第1話

文字数 49,539文字

旅人からのメッセージ(東日本大震災編)
「オリンピック聖火リレー」
はじめに
昨年、コロナ感染が世界中で広がり、東京オリンピックの延期が決定しました。その結果、東日本大震災から十年が過ぎた二〇二一年三月二十五日から、福島県内をスタートに「オリンピック聖火リレー」が行われることになりました。昨年の三月に東松島を訪れ、「トーキョー2020オリンピックトーチラリー」と書かれた機体を撮影した私は、この「オリンピック聖火リレー」を撮影するために福島を訪れました。現在、「オリンピック聖火リレー」は予定通り行われていますが、日本国内は「コロナ一色」です。開催予定まで三ヶ月を切ってしまった日本では、「オリンピック中止」の声が広がり始めています。私は私なりに被災地の撮影を続けていたので、私は「聖火リレー」の撮影が終えると被災地を訪れました。                       必ず命日である三月十一日に訪れるようにしていましたが、経済的に苦しくなってきた私は、「聖火リレー」をメインにして撮影を行うことにしました。今回は、二〇二一年三月二十四日(水)~四月七日(水)までの記録と、二つの記録を添えました。

○その一「オリンピック聖火台」
□二〇一五年六月十九日(金)◆宮城県石巻市
ニュースで、「オリンピック聖火台」が石巻運動公園に設置されると流れていたので、道の駅から近いので、行ってみた。ブルーシートに包まれた聖火台が、設置されていた。私がカメラを持って聖火台をうろうろしていると
「お披露目は、六月二十七日ですよ・・・。残念ながら、このブルーシートを外すのは二十七日です。今日は、外しません。」
と、ヘルメットを頭に付けた、現場監督のような人から言われてしまった。
とりあえず私は、ブルーシートに包まれたオリンピック聖火台を撮影した。
☆今回のオリンピックは、「復興オリンピック」ということで、聖火台を石巻に持ってき たのだと思いますが・・・。私から見れば、とても「復興オリンピック」といえない気 がします。心から喜べるオリンピックが、出来るのでしょうか?

○その二「トーキョー2020オリンピックトーチラリー」
■二〇二〇年三月二十日(金)◆東北道から東松島市
 昨夜仕事が終わると準備をして、午後八時に自宅を出発した。やはり仕事をしてからの車の運転は辛い。東北道を走行し、白河を過ぎると眠くなってきたので仮眠を取った。午後十一時過ぎに再び出発した。最終的には「安達太良SA」で車中泊をした。他県のナンバーが多かった。考えてみたら明日から三連休だった。風が強く、車体が揺れていた。
 今朝、私は東松島での駐車場のことが心配だったので午前五時過ぎに目が覚めてしまった。東北道は昨夜から風が強く最高速が五十㎞の制限速度規制になっていたが、私は先を急いだ。朝食は、パーキングで購入したサンドイッチを食べる。東部道路から三陸道まで渋滞はなかったが、混んでいた。矢本ICを降りると、渋滞が待っていた。自転車と徒歩の人が車の脇を通り過ぎるのを見て、私は場合によっては自転車で移動することを考えた。
セブンイレブンの所までたどり着くと、取りあえず撮影場所に近い場所へと向かった。警備の人や警察官が多かったので「駐車場はありますか?」と尋ねると、先にあることが分かったのでそのまま走行する。右側に駐車場はあった。渋滞のことを考えると、駐車場はそれほど混んでいなかった。カメラを持っている人に尋ねると、此処が撮影場所に近い駐車場と言うことだった。
 まだ午前九時前なので、取りあえず車の中で今後の予定を考える。午前十一時を撮影時間と考えると、三時間の余裕があったので、車から自転車を取り出すと偵察に向かう。土手の所に人が多かったので、取りあえず土手に向かった。近くに駐車場らしき空き地があったので、車をこちらに移動させることを考えていたら「予約制の有料駐車場」とわかったので諦める。
 何人かのカメラマンから情報を聞き出すと、松島基地の近くのフェンスに車を止めることが得策と判断し、慌てて車を移動させる。先ほどまでスペースがあった駐車場も一時間ほどで満車になっていた。今ならまだフェンス脇に車を止めることが可能なので、慌てて私移動をした。
 車を移動しても、まだ午前十時前だった。午前十時過ぎには、私の止めてあるハイエースの周りも人であふれかえっていた。車よりも、人が多かった。理由は簡単で、風が強いのでハイエースを風よけに利用して待機する人が多くなってきたのだった。
 車の中で待っていると、午前九時半に雰囲気が変化した。専用機が姿を現したのだった。私は慌ててルーフキャリアに駆け上がり、シャッターを切った。その時慌てていたので、レンズフードを基地内に落としてしまった。だが、専用機の撮影には成功した。赤と白の機体には、「トーキョー2020オリンピックトーチラリー」と文字が刻まれていた。
最終的には、二時間以上車内で待機して、午前十一時過ぎに撮影をすることが出来た。最初の青い機体には、数字の「1」が尾翼に刻まれていた。子ども達の「かっこいいー」という歓声が聞こえた。全部で十二機の機体が青空を飛んだ。この強風では五輪マークはやらないと思っていたが、五輪マークを描いた。ただ風が強かったので、あっという間に消し飛んでしまった。私がこれで終わりと思った次の瞬間、五色のラインが青空に描かれた。目の前で描かれて綺麗な五色のラインはすぐには消えずに残った。
 ブルーインパルスが次々と着陸すると、私はすぐにハイエースを移動させた。大渋滞になる前にこの場所を離れなければと思ったからだ。農道から舗装路に出ると、混んでいた。混んではいたが、大渋滞でまったく動かないというわけではなかった。来賓の車を優先的に走行させていたので、混んでいたようだった。
 大曲地区から門脇地区に向かった。大曲地区も、東松島基地から出てくる車で渋滞していた。建設中だった橋は完成していて通ることが出来た。橋を渡ると取りあえず、いつものファミマで遅い昼食を取った。駐車場で食べていると、テレビ局のロケバスが二台ほど入ってきた。
 門脇地区は人で混んでいた。駐車場を探して、徒歩で人だかりの所へと向かった。途中「復興の火は、午後五時から一般公開」と書かれた看板が立っていた。地元の人に尋ねると、セレモニーがあると言うことだった。セレモニーの場所には、大きなドーム型の建物が建っていた。警備が厳重だったので近づくことは出来なかった。

○その三「オリンピック聖火リレー(一)」
■二〇二〇年三月二十一日(土)福島県新地町
一部嵩上げが終了した県道三十八号線を走行して、私は旧中浜小学校へと向かった。旧中浜小学校に到着すると、前回建設中だった建物は完成していたが、中にはいることは出来なかった。出入り口には、「開館準備中」の看板だけが見えた。
 国道六号線を走行して新地駅前に向かうと、駅前のホテルに「つるしの湯」ができていた。更に駅前から嵩上げされた新しい県道三十八号線に向かうと、
「交通規制のお知らせ 東京オリンピック聖火リレーのため、三月二十七日(金)七時から十一時まで通行止め」と書かれた立て看板が右側に見えた。新しい県道三十八号線に出ると、「釣り師公園前十字路」には、「ランナバウト」が完成していた。
☆自宅に到着すると、「オリンピック延期」のニュースが流れていました。聖火リレーを 撮影するつもりでいた私は、門脇で「復興の火」を撮影しなかったことを後悔してしま いました。

○その四「オリンピック聖火リレー(二)」
■二〇二一年三月二十四日(水)◆常磐自動車道
 午後七時過ぎ出発。高速道を走行し、中郷SAで車中泊する。車中泊はいなかった。

■二〇二一年三月二十五日(木)◆福島県楢葉町
 渋滞を考えて、午前七時前に出発した。関本PAにコンビニが出来ていた。「広野IC」で降りるつもりが、「四倉IC」から渋滞していたので「四倉IC」で降りる。国道六号線は流れていた。
 道の駅「ならは」で白バイ隊員に聖火リレーについて尋ねる。Jビレッヂは諦めて楢葉に向かう。午前八時半、駐車場が空いていたので車を止めて情報収集する。撮影ポイントを捜していると、三密防止のためなのか×の印が付いていた。スタッフに
「すいません。この×印は三密防止のために立つ位置を示した標ですか?」
と質問すると、
「はい。そうです。」
と、答えてくれた。
移動しないで車のルーフキャリアから撮影することも念頭に置いて、車を移動する。何度か車を移動させ、決定すると再び撮影ポイントを捜す。桜が咲いていたので、桜とランナーを一緒に撮影することを考える。国道六号線での撮影場所を探していると、午前九時過ぎに、東京オリンピックに反対する宣伝カー?(軽のワンボックスで、トレーラーを引いていた。車体には「カウ・ゴジラ」と書かれており、トレーラーには牛の模型が積まれていた。)
 午前十時前に、聖火リレーがやってきた。思ったほどの混雑はなかった。午前十時十分に無事終了する。混雑する前に、車を駐車場から出す。国道六号線を走行して、富岡駅に向かう。富岡一中の桜は、すでに花が咲いていた。富岡駅前は、相変わらず人を見かけることはなかった。線路に架かる陸橋から撮影するつもりで向かったが、完成はしていたが、まだ通行止めだった。
 午前十一時前に双葉駅に到着。マスコミ関係も少なく、ほとんど人影はなかった。新しく建てられた駅舎は、思ったより大きかった。ホームを撮影していると、黒い土嚢が積まれていた。高く積まれた土嚢の前には、「さあ、双葉町の未来をはじめよう。住宅用地建設中」と書かれた大きな看板が見えた。
再び駅前を撮影していると、「祝 聖火リレーモニュメント除幕式」と書かれた白い立て看板が見えた。私は作業をしていたスタッフの人に
「すいません。これから除幕式が行われるのですか?」
と、質問した。スタッフのリーダーらしき人が
「聖火リレーが終わった後に、除幕式が行われます。」
と、答えてくれた。駅の左側には「線量計貸し出しステーション(放射線測定器)」が有り、駅前の建物には破損している建物が何棟かあった。(津波の影響は考えられないが、地震で倒れたのかも知れない?)
私は双葉駅前でなく、道の駅「なみえ」で撮影を考えていたので再び国道六号線を北上する。途中、午前十一時過ぎに請戸の慰霊碑を訪れるが「宇宙桜」は咲いていなかった。
午前十一時半、道の駅「なみえ」に到着する。前回道の駅を撮影しているが、今回は「三月二十日、道の駅なみえ、グランドオープン」と垂れ幕が下げられていた。前回すでにオープンしていたと思っていたが、商業施設はオープンしていなかったようだ。考えてみたら、あのときは道の駅のトイレを使用したぐらいだった。聖火リレー関係の掲示物が一枚もなかったのが不思議だった?
道の駅で午後三時まで時間をつぶすことは難しいと考え、コンビニで昼食を食べると道の駅「みなみそうま」へと向かう。午後一時半、道の駅「みなみそうま」に車を置いてバイクで萱浜を訪れる。(正確には、近くの仮設住宅跡地の駐車場)残念ながら、菜の花は咲いていなかった。海岸沿いの県道二六〇号線を走行するが、右側にあった慰霊碑は見あたらなかった。
県道左側の海沿いに石碑が見えたので、立ち寄る。正直、車で訪れるのは難しい場所だったが、セロー(ヤマハのオートバイ)では簡単に立ち寄ることが出来た。
石碑には、文字が刻まれていた。
●御 製
  生ひ立ち之防災林に育てよと
くろまつを植う福島の地に
 平成三十年六月十日、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ「育てよう 希望の森を いの ちの森を」をテーマに、東日本大震災の被災地として初めての大会となる第六十九回全 国植樹祭を開催しました。
ここ南相馬市の海岸防災林整備地を会場に多くの参加者が集い、天皇皇后両陛下は県 民の生命や生活を守る、クロマツ、アカマツをはじめとする苗木をお手植えになりまし た。
この御製は、震災で大きな被害を受けた地域に海岸防災林を育てるため、クロマツの 苗木をお手植えになったときのことを詠まれたものです。
本大会の開催により、国内外から頂いたご支援に対する、感謝の気持ち、復興に向け 力強く歩み続ける本県の姿を広く発信することができました。
全国植樹祭の意義を永く後世に伝えるとともに、豊かな森林を守り育て、次世代へ引 き継いでいくことを誓い、ここに御製碑を建立します。
                   平成三十一年三月吉日  福島県知事
 県道七十四号線を海沿いに走行していると、午後二時前、右側に金沢行政区の慰霊碑が見えた。何度か撮影しているが周りの変化が分かるように一枚撮影する。鹿島地区を過ぎると、県道沿いの十字路を右折して、海岸の測道を走る。海岸から「鹿島の一本松」方面を見ると、風力発電が見えた。風力発電と植樹された松を撮影すると、「八沢地区慰霊碑」
を訪れる。この場所も何度か撮影しているが、撮影する。隣に建てられた「山田神社」も撮影する。奥にある石碑から県道を撮影していると、県道七十四号線が行き止まりになって、植林地帯になっていた。
県道は直ぐに見つかり、再び県道七十四号線を北上する。今度は、右側に「磯部の慰霊碑」が見えてきた。一旦通過したが、再び戻って慰霊碑を訪れる。訪れると、駐車場が広くなっていた。慰霊碑は柵で囲われ、整備されていた。
 再び県道を北上するが、途中から県道を右折して「松川浦スポーツセンター」へと向かう。一度訪れただけだったので、今回は必ず訪れなければならないと思っていた。到着すると、満開の桜が出迎えてくれた。漁港には、桜と「丹下佐膳の碑」があった。丹下佐膳と言う名前が、妙に懐かしかった。(白黒テレビで小さい頃見ていたから知っている。)
松川浦の美しい景色を撮影すると、国道六号線を走行して道の駅へと戻る。明日のことを考えてバイクは道の駅に止める。風呂の準備をして徒歩で温泉に向かうと、近くのセブンが閉店していた。夕食は、道の駅で残ったおにぎり二個購入して、持参したカップラーメンで済ませる。
★道の駅「みなみそうま」で車中泊。風呂五百円車中泊は地元ナンバーの乗用車のみ

