第1話

文字数 1,947文字

「うそでしょ?」
「マジだって。事故物件サイトにこのホテル載ってたし」
「やだ、なんでそんなホテルとるのよ〜」
 ホテルの受付カウンターで、うしろのカップルが小声で話しているのが聞こえる。
 事故物件というのは、自殺や殺人が起こった建物のことだ。
「母親だけ助かって、子供は死んで、それで子供が親を探してるっていう……」
「ちょ、怖いからやめて〜〜〜!」
 彼女が怖がって耳をふさぐ。
「ははは。まあ、殺人事件なんて全国どこでもあるし。気にしてたらきりがないよ」 
 彼氏が男らしく言って、そのあとは「明日どうする?」「どうしよっか〜」と甘ったるい会話が続く。
 適当にとったホテルが事故物件であったことよりも、若い恋人たちの熱に当てられて、変に動揺してしまう。

「お待たせ。じゃ、部屋に行こうか!私と優里が502で、お母さんたちが511だよ」
 ロビーのソファで待っていた両親と娘の優里に声をかける。
「じいじ、抱っこー」
「はいはい、優里ちゃん」
 5歳の優里を、ふんっと聞こえるくらいの気合いを入れて、父が持ち上げた。
 きゃっきゃと喜ぶ孫に、自分も気をひこうと母が「優里ちゃん、お菓子食べる?」とチョコを差し出す。
 コロナで1年近く会えなかった孫を両親に会わせるための、久しぶりの家族旅行。
 事故物件だろうがなんだろうが、孫さえいれば父も母も十分楽しそうだ。
「じゃあ、夕飯は6時ね」
 優里を父から、というよりは優里から父を引き剥がすようにして、部屋に入る。
 ツインベッドのシンプルな部屋は、ネットの掲載写真よりずっと暗くて古びていた。
「じいじとばあばの部屋に行くー!」
「いいけど、コンコンしないと入れてもらえないよ」
「わかった!」
 優里が部屋を飛び出していく。ドアから顔を出して見ていると、ちゃんと両親の部屋をノックしたのでホッとする。
 きっとお菓子を山ほど与えられているのだろうが、今日くらいかまわないだろう。

 はしゃぎすぎて疲れたのか、夕飯を終えると優里はすぐにとろんとした目つきになった。
「お風呂入ってから寝ようね」
 急いで優里にシャワーを浴びさせ、バタバタと着替えさせ、髪を乾かしてあげる。
 優里は小さなあくびをすると、自分から布団にもぐりこんだ。
「ふう……」
 ひと仕事終え、私はまた髪を洗うために浴室に戻る。
 疲れを洗い流すように、頭からシャワーを浴びた。

 コンコン。

 一瞬、水音にまぎれてノックの音が聞こえた気がした。
 キュッとシャワーを止めて、耳をすます。

 ガチャ、バタン。

 ドアがあいて、しまる音。

 母か父が、優里に会いたくてこの部屋にきた?
 「お母さん?」
 返事がない。
 もしかして……優里が勝手に出ていった?
 ヒヤリとして、裸で浴室を飛び出した。
 勝手に外に出て連れ去りされたら。
 最悪を想像して心臓がはね、床がボタボタと濡れる。
 あせったけど、空耳だったらしい。
 小さな体が布団にくるまっているのを見て、胸をなでおろす。
 
 優里を守らなきゃいけない。
 わかっていても、四六時中ずっと見ているわけにもいかない。
 それでも、両親と3人で育てられれば。
 離婚して、実家に戻ったら、きっとすべてがうまくいく。

 夫は育児を手伝うどころか、気に食わないと優里に手をあげる。
 あんな父親ならいないほうがましだ。
 優里は両親になついてくれたし、新しい生活は大丈夫。

 風呂から上がると、気が抜けたのか眠気が襲ってくる。
 ベッドに横になり、電気を消した。

 コンコン。

 眠りに落ちる寸前、ノックの音で覚醒してしまう。
 また空耳かと思ったが、もう一度、コンコン。

「……お母さん?」

 フットライトの灯りを頼りに、小さなドアスコープをのぞく。
 誰もおらず、灰色の壁が見えるだけ。
 見えない位置にだれか隠れている?
 ……どうしよう、夫だったら。
 想像して、また心臓が早くなる。
 離婚をしぶる夫が、ここまで追いかけてきたら。

 だが、それきりドアは沈黙した。
 ただ部屋を間違っただけなのだろう。
 「……考えすぎよね」
 横になるとすぐにまた、まぶたが重くなった。

 ブーッと、枕元でスマホが振動して、飛び起きた。
 びっくりして手に取ると、着信は母からだった。
 
「優里ちゃん、部屋に入れないって泣いて戻ってきたわよ」
 え? 
「優里はとっくに寝たけど」
「寝てたのはあなたでしょ。このままこっちの部屋で寝かせるけどいいわね?おやすみ」
「ちょっとお母さん⁉︎」

 電話が切れた。
 なに? さっきのノックは優里なの?
 たしかに、優里の身長だとドアスコープからは見えない。
 シャワーのときのドアが閉まる音は、優里が出ていった音?

 じゃあその前のノックはだれ?

 ううん、それより……。

 「……ママ」
 となりで寝ているなにかが、かすれた声で私を呼んだ。


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