまま続けた。
「あなたはゲイなの?」
「違う」
僕は気きまずく答えた。
マウスを動かして遊んでいたら背後に女のを感じた。マウスを持つ僕の手の甲に女は手をそっとおいた。女は取り憑かれたような目つきをしている。それに感じてしまった僕の脳は今まで刺激されていないところがじわじわと覚醒していった。初めて合った時に共鳴した以上に、グイグイと僕は精神を操られていくような気がした。皮膚が触れ合う肉感から始まり徐々に精神が幽体離脱していく。流れに身を任せながら僕は緊張しながらも心地よく舞い上がっていった。
「あっ」
女はスーッと僕に顔を近づけてキスをした。舌を絡める感覚が生暖かく心地よい。
「っふ」
と女は短いため息とも付かない声を漏らす。女の目はどこを向いているのか分からない。やさしく僕の身体を撫でた。僕も女の身体に手を這わし、胸の膨らみの上をそっとなでた。女はまた声にもならない声を漏らす。
「僕は今、幽霊と一緒にいるのかもしれない」
フランス文学の専門書だらけの部屋で陶酔の時間を続いた。
「貴方はかわいい」
女はそう言うと僕の顔を撫でた。とくにハンサムでもない普通の日本人顔の僕を。受け身だった僕は女の服を不器用に脱がした。ブラジャーの上から胸を揉んだ。ほのかな弾力を感じて、夢中になって女の着ているものを全て脱がして不器用に触った。
「貴方って童貞」
「違う」
と僕が答えると女はクスッと笑って、僕のパンツを脱がしてフェラチオした。僕のものを口に含んで頬をすぼめた女の顔が前後にカクカクと揺れた。こらえられなくなった僕は女に馬乗りになってかぶさろうとした。
「あせらないで」
女は僕の肩を優しく撫でて僕をなだめた。
「ちょっと待って、布団をしく」
布団をしいている女を僕は眺めていた。布団の上で僕は夢中で女の首筋を舐めたりキスをした。女はたまに声を漏らした。僕の愛撫と女の声が一致したとき、僕は上手くいったと少し安心した。女の陰毛をかき分けて舌を這わそうとしたら、女は
「ちょっと待って」
と自分の手で股間を中指で触って一かきした後にニヤッと笑って指を鼻のところにもっていき匂いをかいだ。
「あっ、大丈夫、やっちゃおうか」
女はそう言った。外を見ると薄明かりがさしてきた。女の首と胸ばかり舐めていた。緊張しているのか勃起していない。それを隠すためかさらに女の身体を愛撫して身体を擦りつけてみた。肌のぬくもりと、性的快楽と徹夜の頭の疲れの入り交じるなだらかな時間が過ぎていった。女の身体に身体を寄せて僕は天井を見ていた。女は外を見ていた。
「言っておきたいことがあるの」
女は少し不安そうに言った。
「何?」
「私は三十四歳なの」
「ふーん」
僕より十三歳年上だった。それを聞いてから僕は女にキスをした。女はニコりと笑った。部屋を見るとアンティークの家具が相変わらず幻想的だった。
「ご飯食べていく」
「うん」
「近くのコンビニでオレンジジュースを買ってきて。一リットル。何でもいいから」
僕は服を着てコンビニに行ってを探して買った。マンションのエレベーターを上がっている時、もう部屋には入れてもらえないのでは?なんて少し思ったが、ドアをノックすると上半身にTシャツを着た女が僕を見上げて笑顔で迎えてくれた。女の背は一五〇センチくらいかなと思った。僕は百七十センチだった。
 部屋に戻るとパンと卵焼きが焼けていた。ジュースを飲みながら二人でぽつりぽつりと話をしながら朝食を食べた。女が十三歳年上と聞いて女の顔を見ると目尻には二十代の女にはない皺がよってるのに気がついた。
「そろそろ変えるけど、また、部屋に来てもいい?」
僕は聞いた。
「また連絡して」
「ああ、そうだ君の名前は何?」
「珠緒」
「あなたは?」
「ケン」
女の少し古風な名前が新しい気もした。そしてLINEを交換して女の部屋を後にした。

