第1話

文字数 1,773文字

 窓を開けると、眼下には生き生きとした緑色の森が広がり、それをぐるりと囲むように高層ビルが並んでいた。
「悪くない眺めだろ」
後ろを振り向くと、右手にマグカップを二つ持ち、高木が微笑んでいた。柔らかい湯気が立ちのぼっている。
「素敵ね」
本心では飛び跳ねて、すごいじゃーんっ、とでもはしゃぎ出したいところだったが、高木がそういう女の子を望んでいないことは萌も分かっている。
「うちの奥さんがこの眺めがどうしてもいいと言い張ってね。ところが奮発してこの部屋を買った直後にニューヨークへサバティカルが決まってね。彼女はいそいそと出掛けていき、ぼくは独り寂しく残されたわけだ」
自嘲気味に笑いながら、高木は萌にマグを手渡し、もう片方のマグに優しく口をつけた。
 高木は、大学で教授をしていた。専門は国際政治学。ひと頃は時折テレビなどにも出演していたが、最近は大学の教務と執筆に専念している。身長は百八十センチほどあり痩身、白髪交じりの長髪を無造作に後ろになでつけていた。学内では洗いざらしの白いボタンダウンシャツにジーンズ、ドクターマーティンのブーツのスタイルで、いつも大股でキャンパスを急ぎ足で神経質そうに横切っている印象だ。奥さんも著名な国際政治学者で、この四月からニューヨーク大学に一年間の研修に出ている。
 萌は高木のゼミに入り、ありとあらゆる機会を捉えて彼に近づいた。興味もない西ヨーロッパ情勢の質問をするために高木の部屋に足を運び、教授同席のゼミの飲み会には必ず参加した。
 萌のそんな健気な努力はすぐに高木の目に留まることになった。ある日、高木は図書館を出たところで声をかけてきた萌をカフェに誘った。
「立ち話もなんだから、コーヒーでも飲まないか」と高木は言った。スマートで、なんの魂胆も含意もなさそうな響きだった。
 萌は、あらん限りの想像力を駆使して高木の前では彼の理想になりうる女子大生を演じた。手を焼くような子どもっぽさは決して出さず、それでも無知で世間知らずなフリをして高木の優越感をくすぐった。適度に甘え、適度に距離を置き、煩わしくない頻度で連絡を取った。
 七月の中頃、試験期間がひと段落着いた日、萌は高木に誘われ東京タワーが見える芝のレストランで夕食を食べ、その後タクシーで新宿にある高木のマンションに移動し、身体の関係を持つことになった。その時も高木は、ただ「うちにくる?」と訊いただけで、それ以上は何も言わなかった。萌は頭をフル回転させながら、それでも極めて冷静を装い、なんとか「お邪魔でなければ」、という言葉を絞り出した。
高木がブラックのコーヒーを飲み干し部屋のなかへ戻っていったあとも、萌はしばらくシャツに下着という格好で、ベランダに居続けた。朝の風は少し肌寒かったが、そんなことはちっとも気にならなかった。空は幸福な魔法のように青く、右から左へ、千切れた雲が形を変えながらゆったりと流れていた。
 東京は、私の街なんだと萌は思った。ここに住む数百万の人々と同じように、東京は私のものなんだと、そっと両腕を胸の前で組んだ。それは金で購えるものではない。それは,言わば宿命的な恋のようなものだった。この街と恋に落ちなければ、この街は決して私のものになってはくれない。良いところも、気に入らないところも含めて。
 萌はずっと模索していた。十八の時に東京に出てきて、独り暮らしを始めた。大学に通い、友人を作り、そして恋人を作った。東京にはずっと憧れていたが、いつでも見当違いのサイズの服をあてがわれたような、心地の悪さを感じていた。時には容れ物が大きすぎて不格好になり、また時には窮屈過ぎて体が悲鳴をあげた。
 それでもあちこちに体をぶつけ、心をすり減らしながら、萌は東京で生きていく術を見つけつつあった。そしてその朝、高木の部屋のベランダから見下ろした街が、彼女の街だったのだ。
 「寒いだろ、入りなよ」
 高木が部屋の中から声を掛けた。萌はひと息吸い込むと、ゴムのサンダルを脱ぎ、部屋に戻った。暖かみのある木目調のリビングルームにはコーヒーの匂いが漂っていた。フライパンが焼ける音も聞こえる。
 「トーストと目玉焼きでいいかな」
 高木が優しく尋ねた。もちろんです、と萌は言いながらキッチンへ歩み寄っていった。
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