「     」

文字数 2,765文字

君から君へ

2−1
 思い立ったが吉日とはよく言ったものだが、今の今まで忘れていたことがある。
 子供に手紙を書くなんて初めての経験になる。突発的に思いだしたことだが我ながら良いことを考えたと思う。俺は楽屋のテーブルの前に座って先ほど買ってきた便箋を広げる。さぁどんな書き出しが良いだろうか……。頭を悩ませながらペンを持つ。そうだな。書き出しは……。

 こんにちは。健一くん。元気にやってるかな?君は多分今頃夏休みに入ったばかりといったところだろう。友達とは仲良くやれてるかな?

 そこまで書いたところで手を止めてしまった。書いてみるとなかなか手紙をいうものは難しいものだ。
 そうだ。こういう時は自分が子供だった頃を思い出せば良いんだ。さて、続きはどう書こうか……。

1−1
「ねぇ俊哉くん!待ってよー!」
 僕は走りながら、僕の前を走る俊哉くんに呼びかける。俊哉くんはクラスの中でも足が速い方で僕とは段違いだ。運動会の徒競走でも一番だったし、リレーの選手にも選ばれた。そんな彼が本気で走っていたら、いや本気でなくとも僕では到底追いつけない。更に言えば僕はスタミナも全然無くて、走っているとすぐに息が切れてしまう。だから僕はどれだけ頑張っても彼に追いつくことができない。
 僕はとうとう苦しさに負けてその場で立ち止まる。膝に手をついてぜぇぜぇと息を荒げる。前を向くことさえ億劫になる状態で、僕は下を向いたままでいることしかできない。
「なんだよ。情けないな。ほら待っててやるからこれでも飲めよ」
 俊哉くんはいつの間にか僕の前に立っていて、持っていたペットボトルを差し出す。僕はカラカラになった喉を潤して俊哉くんにお礼を言う。こっちから呼びかけたときは全く聞いてくれなかったくせにちゃんとこちらを気にしてくれていたのだ。優しいのか優しくないのかよく分からない。多分不器用なんだろう。
 僕はよろよろと木陰まで歩いて休む。僕がもっと足が早かったら、もっと体力があったら、俊哉くんに迷惑をかけずに済むのになぁ。

2−2
 君は自分の足の遅さを嘆いていたね。でも大丈夫。君は中学生になると陸上部に入ってそれを克服する。俺が保証するよ。でもちゃんと頑張らなくちゃいけない。部活はとっても大変だけど、ちゃんと君に力を授けてくれるんだ。

 ふむ。我ながら良いことを書いたのではなかろうか。さて続きを考えよう。そうだな……。

1−2
 僕は泣いていた。兄に無為に泣かされたのだ。彼は何の理由もなしに僕が泣くのを面白がるようにいじめてくる。そんなときにいつも助けてくれるのがお母さんだ。僕をいじめた兄を叱って、僕を抱きかかえて頭を撫でてくれる。そうしてるとなぜか安心して少しずつ泣き止む。まるで赤ちゃんのようだと兄には馬鹿にされるが僕はお母さんの腕の中に包まれるのが好きだった。
でもいつまでもお母さんに頼っているわけにはいかない。僕は一人の男になるために兄に立ち向かった。
 結果は惨敗。見事いつものように泣かされ、母が兄を叱る。そしてまた僕を抱きかかえる。いつまで待てば僕は一人前の男になれるんだろうか。

2−3
 君はいつもお兄さんに泣かされていたね。その日々は辛いと思うけど俺には何もすることができない。申し訳ない。でもいい口実ができたと思えばいいさ。お母さんに遠慮なしに甘えられるのは今だけなんだから。たくさん泣いて、たくさん甘えるといい。兄をみかえすことはきっと後で叶うから。

 そう言えば俺の兄さんは今頃何をしているんだろう。確か俳優になるという夢に破れたところまでは知っているけど。それ以降はよく知らない。いったいどこで何をしているやら。
 そう言えば今年の母の日には花を送るのを忘れていたな。代わりに今度何か送ってやろう。

1−3
「やっぱりできないよ!」
 僕は父に買ってもらったアコースティックギターを投げ出す。ギターを弾くにあたり初心者の壁とも教本に書かれていたFコードをどうしても綺麗に弾くことができないのだ。テレビで見たバンドに憧れてギターを始めたは良いもののどうしても超えられない壁が僕の前に立ちはだかる。他のコードはすぐに弾くことができるようになったのに、このFコードにもう三日もかかっている。その難しさともどかしさに僕はとうとう痺れを切らしたのだ。
 僕は仰向けになって畳に寝っ転がる。どうしたら弾けるようになるのだろう。天井を見ながらぼーっと考える。答えなんて出るはずがないのに。やはり実践あるのみ。僕は体を起こしてギターを抱え直す。そしてまた下手くそな音色を奏でるのだ。

2−4
 君の願いはちゃんと叶うよ。ギターだってきっとうまくなる。そうだ。Fコードの弾き方を教えてあげよう。多分君は指板を見るためにギターを斜めに向けていることだと思う。でもそれじゃ駄目なんだ。ギターはちゃんと前に向けなきゃいけない。そうすればうまく弾けるようになるはずだよ。俺が言うんだから間違いない。

「崎村さーん!もうすぐ本番ですよ!」
 俺の名前を呼ぶマネージャーの声。もう行かなきゃ。俺は手紙の残りの文と宛先をささっと書き終えて、便箋を封筒にしまう。それをマネージャーに渡して、
「これ、郵便局に出しといてくれる?」と言う。
「はい。前に言ってたやつですね。いつ頃に届くようにするんですか」
「うーん、そうだな……二十年前の今日で頼むよ」
「わかりました」
 俺は仕事の準備をする。誰もが憧れる仕事がこれから始まるのだ。手紙を書いたのはその緊張をほぐすためかもしれない。おかげで今は随分リラックスできている。過去の自分に感謝というところか。
 そして俺は舞台に立つ。目の前には観客の嵐。場数を踏まずにいきなりこんな舞台に立たされたら誰だって何もできずに失敗してしまうだろう。しかしその心配も俺には無用。このために今まで頑張ってきたんだ。部活も頑張った。ギターの練習も頑張った。そして場数を踏んだ。だから俺は今ここに立つことができる。
「みんな今日は来てくれてありがとう。最後の曲はまだ未発表の新曲を歌いたいと思う。タイトルは『君から君へ』」

1−4
 朝の忙しい時間に何か手伝えることはないかと聞いたら、お母さんは「郵便受けを見て来て」と言った。僕は朝の気持ちいい風を受けながら郵便受けを開ける。そこにはハガキが二通と一つの封筒。なぜか僕は封筒が気になって宛名を見る。そこに書かれていたのは僕の名前だった。差出人の名前を見るとまた可笑しなことに気が付いた。
「お母さーん。変な手紙―。僕から僕に届いてるよー」

2− 5
最後に。絶対に諦めちゃ駄目だよ。君の夢は絶対に叶うんだから。
崎村健一より
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