限定ユートピア

文字数 1,763文字

 思い出すのは、泣きたいくらい美しい、彼女と過ごした記憶(ユートピア)





 半袖を着るのは、少し躊躇うような季節になった。
 部活も無い、予定も無い。太陽も半分眠りかけの、何でもない日が久しぶりに訪れた。それでも部屋の中で過ごすには惜しい。何となく窓を開けたら、涼しい風が吹いていた。

(……飲みもんでも買うてこよか)

 ポケットに小銭入れを詰め込んで、手持ち無沙汰な両手もついでに突っ込んだ。

(それにしても、)

 自分にすら、何か言い訳しないと動けないなんて。自嘲して、玄関のドアを開けた。
 自販機はもう何台も過ぎている。飲みたいのが無かったから。また不要な理由をつけた。
 いつのまにか風景は変わり、見慣れない建物がぽつぽつと建っている。そういえば、こっちに来る機会はなかった事をぼんやりと認識する。学校との往復に関係ない道は、滅多に通る事はないものだ。
 周りの景色を眺めながら、両手はポケットに突っ込んだままひたすらゆっくり歩く。住宅だらけのそこに、木に囲まれた空間を見つけた。

「お、幼稚園じょ」

 朧気ながら、懐かしい記憶が蘇る。別に自分が通っていた場所ではないけれど、サイズの合わない遊び場はきっとどこも同じだろう。休日で誰もいない空間に誘われるように、その門を飛び越えた。

「不法侵入だな」

 足を着けた瞬間、背後から聞きなれた声がした。

「む、紫ちゃん!?」

 誰かなんて解っているけれど、驚いて振り向く。案の定、恋人がぽつんと立っていた。私服の彼女も偶然散歩していたのだろうか。

「何するつもりだったのやら」

 そういって、何故か彼女も門を飛び越えてきた。

「いや、なんか懐かしなったねん」
「お前、ここのOBだったのか」
「ちゃうけど」
「……ああ、とうとういたいけな幼子にまで手を出したと」
「そうそうちっさいのがちょろちょろしちゃーるんのかえらしよなっ……ってあったれ!」
「…………」
「……ちょお、そこまでひかんでもええわして」
「お前が言うとジョークに聞こえぬ」
「ひどいわ……」

 わざとらしく肩を落として、歩き出した。もう膝の少し上までしかない鉄棒に触れる。こんなに低くては遊べないな。目を細めて、逆上がりを一所懸命練習した小さい自分を思い出した。

「練習したなあ」

 自分にしか聞こえないくらいの声で呟いたのだが、意外にもすぐ近くにいた彼女には聞こえていたようで。

「そうだなぁ」

 これまた意外な返事が返ってきた。

「紫様も練習したんですか」

 限りなく標準語のイントネーションに近づけて尋ねる。

「……お前は私を何だと思うておる?」
「鉄血の女王様?」
「それは正解だが」
「それはええんかいな」

 思わず笑ってしまった。今日は珍しく素直な方なのかもしれない。

「なんかな。こうゆうの見ると泣きたくならへん?」
「ホームシックというやつか?」
「や、それとはまた違う感じやねんけど」

 特別な何かを思い出すわけではないけれど、『懐かしいという感情』が頭の隅に浮かんでくる。そして、何故か泣きたくなるんだ。

「ほんに、小さきな」

 声のした方を見ると、自分の背丈と変わらないジャングルジムに手をかけている紫が見えた。頂上を見上げるその横顔がとても綺麗で。ああ、カメラもってくればよかったなと後悔した。
 いつか彼女の事も、逆上がりした記憶のようになってしまうのかもしれない。今度はその写真を見るたびに今日感じた懐かしさを思い出して。そして幼稚園を見るたびに、彼女の美しさを思い出すのだろう。
 彼女を愛した記憶と、彼女に愛された記憶を思い出すんだ。いつまで自分は傍にいられるのだろう。いつまで自分の側にいられるだろう。可能ならば、彼女と一緒に今日の事を思い出したい。写真なんか残さなくてすむように。
 だけど――

「紫ちゃ、」
「帰りやるぞ、見つかったら面倒よ面倒」

 続きを先に言われてしまった。驚いている間に紫はすたすたと出口に歩いていき、入った時と同じように綺麗なフォームで門を飛び越えた。そして振り返ってこう云うんだ。

「早に動け、置いていこ」

 頭脳明晰、それでも他人の好意に鈍感な彼女の顔はいつにもまして綺麗だった。慌てて門を飛び越えて、その背中を追いかけた。

 ――この願いは、叶うかどうか解らない。だからもっとたくさん、写真を撮っていくつもりだ。
 ネガは残らない、たった一枚。己の中に。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み