裸の女を生まれて初めて抱いたけど僕は童貞のままだった。

 部屋に帰るとバタンとそのまま寝た。昼過ぎに起きると夜更かしのせいで頭はぼんやりしていたが、身体の芯には心地よさを感じた。女の放つ何気ない言葉が呪術的でそれが僕の脳を浮遊させているのかもしれない。初めて女の身体に舞い上がってるだけかもしれない。すぐに女に連絡したかったが、がっついているように思われたなくて連絡しなかった。

 ここ最近、頭に脳内麻薬が充満している。身体がやけに軽く感じた。生まれ変わったような感覚だ。女と合って尚更だった。新しい考えが次々に浮かんでくる。これこそ生きているんだ。きっと僕はこれから凄くなるんだはずだと得体もしれずに噴出する脳内麻薬に操られて根拠なく思い込んだ。
図書館から逃げ出した僕は街をさらに徘徊するようになった。勉強はまったく出来ていない。外人の集まるバーに行って目をギラギラさせて酒を飲んでいた。危ない奴だと人は僕のことを見る。それを自分にはカリスマ性が出来たんだ。と僕は妄想していた。勘違いとも言える。妄想と勘違い。幻聴と空耳。その区別は曖昧だ。ロックが流れるバーでアルコールの後にコーヒーを飲んだ。二つの合法的な薬物で僕の意識は周りに溶けていった。
 宗教都市である京都。超意識的なものを求めた人が今でも集まる。自分が何かを考える。いや違う。場所に何かを考えさせられる。
 ロックミュージシャンの意識の変容が音楽にも転写されて、聴いてる人間の意識も変容していく。流行とかミュージシャンの演奏技術に気を取られず、ただ直感的に聴くとしだいにミュージシャンの脳と自分の脳がつながっていく。図書館で法律の勉強という規格化された情報処理に脳の疲弊した僕は、街の刺激に溶け溺れていった。バーの店員にまくし立てるように話しかけ、自分の脳の変化をアピールしていた。店員は仕事なので、感心したように聞いていた。ときおり怪訝な顔をして。人は遠ざかっていき僕は自分の世界にこもっていった。
 翌日、また刑法の違法性の意識という項目を読んでいた。拡大した意識の僕の脳がふと左脳的に透明になる時がある。そんな時に僕は法律でやっていけそうな気がした。
 無茶苦茶に揺れ動く精神。不安を刺激で埋めようと僕はあがいていた。

「いつ行っていい?」
僕は珠緒さんに電話した。
「明後日の夜の八時なら」
「僕はどうしたらよいかな」
「自分の欲望にまかせて」
珠緒さんはかすれた深い声で言った。この人は幽霊かもしれない?十三歳年上。それに引っ掛かりがないといえば嘘になるが、部屋での肉感的だが浮遊した体験が僕には忘れられないものになっていた。脳には幽体離脱を司る場所があると脳科学の本で読んだことがある。そのスイッチが入れられたのかもしれない。
 目の前の景色が変わって見える。雨が降って草花が生えそれを草食動物が食べ、草食動物も肉食動物に食べられてそれぞれの生を謳歌したあとに命途絶える。その死骸や排泄物の上に花が咲き蝶が舞い蜂が飛び、地球の上の生命が回っていく。民主主義の元に人はそれぞれの目的に向かって合理的に生きて行動している。だから生命の法則を忘れておかしくなるんだ。夢うつつの中僕は真理に到達気がした。誰でも思いつくありふれたことを思いついただけなのは分かっていたが、僕は僕自身が到達した真理だとあえて思い込もうとした。
 
