第2話

文字数 4,909文字

「おお、大郎。今朝はまたずいぶんゆっくりよのう」

 覚束ない足取りで畑に向かう大郎に声をかけたこの男、すぐ近所に居を構える知識人崩れで、通称「泥舟先生」と呼ばれていた。苦み走った容貌が自慢の、年の頃は四十前後に見える男である。かつては都長安で家庭教師をしたり、科挙対策の問題集を執筆したりと、それなりに活動はしていたのだが、何やらのっぴきならない理由によって、この片田舎の一村落まで流れてきたのである。

 村では細々と塾を経営しているのだが、なにぶん田舎のことでもあり、生徒は全くいなかった。日々の食い扶持だけで汲々としていたものの、そこは知識人としてならしたこともあり、講談師のまねごとをして何とか糊口を凌いでいた。村人に受けるのは軍談ものばかり、本来得手としていたのは詩人たちの逸話だったが、これも生活のためとぐっと堪えて仕事をしていたのである。

「あ。先生……おはようございます」

「はは、何がおはようなものか。太陽はもう中天にかかっておろう。六龍の手綱を執る羲和がそなたを待つこともあるまいに。『盛年重ねて来たらず、一日再び晨なり難し』とは蓋し名言であるな。そなたもそう思うであろう。しかしそなたの働きぶりには目を見張るものがある。はは、日頃からそれだけ額に汗しておるのだ、いつの日か天漢に輝く織女星との逢瀬が叶うやもしれぬな。なにせそなたはこの村一の牛飼い、牽牛星となりうる資格は十分に満たしておるのだから」

 そう言うなり腹を抱えて笑い出した。大郎には先生の言うことなど全くわからない。大郎はとろりとした目を向けたまま、まるでうわごとでも言うかのように、

「女の人って、いいものですね。暖かくて、柔らかくて。包み込まれるようで、全てを受け入れてくれるようで。ああ、あんなこと、もう。とてもじゃないが、たまらない。辛抱できそうにない」

 泥舟先生、これを聞いて目を丸くした。
 心中に思うよう、この田舎者が何を言っておるのか、昼間っから女の話など。何かおかしなものでも拾って食ったのか? と。

 そこでそれとなく水を向けてみると、その口から出た話はまるで信憑性のないものだった。知識人である泥舟先生は、「怪力乱心を語らず」と『論語』にもあるように、不可思議な出来事には眉唾で臨むことを信条としていた。しかし大郎の様子や口ぶりからは、彼が到底嘘をついているようには思えない。何より、大郎は学問こそまるでないが、正直者として誰からも信頼されているのである。

 泥舟先生は頻りに首を捻ったものの、だんだん大郎のことが羨ましくなってきたのだった。

 また心中に思うよう、こんな田舎者風情が楊貴妃と一夜を共にしただと? ふざけるんじゃない。オレの方がずっといい風采をしているし、何より経験豊富なんだ。長安の色町では何人もの美女を失神させてやったこともある。それに枕辺での甘い語らいは大受けだったんだ。アレもコレも、せがまれまくって眠れないくらいだったというのに。オレなら楊貴妃を満足させてやれる、間違いない、と。

 さっさと大郎と別れた泥舟先生は、すぐさま辺りのあぜ道を探して回ることにした。しかしそう簡単に野晒しの骸骨が見つかるはずもない。いっそのこと大郎が葬った所を掘り返してみようかとも思ったが、それには楊貴妃もさすがに怒るに違いないと考え直したのであった。

 しかし泥舟先生にも天が微笑みを垂れたと見え、夕暮れ近くまでほうぼうを探し回った結果、ようやく一つの頭蓋骨を発見することができた。小躍りした泥舟先生、いそいそとそれを拾い上げると、大郎の真似をして廟の側に穴を掘って埋めてやった。

 しめしめと思いながら帰宅したが、どうにも楽しみすぎて仕方がない。鏡を持ち出してひげをひねってみたり、眉をしかめて睨んでみたり、顔の角度を変えてみたり。念入りにうがいをしたあとは、滅多に湯など使わないのに、せっせとお湯を沸かしては全身くまなく清潔に磨き上げた。ペラペラの布団を綺麗に敷き直し、そっと臭いを嗅いでみると、少しばかり饐えた臭いがする。「画竜点睛を欠くとはまさにこのことだわい」と思えたが、大郎でも大丈夫だったのだ、何の問題があるものか、と気を取り直し、布団の上であぐらを組んで、右手の指でそわそわと膝を叩いていた。

