第1話

文字数 1,999文字

 報告書は短い要旨(アブスト)で始まった。本研究の序論(イントロ)材料と方法(マテメソ)と続くが、ここまでは雛形通り。だが結果(リザルト)まで読み終えて異変に気付いた。次のページが見当たらない。
「考察と結論が無いですね」
 背後から富田が話しかけてきて創子は跳び上がった。膝を机に叩きつけバァンと響いたが、「何?」と冷静を装い振り返った。

 社長直下のプロジェクトに抜擢された時、創子は誇らしかった。社長から直々に「若い発想でわが社の新しい柱を築いてくれ」と激励された。
 だが、着任早々創子は不安を覚えた。新規事業開発室を構成するのはたった3名、室長と創子たち一般社員2名だった。
 室長は「俺は技術のことは分からないし、自由に好きなようにやればいいよ」と言った。理解ある上司のようにも聞こえるが、技術以外のことは何をしてくれるのだろう。申請書に承認印を押すか、観葉植物に水を遣るぐらいだった。
 もう1名が富田だ。富田は新入社員だが、理系なので技術の話には強かった。しかしどこか朴訥として新人らしい初々しさが感じられなかった。

「42号車確保しました」
「車種は?」
「軽バンです。他は空いてないそうです」
 創子は頭を抱えた。来週の会議には海外の来客が出席する。それを軽バンで迎えるなんて。
 新規事業に対する社内の対応は冷淡だった。研究所の報告書もそうだ。半年前に依頼したのに報告は今週だった。しかも結論が示されていない。何かしらお墨付きを与えるのを避けている。誰も下手に関わって責任を取りたくないのだ。

「ソーコさん、需要予測どうでした?」
 創子は富田が名前で呼んでくることが気になっていた。後輩に舐められているのかと心配したが、そこを叱責することも出来なかった。だから舐められるのか…。
 問題はそこではない。会議に向けて需要予測が課されていた。創子は嘘にならない範囲で需要予測を盛りに盛ったが、「その予測は単価が低いので、小規模でも単価の高い市場はありませんか」と富田が指摘したのだった。
 創子がエクセルの「Bプラン」タブを開くと、富田は身を乗り出して覗き込んだ。富田の顔が近くて創子は椅子ごとのけぞった。

 会議当日、創子と富田は来客を迎えに行った。42号車に乗るなりお互い顔を見合わせた。煙草の臭いがする。規則では就業時間中は禁煙だが、外出中に社用車で喫煙している不届き者がいるらしい。唇を噛む創子を横目に富田はエンジンを掛けた。
 助手席で創子は自分のプレゼン資料を開いた。今回の会議は全て英語だ。創子は会議で話す内容や想定質問に対する回答を事前に英訳し、繰り返し読み込んでいた。
「到着です、ソーコさん」

 創子たちは無事来客と合流した。先方はマーケティング担当のマギネス氏と製品担当のオコンネル氏だ。
「ミスターマギネス、ナイストゥミーチュー」
「コンニチワ、ソーコサン」
 会社への道中、後部座席でマギネス氏が延々話し続け、オコンネル氏が時々相槌を打っていた。創子に聞こえた限りは車に対するクレームではなかった。

「アイウッドライクトゥトークアバウト…」
 かくして創子のプレゼンは始まった。心臓は激しく鼓動したが、練習通り話すことができた。研究所の報告は都合よく解釈した。需要予測も盛った。マギネス氏が質問したが、想定内のものだった。最終スライドが映し出され、やり切ったと確信した。
 その時、オコンネル氏が何か質問した。
 創子は凍り付いた。一語も聞き取れない。切り返す言葉が浮かばない。頭が真っ白になった。
 PC操作していた富田が控えめに挙手すると、オコンネル氏は視線を富田に向けた。すると富田はオコンネル氏に対し英語で回答し始めた。思考力を失った創子には富田が何を話しているか分からない。だが富田が「ですよね、ソーコさん」と振ると、創子はうっかり「イエス」と答えてしまった。オコンネル氏は「Well done」と言った。

 居室に戻るなり創子は机に突っ伏した。
 無様だった。最後の質問に対し何もできなかった。富田のフォローが無ければ大失敗に終わっていた。
 遅れて戻った富田が声を掛けたが、創子は顔を上げただけで何も話さなかった。視線の先には萎れた観葉植物があった。
「ソーコさん格好良かったです。パンチが何発飛んできても臆せず突進するボクサーみたいでした」
 どういう比喩だ。そのボクサーは最後に頭が真っ白になって、タオルを投げられた。
「次は富田君がリングに上がりなさい!英語ペラペラじゃない!」
 創子は行き場の無い怒りを富田にぶつけた。
「ペラペラなのは人間性の方です。でもソーコさんがセコンドなら心強いですね」
 臆面もなく答える富田に創子は悔しさも怒りも忘れ、呆れかえった。だが一緒に闘っている人がいる。そう思うとまたリングに立つ勇気が湧いてくるのだった。

「最後の質問は何だったの?」
「ニッチの話です」
「何?」
隙間市場(ニッチ)ですよ。Bプラン準備してよかったですね」
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