遠い町と転調する虹

文字数 21,405文字

           1

ダイニングテーブルに突っ伏す形で、いつの間にか眠ってしまっていた。
遠くで電話が鳴っている様な気がして目を覚ました。
ばあちゃんの話し声が聞こえる。
着ていたTシャツの背中が汗で濡れていて気持ちが悪い。
頭が酷くボンヤリとしていて、自分がどこにいるのかもよく分からなかった。
聞こえるのはばあちゃんの電話している声と、シンクにボタボタと垂れる水滴の音だけだった。
体が鉛の様に重たく感じて、指を一本動かすのにも苦労した。
勝手口の明り取りからは眩しい位に陽が入ってきていた。
その光をキラキラと反射しているプラスティックの暖簾を眺めていたら、ばあちゃんが片手でその暖簾を掻き分けながら台所に入って来た。
「あら、こんな所で寝てたの?今あなたの会社の上司という人から電話があってね、あなたが会社の車で事故を起こして、相手方の治療費が必要で、それでね、百万円を振り込んでくれって言われたのよ」
ばあちゃんが大きく身振り手振りを交えながら俺に説明した。
「ばあちゃん、それはオレオレ詐欺だよ。それに俺はまだ中学生だよ」
そうばあちゃんに言おうとしたが、上手く声が出てこない。
瞼が異様に重く、今にもまた眠ってしまいそうだった。
「あなたが警察の留置所にいるから保釈金も必要だって、それも百万円だって、でも変ね。要はここにいるし・・」
ばあちゃんはここ最近こんな調子だった。
そうだ、俺は夏休みでばあちゃんの家に来ていたんだと思い出した。
「きっと人違いだったのね。番号間違えたのかも知れない。そうだ要、そろそろ徹の試合が始まるよ。一緒に応援しましょう」
そう言うとばあちゃんはスリッパをパタパタさせながら廊下に消えて行った。
俺はばあちゃんの言っている事が最初分からなかったが、遅れて意識がハッキリしてきた。
そう、今日は試合の日だ。
5つ年上の兄の徹は、今日甲子園のマウンドに上がるんだ。
俺は覚悟を決めて持てる限りの力を込めて立ち上がろうとした。
すると体の重さは嘘の様に消えていて、勢い余って座っていた椅子が大きな音を立てて倒れた。
同時に居間の方からはテレビの音が大音量で聞こえてきた。
家の裏の防風林の方からは、耳をつんざく程の蝉の鳴き声が響いてきた。
通りを勢いよく過ぎるトラックの走行音。
やけに低く飛んでいるヘリコプターの音。
椅子が倒れた瞬間、さっき迄静まり返っていた世界に音が溢れ出てきた。
俺は茫然とその場に立ち尽くしてふと思った。
「オレオレ詐欺って何だ?」
俺はまだ頭の中がモヤモヤしたまま、意味も無くばあちゃんの家の中をウロウロしていた。
ばあちゃんは居間のちゃぶ台に片肘を付いて、テレビを抱え込むように身を丸めて座っていた。
部屋にはアナウンサーの単調な実況と渇いた管楽器の音色が響いている。
俺はふと壁に掛けられたカレンダーを眺めて、8月13日の所に赤い丸の印があるのを見付けた。
「ねえ、ばあちゃん、今日何日?」
俺はばあちゃんの大きな背中に向かって声を掛けた。
さっき迄上手く出せなかった声が、何の支障も無く出せた事に後から気が付いて驚いた。
「今日は8月12日でしょ?あなた寝惚けてるの?ほら、要、兄ちゃんがテレビ出てるよ」
ばあちゃんは振り向かずに俺に答えた。
ばあちゃんの背中越しにテレビを覗き込むと、全く見ず知らずの高校球児がマウンドで帽子を取って汗を拭っていた。
「ばあちゃん、これ兄ちゃんじゃないよ。試合明日でしょ?」
一瞬の間があって、ばあちゃんはゆっくりと振り返って壁のカレンダーを見た。
「あら、変ね。これ徹じゃないわね。あら、誰かしらね、これ」
ばあちゃんは不思議そうな顔をしながら、テレビのスイッチを切った。