「バタンッ」
珠緒さんはドアを開けた。約束どおりに部屋に行った。ベージュ色のシャツにジーンズを履いて、いつもより化粧をしていた。化粧の仕方が大人びて洗練して見えた。白目の多い目とあった瞬間、僕は吸い込まれていったと同じに、女に抱きついた胸をはげしく揉んでキスをして舌をいれた。甘くグロテスクな生命力をうねる舌に感じた。部屋には香が焚かれている。不思議な興奮と居心地の良さがあった。
「可愛い」
そういって珠美さんは僕を撫でた。前にも言われた気がした。男としては見られてはいないが性の対象と思われているのが少し嬉しかった。本棚の膨大な本は相変わらず存在感を放っていた。少しくつろいで紅茶をちゃぶ台に座り、前と同じように向かい合って飲んだ。
「おねえさんは何しているの?」
「政府の文化センターの事務員のバイト」
「ふーん、文化的だね。僕は法学部の学生」
「家族は私のことを馬鹿にしてる」
「弟は何やってるの?」
「親の後ついで工場やってる」
「お嬢さんなんだね」
「多少はね。元、だけど」
「本が凄いから常人では無いなと思った」
「ただの落ちこぼれ、大学院にずっと行ってたけど最近フェードアウト」
「学者にならなかったの」
「成れなかったのと、成らなかったの中間かな」
ようやくお互いの素性が分かってきた。
「僕は最近不思議で」
「何が?」
「脳が、ぐるぐる回ってる」
「確かにあなたは変ね」
「ミラーニューロン」
「ああ、最近流行ってるね」
「そばにいる人間と脳の活動が同期するらしくて。オカルトかもしれないけど。珠緒さんの変人がうつったのかも」
「あんなの方が変でしょ、変なの伝染さないでよ」
「気をつけけど無理かも」
お互い少し笑って見つめ合った。そして僕は珠緒さんに近づいて肩を抱いて胸を揉んだ。珠緒さんの白い目の多い目がさらに白くなっていった。手をにぎると少し荒れていた。少しアトピーのある首筋にキスをした。前より冷静に身体を観察してた。部屋の浮世離れした雰囲気に影響されていてか僕は相変わらず不思議に落ち着いていた。なぜか首筋ばかりにキスをしていた。そのたびに少し遅れてため息のような声を珠緒さんは漏らした。そして僕は一緒に布団をひいてその上でお互いに裸になった。ほどよく脂肪のついた締まった身体が可愛らしかった。
そのまま二人は身体をすり合わせた。脳だけでなく背骨も浮遊して波打っていた。お互いの性器を触り合った。そして入れようということになった。
「ちゃんとゴムをつけて」
「わかった」
買ってきたコンドームをぎこちなくつけた。抱き合いながら夢中でキスをしていると腰が自然に波打っていた。場所を探そうと焦っていると、するっと滑らかな感触が僕のペニスを包み込んだ。そのまま三、四回腰をふったら、快楽が背骨に走って、ペニスが膣から抜けると同時に射精した。コンドームをつけたはずなのに布団が精液で濡れていた。
「あっ、ごめん。布団にかかってしまった」
「えっ」
珠緒さんはそれを確認すると
「あんたなんてことするの?ちゃんとつけてよ」
と鬼のような形相で僕を睨みつけた。
「ごめん」
「ごめんも何もないでしょ、どうすんのよ」
と言って、精液のついた布団を洗濯機に入れた。鬼のような形相をして。
「もう、今日は帰って、気分が悪い」
服を着替えた僕は両手で腹を押されてドアのとこまで誘導されてバタンとドアがしまった。何回かノックすると
「さっき帰ってって言ったでしょ」
とドアごしから声が聞こえた。僕は自転車で夜空を見ながら家に帰った。どこか冷静さを失ってるのは自分でも分かっていたが、浮遊した脳はそのままだ。コンビニで発泡酒を買って自転車をフラつきながら乗ってると、警察に止められて少し我に返った。
 童貞ではなくったのは嬉しかったが、僕は子供だなとうなだれた。機嫌を直してくれるかなと願ったが、どうなるかは分からなかった。
大学の三年の後半になってきて社会に出るという不安がある。不安に立ち向かうより逃避するためのエネルギーが僕の身体の中でさらに暴走し始めていた。眠らなくても平気になった。ずっと行動した後に家に返って気がついたら電気をつけたまま眠っていた。次の日手のひらに湿疹ができていた。身体の中で何かがまたさらに変わっていった気。 
 