■二〇二一年三月二十六日(金)◆福島県飯舘村
 道の駅に車を置いて、バイクで飯館村へと向かう。飯舘村交流センター「ふれ愛館」には、午前八時半に到着した。人は少なかった。時間に余裕があったので、ゴールの道の駅へと向かう。道の駅にバイクを置いて、徒歩で撮影ポイントを探す。風が強く寒かったので雨具を着込む。
 ゴール地点を確認するため、近くにいたスタッフに                
「ここがゴールですか?」
と、尋ねると
「ええ、そうです。是非、良い写真を撮って下さい。」
と言われ、その後スタッフと長話になってしまった。私はスタッフの人に強調して「今回のオリンピックは立場によってかなりの温度差があり、オリンピック開催を疑問に思っている人が多いことと、地元の参加が少ないこと。」を話した。
 最終的に私が選んだ撮影場所は、閉店したままのコメリの前だった。ランナーが見えてくると、私はなるべく田畑の様子が分かるように撮影した。道の駅に近くなると、今度は閉校した高校が分かるように撮影した。道の駅に聖火ランナーが入り、終了したのは午前十時前だった。
 私はバイクに戻ると、飯舘村役場を訪れた。新しい街並みを撮影すると、川内村へと向かう。県道十二号線を走行していると、左側にあったローソンが閉店していた。川俣町から国道三四九号線を走行する。国道三四九号線は、拡張工事で片側通行が多かった。桜を求めて何度も走行していた国道だったので、拡張工事は私にとっては有り難かった。
 国道から県道五十号線にでると、雨がぱらついてきた。引き返すことも考えたが、そのまま走行した。川内村で小雨状態になり、直ぐにコンビニへと駆け込む。寒かったので、味噌ラーメンを食べる。このコンビニは商業施設が併設されているので、私は迷わずに食堂に駆け込んだ。寒かったので、味噌ラーメンはうまかった。             県道三十六号線を走行して、国道六号線へと向かう。「夜ノ森」は、桜が満開だった。撮影したかったが、道に迷ってしまい余裕がなかった。道を尋ねながら、どうにか国道六号線に出ることができた。双葉駅に到着したのは、午後一時半を過ぎてからだった。昨日除幕式が終わったので、撮影をする。
●「東京二〇二〇オリンピック聖火リレー記念碑」
  新型コロナウィルス感染症の影響により延期となっていた東京二〇二〇聖火リレーが 二〇二一年三月二十五日双葉町で実施された。
「東日本大震災・原子力災害から全町避難が続く双葉町民の方々に笑顔を届け、双葉 町内の復興の現状を世界中に発信しよう」をコンセプトに三人の聖火ランナーがトーチ を掲げ、八人のサポートランナーと共に二〇二〇年三月に一部避難指示が解除された双 葉町駅前広場を走行した。
結成三十年以上の歴史を持つ、楢葉せんだん太鼓の奏でる、ふるさとの音とともに、 聖火リレーを盛り上げた。
           二〇二一年三月二十五日双葉町
道の駅「みなみそうま」に戻ると、車にバイクを積み込み温泉へと向かう。「風呂の日」で、二百五十円だった。風呂から出ると、道の駅「そうま」に向かう。コンビニで夕食を購入すると、道の駅に車中泊する。
★道の駅「そうま」で車中泊。トイレだけが新しかった。車中泊は地元ナンバー。

○その五「十年経った被災地を訪れて」
■二〇二一年三月二十七日(土)
 国道六号線を走行して、相馬港へと向かう。「原釜尾浜防災緑地公園」を訪れると、徒歩で撮影する。公園内には、クロマツが植樹されていた。又、遊具が設置された公園にもなっていた。
 県道三十八号線を走行して、梅の花が咲く「釣師浜緑地公園」を訪れる。更に県道を走行し、磯浜を訪れる。「仙台藩磯浜唐船番所跡」から、中浜小を撮影する。撮影していて見えたのは、植樹されたクロマツだけだった。再び県道を走行し、先ほど撮影した旧中浜小学校を訪れる。開園前だったので、中にはいることは出来なかった。
 再び県道を走行していると、右側に「旧山元自動車学校の慰霊碑」が見えた。県道三十八号線が嵩上げされたので、自動車学校の慰霊碑が分かりずらくなった。右折することが出来なかったので、最初に右折する場所があったところを右折して、旧県道三十八号線を走行して慰霊碑を訪れる。移設されていると思っていたが、慰霊碑はそのままの場所に設置されたままだった。
 再び県道三十八号線を北上すると、「鳥の海」を訪れる。嵩上げされた県道三十八号線は、浜吉田まで続いた。「わたり温泉」にできた新しい防潮堤から、「鳥の海」を撮影する。新しい公園が、次々と出来ていた。
 県道十号線を直ぐに外れ、新しくできた幹線道路を走行して閖上地区へと向かう。「広浦貞山橋」から、閖上地区を撮影する。貞山堀の新しい堤防を、広角レンズで撮影する。
この堤防は、かなり時間がかかって完成した気もするが?午前十時前、閖上の丘から閖上地区を撮影する。閖上桜は、つぼみだった。
慰霊碑を訪れると、新しい石碑が建っていたのに気が付いた。
●「皇太子同妃両殿下行啓記念碑 平成二十九年十一月一日 行啓」
 嵩上げされた県道十号線を走行して、荒浜へと向かう。午前十時過ぎ、荒浜で撮影をする。車を止めると、真っ先に「注意東日本大震災の発生以降『深沼海水浴場』は開設しておりません。ここで泳ぐのは危険です。海水浴はご遠慮下さい。」の看板が目に付いた。
 荒浜小前に新しくできた「避難の丘」から撮影をする。荒浜小の反対側を撮影すると、ビニルハウスが立ち並んでいた。望遠レンズで撮影すると、「フルーツパーク」という文字が見えた。「いちご」と「ぶどう」の絵が見えたので、山元町にあるような農園なのか?訪れて確認することが可能だったが、面倒なので辞めた?
 再び県道十号線を走行して、午前十時半過ぎに蒲生を訪れる。「なかの伝承の丘」前には、ダイハツの工場が広がっていた。(工場と言うより、車が並んでいた。)更に干潟を訪れると、「日本一低い『日和山(ひよりやま)』と言う看板が立っていた。
●「日和山」
日和山は標高三・〇m、平成二十六年(西暦二〇一四年)四月に国土地理院の調査に より、「日本一低い山」として広く知られるようになりました。
かつては、標高六・〇五m、南北に四十m、東西に二十mあり、海側の眺めが良く、 初日の出の名所として知られ、隣接する「蒲生干潟(蒲生干潟)」とともに野鳥観察や 遠足などに多くの方々が訪れました。毎年七月一日には日本一高い富士山の山開きに合 わせて「日和山の山開き」が行われるなど、地域に親しまれ、守られてきました。
その始まりは、明治四十二年に地元民を中心に築山された人工の山と言われており、 海を観察(日和見)することと、海側からの目印にすることを目的に築かれたとされて いますが、他にも寛文年間(江戸時代)に御舟入堀(おふないりぼり、今の貞山運河) を開削した際に土砂が盛られたとか、大正時代に養魚場を開設する際に土砂が盛られた など諸説あります。
平成三年(西暦一九九七年)に国土地理院の調査において「日本一低い山」となりま したが、その後、平成九年(西暦一九九七年)に天保山(大阪市)に一位の座を譲りま した。
しかし、平成二十三年(西暦二〇一一年)三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地 震(東日本大震災)による地盤沈下や津波による浸食などの影響を受けて、再び「日本 一低い山」になりました。震災から十年が過ぎ、多くの方々が再び訪れるようになって きましたが、これからは「震災の爪痕を後世に伝える」という大切な役割も果たす山で もあります。
       令和三年三月 なかの伝承の丘保存会一同
 防潮堤が完成し、狭くなった干潟で野鳥を撮影するつもりでいたが、シギ・チドリが見あたらなかったので撮影は諦める。「蒲生望郷桜」が植樹されていたが、桜は咲いていなかった。干潟から「なかの伝承の丘」を撮影し、七里ヶ浜へと向かう。
 午前十一時半、七里ヶ浜を訪れる。「菖蒲田浜」の防潮堤が完成していた。完成した防潮堤を撮影していると、海岸に旗が見えた?吉田浜「七のや」を訪れると、左側にトイレと観光交流センターができていた。こちらも、防潮堤が完成していた。
 松島から県道二十七号線を走行して、午後一時過ぎに野蒜を訪れる。旧野蒜小横の道が広がって県道まで繋がっていた。旧野蒜駅に向かうと、「東松島市震災復興伝承館」とブルーの文字で大きく書かれ、ファミマはなくなっていた。伝承館にはいると
「すいません。旧野蒜駅の撮影を続けているのですが、震災前は『野蒜地域交流センター』でしたよね?震災後に『震災復興伝承館』になった記憶があるのですが?」
と、質問すると
「はい、そうです。現在は『東松島震災復興伝承館』となっています。」
と、答えてくれた。
私は伝承館を出ると、「東松島市震災復興伝承館」とブルーの文字で大きく書かれている文字が分かるように、改めて建物を撮影した。撮影が終了すると、舗装された線路跡を歩いた。立て看板には、「もみじ回廊、百本桜」と書かれていた。
 国道四十五号線から県道二四七号線を走行して、大曲地区を訪れる。北上運河に架かる橋には、小さな鯉のぼりが下げられていた。私がいつものように鯉のぼりを撮影していると、「みそら工業団地」と書かれたブルーインパレスの大きな看板が目に付いた。橋を渡ると、左側にはパークゴルフ場が広がっていた。私は、鯉のぼりと看板を一緒に撮影した。
 県道二四○号線を走行し、私は午後二時過ぎに門脇を訪れた。「がんばろう石巻」には、スイセンの花が咲いていた。前回訪れたときにはいることが出来なかった「津波伝承館」の近くに、「石巻市慰霊碑」ができていた。私が慰霊碑を撮影していると、献花に訪れる人が何人かいた。私はなるべく人が入らないように撮影をしていたのだが、何故か慰霊碑の完成した日付が書かれていなかった。私は献花に訪れた人に            
「すいません。地元の方ですか?」                        
と、尋ねた。直ぐに
「はい。」
と、返事があった。尽かさず、私は
「この慰霊碑はいつ完成したのですか?普通日付が書いてあるのですが、何処を見ても慰霊碑に日付が書いていないんです。」
と、尋ねた。一瞬困ったような顔をしたが
「確か、今年の三月だったと思います。たぶん、命日の三月十一日に合わせて作られたのだと思いますよ。」
と、答えた。私はそれを聞き
「すいません。突然変な質問をしてしまいまして、後で私が市役所に苦情の電話を入れて起きますから・・・。」
と言うと、答えてくれた人は笑っていた。                      「津波伝承館」は、まだオープンしていなかった。オープンしていなかったと言うより、敷地内に入る事が出来なかった。門脇小は改装中だったが、左側に「MBT門脇」がオープンしていた。入ろうとしたが、有料だったので諦めた。再び駐車場に戻ろうとしたとき、偶然「初代がんばろう!石巻看板」を見つけた。地面に書かれた文字は、残っていた。  文字を見ていたら、ここでテントを張りながら活動していた人たちを思い出してしまった。門脇地区の整備が本格化すると、様々な物が撤去されて暫くこの看板があった敷地内にはいることが出来なかった。そして、入れないまま看板は移動された。過程を知っている者と、完成した場所だけを見た人では感じるものも違ってくるように思われた。
国道三九八号線を走行して道の駅に向かっていると、旧北上川に架かる橋が完成して通行することが出来た。偶然信号機が赤になり、橋の上で停車することになった。私は尽かさず、窓からカメラを出して橋を撮影した。新しい橋の名は、「内海橋」と書かれていた。
 道の駅「上品の郷」は、土曜日なのにキャンパーも人も少なかった。いつもは混雑する温泉も空いていた。驚いたことに、レストランはコロナで閉店してしまった。改装して、フードコートが出来るようだが?
★道の駅「上品の郷」に、車中泊する。

