第4話
文字数 3,611文字
飛び上がるように起き上がったマーリンは、すぐさま夢から覚めたことを確認するため自分の周囲を見渡した。
いつもの自分の部屋に炎が広がって見え、けれどそれは、マーリンが悲鳴を上げる間もなく消えていった。
マーリンはベッドの上で、自分の体を抱きしめるようにうずくまった。
胸の中で様々な感情が入り乱れている。それをなんとか押さえないと、自分の心が負の感情に囚われ、悪い感情の波にさらわれて飲み込まれてしまいそうだった。
部屋の時計の音が、いつもより大きく聞こえる。マーリンがその時計の音に耳を傾けていると、突然外から女の悲鳴が聞こえた。
それは、夢の中で聞いた村の女たちの悲鳴によく似ていた。
マーリンはベッドから下り、おぼつかない足取りで部屋から出ると、一段一段確認するように階段を下りた。
そうして階下にたどり着くと、薄暗い廊下の先にある玄関の前に、黒ウサギが座っていることに気がついた。
マーリンが黒ウサギの元へ駆け寄ると、黒ウサギは玄関のドアをカリカリとひっかいた。黒ウサギを抱き上げ、マーリンは玄関のドアを肩で押し開ける。飛び込んできた陽の光がまぶしくて、一瞬目がくらんだ。
開かれたドアの向こう側に、見慣れた大通りが見えた。
見慣れているはずなのに、微かな違和感がある。違和感の正体は目の前にあった。
真っ白なローブをまとい、大通りの真ん中に佇んでいる人。その背には、金色の鳥が刺繍してある。
マーリンはその白いローブと金の刺繍を見て、先ほどの夢を思い出し、ここはまだ夢の中なのかと不安になった。現実と夢の境目がわからない。
マーリンが玄関の前で立ち止まっていると、白ローブの人物はマーリンの方をゆっくりと振り返った。フードを目深にかぶっていたので、容姿や表情はわからない。
マーリンはその白ローブの人物に何か言おうとしたが、とっさに出てくる言葉がなかった。
「おや、マーリン? どうしたんだね、そんな格好で」
突然自分の名前を呼ばれ、マーリンは驚き、声のした方を見た。
するとそこにはロングコートを着た初老の男が、大きなトランクを持って立っていた。
「ガルウイングさん……」
マーリンが名前を呼ぶと、その初老の男はにんまりと大きな口を横に広げ笑った。
「いや、いや、まったく、荷物が多くてかなわん。船を下りるまではよかったんだが……コルトは家にいるかね?」
ガルウイングはトランクを下ろし、コートのポケットからハンカチを取り出すと、かぶっていた帽子をとり額の汗を拭った。マーリンが何も言わずその様子を見ていると、ガルウイングは心配そうにマーリンの顔を覗き込んだ。
「なんだ、なんだ、そんなに青い顔をして。朝っぱらからおばけにでも会ったかね? それとも一ヶ月ぶりに会った私の顔を忘れてしまったのかい?」
マーリンは大きく首を振ると、大通りを見た。そこにはもう誰の姿もなかった。
「マーリン、今日は寒いぞ。裸足で外にいたら足が凍ってしまう。そのウサギも、冬眠してしまうに違いないよ」
裸足? マーリンは自分の足元を見て、あっ! と声を上げ、慌てて玄関にある自分の靴を履き、ウサギを床に置いて家のドアを閉めた。
「失礼しましたガルウイングさん。父と母は市場に出かけました。帰宅は昼過ぎだと思います」
「そうか、そうかね。じゃあ、いつもの薬を頼むとコルトに伝えてくれるかね? 明日の昼にまた来るから、それまでにお願いしたいんだ」
ガルウイングはそう言うと、コートのポケットにハンカチをしまい、再び帽子をかぶった。
「伝えておきます」
マーリンが言うと、ガルウイングは大きなトランクを持ち上げ、笑顔を向けた。
そのいたずらっぽい笑顔を見て、マーリンはここが現実世界であると確信した。それはマーリンが子供のころから見慣れているガルウイングの笑顔だったからだ。
ガルウイングがその場を立ち去ろうとしたとき、背後から二人を呼ぶ声が聞こえた。
二人が振り向くと、大きな紙袋を抱えた女と少女がこちらに向かって歩いてきているのが見えた。
それはマーリンの家の隣に住む本屋の店主アナと、娘のミルナだった。
二人はマーリンたちのもとにたどり着くと、早口でこう言った。
「そこ、そこの角で不審者が出たよ! 二人とも、戸締りに気を付けたほうが良い。ああ、なんてことだろうね、今朝の船に乗ってきた他国の人間かねぇ……かわいそうに、襲われたのは花屋のリリちゃんだ。マーリンちゃんも、気を付けたほうがいいよ! ねぇ、ミルナ?」
「そうよ! リリったら泣きながら叫んでたと思ってたら、そのあと気絶しちゃったって! よっぽどひどい目に遭わされたのよ!」
興奮した様子の二人は、戸締り、戸締り、と言いながら本屋である自宅に帰っていった。
「不審者……」
では、先ほどの悲鳴は夢じゃなかったのかと、マーリンは不安な気持ちに包まれた。あの白いローブが頭をよぎる。まさか、あの白ローブの人物だろうか?