 今まで無気力気味だったのに元気がみなぎっている。珠緒さんのおかげだなと思った。図書館で勉強すると、今までよく理解できていなかった刑法の学説が恐ろしいほど頭に入ってきた。透明に情報処理されていく。恐ろしいくらいに。結果無価値、行為無価値。分からなかったのが、今では分かるようになった。僕の脳は回転している。今までのようにもわーっとすることなく高速道路を走る車のように。脳に湧き出し続けるエネルギーがただ僕は誇らしかった。ナポレオン、アインシュタイン、エジソン、、、、歴史上の偉人もこんな感じだったはずだ。僕の気はどんどん大きくなって行く、 窓から外を見るとベンチで談笑している男子学生二人と女子学生が一人いた。男子学生の一人と一瞬目があった。僕の悪口を言ってるように聞こえた。勘違いか妄想かわからない。確かにそんな気はした。前頭葉はウニョウニョ揺れている。クラブで聴いたハウスミュージックが頭の中でふと鳴り出した。。

「お前薬でもやってるのか」
食堂で合った竹内が聞いてきた。
「そんなんやるわけない、ああそうだ女が出来たよ」
「良かったな、ちょっとお前がやばいなと噂になっている」
「大丈夫だよ」
「なら、いいけど」
竹内は怪訝な顔をしてうなずいた。
とりとめないのない会話をして僕は図書館に戻った。どうも僕は客観的に見てやばいらしい。主観的にも脳が以前と違うことは分かってはいる。暴走していく自分に生きてる実感を感じていた。脳のスイッチが変わる。その瞬間は誰にでもある。いい方に変わるのか悪い方へか。それその時、その人、その場所それぞれだ。法律の理解のための脳のスイッチは何度か入りかけたが、結局入らなかった。
 あいかわらず思考が拡散して、いろいろな考えがうねるように浮かんで来る。カフカは虫になって、ダリは空間がゆがんだ。破滅の予感のする心地よさ。ブラック企業で不眠でエクセルで会社の伝票整理しているうちに頭がおかしくなったサラリーマンのブログを読んだことを思い出した。不安を打ち消すように
「僕は超人になったのだ」
快楽物質が垂れ流されている脳は僕をそう考えさした。法律なんか勉強しているべきではない。
「今はスターがいない。小器用なやつばかりだ」
なんて文句を言い続けた。誰かを攻撃しているだけで自分は大物にかなった気がした。大物な自分が道を歩いていると誰かに追われている気がした。眼の前に止まった車が僕を監視している。
「逃げないといけない、逃げないといけない」
気がつくと珠緒さんの部屋のドアをノックしていた。
「誰」
「僕だよ」
「どうしたの?」
「なんか変で、部屋に入っていい」
「ちょっとまって仕事してるから三十分後に来て」
わかった。その間に自転車で僕は京都の街を徘徊した。そして僕は怯えた冷や汗をかいた顔で部屋に入った。珠緒さんはキョトンとした顔で僕を見た。
「大丈夫よ」
と僕の肩をなだめた。
「何か、頭がおかしい。グルグル回ったりふわふあと気持ちよくなったり。精神科にでも行くべきかな」
「別に大丈夫よ」
「そう」
「そう、大丈夫」
「この前のことは怒ってない?」
「許す」
それを聞いて僕は安心した。ここに来ると現実を落ち着いた。珠緒さんと目が合うと脳が浮遊してくるのは嫌でも分かった。その快楽を麻薬的に脳から身体にほとばしっている。冷静なのか興奮しているのか分からない。
「なぜ大丈夫なんだろ」
「慣れてるし」
「慣れてる?」
「いつものことよ」
「いつものこと」
「どういうこと」
「私の部屋に来た男の子はよくそうなるの」
珠美さんは少し厳しい顔をして笑った。僕はそれを見てぞっとした。
「楽しみましょ」
そういうと珠美さんは僕の肩に手を這わせた。白目から黒目がふっと消えたように見えた、僕の脳を浮遊していく。背筋に悪寒と快楽が同時に駆け巡った。
「珠美さんは幽霊?」
「そうかも、脳には幽体離脱を引き起こす場所があるの。私はよくそこのスイッチが入ってるって自分でも思う」
「僕もそれに釣られたのかな」
「この前言ってじゃない。ミラーニューロン。精神は伝わっていくのは本当かもしれない。あの後私も本で調べた」
「その幽体離脱のスイッチが入ったのをコントロールできる?」
「分からない。もう一生そのままかも。私も誰かからそうさせられたのかもしれない」
珠美さんは悲しげな目をして僕を見た。
「昔、そうなった男は?」
「そのまま婚約したんだけど、突然嫌になって結婚をやめた」
「その男はどうしてる」
「自殺した」
「ふーん」
「哲学やってる人だった、優秀だったのに」
「珠美さんのせいで」
「分からない。哲学なんてやってる人は普通では解決出来ない悩みをもっているものだし。前に来てた男の子は今は精神病院に入ってる」
「僕もそうなるのかな」
「どうかな。でも脳がギリギリに追い詰められた人間ってとても美しいの。前衛芸術みたいな美しさ。あなたは素敵よ」
「僕は法律やっててそんなの関係ないけど」
「なんのために法律をやってるの」
「金のため、仕事のため」
「それはとてもご立派ね」
「でも、勉強は進んでない」
「可愛いいからいいじゃない」
そういって珠美さんは僕の服を脱がしてキスをした。僕も珠美さんの服を一枚一枚はがしていった。コンドームを丁寧につけた。そのまま吸い込まれるように挿入した。二人の身体が同期して波打ったが、あっという間に射精した。
「僕たち一応男女関係?」
「半分くらいそうかも」
珠緒さんは冷ややかにクスッと笑った。