           2

その年の夏、俺の兄の榊田徹は地元高校の弱小野球部を甲子園に導いた。
投げては完封、打ってはホームランの大活躍の様子は、連日地元の新聞を賑わせた。
両親も当然大騒ぎで、大会日程に合わせて有給休暇を取り、俺をばあちゃんの家に置き去りにして大応援団の貸し切りバスに揺られて行ってしまっていた。
ただでさえ何も無い田舎町からは人影も失せ、まるで一時停止ボタンを押した様にひっそりと静まり返っていた。
俺の家とばあちゃんの家は歩いて30分、自転車なら15分の距離。
小さい頃から事ある毎に俺はばあちゃんの家に押し込まれてきた。
最近では、ばあちゃんの方が何やら危なっかしいので、両親としては俺をばあちゃんの御目付けに残したとも言える。
何にせよ、俺にとっては最高に退屈な夏休みが目下継続中という所だった。
その日俺は暇を持て余し、茹だる様な暑さに辟易して近所の市立図書館に逃げ込もうと思った。エアコンの無いばあちゃんの家では、本当に頭がおかしくなってしまいそうだと思った。
図書館は俺と同じ様に、暑さから逃げ込んできた人達で溢れ返っていた。
その中に幼馴染の河北翔の姿もあった。
俺は被っていた野球帽のツバを団扇替わりにヒラヒラとさせながら、何やら難しい顔で大きな図鑑を覗き込んでいる翔の背後に立った。
「よう、何見てんの?」
俺の声に翔は座っていた椅子が大きく傾いてしまう位に仰け反った。
「何だよ!急に話しかけんなよ、ビックリすんだろ」
小さい頃から極度の近視だった翔は、瓶底メガネを図鑑に埋め込む様に集中していて、俺の存在に全く気が付かなかった様だった。
「悪い悪い。脅かすつもりじゃなかったんだけど、何かスゲー真剣に見てるからさぁ」
俺と翔とは日頃から何の遠慮もない関係だった。
家も近所で親同士も仲が良く、5つ年上の兄よりも一緒にいた時間は長い様な間柄だった。
「夏の星座と神話の世界?何これ?おまえいつから星を見上げるロマンチストになったの?」
俺は翔の見ていた図鑑を覗き込んで茶化すように言った。
「ちげーよ。来週家族で長野にキャンプに行くんだよ。だから、まあ、天体観測の、予習みたいな、とにかく外暑いし、家クーラーねーしさぁ」
翔は図鑑を無造作に閉じて、わざとらしく襟元をパタパタとさせた。
「星座なんかネットで調べりゃいいじゃん。アプリとかもあんだろ?」
俺はいつもの様にムキになった翔を更に茶化そうと思って言った。
「ネット?何?洗濯でもすんの?アプリって何だよ?プリンか何か?」
翔が不思議そうに俺の顔を見上げながら言った。
「えっ?あっ、そう・・だな。何だろうな。ネットって・・・」
俺は何でそんな事を口走ったのか自分でも分からなかった。
口から自然に出て来た様だったけど、全く意味が分からなかった。
「お前こそ暑さで頭おかしくなってんじゃねーの?頼むぜ、エースの弟なんだからさぁ」
翔が最大限の嫌味でもって俺に反撃する。
俺は急にこめかみの辺りに鋭い痛みを感じて、堪らず翔の隣に腰を下ろした。
その時は暑さで本当におかしくなってしまったんじゃないかと思ったが、どうもばあちゃんの相手をしていると調子が狂う様な気がしていたので、深く考えない様にした。
ふと隣の翔を見ると、顔全体に黒いモヤの様な物が被さっている様に見えた。
太陽が目に入り、暫く辺りがよく見えない時の様に、翔の顔だけが黒くボンヤリとしていた。
目を閉じたり擦ったりしたが変わらず、俺は少し気分が悪くなってきてしまった。
図書館の机に突っ伏すように顔を埋めると、隣の翔が何やら肩を揺すって言っている言葉も聞こえなくなってしまった。
すると目の前が黄色い光に包まれて、やがて意識が遠くに運ばれて行く様な不思議な浮遊感に包まれた。
じっと目を凝らすと少しづつ明るくなってきた。
遠くに何か水が流れる音がする。
風が葉を揺らす音もした。
肌に暖かい陽の光を感じる。
人の声が聞こえた。
小さな子供の笑い声。
大人の男の人の声もする。
次第に辺りの景色がボンヤリと浮かび上がって見える様になってきた。
どこかの川の様だ。
10メートル位の川幅の対岸には大きな岩が並んでいて、その後ろには鬱蒼と茂る森が見える。
遠くを見ると送電線の鉄塔が山間に連なり、入道雲がその上に圧し掛かる様に空一面広がっている。
俺は地面から少し離れた宙に浮いていた。
その足元は細かい砂地で大きな石や岩が無数に転がっていた。
キラキラと陽を照り返す川の上流の方に女の子が遊んでいるのが見える。
そこから少し下流には水着の男の子。
よく見るとそれは瓶底メガネを掛けた翔だった。
俺は見えない空気の層を掻き分ける様に両腕を羽ばたかせ、宙を泳ぐ様にして川に近付いた。
すぐ目の前で川底の岩を持ち上げたりしている翔には、俺の事が見えないみたいだった。声も出ない。
まるで夢の中にいる様だった。
すると後方から耳をつんざく様な轟音が、辺り一面の木々や地面を揺らしながら近付いてきた。
僅か数秒の間の出来事だった。
川上から壁の様な濁流が信じられない速さで押し寄せ、遊んでいた女の子や瓶底メガネの翔を吞み込みながら下流へと駆け抜けていった。
黒々とうねる水の流れは、川の輪郭を削りながら煙を上げて加速する。
俺は声にならない叫びを上げながら、為す術も無くただ宙に浮かんでそれを眺めるしかなかった。
「これは夢だ」
俺は口に出して言ってみた。
気が付くと俺はまた図書館の机に顔を埋めていた。
「おい!要!おい!しっかりしろよ」
翔が俺の肩を尚も揺すっている。
俺はゆっくりと顔を上げて翔の方を見た。
さっきと変わらず翔の顔には黒いモヤが掛かっていてその表情はよく見えなかった。
「要、どうしたんだよ?急に寝んなよ。こんなとこで。頭いてーの?」
翔が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「いや、大丈夫。ああ、夢見てた」
俺は周りを見廻して、そこがいつのも図書館の長机である事を確認した。
窓の外は相変わらず強い日差しが降り注ぎ、館内は外気からの避難民で溢れ返っている。
「翔、あのさ、キャンプって川とか行くの?」
俺は自分の手を開いたり閉じたりしながら、窓の外を見たまま言った。
「えっ?キャンプ?ああ、まあ毎年同じ所だから。じいちゃん家の近くの川でテント張るんだ。多分来週も同じ所だと思うよ。俺もさぁ、いい加減飽きてるんだけどな。何せ毎年一緒だからさぁ」
そう答えた翔の全身は黒いモヤで包み込まれてしまっていた。
俺は自分の目がどうかしたんじゃないかと思った。
「なぁ、来週は俺んち来いよ。キャンプばっくれてさぁ。今誰もいないから。兄ちゃんの応援で皆甲子園行ってるんだよ。俺は今ばあちゃん家にいるんだけど、翔の家に泊まりに行くって言うからさぁ」
俺の頭の中にはさっきの夢がハッキリと残っていた。
そんな事は今まで一度も無かったと思う。あれは確かに翔だった。
まさかとは思ったけど、このまま翔の事を放っておくには余りにも夢がリアル過ぎて気味悪かった。
「要の家で何すんだよ。それも暇じゃね?」
翔は机の上の図鑑を開いたり閉じたりしていた。
「そうだ、プレステ5買ったんだよ。俺。オールでゲームやりまくろうぜ」
その時、俺は翔が無類のゲーム好きなのを思い出した。
「はっ?プレステって何?お前さっきから何言ってんの?」
翔は不思議そうな顔をしている。
「いやっ、えっ?何だろう。ほら、この前発売したゲーム。ほら、おまえやりたがってたじゃん」
俺はその時、変な夢を見たり変な事を口走ったりで酷く混乱していた。
自分でもどうしたのか分からなかった。
「何?お前暇なの?エースの弟も大変だなぁ。別にいいけどさぁ、行っても。俺も正直長野まで父ちゃんのノロノロ運転で行くの怠いし」
翔は瓶底メガネのレンズをハンカチで拭きながら言った。
俺はまたこめかみに鈍い痛みを感じた。
図書館の公園に面した側の大きな窓に視線を移すと、外の花壇の所に1匹の黒い猫が見えた。
その猫が何故か俺の事を真っ直ぐ見つめて動かない。
次の瞬間、キーンという高い金属音の様な耳鳴りがした。
隣の翔を見ると体を覆っていた黒いモヤが綺麗に無くなっていた。
長机の向かいで新聞を広げているオジサンが俺を見ている。
俺は何となくそのオジサンの持っている新聞の一面を見た。
【細川内閣支持率71%の好発進、55年体制の終焉】
大きく書かれた見出しを読んだ時、俺は何か大きな違和感を持ったのだけど、
それがどうしてなのかは全く分からなかった。