□二〇二一年三月二十八日(日)
 早朝、私は午前八時前に大川小へと向かった。震災遺構である大川小学校は、まだオープンしていなかった?前回駐車場に設置されていた献花台が、まだ残されていた。徒歩で敷地内にはいると、パイプで敷地内に入らないで見学できるように工夫がされていた。敷地内には、ブルーのシートで覆われた物がまだ多くあった。たぶん、ブルーシートで覆われた石碑は、新たに作られた物かも知れないと私は思った。何故なら、シートで覆われていない石碑は以前から敷地内に設置されていた物だからだ。              大川小を出ると、私は奥に移設された石碑を訪れた。今回は、撮影しているときに「子まもり」の土台の後ろ側に文字が書かれていることに気が付いた。
  「二〇一一年三月十一日、東日本大震災がこの地を襲いました。巨大津波によって、 大川小学校児童七十四名、教職員十名の尊い命が失われました。御魂の安らかなご冥福 を祈り、茲に鎮魂の碑を建立します。二〇一一年十月大川小学校遺族一同」
と、書かれていた。                              ☆偶然にも、日付は私が大川小学校を訪れたときに敷地内に入れなかったので、国道から 校舎を撮影した二〇一一年十月でした。
 国道三七八号線を走行して南三陸町へと向かう。旧相川小学校跡地の上には、陸橋が出来ていた。新しい国道の陸橋か?再び国道を走行すると、午前九時前に私は旧戸倉中学校(公民館)を訪れた。
敷地内の海が見える場所に、モニュメントが完成していた。円形のモニュメントには、
「三、一一 未来へつなぐ命のバトン」と、文字が刻まれていた。モニュメントの右側には、「東日本大震災の概況」と書かれた石碑が設置されていた。石碑には、震災直後の戸倉小学校と戸倉公民館の写真も添えられていた。
中央には桜が植樹され、植樹された桜についての文言が書かれていた。
●「きぼうの桜」
あなたにお願いがあります
この桜に祈ってください
すべての生きとして生けるものが
美しいこの星の上で 平安に暮らしていけることを
二〇〇八年十一月、日本各地の千年級の桜の種が、少年少女らの手で集められ、NA SAスペースシャトル・エンデバー号に乗って国際宇宙ステーション(日本実験棟きぼ う)に届けられました。種=花の命は地球を四一〇〇周周り、二〇〇九年七月、若田光 一宇宙飛行士とともに地上に帰還しました。
高知県仁淀川町で五百年の樹齢を誇る「ひょうたん桜」の種も、約二百粒が宇宙飛行 しましたが、帰還後に無事発芽し「宇宙桜」として育ったのはわずか四粒であった。そ の宇宙桜から接ぎ木により増殖した稀少な宇宙桜の若木が、仁淀町のご厚意によりこの たび贈呈されました。
私達は、東日本大震災の津波調達地点にこの偉大な桜を植え、記憶と教訓を子孫達に 受け継いでいきます。そして、貴重な苗を分けて下さった仁淀町に敬意を表しつつ、こ のご縁を三十一世紀に向けた未来への遺産といたします。
                   令和三年二月
☆私はこの文言を読み、浪江町請戸地区に植樹された「宇宙桜」を思い出しました。「ひ ょうたん桜」は撮影したことがあるので、私にとっても身近に感じる桜でもありました。
旧戸倉中学校を撮影していると、私は校舎の左側にある石碑に気が付いた。
●「絆は永遠に」 戸倉中学校 二〇一四年三月十五日
現在戸倉中学校は、戸倉公民館として残されていた。私が訪れた日は管理人がいたので、
中にはいることが出来た。校舎外に出ると、校舎右側に掛けられている時計が二時四十九分で止まっていた。
再び国道三九八号線を走行して南三陸町へ向かっていると、国道沿いに立てられたBRT陸前戸倉駅を撮影することが出来た。被災したときのトンネル周辺の瓦礫は撤去され舗装されていた。
 午前九時過ぎ、南三陸町に到着する。私は、「なかはし」を渡って「南三陸町震災復興祈念公園」を訪れた。空は曇っていたが、「木」を使用したこの橋は美しかった。橋を渡ると、左下に「旧防災対策庁舎」が見えた。今まで下から撮影していただけに、上から撮影し、階段を下って見る行為自体が不思議に感じられた。
下ると、裏から見て右側に説明板が設置されていた。日付が「令和二年(二〇二〇年)九月」となっていた。今まで「防災対策庁舎」と読んでいたので、「旧南三陸町庁舎」と書かれた説明板にも違和感を感じてしまった。正面には、まだ「防災対策庁舎」と大きく横書きがされていた。そして、左側に献花台が設置されていた。正面が嵩上げされた壁になり、これもまた不思議な感じがした。
 旧志津川駅跡地を探す。跡地は、「南三陸町震災復興祈念公園」の駐車場前にきちんと残されていた。逆に、今まであったBRT志津川駅が無くなっていた。跡地は、運送会社になっていた。献花台が残っているかと捜したが、今まで命日に献花されていた場所が分からなくなってしまった。
 コメリの左側にセブンができ、「さんさん商店街」の駐車場にローソンができ、南三陸町にはコンビニが二店舗追加されたのに、何故か古い店舗もそのまま営業を続けていた?
国道四十五号線を北上して、歌津に向かう途中国道を右折して「清水浜駅」の確認をする。新しい「BRT清水浜駅」は、前の駅跡地から右側に移動して設置されていた。トンネルの出口の所だった。
 再び国道を北上すると、午前十時過ぎに歌津に到着する。訪れてみると、郵便局が完成していた。(営業はしていなかった。いつもの場所に、移動郵便局車が止まっていた。)以前から気になっていた鉄筋の建物を確認するために、何人かの人に尋ねる。最終的には、町役場と分かった。
 再び国道を北上すると、旧小泉大橋が撤去され新小泉大橋が開通していた。私は国道に車を止めて撮影したかったが、きっかけがつかめず橋を渡ってしまった。一旦通りすぎたが、国道を左折して旧国道四十五号線にはいる。右側にビニウルハウスが見えた。前々から知ってはいたが、今回ははっきりと「トマトの栽培をする会社」と分かった。建物には、「とまたん」と書かれていた。
旧国道は通行止めになっていたので、小泉小学校を訪れたときに撮影するのがベストと考えとりあえず撮影だけはした。
 再び国道を北上すると、左側に新しい道の駅「おおや」が見えた。トイレ休憩も兼ねて、駐車場にはいる。満車だったので仮駐車場に移動したが、こちらも満車だった。道の駅はは混雑していて、車を止めることが出来なかった。諦めて国道に出ると、そのまま国道を北上する。
三陸道を走行し、陸前高田で三陸道を下りる。「大船渡線陸前矢作駅」が気になっていたので、国道三四○号線から国道三四三号線を走行する。ここで手違いから国道を右折して、何故か陸前高田市立矢作小学校を訪れてしまった。とりあえず、校舎の撮影をして敷地内を出る。
 気仙川架かる鉄橋が崩落していたため、BRTの道路が一部作られていなかった。高台に出来た商業施設「アベッサ高田」を通過して、午後一時陸前高田駅舎を訪れる。追憶施設の右側に新しい建物が建設中だった。駅舎に駅員がいたので、私は
「すいません。前々から気になっていたんですが、BRTに陸前高田駅と書いてありますが、バス停なのに何故駅と書いてあるんですか?」
と、質問してしまった。親切にも駅員は、
「線路跡を使用しており、鉄道関係で運営しているので駅と書かせて貰いました。」
と、答えてくれた。私はこの回答で、今までの疑問が解決した。
 撮影していると、私は「やなせたかし画のモザイクタイル№2」を見つけた。令和二年三月と書かれ、カニと松の木が描かれていた。更に車で移動していると、陸前高田小学校跡地に市役所が完成していた。建物は完成していたが、まだ営業はしていないようだった。
 午後一時半過ぎに、大船渡「サン・アンドレス公園」を訪れる。綺麗になったが、石碑がなかった。閉鎖されて立ち入り禁止と思ってみたら、上に上がることが出来た。ちょっと不安だったが、上から大船度漁港周辺を撮影する。再び下におりて撮影をしていると、
「スペインのパロス・デ・ラ・フロンテーラ市との姉妹都市締結を記念したビスカイノ のレリーフ像とモニュメント」と書かれた説明文があった。
●「ビスカイノのレリーフ像とモニュメント」
 サン・アンドレス公園は一九九二年に岩手県より作られましたが、その際市民に親し んで貰おうと愛称を募集し選ばれたのが「サン・アンドレス」という名前でした。」
その当時、コロンブスのアメリカ大陸遭遇五百年を記念する行事が世界的に行われ、 スペインのバルセロナ港ではコロンブスの乗った旗艦サンタ・マリア号の復元と日本へ の冒険航海が計画されていました。
復元船サンタ・マリア号は一九九一年にバルセロナを出発し、翌年八月十一日に大船 渡港に入港。サンタ・マリア号が出帆したパロス・デ・ラ・フロンテーラ市と大船渡市 が、五百年の時を経て姉妹都市になりました。
その記念として市民有志の手で作られ、サン・アンドレス公園に設置されたのがビス カイノのレリーフ像とモニュメントです。
ビス カイノのレリーフ像は東日本大震災(二〇一一年三月十一日)の津波で流失し、 モニュメントは大きく損傷しましたが、気仙の黄金が世界史で果たした役割と東日本大 震災による大きな被害の二つの記憶を後世に伝える貴重な記憶遺産として、「みなと公 園」に移設されています。
☆改めて読んでみると、私が捜していた石碑は「みなと公園」に移設されていることが分 かりました。
 BRT大船渡駅を訪れると、駅前に「共に生きる 二〇二〇年五月十六日」と彫られた石碑があった。ロータリーには、「かもめテラス」と書かれた煉瓦造りのしゃれたコーヒーショップがあり賑わっていた。
 大船渡温泉に入るつもりで訪れると、コロナ関係で営業時間が短縮され午前十一時から午後二時までだった。諦めて、以前入浴した国道沿いのホテルの温泉へと向かった。残念ながら、ホテル自体が閉鎖されていた。国道沿いのローソンと海産物センターも閉鎖されていた。無料で入浴した碁石温泉へと向かったが、同じように閉鎖されていた。雨の中、諦めて「夏虫温泉」へと向かう。温泉は、どしゃ降りにも拘わらず、混んでいた。
★道の駅「さんりく」に車中泊。誰もいなかった?

□二〇二一年三月二十九日(月)
 午前八時半過ぎに、田老を訪れる。田老駅下に、トイレが設置されていた。続いて、新田老駅を訪れると駅舎は営業していた。時刻表を確認して、新駅舎に向かう列車を撮影する。私の予想に反して、「田老駅」も「新田老駅」も営業をしていた。
 改修が終了した防潮堤から新しい防潮堤、新しい街並み、田老駅を撮影する。撮影していると、防潮堤から「田老駅」「新田老駅」に向かう列車を撮影することができた。
 三陸道を走行して野田村に向かう途中、午前十一時過ぎに十府ヶ浦駅舎を訪れる。駅下に駐車場とトイレがあったので、バイクを降ろすことを考えて車を止める。車外に出ると、震災遺構「米田歩道橋」と書かれた看板と、破損した歩道橋の一部が展示されていた。私はカメラを取り出して、震災遺構を撮影した。撮影が終了してトイレに入ろうとしたら、トイレが閉まっていたのでバイクを降ろすことを諦めて「ほたてんぼうだい」へと向かった。「ほたてんぼうだい」の駐車場で、バイクを降ろす。
 セローで、久慈方面へと向かう。正午に道の駅でランチ(海鮮丼)を食べてから、久慈駅を訪れる。駅前のデパートは寂れていたが、「あまちゃん」の看板は寂れることなく輝いていた。更に、真新しい「あまちゃん」の大きな観光案内板が駅前には建てられていた。
「あまちゃん」効果は、まだ生きていた。
 「もぐらぴあん」へ向かうと、トイレはまだ閉鎖されたままだった。開通されたばかりの三陸道を走行し、種市へと向かう。種市の建物は、奥はスパで手前が病院だった。そのまま海沿いに海岸線を下ると、陸中八木駅の防潮堤が見えてきた。防潮堤は、は完成していた。防潮堤のゲート前には、石碑が建てられていた。一度撮影していたが、再度防潮堤と一緒に撮影する。
 「ほたてんぼうだい」に戻ると、十府ヶ浦公園ではパークゴルフが行われていた。バイクを積み込むと、えぼし荘で風呂にはいる。入浴後、再び道の駅へと戻った。
★道の駅「のだ」で車中泊。誰もいなかった。

□二〇二一年三月三十日(火)
 道の駅を午前七時前に出て、「ほたてんぼうだい」の駐車場に車を止める。徒歩で撮影ポイントを探す。結局、国道を渡っていつもの撮影ポイントにたっていた。工事車両がないことと、防潮堤が完成したことが分かるように撮影をする。二回目は前回と同じように、パークゴルフ場に移動して撮影をする。完成したパークゴルフ場内が分かればいいかな?
 「ほたてんぼうだい」から国道四十五号線を南下する。撮影に使っていた駐車場が空いていたので、左折して車を止める。社外に出ると、安家大橋、安家陸橋(三陸鉄道)、安家陸橋(三陸道)が見えた。三陸道はまだ開通していなかったが、陸橋は完成していた。三陸道では作業をする重機が見えたので、パーキングで列車を待つことにする。待つこと数分、無事撮影できたが三陸道を移動する重機が見えなくなってしまい、列車と一緒に撮影することは出来なかった。
 県道四十四号線を走行して、島越しへと向かう。「きらうみ」は、駐車場が整備されていた。残念ながら、県道は明戸地区手前で通行止めになっていた。台風十九号による道路の損傷のため何度か迂回路を走行し、最終的には国道四十五号線から再び県道四十四号線を走行する。
 新しくできた道の駅(仮オープンなので工事中だった。)「たのうら」でバイクを降ろすと、島越しへと向かう。田野畑駅から、新しい水門と防潮堤を撮影する。島越しでは、新しい公園に名前が付けられていた。時刻表を確認して、「島越ふれあい公園」の文字が分かるように超広角レンズで撮影をする。最後に、駅正面から撮影すると、右側では網を広げる作業が行われていた。
 再び県道四十四号線を走行して、道の駅「いわいずみ」へと向かう。残念ながら、通行止めになっていた。諦めて、田野畑駅から国道四十五号線に出ると、国道を走行して県道に出る。午前十一時半過ぎに、道の駅に到着する。昼食には早いが疲れたのでランチにする。ランチは、ジンギスカン鍋定食を食べる。
 道の駅には、「台風十号の時の水位」が示されていた。小本川は、工事中だった。工事は、かなり遅れていた。遅れの原因は、台風十号の後にも水害が続いた事によるものだった。県道の通行止めの原因となった台風十九号が、小本川の工事を更に遅らせていた。
 小本駅前を訪れると、駅前に「命を守れ」の石碑があった。石碑には、文字が刻まれていた。                                     ●「命を守れ」                                   二〇一一年(平成二十三年)三月十一日(金曜日)午後二時四十六分十八秒に発生し た東北地方太平洋沖地震による大津波は瞬時にして尊い命と貴重な財産や、地域遺産ま でをも奪い去った。その痛ましい記録と記憶を刻み後世への教訓として、ここに建立す る。                                                    二〇二〇年(令和二年)三月十一日小本地域振興協議会
私が撮影に夢中になっていると
「このセローは、最終型のセローですか?」
と、突然質問されてしまった。私は撮影を辞めて
「はい。最終型です。」
と、答えた。私が答えると
「実は、私もセローに乗っているんです。二〇一二年型かな?」
と答えると、延々とバイクの話しを始めた。私はバイクの話しも好きだが、小本川の復興が遅れていることと、震災から撮影を続けて、今は災害の記録をとり続けていることを話した。最後に
「小本中学校と小本小学校を撮り続けているので、これから撮影に向かうところです。じゃ、失礼します。」
と言い、小本駅前から小本中学校へと向かった。
今回はバイクだったので、堤防沿いに出来た道路を走行して、小本中学校を訪れた。校舎周辺には、多くの車が止められていた。私は最初、工事関係者の車と思っていたが、それは違っていた。何故なら、校舎には「○○クリーニング小本工場」と書かれた立て看板が見えたからだ。小本中学校は、クリーニング工場になっていた。
私が撮影していると、校舎内から男の人が出て来たので私はとっさに
「こんにちは、失礼ですがこちらは小本中学校ですか?」
と、大きな声で怒鳴った。男の人は、私の声が聞こえたのか
「はい、小本中学校です。ただ、私どもでクリーニング工場として建物をお借りしてます!」
と、大きな声で答えてくれた。私は直ぐに
「すいません!写真を撮らせて貰ってもよろしいですか?」
と、大きな声で尋ねた。男の人は
「大丈夫ですよ!」
と、答えてくれた。
 撮影が終わると、私は高い防潮堤が完成した小本小学校へと向かった。途中、浜の駅「おもと愛土館」に気が付き立ち寄る。休館日で中にはいることは出来なかったが、建物に震災関係の資料が掲示されていた。
●「子どもたちの命を救った避難階段(国道四十五号)」
 二〇一一年三月十一日一四時四十六分、マグニチュード九、〇の巨大地震が発生。東 北地方を中心に北海道・関東地方を含む太平洋沿岸に巨大大津波が押し寄せた。津波に よる浸水区域は全体で約五三五K㎡にも及び、各地に壊滅的な被害をもたらし、二万人 を超える死者・行方不明者が生じた。
岩手県下閉伊郡岩泉町の小本地区も津波の被害を受けた。十五時二十一分、宮古港で 四mの津波を観測。そのわずか七分後の十五時二十八分頃、小本に津波が来襲。防潮林 の松をなぎ倒し、水門を超えて小本、中野、茂師、小成に流れ込み、壊滅的被害をもた らした。
小本地区にあった旧小本小学校も津波により浸水したが、児童らは学校の背後に位置 する高台の国道四十五号につながる避難階段を必死で駆け上がり、当時構内にいた児童 八十八人全員が間一髪で無事に避難することが出来た。
この一三〇段、長さ三十mの避難階段は、岩泉町が三陸国道事務所に要望して設置さ れたもので、震災のわずか二年前の二〇〇九年に設置されたばかりだった。この避難階 段が無ければ、高台の避難所にたどり着くのに海側に向かって津波浸水区域を通りなが ら大きく迂回しなければならず、児童の避難が大きく遅れた可能性がある。この避難階 段によって、国道四十五号はまさに「命の道」となった。
☆読んでいたら、私は越喜来小学校の「奇跡の階段」を思い出しました。
 撮影が終わり小本小学校を訪れると、多くの車が駐車していた。私は敷地内にはいると、建物の中に入り
「こんにちは!誰かいますか?」
と、何度か怒鳴った。怒鳴っていたら、中から女子従業員が出て来た。私は
「すいません。震災の年から小本小学校の撮影を続けているのですが、敷地内を撮影してもよろしいですか?」
と尋ねると、
「少々お待ち下さい。ただいま責任者を呼んで参りますから・・・。」
と言いながら、奥に入ってしまった。
数分後、男の人が出て来た。私は今まで小本小学校を撮影してきた経緯を話し
「小学校として校舎を使う雰囲気だったのですが?」
と、尋ねると
「はい。私どもも詳しいことは分かりませんが、校舎は使うつもりで補修を始めたらしいのですが、小本中学校を新設すると決定したら、小学校の新設の声が出て来て、最終的には小本小中学校という形で新設することに決定したらしいですよ。小本川の水害で作業が出来なくなってしまった工場をこちらに移設したので、とりあえず校舎を借りているという形になりますが・・・。」
と、分かる範囲で話してくれた。私は
「すいません。出来たら、こちらの会社のパンフレットが有ればいただきたいのですが?」
と、再び尋ねると
「申し訳ございません。この校舎を間借りしているだけで、この後のことがはっきりしないのでこれ以上のことはお話しできません。撮影はかまいませんので・・・。」
と、応対してくれた。
撮影が終了すると、私は三陸道を走行して道の駅へと向かった。再び道の駅でバイクを積み込むと、午後三時過ぎに陸中山田駅を訪れる。「ゆらっくす」(六百円)で温泉に浸かると、道の駅「やまだ」へと向かう。
★道の駅「やまだ」に車中泊。誰もいない

