いちわかんけつ

文字数 2,000文字

 子どもの頃、一番好きだった遊びは『缶蹴り』だった。

 ひとたび缶を蹴れば、囚われた仲間を一人残らず解放できる。それまでの状況を全て『リセット』できる遊びだ。当時足の速かった僕は、幾度と無く仲間を救ってきた。警戒心の強い鬼に気付かれず、茂みの中でじっと待つ。息を飲むような緊張感が漂う中、意表を突いてバッと飛び出していく。その勢いに任せて缶を蹴ると、大きな弧を描いて飛んでいく。同時に、仲間からは大きな歓声が湧き上がる。その声々を浴びながら全力疾走するのが、堪らなく爽快で、楽しかった。他の遊びには無いこの魅力に、僕はどうしようもなく惹きつけられていた。
 缶蹴りが終わると決まって、財布の小銭を数えながら自動販売機でレモンスカッシュを買った。それを片手に、肩を並べて夕陽を眺めた。言葉に言い表せないくらい楽しかった。この時間が、永遠に続けば良いとさえ思っていた。

 今思えば、あのときみんなで飲んだレモンスカッシュが、人生で最大の贅沢だったと思う。


 僕は大学を卒業後、一般企業で普通に働き始めた。最初は貧乏だったが、初任給で飲んだビールは体の隅々まで染み渡った。こんなにも美味しいものだとは、思ってもみなかった。
 働くほど給料は上がり、ある程度安定した暮らしができるようになった。すると、少しずつ欲が出てきて今よりも贅沢な暮らしを望むようになった。大衆居酒屋が好きだったが、徐々にお洒落なバーに行くようになった。初めて飲むカクテルは衝撃的で、自分のステップアップがグラス上に体現されているような気がして、純粋に嬉しかった。
 しかし、その感動も最初のうちだけだった。そして、ずっと感じていた違和感が脳内で言語化された。

・・・今、僕は果たして楽しいのだろうか?


 安定した暮らしに慣れてしまい、この環境に微塵のありがたさも感じられくなっていた。あれだけ高いカクテルを飲むのが嬉しかったのに、いつの間にか何も思わなくなっていた。
 高い生活水準を一度味わえば、それが”基準”になる。同時に、それよりも低い生活水準にはもう戻れなくなる。もし、日々の生活で感動し続けたければ、もう一つ、また一つと生活水準を上に引き上げ続ける必要がある。しかしそれでは、お金なんていくらあっても足りない。このスパイラルを抜け出すために、無理に生活水準を落とそうと考えてはみるが、やはりそれはできなかった。

 この途方もないジレンマの打開策として、僕は思い切って、最もオッズが高い競馬のレースに全財産を賭けることにした。正直、勝っても負けてもどっちでもよかった。僕の運命を背負って懸命に走る馬に、子どもの頃の自分を重ねていた。
 レースが終わり、何枚もの馬券が、怒声とともに宙を舞った。しかし、僕にとっては桜の花びらのように麗しく見えた。
 五百万円の馬券は、一億二千万円に化けた。日本の人口全員から一円を貰ったらこの額になる。とんでもないことだ。嬉しさよりも戸惑いや恐怖が勝っていた。しかし、時間の経過によりその悩みは杞憂であることが分かった。
 その後、高級な肉や酒を好きなだけ飲み食いし、ブランド物も手に入れた。値段なんて一切気にしなかった。欲しいものはいつだって手に入る。理想的な生活だと思った。それでも、この生活に慣れてはいけないと心のどこかで思ってはいた。
 しかしあろうことか僕は、この生活にも慣れてしまったのである。
 このレベルの贅沢にも慣れてしまい、気付けば生活から感動が消えていた。楽しみも消えた。そんな自分に無性に腹が立った。金も時間も自由に使えるのに、僕は不自由だった。

 ちょうど一週間前、僕は一億円を全て慈善団体に寄付した。そうすべきだと思った。
 自ら選んだことではあるものの、それからの一週間は本当に辛かった。次の給料日が一ヶ月も先のため、当面の生活費を知り合いの店で稼いだ。久しぶりに汗水垂らして一生懸命働いた。その間、財布の中の524円だけで切り抜けた。一週間分の給料は微々たるものであったが、本当にありがたかった。

 今僕は、公園のベンチに座っている。
 柔らかなそよ風が、銭湯帰りの体を優しく撫でる。コンビニの袋からポテトチップスを徐に出した。スライスチーズはハムで挟んでみる。願ってもないご馳走だ。そして右手には、極限まで冷えた禁断の果実。タブに中指を掛けてプシュッと開けた。
 僕は大きく一息付き、ビールを一気に飲み干した。涙が出るほど旨かった。
 見上げた夕焼け空は、子どもの頃に見たものと同じ色をしていた。お金なんて無くても、こうして生きていること自体が幸せなんだ。あの頃のように、もう一度『ゼロ』から積み上げていこう。あと、会社、辞めなくてよかった。
 僕はビールの空き缶を下に置いた。名一杯助走を付けて思いっきり蹴り上げると、缶は空中に舞い上がった。
 それは、あの頃よりももっと大きく、美しい弧を描いていった。
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