           3

その日の夕方、ばあちゃんの家の縁側で大きめに切ったスイカを齧りながら種を口から飛ばしていたら急に雨が振ってきた。
直ぐに本降りになって、スレートの屋根を打つ雨音で、居間のテレビの音もかき消される程になった。
台所で晩御飯を作っていたばあちゃんがあわてて洗濯物を取り込みに庭に飛び出してきた。
俺はそれを何だかまた夢を見ているみたいに眺めていた。
「ほら、要も、手伝って!」
俺はばあちゃんに怒鳴られても、ボーっとしてしまって素早く動けないでいた。
変な夢を見たからかも知れないし、昼間の暑さで調子が狂ってしまったのだと思っていた。
次第に風も強くなってきて家がガタガタと揺れている様だった。
晩御飯の時、テレビのニュースで大型の台風が上陸する事を知った。
俺は図書館で見た夢の、黒々とした濁流の川の光景を思い出していた。
「これじゃあ、明日の徹の試合は延期かねぇ」
ばあちゃんも心配そうにニュースを見ている。
予報では全国的に明日は雨の様だった。
どこかの港でヘルメットを被った女性が風に大きく揺れる木々を前に何か必死に喋っている。
ばあちゃんは音を立てて納豆ご飯を啜りながら、頻りにリモコンでチャンネルを変え続けた。今日の甲子園の試合結果。
子供に【悪魔】という名前を付けようとしている男の話題。
もうすぐ開通するという東京の海に掛けられた大きな橋の話題などが次々と映し出された。
俺は何となくそれを眺めていたが、どのニュースにも妙な違和感を持った。
「そうだ、ばあちゃん、来週翔の家に泊まりに行くからさぁ。ちょっと小遣い欲しいんだけど」
俺はばあちゃんの丸い背中に向かって言った。
すると振り返ったばあちゃんの顔の辺りに黒いモヤが薄く広がっているのが見えた。
それは翔の顔にあったヤツとそっくりだった。
俺は直感的にそれが俺の目にしか見えない物だと思っていた。
多分本人にも見えないのだろう。
「翔君の家の人は良いって言ってるの?」
ばあちゃんがどんな表情で俺に喋り掛けているのかがモヤで見えない。
「うん、勿論良いって言ってるよ・・・・一緒に夏休みの宿題やるんだ」
俺はばあちゃんの顔からテレビに視線を移して、その瞬間ある事を思い出した。

あの川には翔の他にもう一人小さな女の子がいた

あっと思わず小さく叫んだけど、窓の木枠を激しく揺さぶる風の音でかき消された。
俺は自分の周りの世界が音を立てて崩れ始めている様な気がした。
今朝このダイニングテーブルで電話の音がして目覚めた時の様に、遠くで何かの呼び出し音がしている。
目の前にいるばあちゃんの全身に黒いモヤが掛かっている。
スレートの屋根を打つ雨が激しさを増す。
既にその音の他には何も聞こえない。
「ばあちゃん、この家壊れるよ!」
柱が軋み、畳がガタガタと浮き上がってくる。
壁の時計が勢いよく落ちてガラスが飛び散る。
俺はその時、庭先の敷石の上で1匹の黒猫がこちらをじっと見ているのに気が付いた。
激しく揺れるばあちゃんの家の居間で、この猫は俺に付いてきたのかも知れないと思った。

           4

白いカーテンが突然引かれて、目の前に看護服を来た女性が現れた。
俺の耳元でピッピッというアラーム音が細かい間隔で鳴っていた。
一瞬女性と目が合って、彼女は俺に憂いを帯びた視線を向けた。
俺はベットに横たわっていて、彼女が素早く俺の頭上の計器をいじると、アラーム音はピタッと止んだ。
「榊田さん、ご気分はいかがですか?」
彼女は持っていたバインダーの中の紙に、何か計器の数字を転記している。
「はい、気分はいいのですが、何だか恐ろしい夢を見ていたような。そんな気がするんです」
俺は枕元の机の上から眼鏡を取って掛けた。窓の外は薄暗い。
スマホの画面を見ると午後5時を過ぎた所だった。
ひんやりとしたアルコール消毒の匂いを含んだ空気を頬に感じた。
天井から枕元に伸びている何かのコードが微かに揺れている。
やがて看護師の女性が部屋から出ていくと、入れ替わる様に点滴の袋がぶら下がった車輪付きのスタンドを引いた老人が入ってきた。
俺はその姿を見て心臓を突かれた様にビックリしてしまった。
その老人の全身を煙の様な黒いモヤが覆っている。
眼鏡を外して目を開けたり閉じたりしても変わらない。
老人の緩慢な動きに合わせる様にモヤは形を変えながらその老人に憑りついて離れようとしない。
俺は前にもそんな光景を目にした様な気がした。
「ああ、どうも。隣のベットの青木と申します。宜しくお願いします」
そう言った老人の顔は黒いモヤで殆ど見えなかった。
「あっ、こちらこそ宜しくお願い致します。榊田要と申します」
俺は慌てて挨拶を返した。老人は隣のベットに腰を下ろし、自分の太腿の辺りを頻りに摩りながら、身の上話を延々と話し出した。
俺は途中から適当に相槌だけを返し、頭では他の事を考えていた。
俺は半月前に肺に悪性の腫瘍が見つかり、突然余命を宣告された。
すぐに勤続20年の会社を退職し、先週からこの病院に入院していた。
余りに急な事過ぎて、正直実感が無かった。
自分が来年の今頃はこの世に居ないという事や、43歳の今に至るまでの人生の意味について。
考える事ややるべき事が沢山あるはずなのに、全身の力が抜けてしまった様で、無為な時間をただボーっと過ごしてしまっていた。
暫くして隣の老人のベットに小さな子供を連れた夫婦がやって来たので、俺は薄いカーディガンを肩に引っ掛けて病室を後にした。
長い廊下の両側にスライド式のドアが並んでいた。
その全てが同じ広さで同じ作りの病室に繋がっていて、何かしらの病を抱えた人達が皆人生の終わりを迎えようとしていた。
そこは手術や治療では回復の見込みが無い人間が入る、緩和ケア病棟と呼ばれる場所であると説明されていた。
渡り廊下の窓からは遠くに山の連なりが見えた。
夕陽が今にも峯の向こうに沈んでいきそうな所で、俺はこの人生で何を成し遂げて何をやり残したのかについて考えていた。
20代の時に一度結婚したが子供はいなかった。
6年程で離婚して、それからは仕事とたまに友人と釣りに出掛ける事くらいで趣味と言える程のものも無かった。
思えば味気ない人生だ。
まさかこんなにも早く、突然に終わりが来る事になろうとは思ってもいなかったが、だからといって悔しさを感じる程には執着も無かった。
敢えて言えばその事が少し残念で悔しいくらいだ。
実家の母親は電話口で絶句していたが、俺には残された時間に何をしたら良いのかが分からず、
その事が新たな悩みの種の様になっていて自分でも情けない気持ちだった。
ふと廊下の先の談話室を見ると、1匹の黒猫がこちらをじっと見ていた。
最初はぬいぐるみだと思ったが、僅かにその体を上下させている。
いくら治療目的では無い緩和ケア病棟でも、猫がいる訳は無いだろうと思ったが、周りの患者や看護師達は全くその存在を気に掛ける様子が無い。
いや、寧ろそこにいる黒猫が見えていない様だった。
俺は黒猫のグリーンの目から視線を外す事が出来ず、体が硬直した様に動けなくなってしまった。
やがて辺りの雑音がボリュームを絞っていく様に段々と聞こえなくなっていき、周りにいた患者や看護師達の姿が早回し再生の映像の様に目まぐるしく動き出した。
「この猫はずっと昔から何度も会っている」
俺は何故かそんな気がして、それを声に出していた。
静まり返った渡り廊下に水の音がする。
こめかみの辺りに鈍い痛みを感じて、足元に視線を落とすと、廊下は辺り一面水浸しになっていた。
周りの人間からは黒いモヤが残像と共に煙の様に尾を引いていた。
相変わらず早回し再生の様で、誰の表情も見えなかった。
「薬か、もしかしたら何かの麻酔でも打たれたのだろうか」
俺は思った事を全て口に出していた。
それは如何にも自然な事で、何の抵抗も感じない。
黒猫の事も、黒いモヤの事も、廊下に流れ込んでくる水の事も、全て理屈では理解出来なかったが、何故か俺には自然な事の様に感じられた。
それはまるで太陽が東から昇って西へ沈む事に何の疑問も感じないのと同じ様だった。
頭の中の記憶や思考が、淀み無く流れ出てきて足元の水に注がれていく様だ。
一瞬、俺は今死ぬのかと思った。でもすぐにそれは違うと思った。
じっと俺を見詰め続ける黒猫のグリーンの目に、何か俺のするべき事が映し出されている様な気がしていた。
そうして俺はいつの間にか、黒猫の目で俺の事をじっと見詰めていた。
「俺がやり残したことって何だろうか」
俺の声は俺の声の様に響かなかった。
黒いモヤを煙の様に纏った患者達が俺の方を見た。
彼等の視線の先にあるのは、ただの一匹の黒猫だった。

