第1話

文字数 8,910文字

 大宮の工事現場に立っていると、前を通る人が笑顔で通り過ぎる度に、人生をやり直したくなるときがある。どこからやり直せばいいのかはわからないのだけれど、彼らを笑顔にさせた種子を、一つ残らず自分の体内に埋め込まなければ気が済まなくなるときがある。いつだったか、人生は寿命が尽きたとき終わりを迎えるのではなく、自分が自分に諦めたときに終わるのだと聞いたことがあるが、もしそうであるならば、自分の人生はもう終わったのかもしれないと思う。

 風が冷たくなって、大宮のネオンが鮮やかに光り出す。「お疲れ様」という声がして、振り返ると、よれよれの警備服に身を包んだ相澤さんが笑っていた。相澤さんは僕が就職活動をしていることを知っていたけれど、もう僕に就職活動の状況を聞かなくなっていたし、代わりに以前より柔らかい視線を僕に向けていた。警備のアルバイトを始めて間もない頃、相澤さんは、「この職場は夢をリタイアした人が集まっているんだよ」と冗談めかして言った。相澤さんもまた、以前働いていた銀行で体調を崩し、四十代半ばにして辞めざるを得ず、このアルバイトで生計を立てている「リタイア組」の一人だった。いつからかアイロンを忘れられた警備服はうっすら白みがかかっていて、僕に相澤さんの悲愴を見せている。
 僕は「お疲れ様です」と言って、一日中立ちっぱなしで棒になったひょろひょろの足を動かし、警備服を着替える為に大宮駅近くにあるコンビニのトイレに向かった。金曜日の大宮駅前は、たくさんの人が明るい表情で縦横無尽に歩を進めていて、真っ直ぐに歩くことはできなかった。いつの間にか周りを歩く人の服が長袖になっていることに気付く。就職活動が上手くいかない焦りははるか昔に消えていて、僕の中にはこれからの人生への憂鬱だけがあることに気が付いたのも、おそらくちょうどそのときだ。

 人間の評価基準はいつから頭脳じゃなくなったのだろうと、大学四年になってすぐ、就職活動が始まると、僕は途方に暮れた。初めて受けた企業のグループディスカッション選考は、僕以外のメンバー皆が同じ大学で集まっていて、思い出話から派生したアイデアを延々練り続けていた。僕は生まれつきアトピーで赤い顔をしていたのだけれど、「酒飲んでんの?」とからかわれ、僕が彼らから発言を許されたのは、恥ずかしさから小さい笑い声を漏らしたまさにそのときだけだった。もし明るくツッコミができていたら、僕もその輪に入れたのだろうか。気の利いた一言が言えていたら、後ろで見ていた人事担当者も笑ってくれて、次の選考に進めたのだろうか。赤い顔なのは、上手く自分が言いたいことが言えないのは、僕が悪いのだろうか。
 赤い顔も、そしてコミュニケーション能力の欠如も、警備のアルバイトでは支障をきたしたことがなかった。アルバイト先の警備会社は小さな会社で、学生が僕しかいなかったから、僕は出勤する度に、沢山のおじさんに優しくしてもらえた。だからこそより一層、自分と同じくらいの年齢の残酷さを感じていたのかもしれなかった。

