第1話

文字数 1,566文字

野球部の顧問の先生が体調を崩してしばらく代理を任されることになった。
野球は小学校の頃やったくらいで、でもテレビで見たりしてて最低限指示できるといったレベルだ。
このレベルでよければ日本の男性はまあまあ該当するんじゃないかな。たまたま手のあいてる僕に回ってきただけの話。
幸い(と言っていいのか)甲子園出場に届くような強豪校じゃない(そもそも強豪校は教員で済ませない)ので、何か成すというよりなるべく邪魔にならないようにと考えた。

いざ見始めてみて驚いたのは、選手たちがサインプレーを必要としないこと。
こっちはサインを出すのが仕事と思って乗り込んだからかなり面食らった。選手間のサインもない。
皆自由に、各自のタイミングで走るのだ。

結果は上手くいったりいかなかったり。
ただ独自のリズムで回ってるものを変えさせるだけの理由がないし、サインプレーを追加する必要もないというのが率直な気持ちだ。

まともに考えたことがなかったが、野球は選手が各自の判断で走っても案外支障ない。
見方によっては劇的な価値観の変換と言える。

前提として盗塁する気で走るというのはある。でないとバッターが打たなかったとき確実に死ぬ。
打たなければ盗塁、打てばエンドランと考えればデメリットは少ない。いわゆるランエンドヒットにあたるのか。
普通に盗塁しても失敗するときはするからそれは受け入れる。

要は自分の感覚より現場の選手の感覚を信用する訳だ。
行けると思ったとき走るというのは走塁上級者の領域のようでも、監督がサイン出すタイミングなんて選手の感覚お構いなしな訳で、だったらそれよりマシじゃないかと。

ちなみにエンドランになった場合、2アウトのときは心配無用。
2アウト以外だとゴロは問題なし、フライでも戻ればいいから戻れない小フライとライナーのときだけ裏目になる。
エンドランでなくてもランナーがいる時点で多かれ少なかれ転がす意識は働く。つまり目をつぶれる程度に抑えられる。

なんとも今風のスタイルだなと思う。
人によってはゴーサイン出た方が迷わず行けるかもしれないし、いずれ個別に希望を聞いてみてもいい。
練習メニューやオーダー決めも、場合によっては丸投げしていいかもしれない。
大人は責任だけ負えばいい。

…と思っていたら先日ついに、3塁ランナーが走り出す事案が発生した。
当たり前のように打って還したがバッターは見送る訳にいかないケースだ。
ゴロを打つにせよバントするにせよさすがにバッター側の準備が難しすぎる。
まさかテレパシーで意思疎通してるとでもいうのか。

気になってしょうがないけれど水を差すような気がして黙って見守ることにした。
すると特定のメンバーに限らず同様の場面が時々見られるようになった。
転がしたり、バントしたり、空振りでランナーアウトになることもあった。
ただそれに関しても、急なことで対応できなくてという印象は受けなかった。
新時代が来ている。

そして今日はいよいよ黙っていられない出来事があった。
いつもどおりノーサインで3塁ランナーがスタートを切り、スクイズするかと思いきやバッターがバットを引いたのだ。
無言のやりとりにミスが起こったか。でも走って来てるのが目視できたろうに。

我慢できなくなって、彼がベンチに戻った際に聞いてみた。
怒ってると思われないようにだけ気をつけながら。

「ねえ、素朴な疑問なんだけどなんでバント引いたの」
「さっきのですか?
ランナー間に合うの見えたんで、バントでアウト1つやるのもったいないなと思って。
それにスクイズよりホームスチールの方がエモいでしょ」
「なるほどー。
うん、ありがとう」

そうかそうか。
ニュータイプ出現ってこんな感じなのかな…

ホームスチールが決まったこととどちらにより驚くべきか。
幸い試合中はわりと暇なので、これからゆっくり考えるとしよう。

(おわり)
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