激流

文字数 2,313文字

この世界には情報が多すぎる。

目を開いた瞬間に、長年愛用している机が目の中に飛び込んでくる。その机の上には、私が30分ほど前に、家から徒歩5分の場所にある八幡駅から歩いて30秒ほどの「ナカムラ」という本屋の店頭の棚から取った雑誌「ゴウドル」が置いてあった。そういえばこの雑誌の隣には親友の藤川の愛読書である「ノノ」が置いてあった気がする。彼は毎週毎週食い入るようにその本を読んでいるが、あれほど人の関心を引く雑誌というのは、一見の価値があるのかもしれない。今度見かけたら少し立ち読みをしてみようか。あぁ、そうだ、そういえば、あの店には私の愛読書である「春吟醸」が置いてあった気がする。あれは本当に素晴らしい本だ。はじめてあの本を開いたとき、私はあまりの魅力に目を離すことができなくなり、呼吸を忘れて、いや、呼吸はしていたわけだが、まぁ一息に読んでしまったのだ。もはやあの本は一字一句違わず暗唱できるほど、読み込んだものだ。そら、「2029年3月25日、いつもと変わらぬ面々とのいつもと変わらぬ…」





あぁだめだ!だめだ!

このままでは私は流れ込んでくる情報によって全身を犯され、一つの知的生命体としての尊厳を奪われてしまう。いけない。いけない。こうなってはもう最終手段だ。この目を潰すことによって、情報の流入を阻止しよう。台所にナイフがあったはずだ。机から立ち上がって振り向く、すると私の目の端に向けて、小学生の頃から使っているクッションが流れ込んできた。あぁ、そういえばこれは昔秋頃に母親にねだって買ってもらったものだったな。今となってはもうなぜこんなものが欲しかったのかわからないが、あの当時は異様なまでに魅力的に感じられたのだ。それは

あぁうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!

一刻も早くこの目の穴を潰さねば!私は早足で、ナイフの下に向かう。その道中にも、さまざまな情報が穴の中に流れこんできて、体の中をめちゃくちゃにかき回す。苦しい。早く穴を塞がねば。足の回転を速めれば速めるほど、景色は次々に流れ、流れ込んでくる情報も増えていく。急げ。急ぐんだ。私が人としての形を保っているうちに。

命からがら台所にたどり着き、ナイフがあるはずの棚を開く。しまった。もう遅い。棚を開いた瞬間、さまざまな調理器具が目の中に飛び込んできた。これ以上ないと思えるほど荒れ狂っていた私の中は。さらにさらにかき乱される。情報が溢れる。意識が遠くなる。嫌だ。もう嫌だ。やめてくれ。これ以上、これ以上私の世界をかき乱すな。

遠くに離れていく意識をなんとか引きずり戻して、ナイフに手を伸ばす。掴む。そのまま切っ先を自分の方に向けて、衝動のままに私の顔についている穴をほじくり返した。痛い。痛い。だが、これでついに、私は情報から解放されたのだ。もうこれ以上、私の中に新しい情報が入ってくることはない。私はようやく、これまでの人生で取り入れてきた情報たちに真摯に向き合い、彼ら一つ一つとゆっくり対話をすることができるのだ。ごめんよみんな。今まで蔑ろにしてきた分、たくさんたくさん語り合おうな。大丈夫。これから時間はたっぷりあるんだから。



ふと、新たな情報が流れ込んできた。


水が落ちる音…?なんだ?蛇口を開きっぱなしにしていたのか…?違う、先ほど目の穴に飛び込んできた情報によれば、蛇口はしっかり閉じていた。これは、…そうか!血の音だ!私の目の穴だった場所から血が滴り落ちているのだ!いつまで経っても音は鳴り止まない。かなりの血が溢れ出ているようだ。よくここまで体の中に溜め込んでいたものだな。人間の体に含まれる血の量は大体5リットルと言うが、今私の体からは何リットルの血が出ているのだろうか。…あぁいけない。だめだ。耳からも情報が、音が流れ込んでいる!私は手にしていたナイフを先ほどとは違う穴に突き立てた。よし!今度こそ!おや、なんだ?口の中に鉄の味がする。あぁそうか、目の穴で溢れた血が口の中に広がっているのだ。目と口が人体の中で繋がっていることは知っていたが、体感として感じたことはあまりなかったので、新鮮な体験だ。仕方がない。私は口の穴に向けて、ナイフを突き立てる。おや、なぜだ?体中に不快感が染み込んでくる。あぁそうか、全身に血がまとわりついているからだ。ならばもう皮膚を切り落とすしかない。私は全身の毛の穴を、ナイフで削ぎ落とした。痛い。痛い。痛い。痛い。しかし、この痛みを乗り越えれば、もう二度と情報に犯されることはなくなるのだ。そのことだけを胸に、あらゆる感覚を奪い続けた結果、私はついにあらゆる情報を遮断できた。ついに、ついに私は穏やかな世界に辿り着いたのだ!なんて喜ばしいことだ!あまりにうれしくてつい踊りたくなってしまうよ。全ての感覚はもうないので、自分の体が踊ってるかどうかなど、わかるはずもないがね。ははは。


…ん?なんだろう。穴という穴を塞いだのに、なぜか全身に自分の体のものではない何かが注ぎ込まれる。なんだ。振動?まるで地鳴りのようだ。うるさい。うるさい?耳の穴はもうないはずなのに。私に情報を注ぎ込む穴など、もうどこにもないはずなのに。

あらゆる感覚を遮断しても、また新しい情報が私の体の内側から溢れてくる。そうか、もはや私は現世にいる限り、新たな情報によって引き起こされる体の中の氾濫を止めることはできないのだろう。なればこそ、私は今のこの体と決別し、新たな世界の中で、これまでに出会った情報と踊りながら生きていくのだ。この思考が、情報が、私の中を犯す最後のものになることを祈りながら、私は、新たな世界への一歩を踏み出した。
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