 大学四年も佳境になった一月、どの企業からの内定もないまま、家にいるのが両親に申し訳なくなってきて、警備のアルバイトを増やした。その初日、僕の日勤の後の夜勤に入ったのは高井さんだった。
 高井さんは僕に「お疲れっ」と言いながら、右手を敬礼のような形にした。高井さんはそういうところに几帳面で、工事現場の作業員一人ひとりに毎回敬礼のような挨拶をしなくては気が済まないようだった。高井さんはまだ四十代なのに何故かほとんど歯がなく、異常に痩せていて、髪の毛もスチールウールを雑に集めたようだったからか、作業員には評判があまり良くなかった。高井さんはうーっという低い声を漏らしながら伸びをして、僕に訊いた。
「政府の給付金何に使う?」
「うーん、なんにも決めてないっすねー。高井さん何に使うんすか?」
 僕は早く帰りたかったけれど、高井さんと少し話してみようと思った。
「うちの両親がテレビ欲しがっててさ。五十インチの。買ってあげようかなって」
 高井さんは歯がない顔をにこにこして僕に言った。僕は高井さんを、優しい人だなと思った。他の警備員のおじさんに感じるような、心の根底にある卑屈さが全くない気がして、その後もしばらく話を続けた。高井さんは唐突に、グアムが好きだと言って、色々な観光スポットを僕に紹介してくれた。説明も滑舌もあまり上手ではなくて、高井さんから発せられた単語が地名なのかアトラクションなのか僕には全然わからなかったが、何故かずっと話を聞いていられる魅力が彼にはあった。
 何分か経って、突然「オイ!」と怒鳴られて、僕と高井さんは声のする方を向いた。怒鳴ったのはひとりの作業員だった。
「オイ高井よう、小林くんもうシフト終わりだろうが。引き留めんじゃねえよ、気が利かねえなおめえは」
 僕はすぐに高井さんの方を見た。高井さんは、恥ずかしそうに苦笑いをして、僕に、「引き留めちゃってごめんね。上がっていいよ」と言った。僕は、その時、絶対にそこにいたかったからそこにいたのだけれど、作業員にそう言う勇気が出なかった。高井さんはまた、敬礼のような手をして、「お疲れっ」と笑った。僕は「お疲れ様でした」と言って、下を向いたまま、いつものようにコンビニのトイレに向かった。親戚でもないのに、高井さんが怒られるのは僕が怒られるより嫌な感じがして、僕の実家がある浦和に帰る電車に乗り合わせた人たちを、僕は理不尽にも攻撃的な目で見ていた。

 僕は高井さんを「鉄人」だと思っていたし、一人の大人として尊敬していた。何か月か前、台風が来たときに、高井さんは風雨の中で十六時間外に立つシフトになっていたが、後にも先にもその文句を一言も漏らさなかったし、本来ヒーローとして扱われてもおかしくない存在なのだ。けれど、現場の他の警備員や作業員は、彼の奇妙な挨拶や風貌からか、彼をどこか馬鹿にしていたし、どこか邪見に扱っていたように僕には見えていた。
 事務所にチョコレートの包み紙が落ちていたとき、社員さんに、高井さんが名指しで注意されているのを見たことがある。そのチョコレートは社員さんが差し入れで持ってきたもので、実際は誰が食べたゴミかは判別し得ないものだったけれど、僕にはもちろんそんなことを主張する勇気はなく、高井さんもまた「すいませんでした。気を付けます」とだけ言った。事務所から備品がなくなったときは、無くなった日すらも定かではないのに、真っ先に高井さんが疑われた。「これ見なかったかな?」と事務所にいる皆に尋ねて回らなくてはならなくなった高井さんに僕は、「知らないです」と言った。高井さんは「そうだよね」と言ってまた別の人に尋ねに行った。僕はその後ろ姿をずっと見ていた。高井さんは現場終わりで、足が痛そうで、滝のように汗をかいていた。僕はなぜ見ていたのだろう。

 僕が日勤で、高井さんがその前日始まりの夜勤の日、僕は早めに出勤して、高井さんと話をするようになっていた。高井さんは元々寡黙な人で、何も言われなければ自分のことはあまり話さないような人だったけれど、僕が色々な話題を振ると、嬉々として自分の話をしてくれた。上尾の実家で、両親と暮らしていること。出会い系サイトで出来た初めての彼女と、食事に行っただけで別れてしまったこと。若いときは翻訳者になりたくて専門学校に通っていたが、周りの英語のレベルについていけずに辞めてしまい、このアルバイトを始めたこと。夏に、ひとりでディズニーランドに行く計画を立てていること。でもディズニーランドには、他に行きたい人がいれば一緒に行きたいこと。僕は高井さんのことを深く知れているという毎日の実感が嬉しくて、とにかくたくさん質問をした。自分の赤い顔やコミュニケーション能力を気にしない人との会話が楽しかっただけかもしれないけれど、両親と回転寿司に行った写真をメールで僕に送ってくれるくらいだったから、高井さんも、僕に少しは心を許してくれていたように思う。
 高井さんと仲良くなるにつれて、日々も風のように過ぎていって、僕のアルバイトは週に六回まで増えた。僕は自分のことすら面接官に上手く伝えられないままだったけれど、他の警備員にも、高井さんの良さを伝えたいと思うようになって、二月末に、夜勤の相澤さんと入れ替わるときに、思い切って高井さんの話をした。高井さんが両親思いで、そしてついこの間まで彼女がいたということを自分なりに話してみた。相澤さんは、僕が高井さんと仲良くなっていること自体には感情の動きを少し見せたが、それ以外には「ふーん」という気が抜けた返事しかしなかった。それでも僕は、僕以外にも高井さんの良さを分かってくれる人が増えたように思えていた。高井さんに次会ったとき、「相澤さんと高井さんについて話したんですよ。多分相澤さん、高井さんの良さに気付きましたね。僕のおかげですよ!」と話すと、高井さんは「おーっ、仲良くなったら皆でご飯でも行けるといいなあ」と歯茎を見せて笑った。僕はそんな日が来るに違いないと思った。皆、高井さんの優しさを知らないだけなのだ。

