その猫、救世主

文字数 1,982文字

その日、デパートのイベントスペースでは “SFフェア”と称したイベントが開かれていた。通販でしか売られていない、ちょっと珍しい品物がが並んでいる。

「“貼る目覚まし時計”のお試しを実施しています!お姉さん、やっていきませんか?」

そう呼び止められて振り返ると柔和な笑顔の女性店員がいた。チョコレート色の髪はゆるく結われ、柔らかな彼女の雰囲気に良く似合う。

(この人、イヤホンした通行人によく話しかけられたな)

押しの弱そうな外見とは裏腹に呼びかけた客を逃がさない強固な意志を感じ、私はなし崩し的に話を聞くことに決めた。貼る目覚まし時計なんてSFチックなワードに心惹かれてしまった私の負けである。


貼る目覚まし時計、というのは、ネイルシート型の目覚まし時計のようだ。
店員は手慣れた手つきで商品を袋から出す。手に取ってよく見てみると、光沢があり、ネイルシートとしてはやや厚い。最新技術を搭載しているようで、詳細は何を言っているのか分からないが、何となくスマートフォンのアプリ連動で目覚まし時計として利用できることは理解できた。

社会人になってから数年。残業続きで忙殺され、久しくマニキュアとは縁遠かった。だが、あの艶やかで鮮明な色合いは嫌いではないし、カラフルでキラキラしている柄は私の僅かばかりの乙女心をくすぐった。試しに、右手の人差し指に貼ってもらった。爪で切れるほど柔らかい素材のそれは綺麗に私の爪の形に成った。

「綺麗ですよね。」
「そうですね」
「貼るのも簡単ですし、汚れません」
「…確かに」

ピンクのグラデーションと細やかなラメが散りばめられた人差し指をみて心が躍る。
しかし、社会人には華美すぎる。残念ながら買えないか———

「手足兼用なので、見えないオシャレとして社会人の方にも気軽に楽しんでいただけます。」
「なるほど」

心を見透かされているのか?と疑問を頭の隅においやり、気づけばラメ入りの真っ赤な色、大人っぽいスモーキーピンク、紫陽花柄が入った柄を3セット購入していた。
我ながら単純であるが、自分のご機嫌取りのための必要経費と理由をつけた。

ありがとうございました、と店員のもとを去った後、デパート内で営業しているチェーン店のカフェに入った。お腹が空いたのだ。
注文後、スマホを取り出しニュースを見る。いつもは親指でスマホ画面を操作するのにこの時ばかりはわざわざ人差し指を滑らせた。きらめくピンクの人差し指はまるで魔法使いが魔法を使うときのごとく特別な指だった。

「お待たせしました。フォンダンショコラとコーヒーになります。」

ちょうどいいサイズに切り分けられたフォンダンショコラのとなりには生クリームとミントが添えられている。丁寧にフォークで切り分け、生クリームを少しのせて口に運ぶ。
ほろ苦いチョコレートと甘めのクリームのバランスが絶妙で、無心で食べた。
そして、最後のひと口を名残惜しい気持ちで食べ終えた瞬間———

息が詰まる感覚がした。思わず目を見開き、胸を抑える。
周囲を見て助けを求めようにも、声を出せず、誰も私の異変に気づかなかった。
深呼吸をしようにも、胸が押しつぶされたように苦しく、一向に肺に酸素を通してくれない。
もしかして、このまま死ぬかもしれない。


—————どうしよう。どうしよう!


(そういえば、あのお姉さん、猫っぽい目してたな。)
ふわり、と女性店員のチョコレート色の髪が脳裏に浮かび、意識を手放した。

「———はぁっ」
意識が浮上すると、視界いっぱいに茶色の猫の顔が広がっている。数秒の間のあと、私はこれまでのことが夢であることに気づいた。

息苦しさの原因であろう飼い猫が私の胸の上でちょこんと座っている。にゃあ、とチョコレート色のぶち猫が甲高い声で鳴く。そして降りてくれたと思えば、猫用の皿に一直線で向かう。
どうやらご飯の時間のようだ。外はまだ少し暗かった。

「まだ眠れたじゃん」

愚痴をこぼすと、早くしろ、と言わんばかりににゃあ、とふたたび鳴いた。可愛らしい顔つきの癖にふてぶてしい態度である。
キャットフードをお皿に盛り付け、私は目覚まし時計を確認した。
針が示すのはAM5:07。

「…早くない?」

そう言いつつ日付を確認するためにカレンダーを見る。今日の日付には大きな赤い花丸が付けられていた。

「…ゲッ」

今日は勤務するショッピングモールのイベント企画書を提出する日だ。
締め切りまで10時間はきっている。よく見ると、作業机の上にはまとまっていない企画書と資料が散乱していた。

にゃあ
起きて良かっただろ、と言うように猫は三度鳴いた。
途端に頭が痛くなった。今回ばかりはこのふてぶてしさマックスの猫に感謝しなければならないようだ。

「あとでちゅーるもあげよう…」

一際甲高くにゃあ、と鳴いた。どうやら報酬に満足したようだ。企画書との闘いの前にチョコレート色の毛並みの目覚まし時計を撫でた。
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