6.愛憎のクイーン

文字数 3,804文字

 翌週、寝不足に悩みながらもいつもと変わらぬ様子に振る舞い、仕事をこなしていた私の眼に衝撃的なニュースが飛び込んできた。

『大物女優秋葉恋青が病院の屋上からの転落死 事件性無し』

ニュースキャスターが淡々と現場の様子を伝える声は耳に入れど脳が理解することを拒み、私の前身は凍り付いた。
彼女の女優人生は一時的には止まりはせず、人生そのものが終焉を迎えたのだ。
私が彼女の顔に浴びせたものはきっと悍ましい劇物だったのであろう、おそらく病室で目覚めた彼女は変わり果てた自身の姿を目に入れ、己の先ゆく未来を察し自殺したのだ。

私が彼女を。秋葉恋青を殺した。

しかし、女王が裏で手を回しているおかげなのか、私のもとに報道陣が疑いの目を掛けることは一切なかった。
それと同時に群青の蝶々の主演女優のキャスティングを私に変更するという一報が事務所のもとに届いたのだった。
私の心は驚喜すると同時に、取り返しのつかないことをしたという拭いきれない後悔の念にかき乱されていた。

 冷たく固いテーブルの上を数多の兵たちが一歩づつ殺し、殺され、一進一退する無機質な音だけが紅の部屋に響きわたっていた。
彼女は私が来る前から今まで珍しくワインを嗜んでいるせいか顔色がいつもより悪く見えた。
「おめでとうお姫様。映画の主演変更の報道を見たわ。これであなたの悲願の主演登板は決まったのね。私も誇りに思うわ。」
一時的に女優の座からどいてくれるだけでよかった。私はただ群青の蝶々の主演になりたかっただけなのに。私は彼女を殺した。
私は冷静沈着な手でナイトを動かすと内なる殺意を秘めた眼光で女王を睨みつけた。

「何故私を騙したのですか。私は彼女を永久に舞台から退けるつもりはなかった。」

怒りで肩を震わす私を一瞥すると女王は冷酷にこう言い放った。

「そのことについては謝るわ。そんな都合のいい薬品なんてないのよ。彼女に浴びせたのはタンパク質なんていとも簡単に溶かしてしまう劇物。あなたは彼女の顔を不可逆的に破壊したのよ。私はただあなたに永遠の美しさを手にして欲しかっただけなの。あなたが欲しがったものの代償はそれくらい大きなものっだった。只それだけのことじゃない。」

それから二人の間に会話は無くなった。女王の吸う水タバコの音と駒が進む音だけが鼓膜を刺す。
それくらい時間がたったかはもうわからなかった。しかし、確実に戦況を把握してきた私の圧倒的優位で対局は後半戦まで進んでいた。
彼女の顔色は時間が増すごとに悪くなっていくのが目に見えて分かった。
もう少しでママの秘密が知れる。そしてこの女王の思惑も。全てを知る。私には知る権利がある。

お互いの矜持をかけての戦いは終わりを迎える。ここで女王を、殺す。

 私の漆黒のクイーンが女王のナイトを殺した瞬間ついに今まで一番の長丁場に決着がついた。

私は勝った。ついに鉄壁の女王を仕留めた。私は極度の緊張から解き放たれ、頭を前に擡げた。彼女は真剣な表情から大きなため息を煙と共に一つ吐くと、放心した私に語りかけた。

「おめでとう。まさか私があなたに負ける日が来るとは思ってなかったわ。流石私の認めたトップ女優だわ。」

私は脱力した首を少し上げると上目遣いで彼女を強く睨みつけた。

「……教えてください。母の秘密を。」

彼女はゆっくりと自身の被っていた帽子を脱ぐと帽子を地面に優しく置いた。

「じゃ約束通教えてあげるわ。あなたのママの秘密を。教えたかった秘密は二つあるの。まずは一つ目の秘密。」

彼女は今まで一度も外したことの無いヴェネチアンマスクをゆっくりと外し、陰に隠された素顔を見せた。
美しく脳内で補完されていた彼女の顔面上部には額から鼻の上まで赤黒く爛れた皮膚が覆い尽くしていた。
右眼球があるべき場所にはぽっかりと薄い皮膚に覆われたグロテスクな眼窩が露出しており、左目は上瞼が溶けて眉と一体化して充血しきった血走る眼球が私の存在を力強く見据えていた。

「あなたのママは勝つためには手段を択ばなかった。群青の蝶々の初めの主演女優は私。主演の最終選考に残ったのは私とあなたのママだったの。熾烈な争いを勝ち抜き、選ばれたのは私だった。」

彼女は血走った眼球をギョロリと動かすと苦しそうに話し続けた。

「でも監督のキャスティングにあなたのママの高い高いプライドが許さなかったのね。彼女は現実を受け入れられず強酸を使って私を表の舞台から引きずり下ろした……」

ママは朱音の人生を破壊した。自分がトップでいたい自尊心と自己愛のためだけに。

「すべてに絶望した私は自殺を図った。でも死にきれなかったの。でも三枝木は献身的に、醜い化物になった私を支えてくれた。その日から私の女王としての復讐劇は始まってしまったの。」