「こわい、こわい」
ガルウイングが笑いながらそう言い、大通りを歩きだす。
「ガルウイングさんも、お気をつけて」
ガルウイングの背にそう声をかけて、マーリンは玄関のドアを開いた。
家の中へ入り、玄関のカギを閉めようとして、マーリンはふと手を止めた。
女の悲鳴、白いローブ、鳥の刺繍、不審者。繋がっているようだけど、何か違うような気がする。というか、そもそも自分が見た白いローブの人物は、本当に現実だったのだろうか?
マーリンがドアの前で考えていると、足元で黒ウサギがくるくる回り、飛び跳ねた。マーリンは黒ウサギを抱きかかえ、階段を上がり二階の自室へ戻ろうとした。すると外から話し声が聞こえ、玄関のカギを開ける音がした。
「まったくあなたは力がないわね。これくらいの荷物が何よ。可愛い女の子に鼻で笑われるわよ」
その声を聞いて、マーリンは黒ウサギを抱いたまま階段を駆け下りた。
「おかえりなさい、ママ!」
マーリンは玄関でカートの荷を下ろす母の背に声をかけた。ライオンの鬣のように広がった金髪。見慣れた後ろ姿にマーリンはほっと息を吐いた。
「マーリン、もう起きていたの? まだ九時よ?」
振り返り、母マリアはマーリンの顔を見て笑った。まるでおばけに追いかけられたようだよと、マリアはマーリンの髪を手櫛でまとめながら言った。
「ガルウイングさんにも同じこと言われたわ。わたし、そんなにひどい顔してる?」
マーリンがそう言うと、マリアは、
「世界で一番かわいい顔してるわ」
と、また笑った。
「ガルウィングに言われたということは、あの人今回の船で帰ってきたんだ? もうひと月先かと思っていたけど」
「今さっきよ。パパにいつもの薬を頼むって。明日のお昼にまた来るからって。ねぇ、どうしてこんなに帰宅が早いの? そういえばパパは?」
「そこ」
マリアはそう言って玄関の外を指さした。マーリンが玄関の外に出ると、そこには大量の荷物をつんだカートと、家の壁に寄りかかるように座るコルトがいた。
「あーもう、休んでる暇はないのよ! これから食材を店の倉庫に運ばなくちゃ!」
「なんとまあ……ママの怪力にはかなわん」
「はい? 何かいいました?」
マリアが両手に荷物を抱えながら、にっこり笑って言った。コルトはぶんぶん勢いよく首を振り、今日もお美しいですねマリアさん、と笑った。
その二人のやり取りを見て、マーリンも思わず笑ってしまった。
「ねえマーリン。あとで話があるわ」
マーリンがカートから荷物を下ろす手伝いをしていると、倉庫に向かうマリアが振り返り言った。マーリンは荷物を下ろす手を止め、再び倉庫に向かって歩き始めたマリアに声をかける。
「話って、不審者の事なら、アナおばさんとミルナに聞いたわよ?」
そう言うと、今度は背後からコルトが言う。
「違うよマーリン。話はうちの事さ。夜の喫茶店の話だ」
マーリンが振り返ると、コルトはマーリンの顔の前に紅茶の缶を突き出した。
「エルトネのダージリン。久しぶりに手に入った。おいしいお茶を飲みながら、ゆっくり話をしたいものだ」
マーリンは紅茶の缶を受け取ると、わかりました。とひとこと言い、家の中に入った。その後ろを、黒ウサギが追いかけてくる。
台所へ向かい、お湯を沸かす。マーリンはため息をついた。
みんなでお茶を飲むのは楽しい。けれど今日は、そうではないだろう。
マリアが「あとで話がある」と言い、コルトが紅茶を淹れるように促す。
この二つが揃うときは、大抵良い話ではないことをマーリンはよくわかっている。
マーリンは先ほど受け取ったエルトネ王国の紅茶缶を見つめた。缶の金色が、白フードの金の刺繍を思い出させる。
足元でくるくる回る黒ウサギを抱きかかえ、大通りの白ローブの人物は幻だったのかもしれないとマーリンは思った。
そうでなければ、あの夢も現実になりそうで怖かった。
いつもの自分の部屋に炎が広がって見え、けれどそれは、マーリンが悲鳴を上げる間もなく消えていった。
マーリンはベッドの上で、自分の体を抱きしめるようにうずくまった。
胸の中で様々な感情が入り乱れている。それをなんとか押さえないと、自分の心が負の感情に囚われ、悪い感情の波にさらわれて飲み込まれてしまいそうだった。
部屋の時計の音が、いつもより大きく聞こえる。マーリンがその時計の音に耳を傾けていると、突然外から女の悲鳴が聞こえた。