 僕が次に出勤するとき、高井さんは作業員の一人と話をしていた。僕が二人に「おはようございます!」と声をかけると、高井さんはまた右手を敬礼のような形にして、いつものように「お疲れっ」と言ったが、その言葉に覇気は無かったし、高井さんは困ったような表情を浮かべていた。作業員がニヤニヤしながら僕に言った。
「おーっ、小林くん、おはよう。小林くん知ってるか? 高井すげえマザコンらしいぞ!何かマザコンすぎて最近彼女と別れたってよ! やべえよなこいつ」
 僕はすぐ高井さんを見た。高井さんは何も言わず困ったように笑っていた。僕の目の前は本当に真っ暗になった。僕が良かれと思って相澤さんに話した高井さんのことが、噂のように広まって捻じ曲げられて、高井さんを傷つけるような内容に変わってしまっていた。でも僕にも、高井さんにも、そのとき、強く否定する勇気はなかった。高井さんはその日、いつもより早く現場から上がった。僕に言う「お疲れっ」はいつもより明らかに声が小さくて、僕に見せた背中はいつもよりずっと小さくなっていた。
 人は人を、解釈したいようにしか解釈しない。高井さんの細やかな両親への思いやりも、やっとできた彼女への葛藤も、頑張りも、そうしたことひとつひとつで出来上がった高井さんの笑顔も、高井さんを「間抜けな人」として見たいと望み、見ようとしてきた他の警備員や作業員にとっては、格好の材料でしかなかったのだ。「とにかく気が利く人」が重宝され、「優しい心を持つ人」が馬鹿を見るようになったのは一体いつからだろう。僕には全く分からなくなっていた。高井さんの背中を見て、僕の中にあった就職活動への鬱憤も湧き上がって止まらなかった。何故僕の赤い顔を馬鹿にして笑い、コミュニケーション能力がないことを馬鹿にして、僕自身を見ようともしてくれない人達が社会的に認められていき、僕のことを一回も馬鹿にせず、僕を信じて色々な話をしてくれた高井さんが生き辛くなっているのだろう。何故この世界は、純粋に、人の良いところを見て、褒めることができなくなってしまったのだろう。

 その次の週の出勤から、高井さんは体調を崩して欠勤ばかりになった。僕が高井さんに「大丈夫ですか?」とメールを送ると、しばらくして「働き過ぎたよー」と返ってきたが、「鉄人」である高井さんが単純に過労で体調を崩したとは思えなかった。やはり僕が要らないことをしてしまったせいで、職場での日々の抑圧がより一層強まって、高井さんは心を病んでしまったのではないかと思った。そう思うと、僕は否が応でも自分を責めざるを得なかった。
 一方で僕は、どこの企業からも内定を得られないまま、大学を卒業することになった。就職活動を始めたときから何ら成長しようとはしていないのだから、端から負けるのは目に見えているように思ったが、両親には、「自分がやりたいことを探せなかった」と言って、就職活動を続ける意欲を示した。両親への後ろめたさから、毎日メールで送られてくる就活セミナーの案内にもいくつか参加して、模擬面接では決まって同じようなこと、「もっと明るく元気よく話さないと、面接官は聞いてもくれない」とか、「ユーモアが全く無いから退屈する」とかを言われ続けていてうんざりする日々を過ごした。自分を変えなければ就職できないことはわかっていたし、高井さんの一件があってから、僕は懸命に、自分を周りに合わせる努力をしようとしていた。僕は高井さんが好きだったけれど、それを周りに無理に押し付けたからこそ、高井さんを苦しめてしまったのだ。自分が何をするわけではなくとも、この世界は回っていく。自分がどんな行動を起こそうと、知らぬ顔で明日は来る。そうであるならば周りに合わせて、何事にも深くまで関与しないことが全員にとって良い結果をもたらすことになるのだ。僕が要らぬことをしなければ、高井さんは今日も大宮の工事現場に立っていたはずなのだから。

