幸せは霧
文字数 3,586文字
実験室の外がやけに騒がしい。オレは会社の実験室にいた。実験室内は様々な機械の動作音のせいで、外の音はほとんど聞こえない。それでも異変に気付いたのは、甲高い女の悲鳴が聞こえたからだ。
オレは足早に実験室を出た。フロアの入口付近で数名の男性社員が一人の男を囲んでいるのが見えた。囲まれている男はニット帽に紺色のジャンバー、黒のジャージというかっこうで、制服が支給されるうちの会社の中にあっては、非常に目立っていた。そして、最も重要なことだが、右手にはナイフが握られていた。
男は社員たちを威嚇するようにナイフを振り回している。勇敢さを誇示しようとする、社員どもは5m以上離れたところでビビっていた。
様子を見ていたオレは、何かに引かれるようにゆっくり歩き始めた。頭は必死でアラートを出していたが、体は止まらない。オレは今、心に従っているのだろう。もしくは自分との約束か。
オレは男の前に立ち、男を見つめた。男の方もオレを見つめ返す。社員共がオレに何かを言っているがどうでもいい。男の顔を観察した。痩せてはいない。人相も悪くない。憎しみや怒りが表情に表れているが、同時にとまどいやためらいも見えた。そして、ナイフに目をやる。果物ナイフのような刃渡りの短いナイフだ。無論、刺されればただでは済まない。しかし、凶器としてはあまりに頼りないものだった。
男は「ぶっ殺すぞ」などと叫び、ナイフをオレに突き出してくる。オレはその様子を眺めていた。男もオレの行動が理解できないようだった。膠着状態が続く。オレは思いつくままにしゃべり始めた。
「早く逃げろ。今ならまだ間に合う」
「はあ?」
男と社員共の声が響く。
「何を言うとんじゃ!」
「今ならまだ間に合ういうとんや。今すぐ逃げろ」
「はあ?ふざけんなよお前」
男はナイフを誇示していう。
「お前からぶっ殺すぞ!」
「そんなナイフでか?他にあったやろ?もっとでかい奴が。ホームセンターとか金物屋にもっと大きい包丁とかナタとかあったやろ?何でそんな小さいナイフにしたんや?」
「うるさいわ、ボケ!ほんまに殺すぞ」
「殺す殺すいうて、お前の殺意なんか、そのナイフぐらいしかないんやろ?ほんまに殺す気あるんやったら、もっとでかい刃物もってくるやろ?どこぞの通り魔事件でももっとでかい包丁つかっとったわ。ホンマに人を殺す気でおったら、もっとでかいのを使うんや。お前の殺意なんかしょせんそんなもんやねん」
「だまれ、ぶっ殺したる!それ以上しょうもないこと言うたら絶対殺したる!」
「何しに来たんや?」
「あ?」
「何しに来たんや?誰を殺しに来たんや?」
男は少々たじろいでから答えた。
「お前みたいな奴じゃ!お前らみたいなエリートをぶっ殺しにきたんじゃ!」
「エリート?」
「お前ら腹立つんじゃ。どいつもこいつも幸せそうな面しやがって、腹立ってしょーない。お前らの全部ぶっ壊したる!皆殺しにしたる!」
「オレらが幸せやと?」
「そうじゃ、むかつくんじゃ!オレばっかりこんな目にあって、お前らはのうのうとしとるのを許せるか!全員まとめて殺したる」
「あほか。幸せな奴なんかおらんわ」
「あ?何をいうとんじゃ。涼しい部屋でのうのうとしやがって」
「お前からはそう見えるだけや。幸せな奴なんか誰一人おらんわ。みんなみんな何かしら背負いたくないもん背負って生きとんねん。お前が思うような幸せを持っとる奴なんか誰一人おらんわ」
「うそつけ!見たらわかるんじゃ!」
「そう見えるだけや。霧や雲と同じや。そこにあるように見えるだけで、ホンマはないんや。幸せなんか」
「なんでや?へらへらして飲み歩いて、金もいっぱい持っとるんやろ?ええ家に住んどるんやろ?幸せやないわけない」
「それやったらお前かって、食うもんに困ってないやろ?ボロやない服を着て、靴も履いとる。五体満足やし、道歩いとって死ぬようなこともない。どっかの紛争地域の人からみたら、お前は十分幸せに見えるんやぞ?でもちゃうやろ?お前は幸せなんかやないやろ?同じや。お前から、幸せそうに見えても、本人は何も幸せなんかやないんや」
「嘘つけ!信じられるか!」