 泥舟先生、今年で齢四十に届こうというのに、未だ結婚していないのにはわけがあった。もちろん放蕩好きな性格も問題ではあるが、知識人とは得てしてそのようなもの、印象が悪くなることはほとんどない。むしろ遊びを知らない方が、野暮ったいと誹られるくらいである。過去には数件の縁談が持ち上がったこともあったが、泥舟は首を縦には振らなかった。彼が頑なに独身を貫いているのは、その特殊な性癖に起因するところ大なるがゆえなのである。

 泥舟の好みとするところは、あどけない容姿を残した美少女にこそあった。

 庇護欲をかき立てるような外見。小柄で痩身、くりくりとした瞳。そして未だ世間を知らないかのような無邪気な振る舞い。大人の女性には見られなくなった、少女特有の仕草をこそ、泥舟は熱愛し、また渇望していたのだった。

 お湯が沸くくらいの時間が経った。しかし、扉を叩く音は聞こえてこない。

 泥舟心中に思うよう、楊貴妃は確かに絶世の美女だ。しかし豊満に過ぎるきらいがある。伝承では脇が臭かったとも伝わっているし、確かに技巧は群を抜いているやもしれんが――いや、もちろん贅沢などは言ってられん。あの楊貴妃と雲雨巫山できるのだから、そこに文句などあるわけがない。しかし、しかし――あえて言うならば、やはりほっそりとした美少女こそが至高だ。そう、例えば――漢の趙飛燕(zhao fei yan)とか最高だよな。手に捧げた盆の上で舞ったという伝承なんか、想像するだけであちこちビクビクしてしまう。『可憐の飛燕 新粧に()る』とはまさに言い得て妙だ。なんて艶やかなんだろう。ああ、羨ましい。と。

 そんなことを考えながら顎をさする先生の耳に、コツコツと乾いた音が聞こえてきた。すわ来たぞ、ともんどり打って玄関まで転がり出たが、少し落ち着こうとばかりに着物の襟を整えた。知識人としての矜持が、泥舟先生をして身だしなみを整えしめたのである。

「ど、どちらさまでしょうか」

 ややうわずった調子で訊ねる泥舟先生。すると、

「飛(fei)です」

 ――きたっ! きたっ! きたあっ! まさかの飛燕だッ! そう、趙……

 そこで我に返った先生。扉の向こうの声は、あろうことか野太いものだった。

 恐る恐る、しかし慇懃な態度は崩すことなく、外にいる誰かに向かって再度訊ねると、

「それがしは張飛(zhang fei)将軍にござる」

 目の前が暗くなりそうに感じた先生、

「飛燕……ではないと」

 ぼそりとこぼすので精一杯だった。

「これはしたり。それがしは燕人(yan ren)の張飛、大した違いもござらぬ」

「……そ、それで、その。剛勇無双、武勲の誉れ高き張飛将軍が、拙宅にどのようなご用向きで?」

「おお、それであったな。それがしはかつて漢室復興を目指し、玄徳の兄貴のもと各地を転戦しておった。やがて兄貴は蜀で皇帝の位に就き、さあこれからぞというところで、雲長の兄貴が呉のヤロウの奸計に嵌められて殺されてしまったのだ。今思い出しただけでも、腸が煮えくりかえる。それがしは玄徳の兄貴と力を合わせて呉に攻め込み、仇を討つつもりであったものの、いざ出陣という間際になって、それがしは部下の謀反で殺されてしまった。それからというもの、幾星霜、それがしの骸は夜露に晒され、誰も弔ってくれるものが現れなんだ。それが、まさに天の配剤といおうか、今日そなたのような高徳の士に出会え、手厚く葬ってもらえたというわけだ。この喜び、何にたとうべくもない。しかしそれがしは敗残流浪の落ちぶれた身、そなたに報いるような宝物を持っておらぬのが情けない。ならば、わずか一晩ではあるが、それがしの尻をそなたに貸すゆえ、存分に無聊を慰めてもらえたら、と愚考した次第。……そろそろ扉を開けてはくれまいか」