           5

ダイニングテーブルに突っ伏す形で、いつの間にか眠ってしまっていた。
遠くで電話が鳴っている様な気がして目を覚ました。
ばあちゃんの話し声が聞こえる。
ゆっくりと目を開けると、蛍光灯の光を反射するプラスティックの暖簾が見えた。
首にタオルを掛けたばあちゃんが、その暖簾を片手で掻き分けながら台所に入ってきた。
「あらっ、またこんな所で寝てたの?要、あなたに電話よ。同じクラスの河北翔です、だって。ほら、早く出てあげなさい」
俺はぼーとした頭で、ばあちゃんの言葉をゆっくりと反芻した。
体が鉛の様に重い。
「ばあちゃん、後でラインするって言っといて」
そうばあちゃんに言おうとしたが、声が思う様に出てこない。
喉が張り付いてしまった様にヒリヒリした。
辺りは妙に静まり返っていて、シンクにボタボタと垂れる雫の音だけが頭に響いた。
Tシャツの背中が汗で張り付いていて気持ち悪い。
俺はどうしてこんな所で寝ていたのだろうか。
何だか記憶があやふやで落ち着かない気持ちだった。
テーブルに手を付いてゆっくりと立ち上がった時、ふと思った。
「ラインって何だ?」
勝手知ったるばあちゃんの家のはずだが、廊下に出ると居間がどっちで電話はどこにあるのか上手く思い出せない。
まるで数十年振りに訪れた家の様だった。
「要、早くしなさい。電話切れちゃうよ」
廊下の奥からばあちゃんの声がした。
窓の外を見ると空がどんよりと薄暗い。
今にも雨が降って来そうな雰囲気だった。
居間に入るとばあちゃんはちゃぶ台に寄り掛かって背中を丸めていた。
茶箪笥の上に受話器を外した黒電話が見えた。
「もしもし、翔か?」
俺は何気なく壁に掛けられたカレンダーを見ながら電話に出た。
8月13日の所に赤い丸の印が付けられているのが目に入った。
「翔、今日何日だっけ?」
俺は電話の向こうの翔に尋ねた。
「えっ?今日は13日だよ。おまえ大丈夫か?昨日も図書館で訳分かんない事言ってたし」
翔は呆れている様だった。
「8月・・・だよな?」
「おまえ本当に大丈夫か?当たり前だろ。おい、それより昨日話してたキャンプの話、あれ、俺が行かないって言ったらあっさりと中止になったんだよ。親父と妹はディズニーランドに行くって言ってる。俺はお前ん家に泊まりに行くって言ってあるからな」
その翔の言葉を聞いて俺は大事な事を思い出した。
黒い濁流に呑み込まれる小さな女の子の姿がハッキリと頭に残っていた。
「おい、翔。キャンプ、俺も行くからおじさんに言っといてくれよ。俺ん家なんか来たって暇なだけだぜ。星見に行こう。つか、連れてってくれ。ほらせっかくの夏休みだし」
俺はどうしてもそうしなければならないという気持ちを抑える事が出来なかった。
自分でも無茶苦茶な事を言っていると思ったが、それは何かとても重要な事の様に感じた。

           6

昨夜遅くまで降っていた雨が上がり、雲間からは陽が差し込んでいた。
町の環状道路から東の方角に大きな虹が見えた。
ディズニーランドへ行く予定がまた長野の祖父の家へ変更になった事で、朝からふてくされていた翔の3つ年下の妹・茅もその虹を見て機嫌を直していた。
翔の父親の隆が運転するフォレスターの後部座席の窓から、俺と翔もその大きな虹を眺めていた。
「今日の徹君の試合第2試合だよな、そろそろ球場に入った頃かな。要、テレビで応援しなくていいのか?」
ハンドルを握る隆がバックミラー越しに俺を見て言った。
「大丈夫。2回戦で負ける訳無いから。今日も楽勝だよ」
俺は快調に走る車の中で、今朝方見た不思議な夢を思い出していた。
その夢で俺は1匹の黒猫になっていた。
そこは見覚えの無い病院の長い廊下で、すれ違う人達はみんな黒猫の俺の存在に無関心だった。
ガラスに映る自分の姿を何度も確認して、俺はそこでやらなければならない事を何度も頭の中で復唱していた。
まるで呪文の様にそれを繰り返し、迷路の様な病院の廊下を足早に駆け抜ける。
そして目覚めた時、俺はそのやらなければならない事だけ思い出す事が出来なかった。
「俺は何をやらなければならなかったんだろう」
隣に座っている翔はいつの間にか口を開けて眠ってしまっていた。
規則正しく上下する翔の背中を眺めていると、俺は今この時が夢なのか現実なのか分からなくなってしまう。
翔の母親は8年前に亡くなった。
まだ幼かった妹の茅には母親の記憶は殆ど無い。
病気がちだった翔の母親の優しい笑顔を俺は覚えている。
腰まで真っ直ぐ伸びた美しい黒髪と、薄いグレーの目をしたとても綺麗な人だった。
母親に手を引かれ連れていかれた葬式場で、ぐっと唇を噛みしめて俯いていた翔を見た時、俺はどうしてこんな酷い事が起こるんだと怒りに狂いそうになった。
あまりに酷い事だと。
俺の父親と翔の父親は中学からの同級生で同じ野球部の親友同士だった。
俺と翔がまるで兄弟の様にワンセットで育てられたのも、互いの親にとって好都合だったのだろう。
妹の手前いつも強がっていた翔が、本当は繊細で寂しい気持ちを1人で抱えている事を俺は知っていた。
翔が学校に行きたがらなかった時には、俺も学校をサボって一緒に町外れの山でずっと虫を採っていた。
俺が読んだ漫画は翔に回して、翔が読んだ外国の児童小説は俺に回ってきた。
俺も翔も「モモ」という本が1番のお気に入りで、そこには何か自分にとってとても大切な事が書いてある様な気がしていた。
窓からは大きな虹がまだ見えている。
今まで見た事の無い様な大きな虹だった。
くっきりとした7色のグラデーションが、まるで人の手で塗られたものの様に空にくっきりと浮かんでいた。
その虹の先端の辺りに、黒いモヤと白い霧がぐるっと巻き付いているのが見えた。
それはまるで2匹の竜が、虹を奪い合う為に絡み合っているようだった。
俺は車の窓を開けて外の空気の匂いを嗅いだ。
この所ずっとぼんやりとしていた頭の中が、少しだけすっきりとした様な気がした。