「こんないい加減な関係はやめたほうがいいかもね」
「え、僕はやだけど」
「やめましょう」
珠緒さんはそう言って泣き出した。

「とにかくよくない」
そう言ってまた泣いた。また、いつもの紅茶を出してくれたので飲んだ。香りが上質なのは相変わらずだった。しばらく沈黙したあとに
「さよなら」
寂しそうに言って、僕をドアの外に見送った。その後に相変わらず頭はグルグル回っていた。秋の京都には紅葉を見に観光客が押し寄せる。そんな中。電話が盗聴されているなんて僕は人に言って回っていた。完全に狂気のスイッチが入ってた。単なる勘違いとも言える。後から思えば犯罪を侵さないのが不思議な精神状態。スイッチが入っただけで、元に戻るだろう。融けて行く理性の中、僕の自我は根拠なく確信していた。そして家族に大学病院の精神科に連れて行かれた。

 精神科医に出された薬を飲んだとたん、ガクンと顔が痙攣した。神経に作用する薬を飲んだのだろう。心に効くより身体に効いていた。精神科医に口答えすると出される薬が変わった。パターンがわかってなるたけ、おとなしくしていた。脳は浮遊していることもある。その後病院から出された薬は一切飲まなかった。自分がいろいろ勘違いしていたってのはここ数ヶ月を思い浮かべたら嫌でも分かった。
自分ではひどく勘違いしていただけだと思うが、精神科医からすると妄想らしい。病名はあいまいに告げられた。母親は泣いていた。父親はこいつは一生病院に閉じ込めて置くべきだと言った。数カ月勘違いしてただけで、僕は自分が正常だと思っている。なぜ、精神科医にかからねばならないのか、分からなかった。精神科医は山本という名前だった。三十半ばで自分からするとちょうど一回り離れた兄貴のようでもあった。最初は哲学を勉強していてその後医者になったらしい。後で調べると一般向きの本もちらほら書いているそこそこ有名な人らしかった。カウンセリングといってだらだら話すだけだ。時々しゃっくりするように首をのけぞらした。
「音楽は何が好き?」
「私はR&B、レコードを千五百枚ほどは集めてる」
山本は趣味人らしかった。哲学やるような奴はだいたいそうか。
「マイケル・ジャクソンはどう思う」
「子供の時が一番歌が上手かったんじゃないかな」
千五百枚枚レコードを集めているだけあって流石に詳しい。
「先生は最初は哲学をやってたのになんでやめたの」
「アカデミズムが嫌いだったからや」
「医者になるのは難しなかった」
「勉強だけは出来たからそうでもなかった」
そういってまた首をひくっとさせてる。
「先生はなんか薬飲んでるの?」
「眠剤は飲んでる」
「ふーん」
とりとめのない話をした後に僕のカルテを書いた。山本の顔を見ると肌が変に荒れている。薬の副作用かなと思った。勉強が出来すぎると肌が荒れるのかもしれない。僕の精神を扱ってる医者はそもそも自分の精神をまだ扱えてないようだ。
薬局で出される薬は飲むふりをして全部捨てた。精神の波を抑える薬らしかった。