□二〇二一年三月三十一日(水)
 早朝の道の駅から、「鯨と海の科学館」の駐車場へと向かう。バイクを降ろすと「織笠小学校」へと向かう。午前八時過ぎに小学校を訪れると、校舎前には石碑が建てられていた。石碑を読むと、すでに小学校は閉校していた。
「織笠小学校ここにあり 令和二年三月三十一日閉校」
 小学校近くの高台から、「三陸リアス線」を撮影する。旧織笠駅を通過して、新しくできた織笠駅に停車する列車を撮影することが出来た。新しい駅舎と新しくできた街並みと郵便局も撮影する。
 国道四十五号線を走行して山田市内へと向かうと、国道沿いから陸中山田駅を出た列車を撮影することが出来た。撮影後「おぐら山」(今回訪れたら、階段の所に地名が書かれた看板が設置されていた。)を訪れると、「消防殉職団員慰霊之日(平成三十一年三月十一日山田町消防団建立)」「犠牲 者への祈り 復興の誓い(平成三十一年三月十一日)」と書かれた二つの石碑が設置されていた。植樹された「河津桜」の花も一緒に撮影することも出来た。
 被災した住宅を訪れると、新しくできた国道四十五号線と新しい水門を撮影することが出来た。新しい国道四十五号線からは、建設中の防潮堤が見えた。再び国道四十五号線を北上して、大沢地区へと向かう。
 国道沿いのコンビニを右折して県道四十一号線を走行して大沢地区にはいる。海岸に沿って、防潮堤が完成していた。防潮堤の上は道路(県道四十一号線?)になっていたので、そのまま走行する。今回はバイクだったので、防潮堤の上から大沢地区を撮影する。大沢小学校がまだあったので、今回は訪れる。                  
階段の所に、「私の名前は希望の桜です。」と書かれた掲示物が見えたので、撮影する。
●「私の名前は希望の桜です。」
平成二十三年三月十一日東日本大震災の翌年春二~三輪の花を咲かせた時に、漁師夫婦 に見つけて貰いました。大津波で山から流された私は幸いにも、古い防潮堤の隙間に流 れ着き、難を逃れました。
しかし五年後に防潮堤が壊される事になり、多くの方々のご協力によりここに移植して 頂きました。
津波は又必ず来ます。私より高いところへ逃げて下さい。絶対に戻らないで。この町か ら津波による犠牲者が一人も出ないことを願っています。
希望の桜より
何もなくなった海岸通りに、ひっそりと咲いていた桜に、亡くなった多くの方々に思い をはせ。狭いながらもしっかり根付いている姿に生きている私達は、前を向く力を与え られ、希望の桜と命名しました。
三、一一の波に
のまれし たましいが
山桜となりて
地に咲く
撮影すると、再び階段を上り私は学校の敷地内に入った。はいる。左門には、「大沢公園」と刻まれていたが、右門には「昭和五十七年三月三十一日竣功」と刻まれていた。階段を上って敷地内にはいると、更に門があった。門の所には、「大沢小学校」と刻まれていた。更に建物を撮影すると「山田町 ふるさとセンター」書かれていた。敷地内には古い石碑があり「昭和八年三月三日・・・襲来・・・流失・・・。」と文字が刻まれていた。
 今まで大沢小学校と思っていたところは、すでに昭和五十七年三月に閉校して、公園になっていたようだった。校舎は、「山田町ふるさとセンター」に・・・。私は事実が知りたくり、施設の中に入ると受付の所で
「こんにちは、こちらの建物は元小学校ですか?」
と、尋ねると
「そうです。新しい小学校は、山を越えた所に建てられています。」
と、答えてくれた。私は再度
「たびたび申し訳ございません。東日本大震災の被害にあったので、新しい校舎が建てられたのですか?」
と、尋ねると
「震災前から新しい小学校は建て替えられていましたよ。震災の時は、すでに山田町ふるさとセンターになっていました。」
と、答えてくれた。
 以前石碑を撮影した寺を再び訪れてみると、右にある大沢保育園に「大沢保育園は二〇一一年三月十一日の東日本大震災で被災した園舎再建のため、台湾と日本の人々の「絆」の証しとして、日本赤十字社ならびに山田町の協力のもと、台湾赤十字組織の支援により建設されました。(二〇一三年三 月)」と書かれたプレートが埋め込まれていた。
 国道四十五号線に出ると、私は財布を忘れたことに気づき再び車が駐車してある「鯨と海の科学館」に戻ると、財布を確認して再び三陸道を走行して津軽石駅へと向かった。午前十時過ぎ、津軽石駅に到着する。ホームに列車が止まっていたので、慌てて撮影する。ラッキーなことに、車両が更に増えた。新しくできた高架橋に列車が吸い込まれると、二両編成の車両が宮古方面へと向けて発車した。
 津軽石駅舎を訪れると、新しくトイレが外に出来ていた。ホームには、巨木があった。近づいて撮影すると、説明文が設置されていた。
●「蘇る流木、鮭の姿に変わり」
二〇一一年三月十一日、巨大な津波が三陸沿岸を襲いました。「東日本大震災津波」 です。想像を絶する甚大な被害をもたらしました。あれから八年半、復興のシンボルと 言われる三陸鉄道が、南は盛駅から北は久慈駅ま一六三キロの日本一長い第三セクター 鉄道として再開しました。鉄道のもならず幾多の困難を多くの方々が乗り越えてきてい ます。
東日本大震災では、途方もない数の樹木が他の瓦礫に混じり流れ着いてきました。そ の処理は困難を極めたと言われています。偶然にも私のもとへやってきたこの欅の巨木 もその一つでした。松や杉の流木は三陸鉄道の「動物駅員」として再生し。数カ所にす でに設置してあります。
この欅の巨木は実に立派でした。威風堂々として「困難に負けない風情」を感じさせ る物でした。一旦折れて流されましたが、何とか蘇りたいという強い意志を感じました。 そこで、「海からやって来た巨木、海に帰る鮭の姿がふさわしい」と考え、流木の乾 燥五年の後、製作に取り組みました。堅くて立派な欅は彫っていくのがとても難儀でし たが、再び三陸に戻っていくことを考えれば、やりがいのある製作活動でした。
「未来に向かって昇っていく鮭の群れ」が完成に近づいたときに、私の所属する「三 陸鉄道を勝手に応援する会」に相談したところ、開通間もない宮古と釜石の間にある「津 軽石地区」がふさわしいと助言を受けました。三陸鉄道とJF宮古、津軽石さけ繁殖保 護組合、そして宮古市の協力を得て、津軽石駅ホームに設置し、末永く三陸の鮭の繁栄 を願って行くこととなりました。とても有り難く製作者冥利に尽きます。また津軽石地 区の皆様と共に、三陸鉄道の沿線名物化運動に少しでも寄与出来ますことを願っており ます。 制作者 植野 義水
 国道に出ると、再び国道四十五号線を北上する。宮古の防潮堤にも、「鳥の海」と同じような強化ガラスが使用されている区間があった。その区間だけは、ガラス部分から海を見ることが出来た。
 国道を外れ、宮古市鍬ヶ崎を訪れる。真っ先に小学校方面へと向かった。それから、赤い鳥居が建てられて「熊野神社」の階段から街並みを撮影した。新しく建てられた建物の間には、空き地が多く見られた。国道に再び出ると、市役所が解体されて更地になろうとしていた。バイクを止めて撮影するつもりでスローダウンしたが、作業車が止めてあったので、撮影を諦めた。
 新しく開通した三陸道を走行して、釜石方面へと向かう。正午過ぎに、釜石市松原地区を訪れる。セブンでトイレ休憩をすると、釜石港に向かった。道路が整備されて走行が楽になったが、建物があまり建てられていなかった。釜石港では、新しくオープンした「魚河岸テラス」でランチに「にぎり寿司定食」を食べる。
 昼食が終えると、私は国道を北上して鵜住居方面へと向かった。午後一時半過ぎ、両石駅で観光列車を撮影する。撮影したので、新しくできた両石の街並みも撮影する。撮影ポイントを捜していたら、偶然「慰霊碑」を見つけた。右側には、鐘が設置されていた。
●「慰霊碑(平成三十年七月建立)」
  「碑文」
 平成二十三年三月十一日、午後二時四十六分、三陸沖を震源とするマグニチュード九 ・〇、震度六強の巨大地震が発生。その数十分後に、千年に一度とも言われる高さ十四 メートルの大津波が、両石湾を襲来した(最高到達点は恋の峠下で、海抜二十四メート ル地点)。防潮堤を一気に乗り越え、両石町のほぼ全域を呑み込んだ。総世帯数二六〇 戸のうち、高台に位置していた十三戸は被災を免れた物の、他は全て流失し、一夜にし て町は鳥有に帰した。さらに、この津波により四十五名もの町民の尊い命が失われた。 復興には予想以上の歳月を要し、町民は七年の長きにわたり、災害仮設住宅での生活 を余儀なくされた大規模な盛土工事が完了し、自宅再建が始まったのは、平成三十年に なってからのことである。。
両石地域は、明治二十九年や昭和八年の大津波でも甚大な被害を受け、津波の常襲地 域であった。それ故、高さ九・三メートルにも及ぶ巨大な防潮堤を築き万が一に備えて きたが、この度の大津波はそれを遙かに超える物であった。
教訓は一つ。徒に津波の規模を想定せず、津波警報が出たら自らの命を守るべく、高 台めざしとにかく避難すること。
犠牲となられた御霊に哀愁の意を捧げると共に、我らが故郷両石の再建が逸早く成り、 常しえの繁栄を祈念するものである。
両石町民一同
 国道四十五号線沿いに出来た、両石の新しい街並みを撮影すると、午後二時過ぎに鵜住居を訪れる。何度か撮影していたが、とりあえず撮影する。今回はバイクなので、前から気になっていた「常楽寺」を訪れる。追憶施設は、無かった。気になったので、住職に尋ねるつもりで呼び鈴を鳴らした。直ぐに女性が出て来たので
「こんにちは、私はここに移設された追憶施設を撮影していたのですが、今はどちらに移設されているのでしょうか?」
と、尋ねた。女性は落ち着いた口調で
「追憶施設は解体されました。」
と、答えてくれた。私は再度
「追憶施設の中にあった遺品はどうなったのでしょうか、遺族の方に全て返されてしまったのでしょうか?」
と尋ねると、
「すいません。そこまで詳しくは知りませんので・・・。」
と、答えてくれた。私は諦めてお礼を言うと、室浜へと向かった。
 二度目の室浜は、鵜住居に出来た防潮堤を撮影してから向かう。室浜へと繋がる県道は、長く通行止めが続いていたので訪れることが出来なかった。初めて訪れたときには、全てが雑草で覆われていたような記憶だけが残っている。
 訪れると、右側の小高い山に「津浪記念碑」が建てられていた。古い震災の碑が、新しい土台の上に移されていたというのが正しい表現かも知れない。小高い丘の上から周りを見渡すと、撤去されずに残る基礎が見えた。更に、新しく作られた防潮堤が目の前に見える。足元を見ると、焼け跡が残っていた。
 新しい建物が建並ぶ所に、神社へと続く階段があった。神社には、「観世音神社」と書かれていた。境内からは、室浜の街並みと完成した防潮堤が見えた。又、階段周辺には黄色いスイセンの葉が咲いていた。
 初めて県道二三一号線を走行して、大槌町に抜ける。県道沿いには、巨大な水門が完成していた。バイクを止めて水門を撮影していたら                  
「作業車の通行のじゃまになるから、バイクは直ぐに移動してくれ!」
と、ダンプの運ちゃんに注意されてしまい、慌ててバイクを移動した。問題は、ここからだった。県道から、なかなか大槌市内に入ることが出来なかった。線路を渡ることが出来ず、かなり迷っていた。                              市内にはいると、私は迷わずに完成した江岸寺を訪れた。今までは図書館に続く道路を走行して、高台からから江岸寺を撮影していたが、今回は直接江岸寺を訪れる。嵩上げされているので、江岸寺から徒歩で高台へと向かうのが苦痛ではなくなっていたからだ。  江岸寺から、旧大槌町役場跡地へと向かう。建物は解体されてしまったが、献花台があるのでとりあえず撮影だけはした。県道二八○号線を外れて、県道二三一号線を走行して赤浜地区へと向かう。コンビニの後方には、巨大な防潮堤が完成していた。新しい県道二三一号線を走行していると、右側に石碑が見えた。                  蓬莱島の形をした石碑には、「東日本大震災津波記念碑」「急告!地震が発生したら高台に避難せよ」と文字が刻まれていた。また、石碑には蓬莱島の写真も写されていた。石碑を撮影していると、説明文が設置されているのに気が付いた。説明文には、赤浜の歴史が書かれていた。
●「ぼくらはくじけない、そして、あの日を忘れない」
赤浜地区は、古くから漁業で栄えてきた。縄文時代の集落跡も点在し、住みよい場所 であったことを示している。かっては砂浜が広がり、集落からはどこからでも「蓬菜島」 を望むことが出来た。赤浜の呼称は、花崗岩が風化して出来た砂浜が対岸から赤く見え たことからともされる。そしてこれまでにも、幾度となく津波災害に見舞われたが、住 民は協働し乗り越えてきた。
東京オリンピックが開催された昭和三十九年、人形劇「ひょっこりひょうたん島」の 放送が始まった。原作は、井上ひさしと山元護久。「ひょっこりひょうたん島」では、 大統領ドン・ガバチョや海賊トラヒゲ、博士や子ども達が、共に知恵を出し合い協力し 合って問題を解決した。あの島で繰り広げられる協働こそが、「まちづくり」に不可欠 のものであると信じる。
あの忌まわしい東日本大震災津波は、赤浜地区の、多くの住民の生活財産を奪った。 けれど、非日常であっても、あの「ひょっこりひょうたん島」で繰り広げられた「協働」 を、避難所において、或いはコミュニティ再生に向け、確実に実践してきた。
皇后陛下美智子様が喜寿を迎えられた際、第十七回全国豊かな海作り大会(平成九年 十月五日、大槌漁港にて)のあと御所に送られた「ハマギク」を背景に、両陛下のお写 真が公表された。この「ハマギク」の花言葉は、「逆境に立ち向かう。」
住民と協働し、まさに「逆境に立ち向かう」日々である。このハマギクは、秋になる と、あの津波で水没した蓬菜島にも咲く。
ここはに、従事の蓬菜島と大槌港灯台の姿を、そして東日本大震災津波の記録と記憶 をとどめる。      平成三十年三月十一日建立
 県道を走行すると、再び国道四十五号線に出た。左側に、吉里吉里の街並みが見えた。そのまま国道を走行し、「風の電話」へと向かう。「風の電話」を訪れるつもりでいたのだが、何故か「浪板海岸駅」前に出てしまった。駅の敷地内には、石碑が建てられていた。
●「東日本大震災備忘の碑」
千年後への伝言 浪板の人たちの伝え
二〇一一年三月十一日十四時四十六分東北地方太平洋沖を震源とするM九・〇の東日 本大震災が発生しそれによる巨大津波によって大槌町では一二〇〇人を越える町民が犠 牲になりました。浪板地域においても消防団活動をしていた団員三人と人的被害として 二十二人が亡くなりました。又住家や農地、漁業者の舟や施設も被害を受けました。被 災当日から五六月末日まで浪板交流促進センターでの被災生活となり、その間、世界各 国の人や沖縄から北海道の国民の皆様から支援援助を受けたこと又大学生や長崎大学医 療班等の皆様からの治療支援があったこと多くの会社や職業人、自衛隊岩手駐屯地の空 からの空輸援助活動があったことを忘れないでほしい。
津波襲来時刻 同日十五時十六分 波の高さ約二十メートル
被害状況 人的には二十五人死亡 物的には住家被住家等七十一棟
田畑や漁業施設 山田線浪板海岸駅ホーム国道四十五号線流失破壊
浪板海岸砂浜や松林の消失
 地震が起きたら津波が来ると思え 高台に避難し解除が出るまで戻らない。
今次の震災が永久に教訓となることを願ってこの地に建立する。
     平成三十年十二月吉日
☆石碑を撮影していると、左側の古い震災の石碑に気が付きました。
一地震があったら津浪の用心
一津浪が来たら高台へ
一危険地帯に住居をするな
 吉里吉里で「木の慰霊碑」を探すが見つからない(吉里吉里でなく、赤浜でした)。諦めて、三陸道を走行して「鯨と海の科学館」へと戻る。バイクを車に積み込むと、道の駅「りくぜんたかだ」へと向かう。
日帰り温泉「玉乃湯」で入浴してから、道の駅を訪れる。
★道の駅「りくぜんたかだ」で、車中泊。車中泊は、少なかった。