それは、夢の中で聞いた村の女たちの悲鳴によく似ていた。
マーリンはベッドから下り、おぼつかない足取りで部屋から出ると、一段一段確認するように階段を下りた。
そうして階下にたどり着くと、薄暗い廊下の先にある玄関の前に、黒ウサギが座っていることに気がついた。
マーリンが黒ウサギの元へ駆け寄ると、黒ウサギは玄関のドアをカリカリとひっかいた。黒ウサギを抱き上げ、マーリンは玄関のドアを肩で押し開ける。飛び込んできた陽の光がまぶしくて、一瞬目がくらんだ。
開かれたドアの向こう側に、見慣れた大通りが見えた。
見慣れているはずなのに、微かな違和感がある。違和感の正体は目の前にあった。
真っ白なローブをまとい、大通りの真ん中に佇んでいる人。その背には、金色の鳥が刺繍してある。
マーリンはその白いローブと金の刺繍を見て、先ほどの夢を思い出し、ここはまだ夢の中なのかと不安になった。現実と夢の境目がわからない。
マーリンが玄関の前で立ち止まっていると、白ローブの人物はマーリンの方をゆっくりと振り返った。フードを目深にかぶっていたので、容姿や表情はわからない。
マーリンはその白ローブの人物に何か言おうとしたが、とっさに出てくる言葉がなかった。
「おや、マーリン? どうしたんだね、そんな格好で」
突然自分の名前を呼ばれ、マーリンは驚き、声のした方を見た。
するとそこにはロングコートを着た初老の男が、大きなトランクを持って立っていた。
「ガルウイングさん……」
マーリンが名前を呼ぶと、その初老の男はにんまりと大きな口を横に広げ笑った。
「いや、いや、まったく、荷物が多くてかなわん。船を下りるまではよかったんだが……コルトは家にいるかね?」
ガルウイングはトランクを下ろし、コートのポケットからハンカチを取り出すと、かぶっていた帽子をとり額の汗を拭った。マーリンが何も言わずその様子を見ていると、ガルウイングは心配そうにマーリンの顔を覗き込んだ。
「なんだ、なんだ、そんなに青い顔をして。朝っぱらからおばけにでも会ったかね? それとも一ヶ月ぶりに会った私の顔を忘れてしまったのかい?」
マーリンは大きく首を振ると、大通りを見た。そこにはもう誰の姿もなかった。
「マーリン、今日は寒いぞ。裸足で外にいたら足が凍ってしまう。そのウサギも、冬眠してしまうに違いないよ」
裸足? マーリンは自分の足元を見て、あっ! と声を上げ、慌てて玄関にある自分の靴を履き、ウサギを床に置いて家のドアを閉めた。
「失礼しましたガルウイングさん。父と母は市場に出かけました。帰宅は昼過ぎだと思います」
「そうか、そうかね。じゃあ、いつもの薬を頼むとコルトに伝えてくれるかね? 明日の昼にまた来るから、それまでにお願いしたいんだ」
ガルウイングはそう言うと、コートのポケットにハンカチをしまい、再び帽子をかぶった。
「伝えておきます」
マーリンが言うと、ガルウイングは大きなトランクを持ち上げ、笑顔を向けた。
そのいたずらっぽい笑顔を見て、マーリンはここが現実世界であると確信した。それはマーリンが子供のころから見慣れているガルウイングの笑顔だったからだ。
ガルウイングがその場を立ち去ろうとしたとき、背後から二人を呼ぶ声が聞こえた。
二人が振り向くと、大きな紙袋を抱えた女と少女がこちらに向かって歩いてきているのが見えた。
それはマーリンの家の隣に住む本屋の店主アナと、娘のミルナだった。
二人はマーリンたちのもとにたどり着くと、早口でこう言った。
「そこ、そこの角で不審者が出たよ! 二人とも、戸締りに気を付けたほうが良い。ああ、なんてことだろうね、今朝の船に乗ってきた他国の人間かねぇ……かわいそうに、襲われたのは花屋のリリちゃんだ。マーリンちゃんも、気を付けたほうがいいよ! ねぇ、ミルナ?」
「そうよ! リリったら泣きながら叫んでたと思ってたら、そのあと気絶しちゃったって! よっぽどひどい目に遭わされたのよ!」
興奮した様子の二人は、戸締り、戸締り、と言いながら本屋である自宅に帰っていった。
「不審者……」
では、先ほどの悲鳴は夢じゃなかったのかと、マーリンは不安な気持ちに包まれた。あの白いローブが頭をよぎる。まさか、あの白ローブの人物だろうか?
