美しければ

文字数 1,924文字

 彼から私の余命を告げられたのは約3か月前のことだった。
「古橋さん、3か月です。残り」
 
 数週間前から胃の痛みが引かず、会社のトイレで吐血した。そのときは誰もいないことをいいことに、口をすすぎそのまま仕事に戻った。その晩、勤務を終えた彼が帰ってきてからそのことを話すと、顔色を変えて彼の勤務先の病院へと連れていかれた。
 空いている診察室に拉致という言葉が当てはまる勢いで通され、1分ほどで白衣を着た彼が前に座る。いつも私のことを「みいちゃん」と呼ぶ優しい瞳ではなく、何か覚悟を決めた瞳で私を見た。
「まず、すぐにでも精密検査をしなくてはいけません。明日からそのための入院をしてください。古橋さんのご家族には私から連絡をします。古橋さんは会社に連絡を入れてください」
 医師だった。彼や婚約者のカズ君ではなく、神谷和也医師だった。思わず私も敬語になる。
「そう言われても・・・。明日は大事な会議と取引先との会食があるんですが」
「古橋さん、突然のことですからそう仰る気持ちは分かります。しかし、一刻を争うかもしれません。古橋さんの今後だけでなく、命に関わるかもしれない問題です」
「でも・・・」
「みいちゃん、お願い。会社にみいちゃんの代わりはいるかもしれないけど、僕にはみいちゃんの代わりはいないんだよ。だから、お願い」
 優しい瞳になっていた。ただいま、と疲れをおくびにも出さず帰宅し、今日の出来事をつまみにお酒を飲むときと同じ優しい瞳だった。医師である彼は恐らく私の病状の深刻さが分かっているのだろう。瞳に涙を湛えている。美しいと思った。
 「うん」と短く返事をし、早速、部長に電話で連絡を入れる。意外にもすんなりと認められ、むしろ大袈裟なほど心配され罪悪感が残る。何かあったらすぐに連絡をすることと、仕事のことは忘れてしっかり休養するようにと二つの業務命令を下され、職場環境に恵まれていたと実感する。

 次の日から早速、検査が始まる。検査室に行くまでの間、看護師が神谷先生のフィアンセという目で私を見てくるように感じ、少し誇らしくなる。
 検査や診察の連続が一週間ほど続き、途中に上司や後輩が見舞いに来てくれたが、仕事を休んでいる負い目があり有難さよりも申し訳なさが上回る。
 彼は定期的に家に帰り、家事や着替えの用意などをし、持ってきてくれる。素直に嬉しかったし、「夫」をそこに感じられた。
 検査結果が出たと彼が病室まで来た。事前に個室をあてがってくれたので、診察室に行くよりもここで伝えた方が早く、病院内での立場を超えた個人的な話もできると考えたらしかった。
 彼がベッドの横にある椅子に座る。起き上がろうとすると、「そのままで大丈夫だよ」と制され、手元にあるリモコンで少しだけベッドを上げ、彼を見る。
 しばらく沈黙が続き、時が止まる。だから、私も彼から目を離すことができず、彼もまた同じだった。
「古橋さん、3か月です。残り」
「へ?」
思った以上に間抜けな声が出て、自分で自分を疑う。
「みいちゃん、ごめん。あと3か月くらいしか・・・。治療しても」
「癌」という言葉が聞こえ、その前後は全く聞こえなかった。時折、彼が下唇を強く噛んで感情をコントロールしようとしていた姿を覚えている。
 恐らく次の日に会社に伝え退職した。
 自宅でその日を待つことが決まった。彼は一年間休職し、身の回りの世話をしてくれた。私の両親には彼が既に話してくれていたようで、病院を出ると、両親が病院の外に待っていた。
 父が「思っていたよりも元気そうだな。安心した」と言っていたが、その声は渇いていた。母は隣で目を腫らしていた。
 実家に戻ることになり、彼も婿という形で古橋家に名を連ねた。彼は私と話すときはカズ君、両親と話すときは古橋医師として話していた。瞳が違かった。

 少しずつ食欲がなくなり、痩せてくる。体力がなくなり、少しの乾燥で風邪をひく。治らない。辛い日が続く。気がつくと隣で彼が寝ていることが多くなり、「あぁ、今日もカズ君と話せなかった」と思う日が多くなる。トイレに行くだけでも何度か休憩をしながら向かうようになる。
 やがて、体を動かす体力と気力がなくなる。顔だけを横に向け、カレンダーを見る。あぁ、ちょうど3か月前だったと思い出す。カズ君が私を「古橋さん」と呼んだ最後の日。
 少しずつ意識が遠のく自覚があった。寝たらもう戻れないと思った。彼が部屋に入ってくる。私の横に座る。私の目を見る。私を見るカズ君の瞳は美しいと思う。もうこの瞳を見られないと思うと残念だが、同時に最期に見たのがカズ君の瞳で良かったと思った。すでに声を出す体力はなく、口を、ありがとう、と動かす。
 幸せだったと思う。
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