□二〇二一年四月一日(木)
 道の駅でバイクを降ろして、市内を撮影する。花畑を撮影すると、県道三十八号線を走行して広田半島へと向かう。海岸に沿って巨大な防潮堤が続く。県道沿い右側に、慰霊碑を見つける。
●「三日市の津波地蔵」
 この地に建っていた碑は通称「地蔵様」と呼ばれ、住時には近隣住民による念仏講が 行われていた。
一説には刑死者への畏怖・鎮魂の碑であると聞くが、古くは小友浦の渚、街道の要所 にあり旅人を、ある時は足元で遊ぶ子供や子猫らを静かに見守る存在でもあった。
三柱あった石碑は東日本大震災の高さ十五メートルに及ぶ津波で流出し、後にこの「大 権現碑」一柱のみが発見され、今日識者・工人の尽力を得て、台座を嵩上げし再び祀ら れる事が叶った。
願わくば、いにしえの諸霊と合わせ、恐ろしい津波の犠牲となった住民・動植物すべ ての御霊安らかなる事をここに祈念するものなり。
         平成三十年五月
☆台座には、「祈りの碑」と彫られた石碑と「やすらかに」と書かれた猫の像?
 午前八時半に旧小友中学校跡地を訪れる。「あきらめない心スタジアム(平成二十六年十一月吉日)」と書かれた球場になっていた。新学期の忙しい時期に小友小学校を訪れる。教頭先生が対応してくれた。「小友(おとも)」と「小本(おもと)」を間違えて、教頭先生に何度か訂正される。
 広田中学校跡地へ向かう途中、BRTの「小友駅」を訪れる。再び県道を走行すると、
広田海水浴場で巨大な防潮堤とコンビニを撮影する。高台には、新しい家が建てられていた。広田中学校跡地には、「岩手県立野外活動センター」のグラウンドが出来ていた。野外活動センターの敷地はかなり広く、広田中学校跡地は施設のグラウンドになっていた。 広田小学校下の交差点に、「東日本大震災津波到達地点記念碑(平成二十五年八月建立)」
が建てられていた。更に、石碑を撮影していると高台に建つ広田小学校下には、古い石碑が建っていた。私は近づいて、古い石碑を撮影した。
明治九年六月十五日
一大地震の後には津浪が来るよ
一地震があったら高所へ集まれ
一津浪と聞いたら慾捨て逃げろ
一低いところに住家を建てるな
再び県道三十八号線を走行すると、広田湾に出た。広田湾漁業共同組合広田支店に、津波到達地点が記されていた。また、基礎が解体されずに残っているところもあった。慈恩禅寺を訪れると、「やすらぎ」建立趣旨
●「やすらぎ」建立趣旨
 平成二十三年三月十一日、午後二時四十六分東日本大震災が発生し、この地を大津波 が襲う。まるで、悪夢のごとく一瞬にして大切な家族、思い出深い我が家、ふるさとで ある我が町を呑み込んでしまった。
 犠牲になられた各霊位の「やすらぎと」と、残された家族の「やすらぎ」、さらに一 日も早い「やすらぎ」ある町の復興を念じ、全国から寄せられた有り難い義捐金を基に ここに建立する。
             平成二十四年三月十一日
☆「やすらぎ」と刻まれたモニュメント。「祈念」と彫られた台に、鐘。赤いずきんを被 ったお地蔵様が並ぶ。
☆「漂流ポスト」の標識に導かれ、漂流ポストを再び訪れる。
●「あいたい だきしめたい」
二〇一一年三月十一日、                             東日本大震災で大切な人を失った。
被災地の人々は、悲しみに向き合い生きることの意味を探し続けてきました。それぞれ の平○には天国の大切な人へ向けた愛の言葉が○つれて 漂流ポスト
☆一度訪れた「漂流ポスト」を、再び訪れました。今回はオーナーに会うことが出来まし たが、すでに喫茶店としての機能はないと言うことでした。疲れたので、ケーキと温か いコーヒーを楽しみにしていたのですが、残念です?
再び県道三十八号線を走行すると、根岬漁港で石碑を発見する。
 ・低いところに住家を建てるな
 ・地震があったら津浪の用心
 ・津浪と聞いたら慾捨て逃げろ
☆この石碑は角柱の石碑で、柱の四面に文字が刻まれていました。
☆「黒崎仙狭温泉」に立ち寄り、大船渡に向かうつもりが?何故か、県道三十八号線をぐ るぐると回ってしまいました。
 県道三十八号線から三陸道を走行して、午前十一時過ぎに「盛駅」を訪れる。前回撮影した駅舎は、やはりJRでした。三陸鉄道の駅舎は、左側に建っていました。三陸鉄道の
敷地内には、「三陸鉄道ここに始まる。」と文字が彫られた石碑が建てられていました。
三陸道を走行し、大船渡ICをおりると県道九号線を走行して、越喜来へと向かう。まず、県道沿い左にあった「赤崎小学校跡地」を訪れる。今回は、閉校記念碑がありました。
●「赤崎小学校閉校記念碑」
明治六年八月に佐野二八七番戸、佐々木作太郎氏宅を借用し開校した赤崎小学校は数 度の移転の後、昭和十五年十月、この地に校舎新築移転したが、平成二三年三月一一日 の東日本大震災津波で被災したため、平成二九年三月、新たな校舎を山口八番地四号の 高台に建設移転した。
同年三月二十日、赤崎小学校・蛸ノ浦小学校統合のため、五六三一名の卒業生を巣立 たせた赤崎小学校は一四三年間の歴史・伝統・文化を新生の赤崎小学校に引き継ぎ閉校 した。 平成三十年三月吉日
再び県道九号線を走行すると、左側に「文部省学校公開(昭和六十一年六月)」と彫られた巨大な石碑が残されているのを発見する。以前私が撮影した赤崎中学校にあった石碑だ。後方は、巨大な壁になっていた。(新しく建てられた赤崎中学校の嵩上げされた土台が壁に見える?)
県道九号線が新しく作られているため、迂回路に従って走行する。嵩上げされた赤崎中学校の正門前を右折すると、新しい県道九号線に繋がっていた。私は左側に石碑を見つけたので、バイクのエンジンを切って路肩にバイクを止めると石碑に向かって歩いた。正面から石碑を撮影すると、握手をしているモニュメントが見えた。モニュメントに彫られた文字を読むと、「東日本大震災赤崎津波記憶石」「後世につなごう 記憶と絆のバトン」「~てんでんこ地震が来たら高台へ~」と、彫られていた。
再びバイクに戻ると、新しい県道九号線を走行する。新しい赤崎中学校から三百メートルほど離れた場所でバイクを止めると、後方に見える赤崎中学校を撮影した。県道左側には、二階建ての校舎が見えた。県道右側では、大型重機が作業を行っていた。正面は、通行止めのバリケードが道路をふさいでいた。校舎下にある古い県道九号線は、校舎横の新県道九号線が開通すれば誰も通行しなくなると、私は思った。
二㎞ほど新県道九号線を走行すると、再び旧県道九号線に合流した。私は、津波で被災した旧県道九号線は撤去して、高台に新しい県道九号線を作る計画なのだと思いながら県道九号線を走行して綾里に向かった。
綾里に到着すると、迷わずに「綾里駅」を訪れた。綾里駅を訪れたのは、今回が初めてだった。駅舎に、石碑が建てられていた。駅舎は撮影せず、石碑をアップで撮影する。石碑には、文字が彫られていた。
●「津波てんでんこ」                               想起せよ、東日本大震災の惨事を
大地震があったら必ず津波が襲来すると思へ
一刻も早く高台に避難せよ
逃げたら絶対に戻るな
自分の命は自分で守れ
津波てんでんこの教えを忘れるな
永々と後世に語り継ぐ教えとして、この碑を建立する
    平成二十五年三月吉日
駅舎の中でランチを食べようと思ったが、「本日休業中」の札が下がっていたので諦める。時刻表から三十分ほどで列車がホームにはいることが分かり、私は慌てて食料の買い出しに向かった。コンビニは無かったが、雑貨店があったので、雑貨店へと向かう。とりあえず、おにぎりとサンドイッチだけは確保できた。正直、ほとんど食料品は置いてなかったので迷わずに店頭にあった物を購入した。
 「綾里駅」で簡単なランチにしながら、撮り鉄をする。駅舎と列車が写るようにポイントを考えながら、撮影をする。列車が小さくなっても良いから、駅舎をメインにシャッターを切った。ホームに列車が止まっている間に、撮影ポイントを変えて、ホームから出てくる列車を撮影する。今度は、桜の花をメインにして、シャッターを切った。
 撮影が終わると、残りのサンドイッチを食べて再び県道九号線を走行する。「恋し浜駅」を訪れると、ピンクのポストと自販機があった。「恋し浜駅」を訪れるのも、今回が初めてだった。駅周辺には何もなかったが、高台に建てられた駅からは海が見えた。時刻表を確認すると、一時間ほど待たなければ列車は訪れないことが分かったので、ここでの撮り鉄は諦める。
県道九号線を走行して越喜来へと向かっていると、右側に「未音崎(みねざき)湾望台」
と書かれた看板が見えた。私は右折の合図を出しながら、駐車場にバイクを止めた。梅が見える方向には、真新しい写真の看板が見えた。私は文字が分かるように、看板の撮影をした。写真には、夫婦松と書かれていた。
●「この地を訪れた皆様方へ」
未音崎(みねざき)湾望台は当地域まちづくり委員会が東日本大震災津波によってお 亡くなりになられた方々の御霊を鎮魂することと、地域住民や当地を訪れた人達が越喜 来湾を一望できる場所として建設計画し、実現には地権者様方の深いご理解と浦浜海岸 防潮堤工事に携わった特定企業体様の地域貢献としての多大なご協力があり、建設する ことが出来ました。
未音崎(みねざき)の名称につきましては、この場所が嶺崎とか峰崎とよばれていた ことに因み又、この地域が未来までも発展することをこの場所より発信すると云う思い も込め命名しました。この湾望台を訪れた記念、ことり集会所下の小石に、住所・お名 前をご記入して下さい。湾望台下には未音岩(みおといわ)を設置し潮騒公園として整 備しましたので、ぜひご覧下さい。
☆海が見える方向には、「未音崎地蔵尊」と文字が彫られたお地蔵様が立っていました。
 県道九号線を走行していると、見慣れた越喜来の風景が見えてきた。越喜来小学校が解体されてしまい更地になっていたが、私が何度も足を運んだ越喜来の風景がそこにはあった。とりあえず、「さんりく駅」を訪れると桜が満開だった。駅舎は何度も訪れているので、そのまま立ち寄らずに国道四十五号線に出る。
 三陸道を走行し、「唐丹」へと向かう。国道に出ると、「唐丹駅」を訪れる。唐丹駅の外には、トイレが完成していた。駅前を撮影すると、国道を右折して唐丹湾の完成した防潮堤を撮影する。桜の名所唐丹は、桜が満開だった。「盛厳寺」に立ち寄ると、「昭和八年津浪記念碑」「伝えつなぐ大津波」と大きな文字が彫られた石碑があった。
 今回唐丹を訪れた目的は、「唐丹の桜」と「唐丹小中学校」の撮影だったので、「唐丹小中学校」を撮影するポイントを捜す。バイクだったので移動は楽だったが、なかなか撮影ポイントが見つからなかった。高台から撮影するのが一番と思い、国道四十五号線から撮影するつもりで国道へと向かっていると、国道に繋がる道路から小中学校が見えた。
唐丹から再び国道四十五号線を南下して、吉浜を訪れる。吉浜駅舎は頻繁に訪れたが、吉浜海岸は一度訪れただけだった。今回は、東日本大震災後に建てられた石碑を撮影することが出来た。
●石碑「吉浜奇跡の集落」
 「吉浜津波記憶石『奇跡の集落建立』に当たって」
平成二十三年三月十一日に発生した大津波により、吉浜での犠牲者は行方不明者一名 でした。ただ、隣町の老人ホームに入居していた吉浜の人たちの犠牲者は十一名にもあ がりました。
その外、民家四戸、民宿一棟が被災し漁協事務所や倉庫は水没、養殖筏や定置網棟の 漁業関係施設は潰滅、船は沖に避難した十二艇を残して二百八十四艇を流失しました。 また、沖田・川原耕地は、防潮堤が倒壊して表土が流され工作不能となりました。
しかしながら、この吉浜地区内の被害は他所と比較して極めて軽微であったことから、 内外の報道機関に「奇跡の集落」と呼ばれ、最も被害の少ない地域として注目されまし た。
今回、吉浜での被害が少なかったのは、明治三陸大津波で大被害を受けた後、初代村 長新沼武右衛門の先導によって住居の高台移転が進められたことと、昭和三陸大津波の 後にも八代村長柏崎丑太郎主導による耕地整理と復興地を造成しての高台移転が徹底さ れたことによります。
ここに、亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、二人の村長とその教えを守り、 徹してきた先人の偉業を顕彰し、いっそう防災意識を「高め」「広め」「伝え」地元は もとより他地域の災害による被害軽減にも役立つことを願ってこの碑を建立します。
     平成二十六年三月十一日
吉浜地区津波記憶石建立実行委員会
☆石碑は数体建てられていて、形が複雑でした。どの石碑にも文字が書かれていましたが、 私は、「吉浜津波記憶石『奇跡の集落建立』に当たって」のみを書き出しました。
☆「津波の追憶」は、読んでみると「東日本大震災」前に建てられた石碑でした。
●「津波の追憶」
  昭和三陸大津波
昭和八年三月三日三時十五分襲来
新山神社参道入口の鳥居が第二波により被災、津波の恐ろしさを生々しく物語り、残  骸として此処に鳥居の一部が存在する。(鳥居跡地はこれより東側十mの位置)
現在地における津波遡上高は碑頭より三m上と追想される。
薄らいでいく津波の教訓を、後世に引き継ぐべく、昭和三陸大津波追憶碑を此処に建  立する。                  平成二十年五月二十四日
 吉浜で石碑を撮影すると、私は最後に吉浜駅舎へと向かった。午後二時過ぎ、私が吉浜駅を訪れると移動販売車が二台止まっていた駅舎内にも、商品が並んでいた。多くの高齢者が商品を選んでいたのには、正直驚いた。桜が咲いていたので駅舎をメインにして撮り鉄をすることも考えたが、今回はバイクだったので国道から撮り鉄をすることにした。
 国道に出ると、撮影スポットを捜した。結局、以前路上駐車をして慌てて撮影したポイントで撮影をすることにした。今回はバイクなので、駐車に困らなかった。じっくりと撮影ポイントを探し、列車を待った。吉浜駅から列車が出て来た。私は、吉浜海岸と桜の花をメインにしてシャッターを切った。
吉浜ICから三陸道を走行し、陸前高田で下りる。まず、「キャピタルホテル1000」
を訪れる。残念ながら日帰り入浴は不可能だった。私が次に向かったのは、陸前高田市気仙町だった。それは、慰霊碑を撮影するためだった。今回撮影しておかないと忘れてしまうおそれがあったので、忘れずに撮影を行った。
●「東日本大震災慰霊碑」
  「碑文」
 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、三陸沖を震源とする震度七の地震が発生、 直後高さ十五メートルを超える巨大津波が押し寄せる。
この東北地方太平洋地震は、日本における観測史上最大のマグニチュード九・〇を記 録し、震源域は岩手県沖から茨城県沖まで南北五百キロ、東西二百キロの広範囲に及ん でいる。
この津波により気仙町今泉地区はほぼ全ての住宅地、店舗、農地が濁流に一気に飲み 込まれ、鉄砲町町内会は百三十二戸全ての家屋が瓦礫とかし、住民三十四名の尊い命が 失われた。
生かされた我々は「地震が起きたら津波の襲来」を教訓に、速やかに高台に避難する ことが自らの生命を守る道であることを改めて後世に伝えたい。
茲に、この碑を建立し、犠牲となられた方々の冥福を祈るものである。
         令和三年三月 旧鉄砲町町内会 
☆撮影が終わった後、今回撮影を目的に訪れた石碑ではなかったことに私は気が付きまし た。何故なら、諏訪神社の近くではなかったからです。
 諏訪神社階段下に、「諏訪神社」と彫られた石柱が倒れていた。近くに石碑が建てられていたので、私はシャッターを切った。正面に「絆 東日本大震災犠牲者 鎮魂の碑」の文字が刻まれ、裏を見ると「東日本大震災津波二〇一一年三月十一日一四時四六分十八・一秒」「地震の規模 M九・〇  二〇二一年二月中町町内会なかまち『絆』の会建立」
と、文字が刻まれていた。
 成田神社から、一本松と新しくできた宅地を撮影する。区画整理された宅地には、家が一軒建てられていた。また、新しく気仙側に掛けられた「姉歯橋」も見えた。高台に新しく建てられた「金剛寺」を訪れると、先ほど撮影した「姉歯橋」を渡って、「浄土寺」を訪れる。撮影していると、満開の桜と市役所が見えた。
 川原川沿いに石碑が見えたので、石碑に向かって走行する。訪れてみると、石碑には、
文字が彫られていた。
●「東日本大震災 消防高田分団第一部殉職者十一名 鎮魂碑」表
●「平成二十三(二〇一一)年三月十一日東日本大震災 管轄地域の高田松原方面に出動 し大津波に遭遇 戻ることがなかった消防高田分団第一分団員十一名 令和三年三月十 一日慰霊碑建立発願者一同建立」裏
 慰霊碑の右側には、「ここは、消防団高田分団第一部団員二十余名の活動拠点だった屯所跡地です。二〇一一、三・一一東日本大震災の際、地域住民の命を守るために身の危険を省みず避難誘導に出動し十一名の若い命が犠牲になりました。忘れないで下さい、亡くなった若い命と ご遺族の悲しみを・・・」と、木の板に文字が彫られていた。
 続いて新しい市立文化会館を訪れると、「平成二十三年三月十一日午後二時四十六分東日本大震災による巨大津波発生、壊滅的な被害の中で大きく損壊した『母子像』を発見。青少年の健全育成のシンボルと復興の証として、市内の女性達は手を携えて復元事業を展開。ご賛同いただいた多くの市民の皆様と関係各位の募金のおかげで、子ども達を思いやる母親達の願いが繋がり台座と共にここに復元。令和二年四月吉日『母子像』復元実行委員会」と彫られた石碑が建てられていた。
★本日の車中泊は、いなかった。玉之湯温泉のポイントカードを作った。

