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文字数 3,800文字

 恋人の絵里(えり)が、ここ数日体調を崩している。
 高熱でうなされることもしばしばだ。
 薬と冷却シートで看病しているが、あまり回復しているようには見えない。
 ようやく掴んだ、恋人との同棲という時間。それがまったく楽しめない状態になっている。神様は残酷だ。

「絵里、調子はどう?」
「……よく、ない……」

 僕の問いかけに、弱々しい声で返してくる。何度も寝返りを打っているせいで、美しい黒髪が乱れに乱れてしまっている。
 ただの風邪ならいいのだが、他の病気だったらまずい。
 どう行動したものか。

 カシャン、と音がした。郵便の届いた音だ。
 玄関に真っ白な封筒が挟まっていた。
 このアパートの住所は書いてあるが、差出人の名前はない。
 中には一枚の紙が入っていた。

『兄さんへ
 お久しぶりです。綾乃(あやの)です。』

 ――綾乃。

 妹の名前だ。

『私はこれから、西倉山の林で首を吊って死ぬつもりです。
 先日、暴漢に襲われてひどく傷つけられました。
 もう生きていたくありません。
 一刻も早く死にたいのです。
 でも、兄さんの顔を思い出しました。
 兄さんは、私が小さい頃に買ってもらったログハウス風デザインの小箱にずっと興味を持っていましたね。
 最後に、あれを兄さんに託したいと思います。
 中身はそのままにして、林の中にある石碑の裏に埋めておきます。
 もし気が向いたら探してください。
 私の死体は探さなくていいです。きっと、ひどい姿をしているでしょうから。
 それでは。
 さよなら、兄さん。』

 読み終わる頃には手が震えていた。
 なんだこれは。
 綾乃が自殺しようとしている?
 しかも、暴漢に襲われたことが原因で?

 誰だ、大切な妹にそんな真似をした人間は。
 絶対に許せない。

 だが、まずは綾乃を見つける方が先だ。
 西倉山の林とわざわざ書いているのは、やっぱりどこかで見つけてもらいたいという気持ちが残っているからではないのか。そうであると信じたい。

 僕はリビングに戻って、ベッドの絵里に顔を近づけた。

「絵里、出かける用事ができた。ちょっと部屋を空けてもいいかな?」
「うん……」
「薬はテーブルの上に置いてある。自分で起きられそう?」
「大丈夫……」
「ごめん、行ってくるよ」

 ジーパンとパーカーという普段着のまま、僕は部屋を飛び出した。秋の風が冷たくなってきている。もしも……最悪の事態が待っていたとしても、死体の痛みは最小限で済んでいるはずだ。

     †

 西倉山の林までは自転車で行ける距離だった。
 貧乏大学生の僕はまだ自分の車を持っていない。こんな時こそ車が必要なのに。
 数十分、必死でペダルを漕いだ。
 西倉山の麓の林につく頃には、午後二時を回ろうとしていた。

 林に分け入って綾乃を探す。
 一体どうやって?
 手紙によると、綾乃は、愛用していた小箱を石碑の裏に埋めたということだった。あの小箱には、友達からの手紙や、特に大切な写真、アクセサリーなどを入れていたはずだ。
 まず小箱を見つけ、そこから足跡を辿っていけばどうだろう。

 僕は踏み固められた道を徒歩で進んだ。道が荒れるので自転車は危ない。
 ここは山林整備の軽トラが入る道だ。少し奥までいけば、道脇に石碑が建っている。
 走っていくと、すぐに石碑が見えてきた。
 裏側には土を動かした形跡があった。それも、最近のもの。
 道具を持ってこなかったので、近くから大きめの石を持ってきて掘り返した。
 ガツッと音がした。そこからは手で掘る。
 見覚えのある小箱が出てきた。間違いなく綾乃の物だ。口を開けようとしたが、専用の鍵がないと駄目らしい。そちらは見当たらなかった。自力で開けろということだろうか。

 周囲を見渡した。
 ここから、綾乃がどの方角へ向かっていったのかまったくわからない。
 足跡も残っていない。
 僕は勘だけを頼りに、人が行かなそうな方へ進んだ。
 首を吊るなら、ひとけのない場所を選ぶのではないか。
 松や杉の間を縫って奥へ奥へと歩いていく。枝葉が陽光を遮って薄暗い。熊が出てきそうで恐ろしかった。

     †

 結局、綾乃の姿は見つからないままに日が暮れた。
 ずっと森の中を歩き続けたが、夜になったらどうしようもない。
 いったんアパートに戻り、警察に相談しよう。実家の家族にも。きっとみんな動いてくれるはずだ。

