待つ女
文字数 1,895文字
妻は煙草の煙が嫌いだ。
部屋に匂いがつくことさえも苦痛のようで、僕は毎回ベランダに追い出される。
新婚当時は少し隙間を開けた窓越しに話したりもしたのだが最近ではぴっちりと閉められ、二人の間にはガラスの壁が出来てしまった。
三年の月日は閉まったガラス窓の分、僕たちの心の間に隙間が広がったのかもしれない。
夕食後の一服のためベランダに出ると、いつものように女が見えた。
向かいのマンションの一室、観葉植物のある部屋だ。
うちのマンションと背中合わせに建つ新築マンションは、その一室以外真っ暗で女のいる部屋だけが明るい。
まだ入居者がそろっていないのだろうか?
気の早い彼女だけが、一番乗りで引っ越してきたのかもしれない。
殺風景なベランダの中に明るく切り取られた長方形の窓ガラスは、まるでスクリーンごしに彼女の人生を覗いているようだ。
いつも彼女は誰かを待っている。
なんども柱の時計を確かめ、新しい煙草に火をつける。
僕がゆっくりと吸い終わる一本の間に、せわし気に灰皿に吸殻を積み上げていく。
寒さに震えて僕がリビングに戻る時、彼女は決まって眠そうに欠伸をする。
そして、短く変わり映えのしない映画が終わる。
「外は寒いんだから、これでも着なさいよ」
夕食後ベランダに出ようとすると、妻が青いコートを渡してくれた。
確か量販店で、一昨年に買ったコートだ。
近所で同じコートを何人か着ているのを見かけたので、着るのを避けていたのだ。
着てみると温くて着心地もいい。
これならいつもより彼女を見ていられるかもしれない。
彼女に気付いたのは、二週間ほど前だったか。
それまでは、いつもスマホを眺めていたのだ。
ただ、眺めるのはこちらからの一方通行。
彼女は、まったくこちらには気付かない。
今日は、もう一本吸うか。
新しい煙草に火をつけた時、彼女と目が合った。
スクリーンの中から彼女は僕を見つめる。
見えないはずの口の動きまで見えるような気がした。
それは「まってる」と僕に言う。
彼女は僕を、待ってると言うのだ。
「ちょっと、散歩してくる」
妻に告げると、目も合わさずにそそくさと家を出た。
日曜の朝だ。
昨日の晩に彼女のメッセージを聞き、いてもたってもいられなくなったのだ。
もちろん、あのメッセージが気のせいだって事はわかっている。
見えるわけも聞こえるわけも無いのだ。
それでもマンションの前にまで来ているのは、ちょっとした期待があるのだろう。
あれが好みの女でなければ、きっと自分はここには来ていないのだ。
「あら? 立花さん?」
急に声をかけられて、思わず飛び上がりそうになった。
小型犬を大事そうに抱えたおばさんが、僕をジロジロと眺める。
「あらあら、ごめんなさい。似たような服だから間違えちゃた」
悪びれた様子もなく、犬の散歩中だというおばさんが笑った。
不審者とでも思われたのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。
「立花さんとこ、ああいうことになったからねえ。もしかして旦那さんが見に来たのかもって」
おばさんが言うには、一昨年に火事がこのマンションであった。
旦那の留守中に奥さんだけが焼死したらしく、寝煙草が原因だという。
新婚夫婦で仲が良かったらしいが、旦那が毎日遅くまで働いており、それを待ってる間に火事になったようだ。
「隣も焼けちゃったらしいけど、お亡くなりになったのは奥さんだけみたいね。かわいそうに」
反応の鈍い犬を撫でながら、おばさんがうれしそうに話す。
適当に相づちを打つ僕のような相手でも、おしゃべりできるのは楽しいのだろう。
「そういうことがあったし、もう古くなってたから建て替えたみたいね。年明けから入居者を募集するらしいわよ」
思わず僕は、マンションを見なおした。
確かにフェンスに囲まれたマンションは、まだ人が住めるような状態ではない。
日曜なので誰もいないが、平日なら作業員の出入りもあるだろう。
なぜ、僕はそれに気づきもせず、このマンションに入ろうとしていたのだろう。
「ここの……三階に……」
「そうそう。この列の三階が立花さんの家だったから、だからあなたが旦那さんなのかと思ったのよ。いつも青いコートを着ていたから」
僕は、おばさんに礼だけすると急いで家に帰った。
すぐにコートを脱いでクローゼットの奥にしまったが、不思議そうに見ていた妻は何も言わなかった。
それ以来僕は煙草を吸っていない。
ベランダに出ることもなく、青いコートを着ることもない。
きっと彼女がいるから。
暗闇の中に明るく切り取られたスクリーンの中。
彼女が、僕を待っている。
部屋に匂いがつくことさえも苦痛のようで、僕は毎回ベランダに追い出される。
新婚当時は少し隙間を開けた窓越しに話したりもしたのだが最近ではぴっちりと閉められ、二人の間にはガラスの壁が出来てしまった。
三年の月日は閉まったガラス窓の分、僕たちの心の間に隙間が広がったのかもしれない。
夕食後の一服のためベランダに出ると、いつものように女が見えた。
向かいのマンションの一室、観葉植物のある部屋だ。
うちのマンションと背中合わせに建つ新築マンションは、その一室以外真っ暗で女のいる部屋だけが明るい。
まだ入居者がそろっていないのだろうか?