思考と止めようとする脳。激しく鳴り響く心臓。私は震える全身あちこちの毛穴がから脂汗が滲み出てくるのを感じた。

「私は築いた富で裏社会と繋がりを持った。そしてあなたのママを消してもらったの。最初は私と同じ目に遭わせてやろうと思ってたわ。でも女優の命の顔だけ切り取るなんて恐ろしい真似、私にはする覚悟がなかったの。実際私は青璃ちゃんの事大好きだったから。彼女には最後まで美しい姫路青璃のままでいて欲しかったの。彼女にはこんな苦しみ味あわせたくなかったのよ。」

彼女は私がとどめを刺すのに使った漆黒のクイーンに長い指をそっと這わせ下からなぞり上げた。

「あなたの相棒の黒のクイーン、美しいでしょ。それはあなたのママの大腿骨から作ったのよ。最後までしぶとい女だったわ。何度焼いても溶かそうとしてももその骨だけは消えなかった。だから彼女も女王にしてあげたの。私と同じような遺恨の女王に。」

女王を追い詰めたキングの隣に鎮座する歪な形のクイーンは冷たい光沢を纏い、確かにそこに存在していた。

「あなたは正真正銘青璃ちゃんの娘だわ。その嫉妬という名の向上心があなたを美しくさせ続けるの。」

私は言葉も出せず、醜く歪んだ二人の女王も末路をただただ凝視していた。

「でも私の憎しみはそこで収まりはしなかった。ごめんなさいね。」

彼女は勢いよく盤上に吐血すると胸元から取り出した真っ赤なハンカチで口元を拭いながら話を続けた。

「二つ目の秘密は恋青ちゃんには娘が二人いたこと。長女はあなた葵。次女の名前は恋青。何を隠そうあなたが殺した元トップ女優。」

嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

私は重い椅子を跳ねのけるように勢いよく立ち上がると絶叫していた。

「嘘だ!私は一人っ子、姫路青璃の一人娘よ!」

彼女は定まらない視線で不敵な笑みを浮かべた。

「私は青璃ちゃんを殺したとき、彼女が二人目の命を宿していることを初めて知ったの。あと数日で産まれるという奇跡的なタイミングだったわ。しかも体重二千グラムほどの未熟児。焦った私たちはその子を三日放置した。でもあの子は強靭な精神力で生き延びたの。私は彼女が恐ろしかった。でも三枝木は彼女に慈悲をかけたの。知り合いの金持ちに養子として育ててもらうことになったわ。」

彼女の呼吸はだんだんと浅くなりヒューヒューと空気の漏れる音を出しながらも虚ろな眼で語る手を緩めなかった。

「何も言わずとも彼女は物心ついたときから女優を目指していた。私は青璃ちゃんへの償いとして彼女に私の持てる全てを注ぎ込んだわ。でも成長した彼女は青璃ちゃんそのものだった。自分の欲しいものを手に入れることのためなら何の躊躇いもなく人を貶める恐ろしい女。それを知った時、消えかけていた青璃ちゃんへの憎しみが再び音を立てて燃え始めたの。」

彼女は目に再び強い憎悪の光が戻り私に向けた視線を突き刺した。

「そこで名乗りを上げ始めた一人の女優の存在が目に留まった。それは他の誰でもない姫路青璃のもう一人の行方知らずの娘、姫路葵だった。」

「あなたのは掛け替えの無い世界で一人だけの妹を消した……あなた自身の手で。」

私は勢いよく赤いカーペットの上に嘔吐した。

「私の物語は此処で終わり……ワインと飲んだ毒物が思った以上に聞くのが遅くて焦ったわ……でも素晴らしタイミングあなたは私にとどめを刺した。流石私が見込んだ女だわ。完璧な役回りだったわよ……」

女王はかすれた声で高笑いをすると私を睨みつけながら叫んだ。

「この世のすべてを憎みなさい!あなたには素質がある……私が見込んだ女だもの。この悲劇の人生を演じきりなさい。あなたは本物よ……あなたは本物の……」

彼女は再び激しく吐血すると、その華奢な体を支える力を失った上半身は勢いよくチェス盤に倒れ込み、彼女の右目の眼窩を母のクイーンが貫いた。
チェス盤の上に夥しくの滴った女王の血液にはすべてを失った罪深い姫がこちらを見つめていた。
事切れた女王左の赤い目は激しい愛憎を迸らせながら死してなお私をも見つめ続けていた。
私は三枝木が部屋に入ってくる朝まで青の王座に腰掛け亡き女王といつまでも見つめ合っていた。

 燻らす女王の紫煙は紅い城の最上階で渦巻く。

愛憎で輝きを増したトップ女優は今日も窓から目障りに煌めく城下町を見下ろしながらこの世界と己自身から放たれる目を見張るような美しさ、その裏側で煮えたぎる、吐き気を催すような醜悪に酔いしれている。

この世で最も美しく醜い紅の女王。歪なクイーンを握りしめ、いつまでもいつまでも紅の中で群青の蝶を捜している。

全てを絶望に追いやる鮮血の森の中で。
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