遺書
文字数 607文字
死に支度をしようと思う。人間など、いつどんな加減で死んでしまうか分からないのだから。とりあえず、身の回りのものは一通り整理した。
あとは、遺書だ。私には書き残しておきたいことが、一つある。どうにも変なところを気にすると思われるかもしれないが、書いておこう。
私は自分が死んだあと、残った者たちに「可哀想」と思われたくないのである。「可哀想にねぇ」などと言われ、まして涙を流されているところを想像すると、顔を覆いたくなるような、何ともいたたまれない気持ちになる。
私は、ただ消費するだけの人間なのだ。生きることへの執着もなく、死に対する嫌悪もない。私にとって死は、愛する者との再会であり、この世の海を、泳ぎきったゴールなのだ。解放なのだ。それは、どんな死に方でも変わらない。
生まれてからこれまで、平凡な私にもそれなりに様々なことがあった。そうして長い長い時間をかけて、漸くここまで生きてきたと思っても、まだ、平均の寿命とすればだが、折り返し地点にも来ていないのだ。
何度日が落ちても、また昇る。終わらせても、また始まる。終わっても終わらない、この先も続く何十年という歳月が、本当に途方もない時間に思われて、呆然とすることもある。
私は、もう充分生きている。恵まれ、感謝している。満足している。
だから私は「可哀想」と思われたくないのである。そんな時は、あの世から声を大にして反論したい。私は、可哀想ではないのだ。
あとは、遺書だ。私には書き残しておきたいことが、一つある。どうにも変なところを気にすると思われるかもしれないが、書いておこう。
私は自分が死んだあと、残った者たちに「可哀想」と思われたくないのである。「可哀想にねぇ」などと言われ、まして涙を流されているところを想像すると、顔を覆いたくなるような、何ともいたたまれない気持ちになる。
私は、ただ消費するだけの人間なのだ。生きることへの執着もなく、死に対する嫌悪もない。私にとって死は、愛する者との再会であり、この世の海を、泳ぎきったゴールなのだ。解放なのだ。それは、どんな死に方でも変わらない。
生まれてからこれまで、平凡な私にもそれなりに様々なことがあった。そうして長い長い時間をかけて、漸くここまで生きてきたと思っても、まだ、平均の寿命とすればだが、折り返し地点にも来ていないのだ。
何度日が落ちても、また昇る。終わらせても、また始まる。終わっても終わらない、この先も続く何十年という歳月が、本当に途方もない時間に思われて、呆然とすることもある。
私は、もう充分生きている。恵まれ、感謝している。満足している。
だから私は「可哀想」と思われたくないのである。そんな時は、あの世から声を大にして反論したい。私は、可哀想ではないのだ。