第1話

文字数 1,195文字

 聖書は矛盾まみれである。まるで人間の心のように。
 一般的に聖書というと聖なる書、神様から人間へのラブレター、正しい生き方を示すもの、というイメージが強いだろうが、とんでもないと思う。聖書ほど嘘と矛盾に満ち、醜くて、冷たくて、憎悪に満ちた書物はない。
 私はクリスチャンであり、キリスト教系大学の神学部でキリスト教を勉強している。驚く人が多いだろうが、神学部という場所でさえ好きで聖書を読んでいる人間は少数派である。福音書を読んだことのない学生も多数存在する。しかし当然だろうと思う。なぜなら聖書は見るからに面白くないからだ。
 教会での説教や信者向けのホームページなどには、口当たりのいい聖句やイエスの行った奇跡などが散りばめられている。しかしそれらは、熱心なクリスチャンあるいは聖書に強い関心をもつ人以外の人間に対し「はいはい」もしくは「嘘つけ」以上の感情をもたらさない。
 だが少し掘り下げて読んでみると、「ちょっと待てや」と突っ込みたくなる物語が潜んでいることに気が付く。いい年をした所謂「聖人」が、ハゲ!とからかってきた純真な子供を熊に襲わせて八つ裂きにする話や、あの大洪水のあとで実の息子に裸を見られて激怒するノアの話や、空腹なときにそこにあったイチジクの木に実がなっていなかったからといって「呪われろ!」とキレる大食漢イエスの話(聖書学的にはもっともらしい解釈があるが、私はイエスの完全なる失言だと思っている)など、もっと知られてもいいと思うのだ。これらのエピソードに触れれば、聖書がいかに支離滅裂かわかるだろう。
 神様は人類を愛しているという。しかし簡単に人類は絶滅した。唯一救ったノアの子孫でさえ呪われた。ハゲ頭をからかっただけで42人もの子供が悲惨な最期を遂げた。隣人愛を説いたイエスは弟子に対し「生まれてこなければよかったのに」と言い放った。めちゃくちゃである。こんなものを読まされてなお「神の愛」を信じられるクリスチャンを、私は同じクリスチャンでありながら恐ろしいと思う。しかしそんな私でも、「明日のことは明日が心配する」という言葉に悩みを軽減されたり、村人たちに蔑まれ居場所のない「罪の女」を優しく受け入れるイエスに泣かされたりするのだ。
 聖書ほど嘘と矛盾で溢れ、醜くて、冷たくて、憎悪に満ちた書物はない、と冒頭で述べた。しかし聖書ほど優しさに溢れ、美しく、あたたかく、愛に満ちた書物もまた存在しないと思う。その相反する貌を知って初めて、聖書は血の通った言葉となって心に響いてくるのだ。聖書が描いているのは完全なる全知全能の神ではない。正しさと罪、愛と憎しみという矛盾の中で呻きながらも必死に生きようとする人間の姿である。
 聖書は矛盾まみれである。まるで、こんなにも聖書をぼろくそ言いながら、かれこれ20年近くも聖書から離れられない私のように。だから私は、聖書が好きだ。
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