「こわい、こわい」
ガルウイングが笑いながらそう言い、大通りを歩きだす。
「ガルウイングさんも、お気をつけて」
ガルウイングの背にそう声をかけて、マーリンは玄関のドアを開いた。
家の中へ入り、玄関のカギを閉めようとして、マーリンはふと手を止めた。
女の悲鳴、白いローブ、鳥の刺繍、不審者。繋がっているようだけど、何か違うような気がする。というか、そもそも自分が見た白いローブの人物は、本当に現実だったのだろうか?
マーリンがドアの前で考えていると、足元で黒ウサギがくるくる回り、飛び跳ねた。マーリンは黒ウサギを抱きかかえ、階段を上がり二階の自室へ戻ろうとした。すると外から話し声が聞こえ、玄関のカギを開ける音がした。
「まったくあなたは力がないわね。これくらいの荷物が何よ。可愛い女の子に鼻で笑われるわよ」
その声を聞いて、マーリンは黒ウサギを抱いたまま階段を駆け下りた。
「おかえりなさい、ママ!」
マーリンは玄関でカートの荷を下ろす母の背に声をかけた。ライオンの鬣のように広がった金髪。見慣れた後ろ姿にマーリンはほっと息を吐いた。
「マーリン、もう起きていたの? まだ九時よ?」
振り返り、母マリアはマーリンの顔を見て笑った。まるでおばけに追いかけられたようだよと、マリアはマーリンの髪を手櫛でまとめながら言った。
「ガルウイングさんにも同じこと言われたわ。わたし、そんなにひどい顔してる?」
マーリンがそう言うと、マリアは、
「世界で一番かわいい顔してるわ」
と、また笑った。
「ガルウィングに言われたということは、あの人今回の船で帰ってきたんだ? もうひと月先かと思っていたけど」
「今さっきよ。パパにいつもの薬を頼むって。明日のお昼にまた来るからって。ねぇ、どうしてこんなに帰宅が早いの? そういえばパパは?」
「そこ」
マリアはそう言って玄関の外を指さした。マーリンが玄関の外に出ると、そこには大量の荷物をつんだカートと、家の壁に寄りかかるように座るコルトがいた。
「あーもう、休んでる暇はないのよ! これから食材を店の倉庫に運ばなくちゃ!」
「なんとまあ……ママの怪力にはかなわん」
「はい? 何かいいました?」
マリアが両手に荷物を抱えながら、にっこり笑って言った。コルトはぶんぶん勢いよく首を振り、今日もお美しいですねマリアさん、と笑った。
その二人のやり取りを見て、マーリンも思わず笑ってしまった。
「ねえマーリン。あとで話があるわ」
マーリンがカートから荷物を下ろす手伝いをしていると、倉庫に向かうマリアが振り返り言った。マーリンは荷物を下ろす手を止め、再び倉庫に向かって歩き始めたマリアに声をかける。
「話って、不審者の事なら、アナおばさんとミルナに聞いたわよ?」
そう言うと、今度は背後からコルトが言う。
「違うよマーリン。話はうちの事さ。夜の喫茶店の話だ」
マーリンが振り返ると、コルトはマーリンの顔の前に紅茶の缶を突き出した。
「エルトネのダージリン。久しぶりに手に入った。おいしいお茶を飲みながら、ゆっくり話をしたいものだ」
マーリンは紅茶の缶を受け取ると、わかりました。とひとこと言い、家の中に入った。その後ろを、黒ウサギが追いかけてくる。
台所へ向かい、お湯を沸かす。マーリンはため息をついた。
みんなでお茶を飲むのは楽しい。けれど今日は、そうではないだろう。
マリアが「あとで話がある」と言い、コルトが紅茶を淹れるように促す。
この二つが揃うときは、大抵良い話ではないことをマーリンはよくわかっている。
マーリンは先ほど受け取ったエルトネ王国の紅茶缶を見つめた。缶の金色が、白フードの金の刺繍を思い出させる。
足元でくるくる回る黒ウサギを抱きかかえ、大通りの白ローブの人物は幻だったのかもしれないとマーリンは思った。
そうでなければ、あの夢も現実になりそうで怖かった。