 桜の季節が来た。花は咲いて散った。ただそれだけった。神戸の実家に帰って勉強しようとしたが何も進まなかった。母親は泣き叫んでいた。
「お薬をちゃんと飲んで」
父親が金をそこそこ金を稼ぐおかげて専業主婦やってる母の自己実現は僕がすべてだったのかもしれない。日雇い派遣に登録してバイトをし始めた。それを知った母親はまた泣きさけんだ。
「お願いだから先生のところに行ってお薬を飲んで。そうすればあなたはまた輝けるの」
そんなことを繰り返して言った。バイトで貯金が三十万円たまった時に僕は法律の本を全部廃品回収に出した。古本屋でうれたかもしれないが、全部捨てた。そしてそのまま下宿を後に大阪の西成にいった。
一泊千円の汚いアパートに泊まった。オシャレなゲストハウスもあるけど一泊二千五百円するので汚いアパートに泊まった。スマホさえ持っていれば、派遣のバイトには困らなかった。
 大阪の西成も今ではオシャレな観光スポットになってきている。かつての日雇いの街という薄暗さはそんなにない。爆買いの中国人が金を落とすので大阪は活気がある。スマホでポチっと仕事を選んで前の日に合否の連絡が来る。大手と零細の両方の派遣会社に登録したが、大手は返事が遅いのと日払いでも支払いが三日後だったりする。零細の派遣会社は信用がないぶんサービスは良くて仕事の合否もすぐ来て、給料の支払いも翌日で早い。法律を勉強していたのでシステムには目がいってしまう。
 気がつけば倉庫整理の仕事ばかり選んでしていた。ずっと肉体労働してきた人の身体能力が高い。最初はついていけなかったが次第に自分の身体が変わってきた。身体より脳が変わってきた。頭だけ暴走して身体がどこにあるのかわからかったのに、自由に身体を操れる様になってきた。ガサついてた肌もきれいになった。正社員の人に気に入られて
「直接雇用で週五で来ないか」
と言われた。バイトだが苦手と思ってた肉体労働で認められたのが少し嬉しかった。日雇いから抜け出すと少し生活は安定した。飲料のケースを貼ってあるシールに印刷された数字に合わせて、カゴ車やパレットに乗せていく。一つ十キロ前後ある飲料ケースを。一日八時それをやると身体も意外と頭もクタクタになるが、一日寝たら頭の疲れは取れた。最初は腕が、その後は腰が筋肉痛になっていた。筋肉痛のまま出勤するのは憂鬱だったが、十キロの飲料ケースはなんとかなった。昔は力自慢の大男なんてのは価値があったのだろうが、重機の発達した今では価値はなくなる。百キロの物を運ぶなんてことになると全て重機を使う。十キロから二十キロの物をラインから別の重機に移すまでの作業。そこでは力自慢達が活躍する。給料は安いし称賛されることもないが、洗練された動きに僕はたまに目が釘付けになった。ただ、ものを載せるだけの物流の仕事。図書館でよく読んでいた自己啓発本からすると真反対の仕事だ。ひたすら自分を殺す仕事。ただ身体を動かす。そうすれば日給八千円が入ってなんとか暮らしていけた。このままだと将来がやばいのは分かってはいたが、将来に備えて勉強しすぎて死にそうになっていた時よりはましだと自分に言い聞かせた。
 大学の籍はどうなってるのか分からない。大阪の人は京都の人よりは野性的で分かりやすい。街の雰囲気は京都の方がもちろん綺麗。だけど京都の洗練に押しつぶされそうになっていたのかもしれない。西成という世間的には危ないと言われる地域にいるが、実際に住むとそんなことはなかった。アル中の人で叫んでいる人や非合法である薬で享楽を楽しみすぎて顔の筋肉が引きつっている人もみかけた。最初はびっっくりしたがじきに慣れてきて特に気にせず僕は通勤の道についていた。ゲストハウスに遊びにいってカフェでバックパッカーの外人と英語をためしたみたが案外通じて楽しかった。だけど英語で考えながら雑談するのは頭が疲れた。
 竹内にはなにか迷惑をかけた気がするので
「あの時は暴走していたんだ」
とLINEをしておいた。金融会社への就職が決まったという返事が来た。