気の早い彼女だけが、一番乗りで引っ越してきたのかもしれない。
殺風景なベランダの中に明るく切り取られた長方形の窓ガラスは、まるでスクリーンごしに彼女の人生を覗いているようだ。
いつも彼女は誰かを待っている。
なんども柱の時計を確かめ、新しい煙草に火をつける。
僕がゆっくりと吸い終わる一本の間に、せわし気に灰皿に吸殻を積み上げていく。
寒さに震えて僕がリビングに戻る時、彼女は決まって眠そうに欠伸をする。
そして、短く変わり映えのしない映画が終わる。
「外は寒いんだから、これでも着なさいよ」
夕食後ベランダに出ようとすると、妻が青いコートを渡してくれた。
確か量販店で、一昨年に買ったコートだ。
近所で同じコートを何人か着ているのを見かけたので、着るのを避けていたのだ。
着てみると温くて着心地もいい。
これならいつもより彼女を見ていられるかもしれない。
彼女に気付いたのは、二週間ほど前だったか。
それまでは、いつもスマホを眺めていたのだ。
ただ、眺めるのはこちらからの一方通行。
彼女は、まったくこちらには気付かない。
今日は、もう一本吸うか。
新しい煙草に火をつけた時、彼女と目が合った。
スクリーンの中から彼女は僕を見つめる。
見えないはずの口の動きまで見えるような気がした。
それは「まってる」と僕に言う。
彼女は僕を、待ってると言うのだ。
「ちょっと、散歩してくる」
妻に告げると、目も合わさずにそそくさと家を出た。
日曜の朝だ。
昨日の晩に彼女のメッセージを聞き、いてもたってもいられなくなったのだ。
もちろん、あのメッセージが気のせいだって事はわかっている。
見えるわけも聞こえるわけも無いのだ。
それでもマンションの前にまで来ているのは、ちょっとした期待があるのだろう。
あれが好みの女でなければ、きっと自分はここには来ていないのだ。
「あら? 立花さん?」
急に声をかけられて、思わず飛び上がりそうになった。
小型犬を大事そうに抱えたおばさんが、僕をジロジロと眺める。
「あらあら、ごめんなさい。似たような服だから間違えちゃた」
悪びれた様子もなく、犬の散歩中だというおばさんが笑った。
不審者とでも思われたのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。
「立花さんとこ、ああいうことになったからねえ。もしかして旦那さんが見に来たのかもって」
おばさんが言うには、一昨年に火事がこのマンションであった。
旦那の留守中に奥さんだけが焼死したらしく、寝煙草が原因だという。
新婚夫婦で仲が良かったらしいが、旦那が毎日遅くまで働いており、それを待ってる間に火事になったようだ。
「隣も焼けちゃったらしいけど、お亡くなりになったのは奥さんだけみたいね。かわいそうに」
反応の鈍い犬を撫でながら、おばさんがうれしそうに話す。
適当に相づちを打つ僕のような相手でも、おしゃべりできるのは楽しいのだろう。
「そういうことがあったし、もう古くなってたから建て替えたみたいね。年明けから入居者を募集するらしいわよ」
思わず僕は、マンションを見なおした。
確かにフェンスに囲まれたマンションは、まだ人が住めるような状態ではない。
日曜なので誰もいないが、平日なら作業員の出入りもあるだろう。
なぜ、僕はそれに気づきもせず、このマンションに入ろうとしていたのだろう。
「ここの……三階に……」
「そうそう。この列の三階が立花さんの家だったから、だからあなたが旦那さんなのかと思ったのよ。いつも青いコートを着ていたから」
僕は、おばさんに礼だけすると急いで家に帰った。
すぐにコートを脱いでクローゼットの奥にしまったが、不思議そうに見ていた妻は何も言わなかった。
それ以来僕は煙草を吸っていない。
ベランダに出ることもなく、青いコートを着ることもない。
きっと彼女がいるから。
暗闇の中に明るく切り取られたスクリーンの中。
彼女が、僕を待っている。