「人は幸せになんかなったりせーへん。そういうもんや。絶対に何かを悩んどるや。いっつも。美人な嫁もらったって飯のまずさに悩んどるかもしれん。飲んでへべれけになっとっても実はペット亡くした直後かもしれん。子供との関係がうまくいってないかもしれん。あるいは、もっと違う何かを求めとるかもしれん。人は幸せになったりせーへんのや。お前が幸せじゃないように、みんなも幸せじゃない。そんでもって、お前がさほど不幸でもないように、みんなもさほど不幸でもない。そんだけや」
男はくちびるをかみしめて、反論の言葉を探しているようだ。
「じゃあどないしたらええんや!オレはどうすればええんや!」
「楽しめばええんや。なんでも楽しめばええ。道で転んだら笑い話にすればええ。まずいラーメンくったら不味いなーって笑いながら食えばええ。車に轢かれたら入院生活や訴訟を楽しめばええ。病気になったら健康だった日々をなつかしめばええ。全部楽しめばええんや」
「できるか!そんなこと」
「できる。やってみろ」
「じゃあ、お前ら殺すのを楽しんだる!」
オレはじっと男の目を見つめて答える。
「じゃあ、はよやれや」
「なんやと?」
「はよ刺せや。はよ楽しんでみせろ。お前が人殺しを楽しめる奴ならとっくにオレのことを刺しとるやろ」
「やったるわ!」
「おう、やれや」
男は戸惑っている。
「なんでや?ホンマに刺すぞ!」
「何でオレがお前の前に立っとると思う?普通は立たんやろ?他の奴を見ろ。周りを囲っとるだけや」
男は社員に目を移してから、またオレを見つめる。
「別に死んでもええ思っとるからや。お前に刺されて死んでも別にええと思っとるんや。せやけど自殺する気はない。オレの親は二人とも生きとるからな。自殺とかはしたくない。でも刺し殺されたっていうたら親も納得してくれるやろ?」
オレは男にもう一歩近づく。
「はよ、刺せや」
「あほちゃうんけ?お前」
「オレは何も持ってないんや。失ったらあかんもんもない。オレが死んで困る人もおらん。悲しんでくれる人はちょっとはおるかもしらんけど、困る人はおらん。だからええんや、死んでも」
「お前おかしいぞ」
「何がや?何がおかしい思うんや?」
「お前はオレと違うやろ?オレと違っていろんなもん持っとるやろ?ええ会社に勤めて、給料もいっぱいもらって、ええとこ住んどるんやろ?何も持ってないわけないやろーが!」
「あほか、お前は。」
オレは自分で言いながらどんどん悲しい気持ちになった。オレはこいつと同じだ。ただ違うところは、それに気付いているか気づいていないかの一点だけや。
「お前も分かっとるやろ?大切なもんは自分でつくらんとあかんのや。天から降ってくるもんやない。自分がそれを大切にするから、それが大切なもんになるんや。オレはそれをせーへんかった。だから今のオレには何もない」
男は黙って聞いていた。オレに向かって突き立てられていたナイフはいつの間にか下ろされていた。
「お前にもないんやろ?やからそんなことしとる」
「そうじゃ!でもオレのせいやない。オレがお前らみたいやったら絶対こうはなってない!」
男は叫ぶ。それはオレの叫びでもあった。オレは自分の心に言い聞かすように話す。
「変わらんよ。絶対に変わらん。もしお前がこっちに立っても、何も変わらん。」
オレは力をこめて言う。
「いまかって、探せば見つかるはずやろ?その辺の野良猫でもええ。亀でもええ。なんかしら見つけてきて、そいつを大切にしたらええんや。毎日毎日大切にすれば、いつしかそいつらが、お前にとって大切なもんになるんや。どんな状況でも探せば見つかるはずや。でも、お前はそれをせーへんかった。だから今、何も持ってないんや。そんな奴が、少々立場が変わったところで、何も見つけられへん。探さん奴には大切なもんなんか手に入らんわ」
男は黙って聞いていた。反論の意図は感じられなかった。男は自分と対話しているようだった。
「もう一回いうぞ」
オレは言葉を続ける。
「今すぐ逃げろ。そんでもってなんか探せや。大切にできそうなもんをよ」
オレは軽い感じで言った。
「そしたらさ。幸せになれるかは知らんけど、そんなことはできんようになるわ」
男はうつむいたまましばらく黙っていた。そして、右手からナイフを離した。ナイフが床に落ちる。
「早く逃げろ」
オレは繰り返していった。
「もういいよ」
男がようやく口を開いた。
「もういい。逃げたってどうせ捕まるさ」
オレは男の言葉を待つ。
「でも、やっぱり」