           7

佐久を越えた辺りで高速道路を降り、国道から逸れて山道に入ると辺りは民家もまばらな寂しい風景になった。
道の片側にはずっと川が寄り添い、やがて対向車とすれ違うのもギリギリの細い道路になっていった。
週末に上陸した台風は既に日本海に抜けていたが、川の水は濁って水嵩も増している様に見えた。
この辺りにもかなりの雨が降ったようだ。
奇跡的に甲子園の日程に台風の影響は無く、徹は1回戦の対戦相手を完封に抑えた。
今日の2回戦も下馬評では優勢と言われていた。
地元の市役所には大きなテレビが用意されていて、沢山の人が応援に集まっているらしい。正に地元のヒーローだ。
小さい頃から何をやらせても人より秀でていた兄の徹は、弟の俺にとって近くにいながらも遠い存在だった。
周りの期待に常に応え続けるという事はどんな気持ちなんだろうか。
俺はそんな兄に対して強い憧れと共に、少し同情する様な気持ちも感じていた。
兄本人がどんな気持ちでいたのかは分からなかったが、俺にはとても真似出来ないと思った。
そんな俺にばあちゃんはよく言っていた。
「要は要にしか出来ない事をやればいい。人と同じであろうとしなくてもいい」
俺にしか出来ない事って一体何なんだろう。
徹の運転するフォレスターは山道で更に速度を落とし、カーブの度に止まってしまうんじゃないかと思う程減速する。
遠くの山間にまだ大きな虹の姿が見えた。
助手席の茅はカーステレオの音楽に合わせて大声で歌を歌っている。
俺は俺にしか出来ない事を考え続けていた。
今頃遠い甲子園のマウンドに上がろうとしている兄にしか出来ない事。
死んでしまった美しい黒髪を持った翔の母親にしか出来なかった事。
寂しい気持ちを見せない様に、いつも強がっている翔にしか出来ない事。
俺は眼下に広がる遠い町の景色の中に、どの位の人間が自分にしか出来ない事をして生きているのだろうかと思った。
もしも俺が明日死んでしまったら、どれだけの人が悲しむだろうか。
ばあちゃんは何て言うだろうか。
マウンドの上の兄は一体何を思うのだろうか。
今の俺には分からない事ばっかりだった。
大人になれば分かるのだろうか。
その時は俺にしか出来ない事をしているのだろうか。
バックミラー越しに運転する隆とまた目が合った。
「要、大丈夫か?」
俺は何に対して大丈夫かと聞かれているのかが分からなかった。
「おじさん、俺大丈夫なのかな?俺にしか出来ない事って何だろう」
殆ど呟く様だった俺の声は隆までは届いていない様だった。
あの日、図書館の長机で見た短い夢。俺は何度も思い出していた。
黒い濁流に呑み込まれる小さな女の子の姿。
あれはただの夢では無いという確信の様なものが俺にはあった。
翔達と予定通りにあの場所に行けば、きっとあの女の子もそこにいるはずだ。
そこで川が氾濫する前に何とかしてそこから皆を離れさせればいい。
そんなに難しい事では無いはずだ。
この所の不思議な夢が、俺にしか出来ない事を教えてくれたのかも知れない。
「モモ」の中で時間を奪われた町の人々の為に1人の少女が灰色の男達に立ち向かった様に。
何かの巡り合わせで、俺にもヒーローになる機会が与えられたのかも知れないと、その時はそんな風に考えていた。
車は狭い山道を過ぎて、見晴らしの良い高原の一本道に差し掛かっていた。
空がかなり近い様に感じる。
その先に何軒かの家が並んだ集落があり、その中でも一番大きな門構えの家の庭先にフォレスターはゆっくりと入っていった。
「おい、じいちゃんの家に着いたぞ。翔、起きろ」
隆が後部座席に声を掛けた。俺の隣で翔が大きな欠伸をしている。
「おしっこ!」
助手席の茅は車から飛び出して大きな庭に面した縁側から家に入っていった。
翔の祖父の家は絵に書いた様な田舎の農家で、何もかもが大きかった。
母屋の他にいくつかの建物が敷地内にコの字型を作っている。
奥の建物には大きな牛の姿まで見えた。
翔と一緒に車から荷物を降ろすのを手伝っていると、母屋から麦藁帽子を被った翔のじいちゃんが出て来た。
「よう、きたなぁ。ほれ昼飯出来てるから、上がんなさい」
真っ黒に日焼けした翔のじいちゃんは、いかにも優しそうな笑顔で俺たちを家に招き入れてくれた。
大きな広間には食卓がすでに用意されている。
縁側から入ってくる高原の風が心地良くて、クーラーなど要らない位に涼しく感じた。
翔のばあちゃんが大きなガラス皿に素麺を山盛りに乗せて広間に入ってきた。
「ほら、お腹空いたでしょう。沢山お上がんなさいね」
俺の家では仕事の帰りが遅い父親とは食事は別々に取るので、大体母親と2人の食事だった。
兄の徹も野球部の練習で帰りが遅く、俺は大人数で食卓を囲むのに馴れていなかった。
今頃ばあちゃんは1人で何をしているだろうかと俺はふと思った。
夏休みが終わり、新学期が始まれば俺もばあちゃんの家に頻繁に行く訳にはいかなくなる。
最近のばあちゃんは以前にも増して言っている事が怪しくなってきていた。
そこのところ両親はどう考えているのだろうか。
ちょっと前までは俺も夏休みが楽しくて仕方が無いだけの、ごく普通の子供だった。
自分の事だけ考えていれば良くて、不安な事など何も無かった。
でも今は何かが大きく変わってしまったと感じていた。
これが大人になるという事なのか。思春期ってやつなのか。
あるいは俺は普通じゃなくて変な奴なのか。
どんどんと色んな考えが湧いてきて頭が一杯になってしまう。
最近見る変な夢や、妙な事を口走ったりする事も、俺の気持ちを塞いでいる原因になっていた。
「おい、要、遠慮せずにいっぱい食べろよ。調子悪いのか?」
ボンヤリと物思いに耽っていた俺に隆が声を掛けた。
「いや、全然大丈夫だよ。どれも本当美味しいし」
俺はとにかくやらなければならない事に集中しようと思った。
ここへ来た理由。
あの黒いモヤを晴らす為に、俺はここにいるんだと強く心に念じた。

