第1話

文字数 3,929文字

 仕事終わりに友人の渦川と駅近くのファミレスに入った。店は繁盛していたが、幸運にも我々は隅の席に案内された。隣は空席だった。
 注文を伝えたあと、私は水を取ってくるために席を立った。グラスを手にテーブルに戻ってみると、渦川が前方の高いところをじっと見つめていた。
 「どうかしたか?」グラスをひとつ渦川のほうにやって、私は尋ねた。
 「いや、ああいう絵ってなんて名前だったかなと思って」
 私は渦川の視線の先に目をやった。家族連れのテーブルの向こう、店の天井近くに小さな絵が飾られている。絵は線や幾何学模様だけで構成されている。
 「抽象画だろ、抽象画。なに、あれがどうかしたの」私は不思議に思って言った。私の知る限り、渦川は絵画には特段に興味を持っていなかったはずだが。
 「あ、そうそう、抽象画だったな、チューショーガ」渦川は小声で繰り返してから言った。「あんなもの、よく考えたもんだよな」
 「よく考えたって、だれが?」
 「人類がだよ、人類が」
 「はあ、人類が」
 私は水をひとくち飲んだ。人類に関心するなんてスケールのでかい話だ。少なくともファミレスで話すようなサイズの話ではない。
 私は振り返って、もう一度その絵を眺めた。絵には真っ白な楕円形が横たわっている。楕円形の下には球形や四角形、三角形など、いろんな形の図形が描かれている。それらはまるでダンスを踊っているかのようだ。
 我々のほかに絵を観賞する客は誰もいない。私にはその絵が決然としているように見えた。
 「抽象画ってさ、描かれはじめた当時はかなり反感を買ったらしいね。風景画家とかが怒っちゃって、それで展覧会に押し入って風景を上書きしていったとか、そんな事件もあったらしいよ」私は先月くらいに読んだ雑誌に書かれていたことを思い出して話した。
 「へえ、そりゃ過激だな。でも、そんな暴動まがいなことをしたら自分たちの評判を落としてしまうんじゃないの?」渦川が訝しげに言った。
 「いやそれが逆に上がったらしい。ほら、なんていうの。芸術活動の一環。そういうことなんだろ」
 「あー、芸術活動ね。ふうん、なるほどねえ」
 渦川は生返事をして水を飲んだ。そして、テーブルの上に置きっぱなしにしていたメニュー表を元の位置に戻した。私は厨房のほうを見やった。注文した料理が来る気配はまだない。窓の外を見ると日の入り頃の夕焼け空が見えた。
 「なに、もしかして芸術に興味があるの?」私は尋ねた。
 「いやいや、まさかそんなんじゃないよ。ただ、どうしてああいうものを考えたのかなって不思議に思っただけで」渦川は照れ臭そうに答えた。
 「人類が?」
 「うーん、ま、そう。人類が」
 「マンネリ気味だったんじゃないの? 風景とか人の絵ばっかりになっちゃってさ。そういうのはもう描き尽くされちゃったんだろうな。それで抽象画とか言い出したんだろ。知らないけど」
 「けど、今でも新しい風景画はたくさん描かれてるだろう? いや、俺もぜんぜん疎いんだけど」
 「抽象画が流行ったら今度は抽象画ばっかりになっちゃったんだよ。で、またマンネリになった。だから、今度は風景画が新鮮に見え始めたんだろうな」
 「なるほど。時代は繰り返すってことか」
 渦川はそう言ってまた天井近くの抽象画を眺めた。私はポケットからスマートフォンを取り出して、ウェブページを適当に巡回した。
 店員が渦川の頼んだサラダを運んできた。渦川は黙々とサラダを食べた。私はスマートフォンをポケットにしまって、天井近くの絵を指差して言った。
 「あれは抽象画家マン・ネリの絵だ」
 「うそつけ」渦川はこちらを見ずに言った。
 「いや、マン・ネリの青年期に描かれた絵とみて間違いない。えっと、そうそう、『侵略』だな。ほら、あの絵の最上部に位置する楕円形をよく見てみろ。どう見たってあれはUFOだろう」
 「なんでファミレスにUFOの絵なんて飾るんだよ」
 「そりゃ風刺だからだ。あの作品に込められた意味は深いぞ。俺が見るにあれはファミレスというグローバリゼーションの申し子がネイション、そしてなによりローカルをだな、あー、侵略していくということを痛烈に皮肉ってるというところだな。そうそう、そうに違いない。我々はグローバリゼーションというUFOの中に連れ込まれた悲しき人間なんだ」
 「いつからグローバリゼーションは飛行物体になったんだよ」渦川が呆れたように言った。「確認されているし、名前までついてるし」
 「ままま、そこは寓意的というやつだから」
 「はあ、まあそうやって考えるのも楽しいけどな」
 渦川はため息をついた。
 私は意外に思った。こういった冗談を言うといつもなら渦川も付き合ってくれるのだが、しかし、今日は様子がおかしい。渦川は肩を落としたまま俯いている。
