第1話

文字数 1,983文字

 地球と月のラグランジュL5ポイントに浮かぶ超大型加速器の起動事故が起き、秋乃が永遠の現在に捉われたのは三か月前のことだった。
 素粒子物理学者たちはビッグ・バンからインフレーションが起きるあいだのわずか数マイクロセコンドの物理特性を知るためなら、家財道具一式はもちろん魂すら売る人種である。実験に使われたふたつの陽子は光速の99.9……99%まで加速され、半径十七キロにもおよぶリング内を駆け抜けて正面衝突をやらかした。
 その結果は大方の予想のはるか斜め上をいっていた。人工ブラックホールが発生したのである。観測のために衝突を見守っていた科学者たちの時間は凍りついた。彼らは永遠のいまに閉じ込められたのである。わたしの恋人の秋乃もろとも。

「木下くん、今回のことは本当に申しわけなく思う」加速器の責任者は深々と頭を下げた。「ぼくらはちょっとばかり熱を上げすぎてた。冷静さを欠いてたんだよ」
 科学者のコミュニティでは実績と知能がすべてである。わたしのような技術者風情はふつう、彼らから一顧だにされない大気のような存在である。お偉方が面と向かって謝罪するというのは異例のことだ。
「救出計画はあるんですか」すぐに思い直した。「ないとは思うけど」
「いやある。聞きたいかね」
 彼は回答を待たずに計画を述べ始めた。まずブラックホール外縁を飛行し、事象の地平線を確定させる。シュバルツシルト半径が計算できたら、ぎりぎりのラインを攻めて時間が停止する寸前まで接近する(目安はドップラー効果による赤方偏移で判断できる)。あとは古典的な底引き網漁と同じで、差し渡し数マイルの捕獲ネットをブラックホールに向けて発射、えさが引っかかるまで底浚いをくり返す。
「網をブラックホールに投げ込んだ時点で引き揚げは無理な気がしますが」
「ホーキング放射を利用するのさ。真空から電子対創生で光子が生まれてくるのは知ってるね。それと同じ理屈で、反物質で作ったネットを半分だけわれわれの宇宙に出しておいて、もう半分を地平線内部に突っ込む。すると熱力学の第二法則によって向こう側に通常物質のネットが出現する。引き揚げも心配いらない。漁のあとにネットをブラックホール側に落とせば、内部のほうがこちら側へ転移してくるはずだから。根気はいるけれども不可能じゃない」
 わたしは救出風景を想像してみた。宇宙の底引き網漁。すばらしい。「パイロットはもう?」
「席は空けてある。誰のためかは言うまでもないがね」肩を掴まれた。「どうするね、木下くん」

 わたしはいま、事故のあったステーション近傍を飛行している。実験棟のあった構造物の周辺を、半径五キロほどの漆黒の球が空間をえぐっているのは何度見ても圧巻だった。操縦をフルオートにし、注意深くドップラー・スペクトルの変化に目を凝らした。
 やがて近づけるぎりぎりの外縁に到達し、反物質底引き網を射出。網は外縁に近づくにつれて徐々にスピードダウンしていき、やがて完全に停止した。理論が正しければ向こう側にもエントロピー増大の法則を満たすために、通常物質のネットが現れているはずだ。
 宇宙船は外縁に沿って周回をくり返している。徐々にわたしの心には疑念が浮かんできた。網を切り離して穴へ落とし、反対側のネットをホーキング放射で引っ張り上げる。そのときこの船まで引きずり込まれるということはないだろうか? ネットの操作はリモートで管理しているけれども、それは電波を通じて船と網がつながっていることを意味する。穴が電波のみをお目こぼししてくれるとどうして断言できるのか?
「もう十分だろう。網を切り離してくれ」わたしはそうしなかった。「聞いてるのか、操縦士?」
 秋乃の命か、わたしの命か。考えようによってはどっちに転んでもよいように思える。向こう側へ引っ張り込まれたとしても、そこで彼女と一緒になれるのだから。たとえそのあとすぐに無限大の重力によってウエハースみたいに引き伸ばされるとしても。
 覚悟は決まった。わたしは緊急脱出コードを入力した。

 懸念は当たっていた。わたしが秋乃から逃げ出したあと、後任が果敢に底引き網漁に挑戦したのだが、宇宙船はパイロットごと突如として消え失せたのである。代わりにステーションの残骸を満載したネットが現実世界に戻ってきた。不漁だったのだ。
 救出計画はそれきり頓挫した。三十五年経ったいまでも、ラグランジュL5点には科学者たちが少しも歳をとらないまま幽閉されている。
 わたしはいまでも思い出したように漆黒の球を観測してしまう。そこには永遠の若さを手に入れた秋乃がいる。彼女は怒っているだろうか。わたしを許してくれるだろうか。
 どちらでもかまわない。想い人が永久に若いままなのだ。これ以上望むことがほかにあるだろうか?
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