           8

夕暮れ時になり、俺達は翔のじいちゃんに連れられて近所の神社の縁日に出掛けた。
境内の広場は盆踊りの輪で賑わい、近くの集落から沢山の人が集まっていた。
鮎の塩焼の屋台や、金魚掬いの出店などが並び、小さな子供から年寄りまで浴衣姿で夕涼みを楽しんでいた。
敷石のジャリジャリとした音が響く中、薄暗い空に映える提灯の灯りが幻想的な雰囲気を醸しだしていた。
俺は翔のじいちゃんの家で、今日の甲子園の第2試合の結果を知った。
兄の徹は今日も得点を許さない完封勝利を飾っていた。
遠い町で俺の家族は歓喜に沸いている事だろう。
俺1人蚊帳の外だという疎外感が無い訳ではなかったが、やっぱり兄には負けて欲しく無いという気持ちの方が強かった。
「要、何かいつになく大人しいよな。何?ホームシックなの?」
茅の手を引いてじいちゃんが盆踊りの輪に入っていくのを遠くから眺めながら、翔が俺に言った。
「んな訳ねーし。なぁ、おまえ毎年同じだって言ってたけど、川にキャンプに行くの明日だよな?」
俺の声は頭上の高い樹から降り注ぐ蝉の鳴き声にかき消されそうだった。
「ああ、そうだよ。本当毎年一緒なんだよ。同じパターン」
翔は持っていた紙コップの中の炭酸飲料の気泡をずっと見つめている。
「なぁ、こんな事言ったら変に思うかもしんないけどさぁ。おまえ予知夢って見た事ある?」
俺はなるべく何でも無い話の様に切り出した。
翔は一瞬、俺の言っている事の意味が分からない様だったが、ゆっくりと俺の方を見て言った。
「予知夢って、これから起きる事が夢に出てくる様なやつ?」
「ああ、そう。よく映画とか小説とかであるやつ」
俺は少し迷ったが、結局図書館で見た夢の事を翔に話した。
実際口に出して人に話してみると、自分でも信じられない気持ちが沸いてくる。
中学生にもなって少し幼稚な発想の様な気もした。
翔は黙って真剣な顔で俺の話を聞いていた。
てっきり茶化したりするかと思っていたので、意外な反応に俺は少し驚いた。
「そうか。それでお前はその女の子を助ける為に俺達と一緒にここまで来たのか」
翔の顔は至って真面目だった。
「お前、こんな話信じるのか?」
俺の方こそ信じられない気持ちだった。
もし逆の立場だったら俺は全力で翔の事を笑い飛ばしていただろう。
「ああ。信じるよ」
そう言った翔の顔に提灯の灯りが揺れた。
周りの木々に渡されたロープに結ってある、沢山の提灯が急に吹いてきた風に揺られている。
スピーカーから間断なく流されていた祭り囃子の音色も段々と遠くなっていく。
時間の流れるスピードが不安定になった様に感じた。
俺はまたこめかみの辺りに鈍い痛みがして、視界がぼやけて霞んでいくのを感じていた。
隣にいる翔の姿もボンヤリとした影の様に見える。
俺はまたかと思った。
俺に妙な夢を見させるこの不思議な感覚には、あがなえない程の強い力がある。
あれは本当に予知夢だったのだろうか。
俺は何かの病気なんじゃないか。
遠い広場の盆踊りの輪が、早回しの映像の様に高速で回転しているのが目に映った。