男はオレに背を向けて、扉の方に向かって、ゆっくり歩き始めた。背中越しにオレに言う。
「捕まる前にラーメン食ってくるわ」
終わり
オレは足早に実験室を出た。フロアの入口付近で数名の男性社員が一人の男を囲んでいるのが見えた。囲まれている男はニット帽に紺色のジャンバー、黒のジャージというかっこうで、制服が支給されるうちの会社の中にあっては、非常に目立っていた。そして、最も重要なことだが、右手にはナイフが握られていた。
男は社員たちを威嚇するようにナイフを振り回している。勇敢さを誇示しようとする、社員どもは5m以上離れたところでビビっていた。
様子を見ていたオレは、何かに引かれるようにゆっくり歩き始めた。頭は必死でアラートを出していたが、体は止まらない。オレは今、心に従っているのだろう。もしくは自分との約束か。
オレは男の前に立ち、男を見つめた。男の方もオレを見つめ返す。社員共がオレに何かを言っているがどうでもいい。男の顔を観察した。痩せてはいない。人相も悪くない。憎しみや怒りが表情に表れているが、同時にとまどいやためらいも見えた。そして、ナイフに目をやる。果物ナイフのような刃渡りの短いナイフだ。無論、刺されればただでは済まない。しかし、凶器としてはあまりに頼りないものだった。
男は「ぶっ殺すぞ」などと叫び、ナイフをオレに突き出してくる。オレはその様子を眺めていた。男もオレの行動が理解できないようだった。膠着状態が続く。オレは思いつくままにしゃべり始めた。
「早く逃げろ。今ならまだ間に合う」
「はあ?」
男と社員共の声が響く。
「何を言うとんじゃ!」
「今ならまだ間に合ういうとんや。今すぐ逃げろ」
「はあ?ふざけんなよお前」
男はナイフを誇示していう。
「お前からぶっ殺すぞ!」
「そんなナイフでか?他にあったやろ?もっとでかい奴が。ホームセンターとか金物屋にもっと大きい包丁とかナタとかあったやろ?何でそんな小さいナイフにしたんや?」
「うるさいわ、ボケ!ほんまに殺すぞ」
「殺す殺すいうて、お前の殺意なんか、そのナイフぐらいしかないんやろ?ほんまに殺す気あるんやったら、もっとでかい刃物もってくるやろ?どこぞの通り魔事件でももっとでかい包丁つかっとったわ。ホンマに人を殺す気でおったら、もっとでかいのを使うんや。お前の殺意なんかしょせんそんなもんやねん」
「だまれ、ぶっ殺したる!それ以上しょうもないこと言うたら絶対殺したる!」
「何しに来たんや?」
「あ?」
「何しに来たんや?誰を殺しに来たんや?」
男は少々たじろいでから答えた。
「お前みたいな奴じゃ!お前らみたいなエリートをぶっ殺しにきたんじゃ!」
「エリート?」
「お前ら腹立つんじゃ。どいつもこいつも幸せそうな面しやがって、腹立ってしょーない。お前らの全部ぶっ壊したる!皆殺しにしたる!」
「オレらが幸せやと?」
「そうじゃ、むかつくんじゃ!オレばっかりこんな目にあって、お前らはのうのうとしとるのを許せるか!全員まとめて殺したる」
「あほか。幸せな奴なんかおらんわ」
「あ?何をいうとんじゃ。涼しい部屋でのうのうとしやがって」
「お前からはそう見えるだけや。幸せな奴なんか誰一人おらんわ。みんなみんな何かしら背負いたくないもん背負って生きとんねん。お前が思うような幸せを持っとる奴なんか誰一人おらんわ」
「うそつけ!見たらわかるんじゃ!」
「そう見えるだけや。霧や雲と同じや。そこにあるように見えるだけで、ホンマはないんや。幸せなんか」
「なんでや?へらへらして飲み歩いて、金もいっぱい持っとるんやろ?ええ家に住んどるんやろ?幸せやないわけない」
「それやったらお前かって、食うもんに困ってないやろ?ボロやない服を着て、靴も履いとる。五体満足やし、道歩いとって死ぬようなこともない。どっかの紛争地域の人からみたら、お前は十分幸せに見えるんやぞ?でもちゃうやろ?お前は幸せなんかやないやろ?同じや。お前から、幸せそうに見えても、本人は何も幸せなんかやないんや」
「嘘つけ!信じられるか!」
「人は幸せになんかなったりせーへん。そういうもんや。絶対に何かを悩んどるや。いっつも。美人な嫁もらったって飯のまずさに悩んどるかもしれん。飲んでへべれけになっとっても実はペット亡くした直後かもしれん。子供との関係がうまくいってないかもしれん。あるいは、もっと違う何かを求めとるかもしれん。人は幸せになったりせーへんのや。お前が幸せじゃないように、みんなも幸せじゃない。そんでもって、お前がさほど不幸でもないように、みんなもさほど不幸でもない。そんだけや」