 泥舟先生、何の一言も発することができない。扉の向こうには、あの一騎当千、敵将の首を取ること袋の中から物を取り出すが如し、とまで称えられた張飛将軍がいる。その申し出を断りなどすれば、自分の素っ首などたちまちのうちにねじ切られてしまうのは、火を見るよりも明らかであった。さりとて迎え入れてしまえば、想像するだに恐ろしい、阿鼻叫喚の世界が展開されることは疑うべくもないのである。

 永遠の時間を彷徨うかのような錯覚に囚われた泥舟先生。命は惜しいが貞操も惜しい。

 しかし、このとき。泥舟先生に天啓が舞い降りたのである。

 さっき将軍の言葉では「尻を貸す」とあった。ならば、攻めるのは自分であり、突き破られることはないのではないか、と。

 扉からは何の音も聞こえない。もしかしたら、武人の矜持が将軍に狼藉を働かせないようにしているのかもしれなかった。

 泥舟先生はそっと扉に手をかけると、かつて莫耶がその身を投げたという溶鉱炉に飛び込むくらいの覚悟でもって、ガラリと扉を開け放った。
 
 目の前には、天を衝くかと見紛うほどの大男の影が見える。ほのかな光に照らされて、全身を包む鎧が鈍く輝いた。見上げる先生の肩に、ドシリ、と大きな手が置かれる。

 泥舟先生は口をあんぐりと開けたまま、張飛の顏を見つめるほかない。

 その有様はと言えば、

 らんらんと光る両の眼は、ひと睨みすれば鬼神も黙る。
 顎を覆う逆立つひげは、触れる者皆チクチクと刺す。
 泰山の如く盛り上がった両肩、伸びる腕は崑崙山をも容易く引き抜く。
 十指はまるで棍棒のよう、拳打も掌打も類い稀なる破壊力。
 熊のような腰回り、虎のような太もも。
 大地を踏みならせば、黄泉の亡者もたちまちひれ伏し、ひとたび吠えれば、天におわす天帝も慌てて玉座から転げ落ちる。
 右手につかむは丈八の蛇矛、うねる刃は血に飢えたよう。
 屠った敵将数知れず、関羽でさえも一目置く。
 これぞこれ万夫不当の大英雄、長坂坡にて勇名を馳せた劉備股肱の大将軍。
 五虎大将にその名を連ねる燕人張飛、字は益徳。
 求めに応じてここに推参。

 張飛はにやりと微笑むと、先生の手をがっしとつかんで部屋に押し入った。太くて大きな指に、人間の頭くらいは簡単に潰せそうな掌。泥舟先生は張飛のなすがまま、自ら敷いた布団の上に座るほかなかった。

「おお、これは気を遣って頂いてかたじけない。酒肴の用意がしてあるとはな。はは、よほどそれがしが来るのを楽しみにしておったとみえる。その期待には存分に応える所存ゆえ、万事それがしに任せて頂きたい。うむ、やはり酒はいい。それをあの孔明の青びょうたんめ、いちいち目くじらを立ておってからに。そのかわり士元のヤツは話がわかってよかったわい。落鳳坡は残念なことこの上なかったが。気の合うヤツほど早く命を落とす。何とも寂しいことよな」

 泥舟先生、布団の上で正座をしたまま、全く動く気配がない。不審に思った張飛だったが、はたと膝を打つと、

「さては緊張しておるのだな。その年まで未通なわけはないと思うのだが。まあよい、それがしの蛇矛ですらりと貫いてやるゆえな、きっと今までに出したことのないような愉悦のため息を漏らすこと請け合いぞ。ああ、いや勘違いするな。本物は使わぬ、死んでしまおう。はは、それがしの脈打つ蛇にな、念入りにもつばを塗ってやるゆえ、何の怖いことがあるものか」

 張飛の猿臂がぐいっと伸ばされ、為す術もなく先生はその腕に抱きしめられた。ぐりぐり光るどんぐり眼、逆立つ虎ひげが顔面に迫る。

 いっそのこと気を失ってしまえば、と思ったが、繰り返し体中を駆け巡る快楽に、先生には眠る暇さえ与えられなかった。
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