□二〇二一年四月二日(金)
 午前八時過ぎ「月山神社」を訪れるが、割れた震災の石碑は見つからなかった。諦めて、国道四十五号線を走行して「唐桑半島」を訪れる。県道二三九号線に繋がる「只越川橋」ができ、国道から県道への繋がりが良くなっていた。
 午前八時半過ぎに「唐桑半島ビジターセンター」を訪れると、満開の桜の中に古い石碑が建っていた。石碑には、「昭和八年三月三日 地震があったら津浪の用心」と、文字が彫られていた。
 道に迷いながら午前九時に唐桑町鮪立を訪れると、防潮堤を建設中だった。桜の木の下に建てられた古い震災の石碑を中心に撮影を行う。なるべく、建設中の防潮堤も撮影するようにした。
 三陸道を走行して、午前九時半過ぎに気仙沼大島を訪れる。商業施設「野杜海(のどか)」は、まだ完成していなかった。今回の目的は、気仙沼大島の変化を撮影することだった。数多く撮影した「小田ノ浜」、小学校、中学校を訪れる。学校に人影がなかったので、私は閉校したものと思い、閉校の石碑を捜したが見つからなかった。地元の人に尋ねようにも誰とも会うことがなかったので、「野杜海(のどか)」で尋ねるつもりで再び訪れる。施設の中にはいると
「すいません。小学校と中学校は閉校したのですか?」
と、施設の人に尋ねた。すぐに
「春休みだから、誰もいないよ。」
と、答えてくれた。施設にいた誰もが、「春休み」と答えてくれた。質問した自分が、急に恥ずかしくなってしまった。
 気仙沼鹿折地区を訪れると、「気仙沼復興祈念公園」と書かれた立て看板が多く立っていた。案内板に従って訪れると、駐車場がまだ未完成だった。マスコミが撮影に訪れていたので、バイクを止めて公園内を訪れる。公園から街並みを撮影する。「弟十八共徳丸」が乗り上げた場所を確認すると、コンビニがあった。コンビニ前の道路を挟んだところに、
「弟十八共徳丸」は、乗り上げていた。                      
気仙沼漁港にレンズを向けると、三陸道に新しく完成した大橋が見えた。この大橋の完成によって、三陸道を走行して気仙沼大島を訪れることが出来るようになった。「お魚市場」にレンズを向けると、駐車場にはほとんど車が止まっていなかった。港に新しく完成した商業施設は防潮堤の役割も果たしていたので、嵩上げされた場所に作られていた。中央には、津波対策として設置された大きな門も見えた。
 「気仙沼復興祈念公園」の駐車場に戻ると、私は案内図を撮影した。私は撮影をしながら、この公園がオープンした日付を捜したが何処にも書いていなかったので      
「すいません。この公園は、いつ頃オープンしたのですか?」
と、駐車場にいる人に尋ねると
「命日には出来ていましたよ。短期間で工事を進めていたので、命日には間に合わないと思っていたのですが・・・、市もかなり焦っていたみたいで・・・。」
と、話してくれた。
 「気仙沼復興祈念公園」から港を訪れると、旧復興商店街周辺を撮影する。ほとんどが、駐車場になっていた。鹿折地区と同じように全てが新しくなってしまい、震災当時の面影はなくなってしまった。
「魚市場前」を通過すると、「潮見町」方面へと向かう。道路左側に大きな石碑が見えたので、石碑の前にバイクを止める。
●「飛翔の地石碑ここに甦る」
母校の永い歴史を刻んだ「飛翔の地」石碑は東日本大震災による大津波で数十メート ルも流され傷跡を残し数日後に発見されました。この非常事態にも拘わらず石碑の救出 や保管にお力添えいただきました(株)坂口組様、この土地を無償でご提供いただき石 碑再建立ご尽力いただきました(株)阿部長商店様、両会社様手厚いご加護の下に石碑 はここに津波石として甦ることになりました。
両会社様のご繁栄はもとより、気仙沼地域の安寧と母校の久遠発展を願い、銘板を添 えて再建立の記念といたします。
          平成三十年四月 宮城県気仙沼向洋高等学校同窓会
石碑の撮影が終えると、再び幹線道路を走行して「曙橋」を渡り、県道二十六号線に出た。左折して県道を走行すると、右側の駐車場に石碑があった。慌てて県道を右折すると、私は駐車場にバイクを乗り入れた。三基の石碑があり、中央の石碑には、「東日本大震災 伝承碑」と大きく文字が彫られていた。左側の石碑には、「未来へ語り継ぐ」と文字が彫られていた。
●未来へ語り継ぐ
平成二十三年三月十一日、東日本大震災において日本の有災最大規模の地震と巨大津 波により、東日本の太平洋沿岸各地に甚大な被害が発生し、多くの尊い人命と貴重な財 産が失われた。
この大災害に際し消防活動に全力を尽くし非業の殉職を遂げた十名の仲間、旺盛な士 気強固な責任感のもと、身を以て任務の完遂に努め志し半ばにして その職に殉じられ た事実を我々は決して忘れることはない。                      身を以て示した不撓不屈の消防精神はまさに全国十六万消防職員の亀監である。
生かされた我々は、人命救助という崇高な任務を果たすべく殉職された十名の功績を 末永く後世に伝えると共に、安全への架け橋となって、天空から見守っていてくれる十 名の仲間の意思をしっかりと胸に刻み、二度とこのような惨事を繰り返さないことをこ こに誓う。
そしてあなた方の尊い志を引き継ぎ、今後も住民生活を守り、災害に強いまちづくり の実現を目指し、消防の使命達成に邁進する覚悟である。
平成二十六年三月三十一日 気仙沼・本吉地域広域行政事務組合職員互助会
☆石碑が建てられた場所は、広域防災センターの駐車場でした。
 県道二十六号線から国道四十五号線に出ると、私は久々に岩井崎へと向かった。国道を左折すると、真っ先に「地福寺」を訪れた。左側に石碑が建てられていた。石碑には、「地福寺本堂等建設・修復記念碑」と文字が彫られていた。私は境内を撮影すると、「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」へと向かった。訪れてみると、伝承館敷地内に「野外広場」ができていた。また、「伝承館」前は、広いパークゴルフ場になっていた。
「岩井崎」に向かう途中左側にあった墓地は、整備されていた。整備された墓地跡を撮影しながら完成した防潮堤に近づくと、駐車場内に古い石碑があった。
●「昭和八年三月三日 地震があったら津浪の用心」
 岩井崎を訪れた後、「杉の下の慰霊碑」を撮影に訪れると、慰霊碑の場所に駐車場が出来ていた。慰霊碑を撮影すると、大谷へと向かう。午後一時過ぎ、混雑していて入れなかった道の駅「おおや」を訪れる。平日だったが、やはり混雑していた。今回はバイクだったので、駐車場に困ることはなかった。
 道の駅でトイレ休憩を済ませると、「復興の丘」に立ち寄る。「復興の丘」は周りが嵩上げされたので、丘ではなくなっていた。残念ながら、今までの桜の木はなかった。再び国道四十五号線を南下すると、国道沿いから「旧小金沢駅」を訪れる。駅舎は、すでに解体されていた。更地には、旧大谷駅に置かれていた「あの日を忘れない」と書かれた献花台が置かれていた。                                再び国道四十五号線を南下すると、BRT陸前小泉駅を訪れる。小泉小学校から撮影すると、BRT専用の新しい高架橋を取り付けていた。国道四十五号線を南下し、田浦から県道二二五号線を走行する。神社の石碑の所にスイセンが咲いていた。柏崎半島では、防潮堤が建設中だった。柏崎半島は通行止めが長く続いていたので、私が訪れるのは今回で二回目だった。迂回路と通行止めは現在も一部であり、道に迷うことがあった。そんな海岸線を走行して訪れたのが「津龍院」だった。
●「海難慰霊聖観音像 由縁」
昔より歌津地区では海での海難、または津波の犠牲となった方々も多く、これら災害 の根絶は住民の悲願でもあった。この聖観音像は、昭和五十六年に歌津地区の出漁船員 家庭を持って組織する「歌津町出漁会」により海難慰霊鎮魂の場として当員に建立され
た。以来、海難者供養と海の安全を見守ってこられた。
しかし、平成二十三年三月十一日午後二時四十六分に発生した東日本大震災による大 津波にて台座より倒され、多くの瓦礫とともに境内に流された。震災から三年のこの日、 震災で犠牲となられた当院檀信徒の遺族一同と篤志者よりの慰霊碑の建立とともに修理 再建されたものである。
これより先、永きにわたり再びその眼下に広がる海の安全を祈り、海難者、震災犠牲 者の怨霊を慰め賜らんことを願うものである。
      平成二十六年三月十一日 再建立
境内を撮影していると、住職に会うことが出来た。私は
「こんにちは、被災地の撮影を続けているのですが、柏崎半島はまだ防潮堤が完成していないんですね。場所によっては、建物の基礎が解体されずに残されてままの地域もありました。国道沿いの復興は目に見えて分かるようになりましたが、幹線道路から離れた被災地は取り残された感があります。」
と、話しかけた。住職は私の話を聞き
「そうですね。私の所も境内まで津波が押し寄せ、建て替えましたが・・・。」
と、答えてくれた。住職との会話が終わると、私は「津龍院」を出てから県道から外れてしまった。最終的には、国道に出ることは出来たが・・・。
 再び国道四十五号線を南下する。午後二時半過ぎ南三陸町に到着すると、志津川中から南三陸の街並みを撮影する。街並みの撮影が終えると、「復興祈念公園」を再び訪れて桜の花を撮影する。花は、まだつぼみだった。高台のJAを訪れると、満開の桜の花を撮影できた。                                     三陸道を北上して、午後三時半過ぎに一本松を訪れる。道の駅から一本松を訪れ、道の駅に戻るルートが完成していた。バイクを車に積むと、道の駅上品の郷へと向かう。  ★道の駅「上品の郷」に車中泊する。

