第1話

文字数 6,923文字

【骨太小説】
 
 KAKO                                

 雨の日はなぜか月橋画廊を訪れたくなる。それは築地の聖路加病院の傍の細い路地沿いにあるのだが、古い石作りのこじんまりした外観が、ひっそりと周囲の風景に溶け込んでいて、そこが画廊だといぅことを知る人は少ない。表札は出ておらず、勝手口の空色の木戸がある裏手の石塀に【MASON ATELIER de THUKIHASHI 1977】と記された三十センチ四方程ある正方形の石が掛かっているのだが、色褪せている上に、横にある大きなマロニエの樹が邪魔して文字が読みにくくなっている。二階の力―テンはいつも閉じたままで、正面の出入口もほとんど使われていない。
私はそっと勝手口へ廻り、扉に耳を押し当て、ピアノの音色が聞こえるかどうか耳を澄ますと、半ば錆びかけて鈍い光を放っている、重たい銀の鈴を鳴らす。
〈KAKO〉はこの画廊の現在のオーナーだ。演奏旅行に行っている時以外はたいていここで、ピアノを弾いたり、青 の濃淡に染めた海を想わせる絹糸を使って織物を紡いでいる。
秘蔵されたコレクションの数々は一般に公開されていないので、私を除いて、ここを訪れる人達の殆どは月橋家旧知の者ばかりらしい。
〈KAKO〉の兄、月橋静歌は、北海道生まれの画家で、日本画家の大家である父、月橋一司の後を継いだ。しかし伝統や師弟関係に縛られる人間関係に嫌気がさして、二十代初めにフランスへ渡った。当初はパリでラテン区の辺りの屋根裏部屋を借りて、観光客相手に似顔絵等描きながら生計をたてていたのだが、絵画の蒐集では目利きと噂されるアルメニア系のある豪商に拾われてからは、ヨー ロッパの画壇でめきめきと頭角を現した。そして、彼の画風があくまでも平面性を追求し、過剰な色彩に溢れ、時に着物の柄を取り入れたよぅな装飾で空間を埋め尽くされていたため《東洋のクリムト》と評され、以後十数年間に渡って精力的に創作を続けた。
今から八年前、それは私がまだ駆けだしの記者だったころのこと、学芸部の先輩に連れられて銀座七丁目にあった『LUNA』という店へシャンソンを聞きに行った。それは先輩が日曜版の「ニュー・フェイス」という欄で取り上げた歌手のリサイタルの日のことだった。
当時の私は政治部の記者として、慣れない外廻りと昼も夜も関係ない生活を送っていた。
「飲むのも仕事の内」とデスクに言い含められ、酒が弱い癖に毎日永田町の先生方の集まりそうな店を梯子して歩いていた。だから久しぶりのプライベI卜な席での解放感はひとしおだった。歌も大詰めとなり、珍しくドライマティー二の三杯目を飲み干した時、司会者の「リクエストはございませんか」という言葉が耳に飛び込んできた。
子供の頃から音楽といえばクラシックしか聞かされたことのない私は、シャンソンを生で聴くのもはじめてだったし、第一、シャンソンとジャズの区別もつかない。だが音と光の海をきもちよく漂いながら、いつになくはしゃいだ気分で、あてずっぽぅに「ブルームーン」と声を掛けた。
昔、深夜テレビでジュリー ・ ロンドンとかいう歌手が悩まし気に歌っていたのをふと思い出したのだ。〔どこかシャム猫を思わせる容貌の思いっきりアーチを描いたしなやかな眉の女性だった〕などとのん気に回想するのもつかの間、あたりの空気が妙にざわめいているのに気づき現実に引き戻された。
私の不意のリクエストは全く予定されていなかったのだろう。マイクを手にした小指を神経質そうにピンと伸ばすと、司会者は早口で歌手の耳元に何か囁き、言い訳でもはじめるかのように客席へ向き直ったように見えた。とほとんど同時に、何事もなかったかのようにピアノの静かな音がゆったりと空間を満たしはじめた。誘われるようにそちらへ視線を注ぐと、スタインウェイを弾くクレオパトラのように前髪を真っ直ぐに切り揃えた女の姿が見えた。その面差しはまだ幼く、なぜかはっとする程清例だったので、周りを包み込む灯のように暖かく完成されたピアノの音色ととても不釣り合いに見えた。そして、鮮やかなドレスの紅と漆黒の闇のような黒髪は、ピアノを弾くほっそりとした指先の白さをさらに際立たせていた。
「おい、香川、何うわの空みたいな顔してるんだ」打ち上げパーティーの席上で、話に加わらない私に、あちこちで得意の軽口をたたきながら人々の間を泳ぎ回っていた先輩の中川がぽんと肩を叩いて声をかけてきた。そしてさっ きの歌手に向かって「こいつは俺のラグビー部時代の後輩なんだけど、ちょっと変わっててね。まあ服の趣味の野暮なのは仕方ないにしても、ブンヤの癖して、酒は弱い、空気は読めないカタブツでさ、この間も休みの日にひっぱり だそうとアパー卜を覗いたら、何が面白いんだか変な哲学書なんて読んでるじゃない、そんな風に考え込んでデスクに議論でもふっかけたら、どっかの地方の支部あたりに飛ばされちやうぞっていつも忠告してやってるんだけどね」と言って愉快そうに笑った。
歌手は妙に鼻にかかった甘ったるい声で「中川さんみたいにあんまり饒舌すぎるのも心配よ。皆にお上手言ってるんでしょ」と言うと、今度は真顔になり、「でも香川さんたら、まるで突然、準備していない曲リクエストするんだもん。どうしようかと思った。ああいう時はたいてい常連のサクラが得意そうな曲を選んでくれるものなのよ。カコちゃんが助けてくれなかったらと思うと冷や汗が出るわぁ」と軽く私を睨んだ。
「いやぁ、僕もまいりました。全く面目ない…」私は間の ぬけた返事をしながら、その場の空気に馴染めない自分を腹立たしく感じ、いつまでも続くとりとめもない世間話に背筋を丸めて帰ろうかと思っていたが、紅のドレスの彼女が中川に挨拶しに来たので、ここぞとばかりに聞いた。
「カコさんっていぅのは、何て名の略なんですか」
「あら、カコは本名ですわ。よくニックネームに間違われるんですけれど」それは思いがけず成熟した瑞々しい声の響きだった。
改めてその日のプログラムを開くと伴奏者の欄には確かに口 ―マ字で〈KAKO〉と記されていた。
「本当は花の鼓と書くのよ」歌手が教えてくれた 。
「おい、あんまりじろじろ見るなよ。こいつ香川満って言って俺の後輩なんですけど、不躾な奴ですいません。何しろ何とかシュタインとかいう人の書いた小難しい本ばかり読んでるもんだから。ほら、あれなんだったっけ」
 まったく先輩だって充分不躾ですよと思いながら、私は少し自棄気味に「ヴィトゲンシュタインのことですか。別にそればかり読んでる訳じゃありませんよ」と言った。
「まあ、ヴィトゲンシュタインって、あの左手のヒアニス卜のことですか」彼女が興味深気に尋ねるので、私はこういう話をはじめるとたいてい全てメチャクチャにしてしまうと思いながらも、促されるように説明をはじめた。「それは戦争で右手を失くした兄のパウルの事ですね。私が読んでたのは弟の方。人が囚われてしまう体系的な世界に疑問を感じて、自分に沈黙を課さざるを得なかった孤高の哲学者です。この家系はパウル以外の兄三人が全員自殺していて、凡人には理解出来ないような〈死〉への誘惑や恐怖と闘っていたんです」
ヴィトゲンシュタインの姉、ストロンボウ夫人は、有名な世紀末の画家クリムトの肖像画のモデルにもなり、彼らの周囲にはいつも大勢のアーティストたちが集まっていた。
どうしてKAKOがそんな話を聞きたがったのか、その時私にはまだ理解出来なかった。しかし、あの時その話をしなかったらきつと、私たちはその後もう会うことはなかっただろう。

