第1話

文字数 4,140文字

 雲を抜けるタワーや建設途中のビルが規則正しく並ぶ大都市であっても、その末端にまで注意を向けることは難しいらしい。少し郊外に出ると、そこには、時代に置いて行かれたまま時間が経ったような空気が流れている。都会のあか抜けた雰囲気に合わないと捨てられた物や人や文化などが、そこに生きていた。とはいえ、よくいえば下町のような、どこか懐かしい雰囲気の中で、その人たちなりに楽しく生きていたのである。
 そんな町に、あるとき、引っ越してきた男がいた。古ぼけた下町にわざわざ引っ越してくる物好きな人間などほとんどおらず、しかも、雲の上ほど遠くにある都会から来たらしいということで、男は住人たちから浮いていた。しかし、男の細身の体が収められている服は下町の誰よりもおしゃれであるし、靴も磨かれている。あっさりとした顔は清潔に整えられ、男が下町に来て一か月もすると、住人、特に女たちの方から話しかけるようになった。男の方はというと、挨拶は返すものの、照れ屋であるのか、興味がないのか、それ以上の無駄話には応じず、自宅となったアパートにさっさと入ってしまうのであった。このアパートというのが、木造の建造物が多く存在している中で、鉄筋造りであり、かつ下町には珍しいおしゃれな装飾がついている、変わった建物であった。下町のわりには家賃が高く、男のほかには大家と金貸しの男しか住んでいなかった。
 男がやってきて半年が経っても、男は住人たちの会話にたびたび登場した。なぜなら、男は普段はごく普通にふるまっているが、どうにも生活に謎があるらしいからである。その謎というのが、男の家から、ときどき男が誰かと話す声が聞こえてくるということであった。男の生活ぶりからして、一人で暮らしていることは明白であった。にもかかわらず、壁の薄いアパートからは、男の話す声が聞こえるのであった。ある日は楽しげに、ある日は少々喧嘩気味であったと話す住人もいた。大きな独り言を言う癖があるのか、住人には隠したい誰かと暮らしているのか、住人たちは大いに興味を抱きながら、なんとなく恐怖も感じ、あまり詮索する者はいなかった。