「一体お前は、俺にどうして欲しいんだ」

俺は薄れていく意識の中で、誰の事か分からない相手に繰り返しそう問い掛けていた。

           9

ゆっくりと目を開けると、白い天井に西日が差し込んでいるのが見えた。
夜余り眠れない分、中途半端な時間にうたた寝をしていた様だ。
はっきりとは覚えていないが子供の頃の夢を見ていたような気がする。
懐かしい気持ちだけが残り香の様に感じられた。
「榊田さん。お休みになっておられる間にお見舞いに男性が来られていましたよ」
隣のベットの青木さんが声を掛けて来た。
「私にですか?」
「ええ、20分程前に。榊田さんがお休みになっていたので、談話室で待つと仰っていました。多分まだいらっしゃると思いますが」
カーテン越しではっきりとは分からなかったが、青木さんのベットの傍らには今日もお見舞いに小さな子供が来ている様子だった。
「ありがとうございます。ちょっと行ってみます」
俺は薄いカーディガンを肩に掛けてゆっくりと病室から廊下に出た。
渡り廊下の窓からはこの日も綺麗な夕焼けが
山を染めているのが遠くに見えた。
まだここへ来て日が浅いのに、随分長い時が経ってしまった様に感じる。
町は何も変わっていない。俺1人が社会から離脱しても、その影響はごく小さなさざ波に過ぎない。
誰も気が付かない内に、人は生まれたり死んだりしていくのだろう。
ここ最近ずっとやり残した事について考えていたのだが、思えば誰であろうと満足の内に人生を閉じる事なんて出来る訳が無い。
そこには必ず多かれ少なかれ後悔が付き纏うはずだ。
何も自分だけが特別な不幸を背負っている訳でも無い。
俺は無理をしてまで人生の最後に何かの結果を遺さなければならないとは考えなかった。
ただ昇った陽が静かに沈む様に、何気なく消え去っていくのも悪く無いと思った。
談話室で俺を待っていたのは5歳上の兄、徹だった。
いかにも高級そうなグレーのスーツにピカピカの革靴が目に入った。
簡素なテーブルと椅子に、傍らの紙コップのコーヒーが不釣り合いに映る。
ラップトップを広げて頻りにキーボードを叩いていた徹は、俺に気が付くと小さく手を差し上げて合図した。
俺は徹の向かいに腰を掛け、徹の作業に区切りが付くのを黙って待っていた。
「おお、悪い。ちょっと仕事が立て込んでてな。どうだ?調子は?」
暫くしてラップトップを閉じた徹が、腕時計で時間を確かめながら俺に言った。
「ああ、悪く無いよ。特に痛みがある訳でも無いから。兄貴は変わりない?」
俺が最後に徹と会ったのは3年前の親父の葬儀以来だった。
「ああ、俺は相変わらずだ。まだシーズンも中盤だからな。中々来られなくて悪かったな」
徹は関西のプロ野球球団のピッチングコーチをしている。
甲子園で結果を遺した兄はそのままプロの道を進み、引退後は指導者として活躍していた。
俺の平凡な人生と比べると、兄の経歴は常に華々しかった。
「お袋には会ったのか?というかお前ずっとこの病院に入ってるつもりなのか?」
兄が俺と話す時はいつも質問口調だった。
それに俺は答えていれば大抵の用事は済んでしまう。
特別な才能を持ち、更に弛まぬ努力を重ねてきた兄に俺が敵う事など何一つ無い。
俺にとっては劣等感を抱く事すら無かった位に、圧倒的な存在だったのが兄の徹だった。
「まあ、ここにいても治る様な病気じゃないから。様子を見て家に帰ると思うよ。まだ時間はあるから。何かやりたかった事とか、ゆっくりと身辺整理とか、考えてはいるんだ」
俺は兄に説明しながら、自分の言葉にリアリティを感じる事が出来ないでいた。
俺に整理する様な事があっただろうか。
やりたかった事なんてあったのだろうか。
遠くない自分の死に、どんな準備をして良いのかなんて全く想像が付かなかった。
「実はな、河北さん覚えているか?親父の同級生の。ほら、翔の父親の」
話題を変える様に徹が切り出した。
「ああ、勿論覚えているよ。随分会ってないけど」
俺の頭の中に遠い記憶が蘇ってきた。
懐かしい気持ちの残り香がふと蘇った。
「お前がこんな時に何だがな、昨日亡くなったらしいんだ。」
言葉が出なかった。
狭い談話室の白い壁を見つめながら、俺は幼馴染の翔の顔や、よく遊びに連れて行ってくれた翔の父親の隆の顔を思い出していた。
あれから随分時が経ったのだと改めて実感した。
時間はいつだって容赦なく過ぎ去っていく。
朧気になってしまう記憶を、時々刺激してくれるのはいつだってこういった喜ばしく無いニュースばかりだ。
「要、それでおまえが大丈夫そうだったら葬式に出るか聞いておこうと思ってな。俺はたまたまチームの移動日と重なってるから行こうかと思ってるんだ。小さい頃から世話になってたからな」
徹はもう一度腕時計で時間を確認しながら言った。
最近よく昔の夢を見る。
まだ中学生だったあの頃はばあちゃんも生きていた。
徹が甲子園に出場した年だ。あの退屈で茹だる様な暑さだった夏休み。
あの頃も今と同じ様に、持て余した時間をどうやってやり過ごして良いのかが俺の悩みの種だった。
あっという間に遠い過去になってしまった。
あの夏の日、俺の幼馴染の河北翔は長野の川でキャンプをしていた時に川の増水事故で死んでしまった。
俺の人生で唯一やり直したい事をようやく思い出した。
俺はどうしてもあの夏に帰って、河北翔を助けてやりたいと心から思った。
本当の兄弟の様にずっと一緒だった瓶底メガネの少年の姿が、今目の前にいる様にはっきりと思い浮かべられた。
「おい、要、大丈夫か?気分でも悪いのか?」
徹が俺の顔を心配そうに見つめていた。
その時、他に人影の無い狭い談話室の片隅に1匹の黒猫がいるのが目に入った。
「ああ、またお前か。お前はいつもそうやって俺の事を見ていたんだな」
俺は独り言の様にそう言って、黒猫に近付いていった。
急に椅子から立ち上がり、何も無い部屋の隅に歩み寄っていく要を見て、徹は何が起きているのか分からなかった。
「おい、要。おい、どうしたんだ?」
黒猫がスッと談話室から出ていく。
音も無く軽やかに歩くその姿を、俺は見失わない様に追った。
迷路の様な病院の廊下を、その黒猫は角を曲がる度に振り返って俺の事を待っていた。
まるで道先案内人の様に、慎重な足取りだった。
他の患者も、病院の職員も誰1人として俺達に気を留めない。
寧ろその存在が見えていない様だった。
病院の正面出口から出ると、黒猫は薄暗くなった路地を軽やかに進んで行った。
見失うスピードでは無かったし、やはり角を曲がる度に黒猫は俺が付いてくるのを確認していた。
不思議と体に疲れは感じなかった。
一体あの猫は俺をどこに連れて行こうとしているのだろう。
夕暮れ時なので外の暑さも然程では無い。
足元は病院のスリッパのままだったが、夢を見ている様に何事もさして気にならなかった。
この所ずっと考えていた人生でやり残した事。
過去に戻ってやり直す事など出来ないと分かっていたが、俺はボンヤリとした頭の中で、黒猫の案内に従っていけば、それも不可能では無いんじゃないかと漠然と考えていた。
小さな川に架かった古びれた石造りの橋を越え、大きな樫の木が煉瓦造りの塀から頭を覗かせている一軒の住宅の敷地に黒猫は入っていった。
この家の飼い猫なんだろうか。
黒い鉄柵の門は開かれていた。
大小様々な樹木が生い茂った薄暗い庭には人の気配が無かった。
俺は一瞬躊躇したが、きっとここに間違い無いと思い中に入った。
塗装の落ちかけた緑色のドアに付いた真鍮のノブを回すと、やっぱり鍵は掛かっていなかった。
俺は静かにそのドアを開けて玄関に入った。室内にも人の気配がしない。
物音一つ無かった。
これでは何の言い訳も仕様がない不法侵入だったが、俺はどうしても思い留まる事が出来なかった。
俺に残されたチャンスは然程無い。
もしかしたら最後かも知れない。
玄関から左手の廊下を進んだ奥の部屋の方で微かな物音がした。
ゆっくりと廊下を進むと、唐突に電話のベルがけたたましく鳴り響いた。
俺は本当に心臓が飛び出るかと思う程に驚いた。
それは静寂の世界を切り裂く様な暴力的な音だった。
更に廊下を進むとそこは台所だった。
薄暗かったが、明り取りのステンドグラスから陽が入ってきていて辛うじて室内の様子が見える。
大きなダイニングテーブルの傍に、その黒猫は静かに座っていた。
真っ直ぐにグリーンの目で俺を見詰めている。
電話のベルは尚も凄まじい音を立てている。
ふと見るとそのダイニングテーブルのほぼ中央に不自然な形で昔ながらの黒電話が置かれていた。
黒猫は俺の目をじっと見て、この電話に出ろと言っている様に見えた。
俺もこの電話に出なければならないと思った。
それは予め決められていた宿命の様に、俺をそこで待っていた。
「もしもし」
気が付くと俺は受話器を耳に当てていた。
電話の向こうに微かな水の音が聞こえた。
「もしもし」
もう一度俺は言った。
祈る様な気持ちだった。
まるで閉じ込められたエレベーターから救助を求める時のように。
静かに耳を澄ます。
水の音の他に、僅かな息遣いが聞こえた。
「要・・・か?」
それは何万キロも距離を隔てた国際電話の様に頼りない声だった。
「要なのか?」
電話の向こうの声は俺の名前をはっきりと口にしている。
それでも俺は信じられない気持ちだった。
そんな事はあり得ない。
あるはずが無い。
電話の声は忘れようもない、遠い記憶の中の翔の声だった。

          10

気が付くと俺は畳に敷かれた布団に横になっていた。
室内を外から月明りが照らし出していた。
聞こえるのは庭先の虫の鳴き声と、時計の針が刻む規則的な音だけだった。
俺はボンヤリとした意識の中で、ここが翔のじいちゃんの家だったと思い出す。
あの夏休みの日、俺は翔とあの小さな女の子を助ける為にここへ来た。
不吉な予知夢と、黒猫に導かれる様にして、俺は運命を変えようとしたんだ。