 しばらくして、私は再びKAKOに会い、月橋画廊に案内されることになった。
そこにはKAKOの父と兄の絵画コレクションが、所狭しと陳列されていた。彼女は父を六年前に亡くし、兄も今は行方が知れないとのことだった。
「兄は、この前香川さんのおっしゃってた片腕のピアニス卜のアルバムが好きで、よく聞いていました。だから香川さんと話したら、もしかしたら兄の気持ちが少しはわかるんじやないかって気がして」
そう言いながら彼女は私をある一点の絵の前に連れていった。
湖の畔だろうか。その絵にはこの間、KAKOが着ていたドレスの色とよく似た紅の草が一面に描かれていた。
「なんだかおわかりになる?」
唐突に謎を突きつけられて私は困惑しながら「まるで地の果てかどこかみたいで、見ているとそちらにひきこまれそうな景色だね。一体花なのか、草なのか。一面の菜の花畑とか、マスタード畑は見たことがあるけれど、紅い草なんて聞いたことがない」と答えた。
「私はその季節に行ったことがないけれど、これは北海道のサロマ湖の畔を彩るというサンゴ草なんだと思います。昔、兄が話してくれましたから」
私は彼女が言わんとすることを何とか理解しようと、一言一句聞き逃さないように全神経をはりつめた。
 KAKOには十五歳年の離れた兄がいるのだが父と折り合いが悪く、兄は彼女が七歳の時にパリへ渡った。そして父の死をきっかけに十年ぶりで日本へ帰ったが、三年前から再び家を出たきり戻ってこない。その兄から最近送られてきたのがこの絵なのだという。
兄の話をするKAKOはいつになく饒舌で、ややもすると熱に浮かされた子供のように頰を紅潮させている。
「小さい頃、兄のアトリエに入ると、ニカワと絵の具の匂いがして、その匂いの中にいると安心したわ。日本画は、顔彩の他に牡蠣の殻を粉にした胡粉(ごふん)を熱した二カワ水で丁寧に溶いて、混ぜてゆくんだけれど、最初に二カワ水と胡粉でお団子にする作業が、私には珍しくてね。でも試しにやらせてもらうと、根気が足りないのか、すぐにボロボロになって、兄がやるようにすペすべした玉は決してつくれなかった」
そう言いながらKAKOは、いとおしむようにその白い粉をさらさらと掌にこぼしてみせた。
「父の描く絵と兄の描く絵がちっとも似ていないのは、子供心にも強く感じていました。兄はこんな風に言ったわ。
『ねえ、花鼓、今お前がいるこの場所と、あっちの空気は色も匂いも違ぅのに、同じ色に塗ってしまぅのはおかしいとは思わないか。絵を描く時だって同じさ。皆、自分の見たいように、描きたいように、安心してわかりやすいように描いてしまうけれど、それは人が作った物語にすぎない んだよ。皆がそう見ようと決めた世界がホントに本当かどうかなんてわからないじゃないか』って」
 彼女は歌うように続けた。
「そこに赤いマントを着た子供の絵があるでしょう。それ は昔、兄が私を描いてくれたものなの。その時のことも少しだけ覚えている。私、グリムの赤頭巾ちゃんのお話が好きでね。寝る前に読むのが日課だったくらい」
 慈しみに溢れたタッチで丁寧に描かれたその幼いKAKOの姿を眺めていると、まるでいつかどこかで会ったことがあるような錯覚を覚えるのだった。
「それから三年前に兄が戻って来た時、二人してこの絵の前で話したわ。兄は、『どうして世の中の人はみんな赤頭巾を好きだか知っているかい』って聞いた。だって赤頭巾ちゃんはかわいいものって私が答えたら、兄はこう言ったわ。『そう、赤頭巾はやさしくて、かわいくて、素直な女の子だ。そして狼にだまされて食べられてしまいそうになるけど、そこへ猟師が来て助けてくれる◦だけど皆はもし赤頭巾が騙されないくらい賢かったり、一人で狼を退治出来るくらい強かつたらきつと好きにならないかもしれないね。だからもしかしたら、赤頭巾はお話に出てくるような赤頭巾でいれば、誰かが愛してくれるって思った時から、人に助けて貰わなければ生きていけない赤頭巾になってしまったんじやないかな』って」