 そんな住人たちの疑問など気づくこともなく、今日も男はアパートに帰宅した。玄関のドアを開けて短い廊下を歩き、部屋に入った。そこで、男は事件に気づいた。
 愛するセリーヌが、冷たく硬い木の床に倒れていたのである。セリーヌは虚弱体質のため、いつもは男がふかふかの小さなベッドに寝かせていた。今日もいつもと同様に、男はセリーヌをベッドに寝かせてから出かけたのであった。男は恐怖と驚きに目を見開き、倒れているセリーヌの元へとんで行った。しかし、セリーヌは動かなかった。息をしていなかった。男は動かないセリーヌを軽々と持ち上げて抱きかかえたまま、しばらくのあいだ呆然としていた。それから、激しく泣いた。
 男の家にはほかにも居候している者が何名かいたが、みないつもと変わらず椅子にかけたり床に座り込んだりしていて、セリーヌの死などまるで関心がないようであった。
 セリーヌは男にとって、愛の塊であった。優しく、やわらかく、穏やかで、人間の欲と嘘にまみれた汚れた街で日々感情が薄れていくような感覚にとらわれていた男にとって、すべてを受け入れてくれる唯一の存在であった。セリーヌに出会ってから、男は持ちうるすべての愛を捧げ、セリーヌはそれを静かに受け入れた。セリーヌは身体が弱くほとんどの時間を家の中ですごした。しかし、世の男と女のように、汚い街を共に放浪して騒ぎ、からっぽに輝く宝石を買ったりなんかしなくとも、家の中で少し話すだけでよかった。ときに喧嘩もしたが、その分セリーヌのことを理解できた。しかし、セリーヌはもう動かない。警察なんかを呼んでも、やつらはろくに調べもせずに帰ってゆくだろう。男はそう思い、しばらく考えたのち、息をしていないセリーヌの亡骸をそっと小さなベッドに横たえると、なにかを決意した表情で立ち上がった。
「おれが解決してやる」
 セリーヌの無念を晴らすには、まず真実を暴かなければならない。しかし、警察は役に立たない。となれば、探偵に事件を解いてもらうしかない。だが、探偵なんぞこの下町にはいない。下町にいるのは、噂好きのうるさい人間だけだ。町の人間にこの事件が知れたら、汚れた都市よりましだと思い、セリーヌの身体のために引っ越してきたこの町にいられなくなるかもしれない。噂は一瞬で広がるのだから。だから、自分が探偵となり、この悲劇を解決するしか、セリーヌへの最後の愛を届ける方法はないのだ。
 男はまず、男の家に居候している者を全員招集した。こいつらが容疑者ということになる。容疑者は、いつも出窓から部屋を見渡している紳士、セリーヌのベッドの脇の椅子に腰かけている老婆、玄関から部屋へ続く短い廊下の床に座り込んでいる若者の三名である。三人とも、男が街で暮らしていたときから男の家に居候している。部屋はひとつ、あとはトイレと風呂場、玄関がある。共に暮らしてきたうちの一人が死んだというのに、容疑者たちはまったく取り乱すことなく、いつもどおりおどけたり笑ったりしている。そのことに男は腹を立てたが、探偵は冷静に真実を吟味するものだと思い出し、なんとかこらえた。
 男は容疑者全員に対して、質問を投げた。
「被害者になにが起こったのか、見ていた者はいるか」
 男は真剣なまなざしを容疑者らに向けたが、男に返事をする者はいなかった。男は眉を少しひそめ、普段と変わらぬ様子の容疑者たちを見つめた。きっと突然のことで、こいつらもどうしてよいのかわからないのだ、だからいつもどおりにふるまおうとしているのだ。男は自分にそう言い聞かせ、いらいらする気持ちを抑えつけた。
「では、今日おれが家を出てから帰ってくるまでどこでどのようにすごしていたのか、ひとりずつ話してもらおうか。まずはきみから」
 男は紳士に目を向けた。お気に入りの出窓から男によって部屋の中央に集められているせいか、紳士はほんの少しだけ不満そうにも見える。それでも、普段と変わらぬほほえみを浮かべて男の顔を見返した。男は辛抱強く返事を待ったが、紳士から言葉が発せられることはなかった。続く老婆と若者についても、同様であった。
 男は怒りに震えた。なぜ、なにも言わないのだ。優しさの女神のようなセリーヌが死んだというのに、なぜこいつらは悲しみを微塵も感じていないのだ。おかしい、絶対になにかがおかしい。男は探偵を気取るために冷静を装っていたことをすっかり忘れて、愛する存在を失った悲しみと容疑者らのふざけた態度への怒りを同時に噴出させた。男は自分を見上げる穏やかな紳士の頭をつかむと、そのまま床に叩きつけた。この恐ろしい当てつけを目撃したにもかかわらず、ほかの容疑者二名はまだ笑っていた。セリーヌが死んでもそうしていたように。男は恐ろしくなった。こいつらはおかしい、狂っているのだ。なにが起きようとも笑っているし、そういえば、いつも同じ態勢で人間にしては異様に小さな身体を放り出している。それに、どいつにも生気をまるで感じないのだ。セリーヌにも。
 ……狂っている?男は、怒りに占領された思考に自ら待ったをかけた。男は、ふいに顔を上げて部屋を見渡した。住み慣れてきた我が家、いつもどおりである。しかし、なにかが異なっている。男は驚いて飛び上がり、恐怖のため膝からへたりこんだ。紳士が、変わらずほほえみながら男を見上げている。男の足ほどの大きさの、陶器でできた紳士であった。床に叩きつけられたせいで首が折れ、身体として作られた部分から離された顔の部分にはひびが入っている。ほかに、老婆は布と綿で、若者はろうでできていた。この者たちはいつから人間でなく物体となってしまったのか。いや、はじめから人間でなくただの人形であったのか。……狂っていたのはおれの方だったのだ。男は混乱した。同居人たちは人間ではなく物体としてそこに存在している。男の顔色は青く白く変化し、身体中が震えていた。自分の身体をきつく握ったまま、男は狂っていた自分への恐怖にぶるぶると震えた。
 そうして何日かが過ぎた。男は弱り、ほかの者にはたった数日であっても男にとっては百年も経ったかのような衰弱の様であった。男はついに立ち上がり、歩き出した。そして、ベッドの近くに来ると、ひとつの物体を見下ろした。今までの持ちうるすべての愛を捧げた、愛したセリーヌ。こいつももはや、意味をなさないただの物体である。よく見るのだ、こんなに醜く無意味を表しているではないか。なぜ今まで気づかなかったのだ、セリーヌが人間ではなく、ただの人形であるということに。いままでこいつに生気を感じたことはなかった。なのに、なぜおれは……。男はセリーヌと名づけていた物体を抱え上げた。軽かった。やはり人間ではないと思いながら、男はそれを再び小さなベッドに横たえた。今までそうしてきたように、そっと、優しく。
 男は床に座りこんでそれを見つめながら、にたにたとひきつった笑みを浮かべた。そして、つぶやいた。
「この現実の世界は、今まで愛してきたセリーヌが実は人形でおれは完全に狂っているという、世間の期待どおりにはいかないものだ。なぜなら、これは本当に生きていたからだ。本当は人間だったのだ。周りが思わせようとしているだけなのだ。ふん、それだけなのだ」
 男は少しだけほっとしたように、天井を見上げた。おれの愛の対象はおれと同じ人間で、むしろほかの人間は存在する価値もない安っぽい人形なのだろう。妬みから、おれが狂っていると思わせようとしたのだろう。男はそう思った。そして、ベッドで静かに眠り続けるセリーヌを大事そうに見つめた。

 てのひらほどの大きさのベッドには、ベッドより少し小さなウサギの形をした人形が横たわっていた。こどもがままごと遊びでもしていたのか、そのウサギは丁寧に寝かされていた。ウサギは部屋の天井を向いたまま、硬直して動かなかった。なにも感じず、ただそこに存在していた。そのベッドのすぐ近くには、ウサギよりずっと大きな男がウサギを見ていた。
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