野ぎつねの子

文字数 1,545文字

 野ぎつねの子は、そこで足を止めて辺りを見回しました。
「むかしのむさしの、むさしのむかし、むかしのむさしの、ほほほーい」
 野ぎつねの子の目前に、広々とした野原が広がっています。足元には鬼薊の花が幾つも咲いていて、大きな葉っぱの葛は長い蔓を精一杯伸ばしていて、剣の様な葉っぱを持った丈の長い荻は鬱蒼と茂っていました。

 野ぎつねの子が鼻をクンクンさせると、ムッとする様な草いきれと、微かに人間の汗の臭いが感じられます。戦に出なければならない人間が、持っている刀の切れ味を確かめる為に、力いっぱい茂った草を薙ぎ払って行ったのでしょうか。

 そこに野ねずみが現れて、野ぎつねの子の足もとに近づき彼に尋ねました。
「何をしているんだい?」
「時間を戻しているんだよ」
「そんなことは出来やしない。時は戻すことなんか出来ないんだ」
「そんな事はないよ」
 そう言うと、野ぎつねの子は野ねずみをそこにおいて、力いっぱい走り出しました。

 思いっきり走って疲れたのか、野ぎつねの子は足を止めて辺りを見回しました。
 すると、夏の日差しも少し傾き、夕暮れの涼しい風が吹き始め、丈の長い草がそよそよ吹く風に靡き、砂を撒くようなサーという鳴き声を上げています。

 野ぎつねの子は、その場でぴょーんと跳ねてみました。
「むかしのむさしの、むさしのむかし、むかしのむさしの、ほほほーい」
 野ぎつねの子が耳をピクピクさせると、小川の堰の水音が遠くに聞こえてきます。でも、はしゃぎ声は聞こえてきません。川で遊んでいた人間の子供たちは、もう遊ぶのを止めて家に帰ってしまったのでしょう。

 そこに野うさぎが現れて、野ぎつねの子の足もとに近づき彼に尋ねました。
「何をしているんだい?」
「時間を戻しているんだよ」
「そんなことは出来やしない。枯れてしまった草や木は、もう元に戻すことなんか出来ないんだ」
「そんな事はないよ。目を閉じて見ると、過去の世界が蘇ってくるものさ」
 そう言うと、野ぎつねの子は野うさぎをそこにおいて、勢いをつけて走り出しました。

 野ぎつねの子は野原を抜けて、こんもりとした里山の中へと入って行きました。
 武蔵野の大地には、樫や椚など大きな両手を広げている落葉樹の森があって、その森で夏の鶯は、自分の存在を皆に誇るかの様に、声の限り鳴いているのです。

 木と木の間を縫う様に走り抜けた野ぎつねの子は、ゆっくりと歩を緩めました。
「むかしのむさしの、むさしのむかし、むかしのむさしの、ほほほーい」
 野ぎつねの子が目をパチパチさせると、空に大きな入道雲が浮かんでいるのが見えました。
 細い筋の様な巻雲も、橙色の夕焼けに照らされています。もう直ぐ一番星が輝いて、天の川に彦星と織姫が姿を表すに違いありません。

 野だぬきが、野ぎつねの子の足もとに近づいてきて彼に尋ねました。
「何をしているんだい?」
「時間を戻しているんだよ」
「そんなことは出来やしない。切れてしまった絆は、決して元には戻らないものなんだ」
「そんな事はないよ。目を閉じて願っていれば心は通じ合うものさ」
 そう言うと、野ぎつねの子は野だぬきをそこにおいて、息の続く限りに走り出しました。

 野ぎつねの子は、そこで足を止めて、大きく目を開きました。

 すると、鬱蒼と茂った、草だらけの武蔵野の野原はゆっくりと消えていきました。足元にどんぐりを一杯落としていた樫や椚の木も、色を失って擦れるように消えていき、広葉樹で覆われた武蔵野の里山も、蜃気楼の様に消えていきました。

 野ねずみも消えていきました。
 野うさぎも消えていきました。
 野だぬきも消えていきました。
「そんな事ないよ」
 そして、野ぎつねの子も、
 消えていきました。

「むかしのむさしの、むさしのむかし、むかしのむさしの、ほほほーい」
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