 天に雲ひとつないある秋の夜のこと、私の心には重い雨雲がずっと垂れ込めていた。なぜなら、せっかくKAKOと知り合いになれたのに彼女の話はいつも静歌のことに尽きるからだ。私はいつも思い出を聞くばかりで、いっこうに彼女の実体を摑めない自分に焦っていた。
はじめて見た時からあんなに懐かしかった彼女が、今は言葉の壁にさえぎられて、こんなに側にいても見知らぬ人よりもはるかに遠い。
〔ああ、このまま別れれば私たちはこの世でもう二度と会えないだろう。KAKOも私のかたわらを通りすぎてゆく幻影の一人に過ぎなくなるのか〕
そう思った途端、私の内側に何か止めようのない力が漲り、「じや、さよなら」とマロニエの木陰まで送ってくれた彼女を抱きすくめていた。骨が細いのか、手応えが無いほど柔らかな感触だった。
 予期せぬことに驚いたのだろう、KAKOはどうしたものかととまどい、しかしすぐに「あなたは身勝手だわ」と声を和らげると、私の腕を笑ってすり抜けよぅとした。
「そう、僕は身勝手でありたいんだ」彼女の温もりを確かめながら、もう一度彼女の体が押しつぶされる程にしっかりと抱きしめて私は言った。
KAKOの瞳は放心したように宙を舞ったが、今度はためらいを振り払うかのように背伸びをし、決然とした表情で両手を持ち上げると、身を投げるように力いっぱい私の首に抱きついてきた。
彼女の吐息はさっき二人で食べた林檎のシャーベットの匂いがした。
その時、私たちを隔てていた何ものかが遥か彼方へと遠のいていくのがわかった◦