 「おいおい、どうした。なにかあったのか?」
 「ん? いや、大したことじゃないよ。大したことじゃないけど、なんていうのかな、俺もマンネリってやつなのかもな。なにをやっても確かな手応えを感じないというかさ」
 私は黙って渦川の話に頷いた。
 「本当にこんなことばかりしていてもいいのかなって思うことが時々あるんだよね。でも、実際になにをやればいいのか分からなくて。なんか自分の中のセンサーが麻痺してしまっているような感覚っていうのかな」
 「考えすぎだろ」私はできるだけ深刻にならないように軽い調子で言った。だが、渦川は天井近くの絵を眺めながら暗い調子で続けた。
 「芸術なんて縁がないと思ってたけど、でも、案外ああいうものから刺激を受けることってあるのかもな。なあ、芸術ってなんなんだろうな」
 「爆発だろ」私は反射的に応えた。
 「言うと思ったよ」渦川は呆れたように言った。「でも、そういうんじゃ駄目なんだよ。最近わかってきたんだ。そういう誰かの言葉だったり、本で読んだ話とかじゃ駄目なんだ。他ならぬ自分自身にとっての言葉じゃないと意味がないんだよ」
 「んじゃあ、芸術は白髪だってのはどう? 芸術家って白髪が多そうだし」
 「いいんじゃない? お前がそう思うんならそれで」
 「なんだよそれ」
 渦川の言葉に私は少し腹を立てた。気を使って冗談を言っているというのに、訳のわからないでかい問いをこっちに向けてきやがって。
 私は言い返そうとしたが、ちょうどそのとき店員がテーブルに料理を運んできた。我々はいつもよりも若干過剰に礼を言った。そして無言で食事をした。
 渦川は食べ終わってから水を入れに席を立った。私はポケットに手を伸ばそうとしたが、しかし、また振り返って天井近くの絵画を眺めた。
 芸術。
 抽象画。
 自分の人生。
 そのあたりのことを考えようとしてみたが、うまく考えられなかった。ただ、仕切り越しに見える店内の客たちの食事風景がいつもよりちょっとだけ印象的に見えたような気がした。
 渦川がふたり分のグラスを手に戻ってきた。水が並々入ったグラスには氷がふたかけら浮かんでいる。私は礼を言って一気に半分ほど飲んだ。そして一息ついてから言った。
 「現代ってさ、情報社会なわけじゃない? 俺たちもこのファミレスもこのグラスだって、ぜんぶ情報になったんだ。短期間に、そして急速に。でも、こんな情報化された世界だっていつかはマンネリになる。そしたら膠着状態を打ち破るなにかが求められるようになるだろ。で、それを打ち破るなにかというのが芸術なんだと俺は思うな」
 「それって要するに抽象と具象の往復運動のこと?」渦川が鋭い口調で言った。
 「ああ、それだよ。それそれ。抽象と具象は往復するんだよ」
 私は姿勢を直して言った。渦川が私と同じようなことを考えていることが嬉しかった。
 渦川は真面目な顔で続けた。
 「その視点って人生にも当てはまるよな。同じようなことばかりして生活してたら人間ダメになっちゃうからな。情報社会における現代人の生活って物質的にかなり快適ではあるけど、でも、俯瞰的に見たら新鮮さは薄くなっていると思うんだよね。大量生産品に囲まれて、刹那的な消費行動を繰り返している。もちろん一概にそれらが悪だなんて言えないわけだけれど、だけど、それでもどこかで線引きしなきゃいけないラインがあると思うんだよな。でもそのラインはかなり見えにくい。だから、そんなときこそ個人レベルでも抽象と具象の往復運動によって小規模な芸術活動を」
 渦川はそこまで言ってぴたりと口を閉じた。
 完全に固まっている。
 「おいおい、どうしたんだよ。お前の言う通り俺たち現代人が意識すべきなのは個人生活におけるミニマムな芸術活動であるということは自明であり、俺たちは端的に」
 私は話を続けようとしたが、しかし、渦川と同じように途中で口を閉ざして沈黙した。
 男の子を連れた女性が店員に案内されて、我々のテーブルの隣に座った。大声で議論を続けていた我々ふたりに対して、少年は好奇の眼差しを送っていた。
 私はグラスの氷を口に流し込んだ。渦川はテーブルの上の領収書を手に取って眺めた。
 隣の席の女性は我々と同年齢くらいだったが、とても大人びて見えた。佇まいが美しかった。女性は子どもと一緒にメニュー表を眺めながら、今夜の晩ご飯の献立を話し合い始めた。
 「えっと、それじゃあ、そろそろ出るか?」渦川が切り出した。
 「お、もう出ます?」私は返事を聞かずに立ち上がった。
 我々は会計を済ませた。
 そしてグローバリゼーションという未確認飛行物体からそそくさと退散した。
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