ーでも、どうやって?ー

俺は今、肺の腫瘍で余命を告げられ入院をしていたはずだ。
自分のささやかな人生を振り返って、やり残した事をボンヤリと考えていた。
そうだったはずだ。
「ここはどこなんだ」
俺はゆっくりと起き上がり、縁側に伝って玄関の方に回った。
どこの部屋にも人の気配は無く、明かりも灯されていない。
「俺は黒猫の後を追って、煉瓦造りの塀の家に入って、そして電話に出た。そうだ翔からの電話だ」
俺は誰もいない部屋で全て口に出して喋っていた。
記憶が複雑に絡まり、何が夢で何が現実なのかも不安になっていた。
時間軸も空間の認識すらあやふやで、自分がこうしている今も、次の瞬間に何が起きるか予測出来なかった。
「これは夢なのだろうか」
俺は裸足のまま縁側から広い庭に降りて、大きな月の光る空を仰ぎ見た。
「もしかしたら・・もう俺は死んでいるのか」
俺の声は力なく震えていた。
何の未練も無い様に思っていた人生が、その時は酷く惜しいと思った。
気が付くと俺の後ろに人の気配がした。
振り返らなくてもそれが翔だと俺には分かった。
「要、やっと会えたな」
翔の声をすぐ近くに感じた。
それは何万キロ彼方からの電話の声では無く、直接耳に届く肉声だ。
「ああ、翔。お前は全部知ってたんだな」
俺は振り向かずにそう言った。
これが夢であっても現実であっても、俺にはどちらでも構わなかった。
「ああ、あの夏に俺は濁流に流されて死んだ。お前が見た予知夢は今のお前の遠い記憶の断片だよ。お前はずっと俺を助けられなかった事を悔やんで生きていた。でもそれは仕方無い事なんだ。誰も未来の出来事なんか分かる訳が無い」
翔の声はあの頃のままだった。
きっと瓶底メガネもちゃんと掛けているのだろう。
俺は薄暗い月明りの庭で、どうしても振り返って翔を見る事が出来なかった。
「お前は今いくつなんだ?」
翔が少し笑っているのがその声で俺には分かる。
「俺は・・・43歳だ。あれから30年も経ったんだ」
「そうか。信じられないな。お前が今こうしてここにいるのが。でもお前ならあの電話にきっと出てくれると思ってたよ」
翔は多分、何度も俺に電話を掛けていたに違いない。
俺は最後の最後でやっとそのベルに気が付いた。
「要、見てみろよ。凄い星だぜ」
そう言われて空を見上げると、さっき迄月の明かりしかなかった夜空に信じられない程の数の星が輝いていた。
俺は口を開けたまま、しばらくその大きな夜空を眺めていた。
「要、俺が死んだのはお前のせいじゃない。あの小さな女の子が死んだのもお前のせいじゃない。だから今お前が病気で死ぬのも誰のせいでもない」
翔の声はまだ子供の声だったが、俺にはとても優しく大人びた声に聞こえた。
「分かってる。俺は過去をどうにか変える事が出来ないかと考えていたけど、そうしても意味が無いって事に薄々気が付いていたんだと思う。あの夏にどうやって戻ったのかは分からないけど、同じ8月12日がまたやってくるだけなんだろうな。きっと」
俺は過ぎ去った時間の中で、もう一度ばあちゃんや翔に会った。
それだけで充分だと感じていた。
そうやってじっと夜空を眺め続けていた俺に翔は言った。
「予知夢は結局未来の記憶だ。それを変える事は人間には出来ない。お前があの電話に出たのは信じられない様な奇跡だったけど、それも膨大な時間の流れの中での些細なエラーの様なものなんだ」
俺はその些細なエラーが起こした今こそが、信じられない様な奇跡だと思った。
「翔、俺は死んだらまたお前に会えるのか?」
俺は振り返って翔の姿を見たいと心の底から思ったが、すんでの所で堪えていた。
振り向けば全ては夢の様に消えてしまうのが分かっていた。
「要、あの日町に掛かっていた大きな虹を覚えているか?親父の運転する車から見えた虹だ。黒いモヤと白い霧が絡み付いていたろ。あれを見た時に俺は気が付いたんだ。お前が遠い町から来たって事に。何だか変な事ばっかり言ってたしな。お前。多分お前自身が一番不思議に思っていただろうけど、お前は何度も電話に出て、こっちに来てくれていたんだよ。何度も何度も諦めずに俺を助けようとしていた。でもそれは無理な事だし、意味が無い事だったんだ。世界は何度でも繰り返すし、その度に転調するんだ」
翔が一歩、二歩と俺に近付くのが分かった。
「転調するってどういう事だ?」
俺は目を閉じて、頬に感じる緩やかな風の感触を確かめていた。
これが現実では無いという事と、更に夢でも無いという事が何となく分かった。
「それまでの流れがガラっと変わることだ。規律をひっくり返すような変化。それは決して多くは無いけど、度々起こっている奇跡の様な出来事だ。世界が転調する度に、あの虹が空に大きく広がるんだ。あの時の虹は要が起こした転調で出来た虹だったんだよ」
気が付くと、翔は俺のすぐ後ろに立っていた。
「要、これが最後の転調だ。俺は今眼鏡を掛けなくても星が見えるんだ。ほんの些細な変化だけど、俺にとっては本当に素晴らしい眺めなんだ」
翔はそう言うと軽く俺の肩を叩いた。
俺はゆっくりと振り返り、翔の顔を間近に見た。
そこには中学生の翔ではなく、俺と同じ様に年を取った中年の姿の翔が笑っていた。

           11

「この度はご愁傷様です。ご無沙汰してます。榊田要です」
朝からの葬儀が終わり、清めの席もたけなわの雰囲気になってきた頃合いで、俺は喪主を務めていた茅に改めて挨拶した。
それこそ何十年振りだと言うのに、茅は俺の事を覚えていた。
「本当に久し振りですね。父も喜んでいると思います。それから兄も」
河北隆は最愛の美しい妻を病気で失い、大切に育てていた息子も事故で失った。
言葉では言い尽くせない深い悲しみと後悔を抱えた生涯を、彼は投げ出す事無く全うした。
どんな人生にも苦しみはあるだろうが、河北隆の身に降り掛かったそれは余りに残酷だっただろう。
俺はずっと自分の苦しみにしか目を向けて来なかった。
それで楽になれるのならば、どんな物でも投げ出していただろう。
本当に強い人間とは、本当の悲しみを知っている人間の事なんだろうと俺は隆の遺影を見ながら思った。
「要、身体は大丈夫か?」
隣の席で清めの酒を飲んでいた兄の徹が聞いてきた。
「ああ、大丈夫だよ。ちゃんと葬儀に来られて良かったよ。色々ありがとう」
俺は気が付くと随分長い時間遺影の写真を見ていた。
俺はあの時、確かに翔に予知夢の話をして川に近寄らない様に言ったと思っていた。
今では何が現実に起こった事なのか、はっきりとした確証が持てない。
夢だったり、記憶だったり、或いはそれが長い時間の中で徐々に変化していったものなのかも知れなかった。
俺は世界が本当に転調するのであれば、もう一度長野のあの高原に行って、今度は本物の星空を見てみたいと思った。
それは残り少ない俺の人生にとっては、ささやかながらも大きな奇跡だと思う。
その日の帰路の途中、駅のロータリーにタクシーで到着した時に東の空を見上げると、
先端に白い霧だけを纏った大きな虹がくっきりと見えた。
俺は心の中で翔に向けて小さく言った。

「世界がまた転調したぞ」

            完
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