 京都を離れて西成での生活して一年が過ぎた。僕もなんとかしようと小さな食材商社に就職した。景気は良いので選ばなければ仕事はいくらでもある。さすがに正社員として三年は勤めておかなければまずいと思ったからだ。保証人のいらないワンルームマンションが今はいくらでもある。社会の規制もなくなって良い時代だ。原発の事故の後に世の中は終わるかと思ったけど、日本は平和に動いている。頭がグルグル疲れきったときは、このまま日本が終わってしまえばなんて思ってたが、今は平和な日本に感謝している。
 彼女がいないのは相変わらずだが、童貞でなくなったので前より少しは心に余裕がある。
「おい!童貞!」
なんて馬鹿にされるのにびきつくことはなくなった。就職した商社は社長と家族だけの小さな会社で、なんせ人がいないので営業から倉庫の整理までなんでもやっていた。大手の倉庫会社でバイトしてたので小さな会社の倉庫の非効率さは目についたが仕事が一通り出来ようになるまで何も言わないことにした。少し大人になったのかもしれない。社長は昔、いた従業員に金の持ち逃げをされたことがあるらしく、事務所にも倉庫にも監視カメラだけは妙に厳重につけられていた。特に悪さをするつもりもないが、常に見張られてる緊張感で常に仕事をしておらねばと思ったので、何も仕事をする時が無い時は逆に困った。社長が思いつきで仕入れたパソコン用のUSB便利グッズが大量に倉庫に積み上げてきた。
社長も売れないのは内心分かってて
「営業してきてくれないかな」
と言ってきたが僕は苦笑いするだけった。この会社で修業して、もうちょっと良い会社に転職しよう。そう思って日々の業務をただひたすらこなしていた。このまま人生は過ぎていくのだろう。たまに自己啓発本を読んでベンチャー起業の夢なんて妄想しているが、発注先のラベルを張り間違えてへいこら謝っているのが現実だ。

「相談があるねん」
と横澤からLINEがあった。大学で数学の研究者になりたかったが、天才的な同級生を前にして無理だと挫折したを感じたらしい。
「どうするの」
「医者になろと思う。塾でバイトしながら受験勉強してる」
「そりゃ、凄いな。頑張れよ」
と僕は言った。横澤は僕のことは特に何も聞かなかった。大学から消えたことだけは知ってるはずだ。ネットでなんとかつながる人間関係はしんどいときもあるし、ありがたいと思うときもある。昔は待ち遠しかったSNSのアプリの知らせが鬱陶しくなっている。
 休日、スマホを家において外出して街の声を聞いていた。中国人は何を言ってるかわからないが元気があるといつも感じる。これから発展していく国に属しているのと、停滞してる国に属している国民の違いだろう。僕自身の大阪での暮らしは何かつきものが取れたように快適だった。
 そんな時に従兄弟から連絡があった。最初は無視していたがなんども連絡があった。悪い知らせというのは分かった。ようやく応じると車で迎えに行くといった。従兄弟の車に載せられて神戸の実家に戻ると親戚が集まって青白い顔をしていた。
 母が精神病院でビニール袋をかぶって自殺したことを知らされた。白い布をかぶった母の顔をみると今まで見たこともない穏やかな顔をしていた。通夜の晩に酔っ払った父親は
「お前のせいだ」
と僕に言った。その後
「俺もお母さんにひどいことを言ってしまった」
と済まなそうな顔をしていた。厳格に見えた父はさらに酔っ払って狂ったように下半身丸出しで裸踊りをし始めた。翌日はきちんとスーツで仕事にでかけた。僕も大阪の会社に出社していた。社長には何も言わずに普通に仕事をしていた。あれだけ僕を精神病院に通わたがった母が精神病院の治療を受けてて自殺した。なぜか母の死は不思議に悲しくも寂しくはなかった。
感情が起きる余裕もなかったかもしれない。
 道頓堀川はあいかわらず汚く濁っている。周りは活気に溢れている。スーツを着た僕は小さな食材店を営業回りしていた。わずかながらも契約が取れたので社長に会うのが楽しみだった。






















ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み