□二〇二一年四月三日(土)
 朝、バイクを車から降ろしていると、                      
「えー、バイクが積めるんですか。いいなあ。ちょっと中を見せて貰って良いですか?」
と、質問攻めにあい一時間ほど出発が遅れた。鼻高々に会話が出来たので、気分の良い一時間だった。
 石巻運動公園に向かうと、聖火台の台座が残されていた。台座を撮影し、県道二号線に向かう。渡波地区を訪れると、慰霊碑が建てられていた。三基の石碑が建ち、角柱の石碑には「東日本大震災犠牲者 慰霊碑」と彫られていた。更に石碑の左側には、
●「あの日を忘れない」
平成二十三年(二〇一一)三月十一日 午後二時四十六分、三陸沖深さ二四㎞を震源と する国内観測史上最大となるマグニチュード九・〇の地震が発生し、石巻市は医大震度 六強の激しい揺れに見舞われ、その後沿岸部全域に襲来した巨大津波の高さは牡鹿地区 の観測地点で最大八・六m以上をを観測し、死者三六九七名もの尊い生命が無惨に奪わ れた他、家屋、工場等を破壊し、壊滅的な被害をもたらした。
今なお多くの方々が行方不明となっており、深い傷跡と悲しみの記憶を残すこととな った。
先祖伝来守り継がれてきた当渡波地区においては、ここ浜松公園付近に押し寄せた津 波の浸水の深さが四・七mと推定され、五一九名の尊い生命が奪われ、地区全体で六三 〇七世帯のうち約二九〇〇世帯が被災し生活は困難を極めたが、全国から沢山の温かい 支援を受けながら地域一丸となって再建を目指した。
ここに、犠牲になられた方々の安らかな眠りと失われた命の尊さを思い、被災地とし ての経験と教訓を後世に伝承するため、この碑を建立する。
                    令和二年四月吉日建立
 渡波中学校跡地と市立女子商高跡地は緑化公園になっていたが、周りがパイプフェンスで囲われていたので中にはいることが出来なかった。渡波小学校を訪れると、桜が咲いていた。その桜は新たに植樹された桜だった。
 県道二号線を走行して、「鮎川」へと向かう。県道二号線は新しい道路(カーブを少なくして、直線道路にしていた。)を作るために、片側通行が何カ所かあった。洞仙寺で撮影をしていると、初めて住所に会った。住職には今まで撮影を続けていたことを話し、今回訪れたらホームページのアドレスがペンキで消されていたことを尋ねたら、「ホームページを見る人が少ないから。」と答えてくれた。改めて古い震災の碑を撮影すると、文字が津波でキズついているのが分かった。「昭和八年、三月三日、地震があったら津浪の用心。忘るな火元の注意。先に老幼つづいて避難第一」
 大原に到着すると、目的の「安寧桜」を確認する。桜の花が、咲いていた。石碑に変わた文字と桜の花が写るように撮影する。広角レンズで「安寧桜」の文字をメインにシャッターを切ったら、桜の花が分からなくなってしまった。完成した防潮堤と文字だけが、はっきりと写っていた。残念ながら、はっきりと写っていたのは大原小学校の満開の桜だけだった。
 鮎川に到着すると、駐車場にバイクを止める。ジェベルが止めてあったので、セローを隣に止める。トイレ休憩を済ませ、駐車場に戻るとジェベルのオーナーがいた。仙台市内から、日帰りで牡鹿半島を訪れたと言っていた。仙台市内はコロナ感染者が増加傾向にあるので不安が残るとも言っていた。                         県道四十一号線を走行して女川へと向かう。一度走行していたが、今回は震災から十年が過ぎたので訪れることにした。「八幡神社、鮫浦湾の防潮堤」は初めて撮影するが、「谷川小学校の石碑」は二度目だった。石碑が移動された気がしたので、今回も撮影する。五部浦湾の五十鈴神社と防潮堤家は撮影した記憶があるが、基礎がまだ残っているので撮影する。
 「牧浜」はバス停があり小さな漁師町だったが、その先が全く分からなかった。最終的には地元の人に道を尋ねながら小網倉浜団地を経て、県道二号線に出る。結局「大原IC」からコバルトラインを走行して女川へと向かう。改めてロードマップを見て分かったことは、「牧浜」に出たことが間違えと分かった。
 午後一時過ぎ、女川に到着する。高台の病院駐車場から撮影していると、七十七銀行の慰霊碑はまだあった。今回の目的である「浪分け櫻」を確認しに、市役所を訪れる。「浪分け櫻」は、満開だった。海と桜の木と「希望の鐘」が分かるように、撮影する。
 街並みを撮影していると、駅前の交番横に古い石碑があった。「津浪」「用心」の文字だけがかろうじて読めるが、後は汚れていて読めない。遅くなったランチは、女川で食べた。マグロ丼千三百円は、おいしかった。
 東日本大震災遺構「旧女川交番」を撮影すると、国道三九八号線を走行して女川から雄勝へと向かう。テントを張ろうと思った「金華山展望台」は、桜が満開だったが閉鎖されていた。国道沿いに続く桜並木を走行する目的で訪れたことを思い出しながら、セローで走行する。午後二時半過ぎ雄勝に到着する、桜が満開だった。新しくできた道の駅では、牡蛎が安かった。防潮堤が続く道の駅を撮影すると、「雄勝病院慰霊碑」へと向かう。
 「安寧桜」は、満開だった。慰霊碑と桜の花が写るように撮影する。撮影すると、海が見えず防潮堤だけが写っていた。高台に建てられた慰霊碑とモニュメントを撮影すると、「雄勝ローズガーデン」へと向かった。
砂利が敷き詰められている駐車場には、「雄勝ローズファクトリーガーデン」と書かれた立て看板が立てられていた。敷地は更に広くなっていた。園内を撮影することが多かったが、今回は高台に作られた国道から撮影する。ローズガーデンの変化が分かるように、新しい国道を撮影しながら撮影する。
 午後三時半、大川小を訪れる。外から数枚撮影すると、敷地内には入らず長面地区へと向かう。竜谷院を訪れると、「手合わせ桜」が満開だった。長面地区は、防潮堤と橋が完成していた。道の駅に戻るとき、満開の桜を北上川で撮影する。
★道の駅「上品の郷」に車中泊する。

□二〇二一年四月四日(日)
 曇り空の下、午前中の予定で門脇へと向かう。県道三十三号線を走行し、「石の森マンガ館」へと向かう。「東内海橋」が撤去されて、新しくできた「内海橋」が通行できるようになっていたが、新しい橋では「石の森マンガ館」を訪れることは出来なかった。残されている「西内海橋」を渡ると、マンガ館に出ることが出来た。
 道路改修工事の中で、「旧石巻ハリスト正教会教会堂」が修復公開されていた。更地の中に立つ白い建物は、美しかった。建物だけを見たら、災害があったことが分からないかと思われるほど美しい建物だった。壊れていた建物は、今回は解体されてしまっていた。今回の目的の中に、「何故建物を解体せずにいるのか?」それを確認するためにこの場所を訪れたのだが?
 「石の森マンガ館」から日和山公園を訪れたが、駐車場は満車で混んでいた。諦めて、「きずな地蔵」方面から階段をのぼる。何故かタイ人が多く、混雑していた。日和山公園から門脇地区を撮影し、「津浪伝承館」を訪れるが、コロナで閉鎖中だった。前回は敷地内に入れなかったが、今回は入ることが出来た。
 雨が降ってきたので、慌てて道の駅に戻る。バイクを積み込むと、三陸道を走行して「ワイルド1」を訪れる。雨が強かったので、ブックオフにも立ち寄る。午後二時半過ぎ、県道十号線を走行して「旧中浜小学校」を午後四時過ぎに訪れる。責任者が       
「申し訳ございません。午後四時を過ぎましたので受付を終了させていただきました。」
と、車に近づいて私に言った。私は
「建物には入りません。鯉のぼりだけ撮影させて貰えれれば結構です。かまいませんか?」
と、車の窓を開けて大きな声で尋ねた。
 鯉のぼりを撮影すると、新地駅前のホテルで「つるしの湯」に入る。日曜日なのか、九百円だった。
★道の駅「そうま」に車中泊。車中泊はいたが、全て地元ナンバーだった。