 瑠璃色のオーラが立ちこめるような別の夜、私はKAKOが右手の薬指にはめている時計の形を模した指環について聞いた。
「その透明な石、いつもはめてるね」
「ムーンストーンよ。月の波動とよく共鳴するの。どうして時計の形をしているかですって、それはもう一つの時間を忘れないためなの◦私たちはいつからか決められた太陽暦に基づく時間を生きているでしょ。でも昔から、生物の誕生も、感情の流れも、潮の満ち引きも、月の時間に影響されてきた。生命の内には誰に教わらずとも最初から組み込まれた時間が存在しているのね。
でも人間によって後から作られた、太陽の時間を生きていると、時々それがわからなくなる。そんな時にはこのもうひとつの時計を眺めながら、自分の内に静寂が戻るのを待つの」
慎重に言葉を選びながらKAKOはそんなことを言い、続けようかどうか迷っている様子なので、私は無言で彼女を促した◦
「今、思ったんだけれど、父の一司と兄の静歌は正反対のようでいて、本当は光と闇のように一対だったんじゃないかしら。大体〈カズシ〉の反対が〈シズカ〉だなんて悪趣味な名前の付け方と思わない?」                                
そんな風に同意を求める彼女は、自分の繋がれている鎖を一つ一つ外そうと努めているように私の目に映った。                                  
「父もきっと心の底では伝統に呪縛されている自分を解放したいと希っていたのかもしれないわ。でも、最期までそれを認めたくなくて、二人共そんな自分たちの関係を説明出来ないまま、深く傷つけあったのね。生きているということは、知らない間に沢山の意味の糸にからめとられ、身動き出来なくなる危険を孕んでいるけれど、その糸を断ち切らない限り、本当に生きているとは言えないわ。兄が私に言いたかったのはそのことなんじゃないから。         だから、父が亡くなり、兄が失踪した時から、私もそれまでの私であることをやめようと思ったの。父がつけてくれた〈花鼓〉という名を捨てて、KAKOになったのもその時からわ」                                          まるで自分に言い聞かせるように訥々と話すKAKOを前にして私はなすすべもなく、同時にどこか遠くをさまよっているだろう静歌に思いをはせた。
KAKOの瞳に映るものが私だろうと静歌だろうと、彼女の痛みは彼女のものでしかないのだ。                                          いつしか静歌へのジェラシーに似たこだわりは跡形もなく失せていた。だが代わりにあの晚消えたはずの境界さえも、はなから存在などしていなかったのだという苦い思い が脳裏をよぎった。
二月一日、噂水色の扉の奥からは、今日も繁にドビュッシーの〈月の光〉のメロディーが漏れてくる。呼び鈴に手をかけながら、私はいつか見た風景を思い出す。
「満さん?」内側からKAKOの声がする。
「このベルも古くなったね◦模様が薄れてきたよ」
「あら、知らなかつた?l'amour って書いてあるのに」
歳月は淡々と流れてゆく。そして今年もまた私たちは、サンゴ草のきらめくサロマ湖を訪れることだろう。〈了〉

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登場人物紹介

KAKO 本名は月橋花鼓(つきはし かこ) 失踪した兄に代わり画廊のオーナーとなっているミステリアスな美女

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