第1話 なんか初夏

文字数 1,299文字

 時刻は午前9時3分42秒。学校ではいつもの気怠いホームルームが始まっている。今は点呼を行っているだろうか。もうすぐ僕がいないことに気づいて山口がLINEを送ってくる頃合いだ。横断歩道を渡り終えたのでリュックからスマホを出して確認してみる。きっと山口からは何か言われるし、もしかしたら竹沢が煽ってきているかもしれない。あいつは人の不幸や失敗を目の当たりにしたときに一番幸せそうな顔をする。
 若干の期待を込めてマナーモードを解除したが、液晶は無慈悲に空虚な画面を見せてきた。
「通知はありません」
マナーモードのオン、オフを繰り返す。───まあ、しょうがない。こんなときもあるし、そうでないときも確かにあるのだ。
 ところで、埼玉というのはなかなかに住みづらい気候を持つ土地だ。冬は乾燥してとことん寒いくせに雪はあまり降らないし、夏は照り付ける太陽が猛威を振るっていて、逃げ場がない。特にひどいのは夏だ。うだるような暑さを毎年のように更新するのには辟易するが、これは何も埼玉に限った話ではないだろう。気候変動なんて大規模で捉えようがないような概念を、記憶の層によって確かに把握しているというのは変な話だ。とはいえ、僕が子供の時は30度を超える日があるとテレビの気象予報士が猛暑日だなんていうから、母に喜々として報告したものだった。別に暑い日が来ることがうれしかったわけではないが、なんにせよ僕の発した言葉が誰かの表情や感情を動かす様を見るのが大好きだったのだ。
 話を戻すと、なんだかんだ言っても僕は埼玉に愛着を持っているし、何より便利な土地である。僕は元来、知らない土地に足を運び、知らない町並みや知らない標識、知らない道々を眺め、今まで知らなかった空気を肺にいっぱい収めて帰る一連の流れが非常に好きだ。だからこそ、この埼玉という地に変わりようのない帰属意識を抱いているのだと思う。
 僕の通っている高校は、その埼玉県にある。家から8kmくらいのところにあるから自転車で通っているが、今時期のような暑い日は結構つらい。腕と首の後ろがじりじりと焼けていき、頭から汗がするりと滑り落ちていくのを感じるが、僕は僕自身の腕や首を毎日のように見殺しにして、何とか登校しているのだ。今日のように遅刻が確定している日の朝はなおさら暑さを感じる。義務教育卒業後、自らの意思で普通教育を受けると決断したはずなのに、毎朝こんなにも面倒な思いをして学校に行くのはおかしな話だ。でも、あまりにだるいし、そもそも僕たちには高校に進学する、という選択肢が当たり前に用意されすぎていたように思う。そういう社会だし、そういう僕たちなのだ。
 そうこうして思考を巡らせている間に、いつの間にか学校への最後の直線にさしかかっていた。結局、僕は平凡な学生の一人としてこの学校を卒業するのだろうし、その後に何やら華やかな人生が待ち受けているわけでもないんだ。でも、他愛のないことに頭を働かせることのできるこの時間が好きだと思える。一日一日を振り返れば思い出し笑いとともに識別できる。だから、だから僕は柄にもなく、この日常が終わらないでくれと願うのだ。
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