 僕は道に出て、小走りで林を抜けた。
 自転車のカゴに小箱を入れて、アパートへ急ぐ。
 綾乃が死んだなんて信じたくなかった。
 僕達は仲のいい兄妹として近所でも有名だった。学校でも兄妹仲を先生に褒められたくらいだ。

 ――綾乃。

 長い黒髪。ちょっと吊り目で、ルールを破る人間を遠慮なく睨みつけ、正論を叩きつけた。凜々しく、美しく、正義感の強かった綾乃。
 そんな妹を汚したクズはどこのどいつだ。
 あの子はまだ高校三年生。
 これから社会に出ていく。輝かしい未来が待っている。
 そうじゃなかったのか。
 たった一人のクズが取り返しのつかないことをしてしまった。
 許せない。
 何が何でも探して出して、殺してやる。

 僕は歯を食いしばって自転車を漕いだ。

 アパートについて、駐輪場に自転車を置いた。

「半崎良矢(よしや)さんかな」

 背後から声をかけられた。
 スーツ姿の男が二人立っていた。

「そうですけど」

 男の一人が黒い何かを取り出した。

「恒川絵里さんを拉致監禁した容疑で、君を逮捕する」

「は?」

 何を言っているんだこいつは。

「午後一時半に署の方に通報があった。大学生の男に監禁されている女性を救出した。部屋の主は夕方には帰ってくるはずだと」
「待ってくれ。誰か僕の部屋に入ったのか?」
「最初に入ったのは我々ではない。誰だと思う?」
「そんなもの、知るか」

「君の妹――半崎綾乃さんだ」

「え……」
「綾乃さんは、自分の兄が女子大生を部屋に連れ込んで閉じ込めていたことに気づいたんだ。しかし下手に動けば君が何をしでかすかわからない。そこで自分が自殺するという手紙を書いて君に出した。君は妹のことを非常に大切に思っていたそうだね。そんな君なら確実に探しに行く。その隙を突いて部屋に入り、絵里さんを救出したんだ」

 男が睨みつけてきた。

「絵里さんは衰弱がひどく病院に運ばれた。まともな食事をもらえなかった上、お腹を何度も殴られたと本人が証言した。それでいながら彼氏気取りだったそうだな? 相手の抵抗を封じてやる恋人ごっこは楽しかったか?」
「黙れ! 僕は絵里を愛していた!」
「ああ、本当に同じことを言った」
「なんだと」
「綾乃さんがね、君はきっとそう答えるだろうと言っていた」
「どういうことだ……?」
「お前は妹を愛していた。だが兄妹が恋愛関係になることは許されない。その不満をどう解消したか?――妹によく似た女性を自分のものにすることで代用した」
「……」
「実際、絵里さんと綾乃さんは非常によく似ていた。顔や背格好も姉妹かと思うくらい似ていた。お前は絵里さんに出会ったことで魔に魅入られたんだ」
「や、やめろ……」

 それ以上は言わないでくれ……。

「そうそう。署に来てもらう前にあと一つ、綾乃さんから伝言だ。君はログハウス風デザインの小箱を持ってくるだろうから、それを開けさせてやれとのことだった」
「小箱を?」
「よくわからんが開けてみたらどうだ。これが鍵だ」

 僕は刑事から鍵を受け取り、扉の形をした口を開けた。
 綾乃が集めていた写真や小物はない。
 あったのは一枚の手紙だけだった。

『兄さんの私を見る目がおかしいと、ずっと前から思っていました。
 兄さんの部屋に恐ろしいくらい私の写真があることも知っています。
 私が部屋を空けている間に、兄さんが入りこんで色々探っていたことも知っています。
 そんなあなたが、突然アパートで一人暮らしを始めたいと言い出した時は不思議に感じました。
 でも、やっと私から興味をなくしたのだと、きっと大学で好きな人ができたのだろうと、最初は前向きに考えていました。だから女子大生が失踪したというニュースを見た時にはハッとしました。その人の顔が私によく似ていたから。
 しばらくアパートを監視して、事件を起こしたのが兄さんだと確信しました。
 私が暴かなくてもいつかは明るみに出たと思います。
 あなたは逮捕されて檻の中に入れても、私達は犯罪者の家族としてこれからずっと冷たい目で見られることでしょう。
 だったらせめて、家族の力で解決しておかなければいけないと思った次第です。
 私は暴漢に襲われてもいないし、首を吊りたいと考えたこともありません。
 あの手紙を読んで、そんなクズは絶対に許せないと怒ったかもしれませんが、一番のクズは兄さんです。自覚してください。
 私はもう、あなたを家族だとは思っていません。最低の犯罪者。
 ですから、これが妹から兄に対する最後のメッセージだと考えてください。
 さよなら、兄さん。
 家族の未来を奪ったあなただけは絶対に許しません。』
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