男はくちびるをかみしめて、反論の言葉を探しているようだ。
「じゃあどないしたらええんや!オレはどうすればええんや!」
「楽しめばええんや。なんでも楽しめばええ。道で転んだら笑い話にすればええ。まずいラーメンくったら不味いなーって笑いながら食えばええ。車に轢かれたら入院生活や訴訟を楽しめばええ。病気になったら健康だった日々をなつかしめばええ。全部楽しめばええんや」
「できるか!そんなこと」
「できる。やってみろ」
「じゃあ、お前ら殺すのを楽しんだる!」
オレはじっと男の目を見つめて答える。
「じゃあ、はよやれや」
「なんやと?」
「はよ刺せや。はよ楽しんでみせろ。お前が人殺しを楽しめる奴ならとっくにオレのことを刺しとるやろ」
「やったるわ!」
「おう、やれや」
男は戸惑っている。
「なんでや?ホンマに刺すぞ!」
「何でオレがお前の前に立っとると思う?普通は立たんやろ?他の奴を見ろ。周りを囲っとるだけや」
男は社員に目を移してから、またオレを見つめる。
「別に死んでもええ思っとるからや。お前に刺されて死んでも別にええと思っとるんや。せやけど自殺する気はない。オレの親は二人とも生きとるからな。自殺とかはしたくない。でも刺し殺されたっていうたら親も納得してくれるやろ?」
オレは男にもう一歩近づく。
「はよ、刺せや」
「あほちゃうんけ?お前」
「オレは何も持ってないんや。失ったらあかんもんもない。オレが死んで困る人もおらん。悲しんでくれる人はちょっとはおるかもしらんけど、困る人はおらん。だからええんや、死んでも」
「お前おかしいぞ」
「何がや?何がおかしい思うんや?」
「お前はオレと違うやろ?オレと違っていろんなもん持っとるやろ?ええ会社に勤めて、給料もいっぱいもらって、ええとこ住んどるんやろ?何も持ってないわけないやろーが!」
「あほか、お前は。」
オレは自分で言いながらどんどん悲しい気持ちになった。オレはこいつと同じだ。ただ違うところは、それに気付いているか気づいていないかの一点だけや。
「お前も分かっとるやろ?大切なもんは自分でつくらんとあかんのや。天から降ってくるもんやない。自分がそれを大切にするから、それが大切なもんになるんや。オレはそれをせーへんかった。だから今のオレには何もない」
男は黙って聞いていた。オレに向かって突き立てられていたナイフはいつの間にか下ろされていた。
「お前にもないんやろ?やからそんなことしとる」
「そうじゃ!でもオレのせいやない。オレがお前らみたいやったら絶対こうはなってない!」
男は叫ぶ。それはオレの叫びでもあった。オレは自分の心に言い聞かすように話す。
「変わらんよ。絶対に変わらん。もしお前がこっちに立っても、何も変わらん。」
オレは力をこめて言う。
「いまかって、探せば見つかるはずやろ?その辺の野良猫でもええ。亀でもええ。なんかしら見つけてきて、そいつを大切にしたらええんや。毎日毎日大切にすれば、いつしかそいつらが、お前にとって大切なもんになるんや。どんな状況でも探せば見つかるはずや。でも、お前はそれをせーへんかった。だから今、何も持ってないんや。そんな奴が、少々立場が変わったところで、何も見つけられへん。探さん奴には大切なもんなんか手に入らんわ」
男は黙って聞いていた。反論の意図は感じられなかった。男は自分と対話しているようだった。
「もう一回いうぞ」
オレは言葉を続ける。
「今すぐ逃げろ。そんでもってなんか探せや。大切にできそうなもんをよ」
オレは軽い感じで言った。
「そしたらさ。幸せになれるかは知らんけど、そんなことはできんようになるわ」
男はうつむいたまましばらく黙っていた。そして、右手からナイフを離した。ナイフが床に落ちる。
「早く逃げろ」
オレは繰り返していった。
「もういいよ」
男がようやく口を開いた。
「もういい。逃げたってどうせ捕まるさ」
オレは男の言葉を待つ。
「でも、やっぱり」
男はオレに背を向けて、扉の方に向かって、ゆっくり歩き始めた。背中越しにオレに言う。
「捕まる前にラーメン食ってくるわ」
終わり