□二〇二一年四月五日(月)
 午前九時半過ぎに萱浜を訪れると、菜の花畑が一面に広がっていた。先週訪れたときには咲いていなかったが?雨が降っていたので、なるべく空は入れないように撮影をした。
再び国道六号線に出ると、パワースポットの看板に導かれて「円明院」を訪れる。駐車場近くには、「東日本大震災慰霊塔」
●「大震災記録碑」
小浜地区住民は、東日本大震災とその後の福島第一原子力発電所の事故により長期に 亘る避難で家族及び地域の分断余儀なくされた。
ここに震災前の小浜地区住民名を後世に残すため記録碑を設立した。
 雨が降っていたので車の窓から撮影だけすると、再び国道六号線へと向かった。国道に出るために太田川に沿って走行していると、右側に除線廃棄物置き場が見えた。ゲートから中を撮影すると、廃棄物は全て移動されていた。                  国道に出ると再び国道六号線を南下する。小高にはいると、十字路を左折して甲子橋を渡り、県道二六〇号線を走行して海岸へと向かう。途中、左側に「震災十年復興祈願桜 令和三年三月十四日」と書かれた看板があった。桜の花は、咲いていた。小高川を渡り、海岸に沿って走行する。ソーラーパネルと防災林造成の盛土を行っていた。そのまま走行していたら請戸に出た。慰霊碑を訪れると、前回咲いていなかった「宇宙櫻」は、咲いていた。
道の駅「なみえ」でトイレ休憩をすると、案内所で
「すいません。今回の原発事故で牛を安楽死させた農家の方が、『牛の慰霊碑』を作ったと聞いたのですが、場所が分かれば知りたいのですが?」
と、尋ねると
「浪江町ですか?」
と、逆に尋ねられてしまい。私は
「福島県内だけとしか、分かりません。」
と、答えると
「申し訳ございませんが、福島県内だけでは分かりませんね。役場で尋ねた方が良いと思いますよ。前の建物が浪江町役場ですから・・・。」
と、言われてしまった。
雨の中浪江町役場を訪れると、私は同じように尋ねた。担当職員は、
「浪江ではないと思います。富岡町役場で尋ねて貰うと分かるかも知れませんから、そちらでお尋ね下さい。」
と、再び言われてしまった。
私はナビを頼りに、今度は富岡町役場を訪れた。私が同じように尋ねていると
「すいません。せめて何町か分かれば調べることも可能なのですが、福島県内だけでは難しいですね・・・。」
と、言われていると
「お話中すみません。今、ネットで調べてみたのですが、これですかね?」
と言いながら、違う職員がプリントアウトした用紙を持ってきてくれた。私がそれを見ながら
「これです。よかったあ!ありがとうございます。」
と、一人で喜んでいると
「その地図だけで、場所は分かりますか?」
と、最初の担当職員が尋ねてきたので、私は
「ナビがあるから大丈夫です。本当にありがとうございました。」
と、お礼を言っていると別の職員が
「慰霊碑の近くに工場があるので、今からその工場の住所を言いますからメモの用意は良いですか?」
と言いながら、住所を教えてくれた。
ナビに従って走行すると、市内からかなり離れていた。場所は、直ぐに分かった。大きな慰霊碑が見えた。慰霊碑の後ろには、桜の木があった。雨で桜が散り始めていた。
●「碑文」
平成二十三年(二〇一一年)三月十一日、午後二時四十六分、三陸沖を震源とするM 九・〇震度七、突如として東日本を襲った巨大地震は、家屋の倒壊を始めとする甚大な 被害のほか、十五メートル超の大津波により沿岸部のほとんどを流失せしめ多くの方や 家畜が犠牲となった。さらに地震と大津波は東京電力福島第一原発に於いて世界最大級 の原発事故を引き起こし、次々と水素爆発する原発から放射性物質が拡散、周辺市町村 約十五万人が避難を余儀なくされた。
この事態を前に本組合員の多くは、残してきた牛に餌を与えるため毎日避難所から通 ったが、警戒区域等が設定され厳しく立ち入りが制限されるに及んで管理を断念せざる を得なくなり、餓死に至った牛が多数出た。
また、餓死させるに及びず牛舎から出して分かれてきた牛は、放れ家畜となり食べ物 を捜しながら健気にも生き続けたが、同年五月になり国は警戒区域内の家畜については 放射能汚染物質として生産者の同意を得た上での安楽死処分を指示するに至った。それ 以来平成二十六年二月に至るまで、管内約千七百頭の牛が安楽死処分されたこの地に眠 る。
愛牛たちを、わが子同様にいとおしみ育んできた生産者にとっては、いま断腸の思い あるの上。二度とふたたび原発事故の惨害と犠牲を被ることのないことを強く願うもの である。
願みて六組合に、明治二十三年設立の双葉産馬組合以来改組を重ね、昭和二十三年か らは双葉畜産農業協同組合として営々と「双葉の子牛」の育成を図り双葉家畜市場の今 日を築いてきた。
犠牲となった数多くの愛牛の冥福を祈りつつ、放射能に汚染されたこの地で再び和牛 産地を築きあげることは極めて困難なことではあるが、本組合いの再興を約して慰霊碑 を建立するものである。
         平成二十八年三月吉日建立 双葉畜産農業協同組合
☆雨の中で撮影しましたが、白い文字が消えてしまい、彫った後の文字だけが残る文章も ありました。右側の巨大な石碑には、「鎮魂」と大きく文字が刻まれていました。例年 より二週間ほど早く咲いてしまった桜の花びらが、敷地内には散っていました。
 再び国道に出ると、国道六号線を南下しながら、「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」と書かれた、満開を迎えた桜を撮影する。雨ではあったが、目的の満開の桜を撮影できたので良かった。
 新しい楢葉中学校を撮影すると、木戸駅を訪れる。ホームには、満開の桜が咲いていた。
再び国道に出ると、今回は初めて「広野駅」を訪れる。トイレ前に車を止めると、陸橋から街並みを撮影する。国道側には古い街並みが見え、海側には巨大なビルが建てられていた。海側は駅前だけが栄えていて、後は更地が続いていた。
 午後二時過ぎ、久之浜を訪れると、新しい街並みが出来ていた。以前撮影した鳥居を訪れる。赤い鳥居が新しく建てられ、敷地内にはスイセンの花が咲いていた。大きな慰霊碑が建てられていたので、撮影する。。中央に大きな文字で「東日本大震災追憶伝承の碑」と文字が刻まれ、右側には赤い文字で「大地震が起きたら大津波が来る。」左側も赤い文字で「直ぐ逃げろ、高台へ。一度逃げたら絶対戻るな。」
●「碑文」
平成二十三(二〇一一)年三月三十一日午後二時四十六分、三陸沖(約三八〇キロメ ートル)を震源とするマグニチュード九・〇の巨大地震が発生した。これに連動して、 岩手県沖と茨城県沖を震源とする余震が相次ぎ、東北・関東地方の沿岸部に大津波が押 し寄せた。
いわき市久之浜地区でも最大震度六弱の激しい揺れが五分ほど続き、多くの家屋が損 壊するとともに、急激な引き潮で海中の岩礁がむき出しになった。やがて午後三時二十 三分ごろ、東南方向から津波の第一波が押し寄せた。海岸堤防がこれを防ぎ、安堵した のも束の間、同三時三十分ごろ、今度は波高七・四五メートルの巨大津波が家々を襲い、 田之絹、久之浜、金ヶ沢、未続地区の津波被災世帯数は六〇七世帯を数え、五十九名の 尊い命が失われた。
さらに、北町付近から火災が発生し、北西の風にあおられて七十一戸が焼失した。
翌日午後には、久之浜の北三十キロメートルに位置する東京電力福島第一原子力発電 所の建家が水素爆発を起こし、全地区民が避難を余儀なくされた。避難所等で亡くなっ た住民も十名に及んだ。
過去に類を見ない複合災害であり、この事故により、地区復興が大きく遅れることと なった。
以来七年よ、多くの方々の支援を得て、住民こぞって地域の再生に奮闘し当地の復興 は確実に歩み続けている。
人口減少、少子、高齢化が進むなか「気っぷがよく義理人情に厚い」といわれてきた 久之浜の先人の心を引き継ぎ、未来にそのバトンをつなごうとしている。
ここに、愛する故郷を子々孫々に至るまで伝えていくことを願い、鎮魂の祈りの証し として当碑文を刻む。
 道の駅「よつくら」に車中泊するので、入浴施設を探す。道の駅で「簡保の宿」で入浴出来ることが確認できたので、簡保の宿へと向かう。八五〇円だったが、広く落ち着いていて良かった。
★道の駅「よつくら」に車中泊。車中泊は多かった。

■二〇二一年四月六日(火)
 県道三八二号線を走行して、豊間へと向かう。新しく拡張された県道を走行していると、完成した水門が見えた。また、県道に沿って防潮堤も完成していた。県道右側に、石碑が建てられていた。「東日本大震災薄井神社復興参道鳥居再建記念 平成三十年三月吉日」
 海沿いの「沼の内防災直地」を撮影すると、午前八時半旧豊間中学校跡地を訪れる。「豊かな人間性」と彫られた石碑の左側には、「旧豊間中学校の思い出」と書かれた説明文があり、写真と文言が載っていた。
 緑地公園を撮影していると、道路沿いに「いわき震災伝承みらい館」と書かれた建物が建てられていた。私が建物を撮影しようと玄関の前でカメラを構えていたら
「すいません。午前九時にならないと開館しません。」
と、突然女子職員に言われてしまった。私は慌てて
「大丈夫です。建物を撮影するだけですから・・・。」
と、答えた。
緑地公園から、「塩屋崎灯台」へと向かう。大きくカーブした駐車場周辺が道路工事中で、車を止める場所に戸惑ってしまったが、止めることは出来た。私は新しく建て替えられたお店の右側に石碑があることに気が付き、石碑に近づいた。石碑には「記憶石」と文字が刻まれ、「塩屋崎灯台」の絵も描かれていた。石碑の左側には立て看板が立てられて、未来への希望「記憶石」と書かれていた。
●未来への希望「記憶石」
二〇一一年三月十一日 午後二時四十六分
ここ塩屋崎灯台を臨む豊間・薄磯・沼の内の三区は、東日本大震災による大地震と大津 波により甚大な被害に見舞われました。
八・五メートルを超える大津波は、多くの家屋や学校、民宿、店舗などを破壊させ、二 百名以上の尊い命を奪い去っていきました。
時間の経過とともに私達の記憶を伝えることは難しくなってきています。震災の記憶、 教訓や経験を風化させず、次の世代、また次の世代へと連綿と繋げていくために私たち にできること「亡くなった方々の分も生きる、そして伝え続ける」建立された「記憶石」 はその思いを形にしたもののひとつです。
「記憶石」には、震災の記憶と未来への希望が込められています。碑全面には津波で命 を落とした地元の小学生の灯台の絵を採用しました。震災前と変わらない、唯一の姿で あり続ける塩屋崎灯台白亜の灯台は今日も、海とまちの暮らしを照らし続け、その麓で 人々は祈り、花を手向け続けています。震災の記憶と未来への希望をこめて
                  二〇一九年十二月 記憶石実行委員会
 再び駐車場から幹線道路を走行し、峠を下ると新しい豊間の街並みが見えてきた。海岸に沿って走行すると、左側に人が立っていた。実際には、人間ではなく「復興祈願『海をみる』二〇一六年十二月十七日」と書かれた像だった。シャツを着ていたので、最初私は人と勘違いしてしまったが、通りすぎるときに顔が銅像だったので人間ではないことが分かった。車を止めて近づき、私はシャッターを切った。
前回訪れた宅地を訪れると、新しい石碑が建てられていた。石碑を撮影すると、新しく建てられた建物が見えた。
●「東日本大震災慰霊碑」
 私たちには忘れようとしても忘れられない。平成二十三年(二〇一一年)三月十一日、 午後二時四十六分、東日本大震災が発生、豊間地区は、巨大地震に伴う高さ八・五mの 大津波に襲われ、壊滅的な被害を受けた。流失家屋は四百戸を超え、住民八十五名もの 尊い命が失われた。
ここに、この地で亡くなられた方々の御霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇 が起きないよう、大地震の教訓の継承と安全で住みよい「ふるさと豊間」の再生を願い、 この碑を建立する。
     平成三十一年(二〇一九年)三月十一日 豊間区ふるさと豊間復興協議会
石碑を撮影し、新しく区画整理された宅地を撮影していると、緑地公園前に石碑が建っていた。撮影した記憶がなかったので、撮影をする。撮影した石碑の周りには、震災前から建てられていたと思われる石碑が、たくさん置かれていた。
●「鎮魂碑」
この地には四百年余の歴史を有すと伝えられる共同墓地があった。しかし、平成二十 三(二〇一一)年三月十一日、東日本大震災が発生、その災禍は生きる者の身の上だけ ではなく先人達の怨霊にも及んだ。
今、私たちは深い悲しみの洞から立ち上がり、皆で力を合わせ、豊かな地域の建設に 向けた取り組みを進めている。そのなかで、この地に眠る御霊には他の安住の地にお移 りをいただいた。
先人たちの御霊と大地震で亡くなられた人々の御霊を慰め、さらには、大震災の記憶 を後世に伝えるため、この碑を建立した。
                   豊間共同墓地管理委員会 建立
撮影を続けながら海岸沿いを走行していると、右側にコンビニが見えた。私が何度も立ち寄っていたコンビニだったので迷わずに駐車場に車を止めて店内に入った。ホットコーヒーと菓子類を購入すると、車に戻りカメラを取り出してコンビニ周辺の撮影を行った。建物は、確実に増えていた。
海岸沿いに走行し、今回は初めて「マリンタワー」を訪れる。散り始めた桜をマリンタワーの駐車場で撮影すると、国道六号線へと向かって走行する。今回は、混雑する県道十五号線に沿って走行し、国道に出ることが出来た。
小浜町にはいると、国道を左折して小浜漁港を訪れる。二度ほど訪れていたので、興味津々に訪れてみると防潮堤を建設中だった。また、緑地公園の代わりに「小浜 震災復興土地区画整理事業竣工記念碑 平成三十年七月」と書かれた、小さな公園が完成していた。
漁港周辺を撮影すると、再び海岸に沿って南下した。正面に火力発電所が見えてくると、海岸沿いに緑地公園が見えた。車を緑地公園の駐車場に止めて撮影を行っていると、卵形のモニュメントが海沿いにあった。モニュメントの左側には、説明の書かれた看板が設置されていた。私は、火力発電所とモニュメントが写るように、説明文の書かれた看板を撮影した。
●モニュメント「きみと」とカプセル
特定非営利活動法人勿来まちづくりサポートセンターが東京芸藝大学等の協力を得  て、モニュメントとタイムカプセルが平成三十年九月十六日に防災緑地内に設置されま した。モニュメントは卵形の形状をしており、自然界では起こりえない位置で立ってい て孵化を待つ生命の力強さと震災から立ち上がる人々への希望を表しています。タイム カプセルは、東日本大震災を後世に語り継ぐことを目的に設置され、震災から二十年後 の二〇三一年三月十一日に開けられます。                      モニュメントの名称は、募集により市内の小 学生の案が選ばれました。「きみ」に は、「私たちのきおく(記憶)をみらい(未来)へともにとどける(届ける)」という メッセージの頭文字と、モニュメントの形状(卵形)から、卵のきみ(黄身)がものご との中心を表し、それが人々の輪がまるくつながっていく大切さやそれぞれの大切なこ となどを想う気持ちが込められています。
 緑地公園の反対側には、「岩間 震災復興土地区画整理事業竣工記念碑 平成三十年六月」と書かれた、小さな公園が完成していた。更に海岸沿いを南下すると、左側に被災した防潮堤が残されていた。私は書かれた説明文が分かるように、残された防潮堤を撮影した。
●「被災防潮堤のモニュメント」
東日本大震災で破壊した防潮堤の一部(六十三トン)です。地元の方々の要望を受け て、震災の記憶を風化させないことを目的として、モニュメントとして防災緑地公園に 設置しました。
再び国道六号線に出ると、私は国道六号線を南下した。「勿来」から「北茨城市」に入ると、大津漁港に立ち寄る。駐車場でバイクを降ろし、バイクで撮影をする。大津漁港から海岸沿いに走行して、勿来へと向かう計画で大津漁港を出る。何度も訪れている大津漁港で「大津町空襲慰霊碑」を発見する。震災には関係ないが、とりあえず撮影する。一度自転車で撮影を行っていたが、未だに被災した建物が残っていたり、基礎が残されている場所があることには驚いた。
大津漁港から海岸沿いに沿って走行していると、右側に石碑が建てられていた。私は震災に関する石碑と思い撮影する目的で近づいたが、それは違っていた。石碑には大きな文字で、「風船爆弾放流地点 わすれじ平和の碑」と文字が彫られていた。近くにその基地があることが分かったので、訪れる。獣道もあったが、セローだったのでそのまま走行した。訪れると、その基地跡がはっきりと残っていた。 
 再び海岸沿いに走行すると、平潟漁港に到着してしまった。平潟漁港には、「新型コロナウィルス感染拡大防止のため、一般の方は漁港への立ち入りを自粛願います。」と書かれた看板とバリケードが置かれてで入りが出来ないようになっていた。漁港には、「鮟鱇の慰霊碑」が置かれていた。訪れるたびに、漁港が寂れていくような基がした。
国道六号線に出ると、勿来海岸の駐車場を訪れる。桜の花が散り始め、桜を撮影していると「東日本大震災記録碑」「東日本大震災復興祈念植樹 そめいよしの(三十本) 平成二十四年」と書かれた白い角柱が見えた。勿来海岸を撮影すると、再び大津漁港に戻った。大津漁港でランチにする。刺身定食千百円は、うまかった。
 ランチが終えると、再び国道六号線を南下する。北茨城月浜温泉を訪れると、防潮堤が完成していた。防潮堤を歩きながら撮影していると、家屋解体が終わり更地になっていた。重機が更地で、宅地にする作業を行っていた。
 日立市にはいると、国道二四五号線を走行し、日帰り入浴施設に立ち寄る。何度か利用していたので迷うことはなかった。海が見える温泉は、何度訪れても開放感があった。
★道の駅「日立おさかなセンター」で車中泊。少なかった。ホテルは、休業していた。

□二〇二一年四月七日(水)
 国道を外れて、「阿字ヶ浦」を訪れる。寂れてしまった阿字ヶ浦海岸を撮影すると、県道六号線を南下する。一度訪れていた「磯崎小学校」を訪れるつもりで県道を走行していたが、知らない間に通りすぎてしまい立ち寄ることを諦める。県道六号線は拡張工事が行われ、新しい県道六号線が作られていた?
 那珂湊公園は、満車で車を駐車するのに時間がかかってしまった。那珂湊から大洗を訪れると、駐車場沿いのレストランはやっていた。大洗海浜公園の時計は止まったままだった。
<完結>
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