 夏になると、警備のアルバイトは一層辛くなっていく。当たり前のように強烈に降り注ぐ太陽光だけならまだしも、アスファルトを扱う工事のときは溶けたアスファルトの熱気が周囲にも飛散していて、無心では何時間も耐えられたものではない。しかしその年、そこには僕の姿も、そして高井さんの姿もなかった。僕は就職活動が佳境を迎え、面接の予定が毎日のスケジュールを塗りつぶしていた。高井さんと日常的に連絡を取る人は僕以外誰もいなかったから、僕が連絡しないと高井さんが何をしているかは全く誰も知らないようだった。僕自身は、就職活動が終わり、アルバイトに出られるようになってから、高井さんに連絡しようと決めていた。僕はすっかり就職活動に慣れてきていて、赤い顔を他人にからかわれても、「暑くて…やばくね?」などと気軽に返せるまでに成長していた。グループディスカッション選考では、特に深い考えに基づかなくとも、とりあえず手をあげて自分でもよくわからないことを話していたが、人事の評価は良く、順調に選考は進んでいった。夏が終わりを迎える八月の末に、僕は比較的大きな不動産会社から内定をもらった。
 大喜びする両親をよそに、僕には高井さんのことが引っ掛かり続けていた。携帯を開いて、高井さんのメールアドレスを眺めるたびに、このまま無視をして罪悪感に蓋をしようと、悪魔が僕に囁く。でも、脳裏に焼き付く歯の抜けた笑顔が、そして写メールで見た、回転寿司の皿が五、六枚だけ積まれている後ろで笑う高井さんの両親の慣れない笑顔が、そうはさせなかった。

「高井さんお元気ですか? 僕は来週あたりからまた大宮で警備入れそうです。お仕事は難しくても、近々どこかでお会いできたらと思いますが、ご予定いかがですか? 小林」

 返信が来るまでに数日は覚悟していたのだが、案外早く、二時間後くらいに返信が来た。

「小林くん お疲れ様。久しぶりだね。僕は元気だよ。小林くんは就活おわったのかな? うまくいってるといいな。来週の月曜日、十八時に大宮の鳥貴族でどうですか? 高井」

 高井さんの文面は柔らかくて、変わっていないような気がして、僕はほっとした。

 大宮のきらびやかなネオン街に足を踏み入れるのは初めてのことだった。鳥貴族に時間通りに向かうと、高井さんは既に到着していて、前で僕のことを待っていた。僕のことを見ると、高井さんはいつものように、右手を敬礼のような形にして、「お疲れっ」と言った。二人で店内に入って席に着き、僕が店員さんを呼ぶと、高井さんはオレンジジュースを頼んだ。高井さんはお酒をあまり飲まないのに、店を選ぶ時点で、お酒をよく飲む自分に合わせてくれたのだと、その時点で初めて気が付いた。高井さんは全く変わっていなかった。
「お疲れ様ですー、高井さん全然変わりませんねー!」
 僕は乾杯しながら高井さんに笑いかけた。
「お疲れっ、小林くんはすごい変わったねー、雰囲気明るくなった」
 高井さんは笑っていたが、僕は不思議とドキッとした。変わろうとして努力してきたことではあったけれど、高井さんの前ではそれが何故か悪いことのように思えてならなかった。僕の就職活動がうまくいったことを報告すると、高井さんは本当に嬉しそうにした。その表情を見ていて、僕は高井さんにも良いことが起こっていろと、念じざるを得なかった。
「おまえ変わらないと就活無理だぞって色んな人に言われて。この何か月もすごい数のセミナーに行ったんすよー、マジ大変でした」
「いやーすごい。僕は変われないもの」
 高井さんの最後の台詞は、消え入りそうだった。僕が息を飲むのを察してか、高井さんは苦笑いして、自分の近況をぽつりぽつり話し始めた。「小林くんのせいでは全くないよ」と笑うけれど、やはり僕の一件が引き金になって、高井さんは精神的に参ってしまい、警備のアルバイトを辞めてしまったらしい。それから少しして母親が認知症を患ったことが判明すると、自分は外で働かなくてはと、他のアルバイト先にいくつか面接しに行ったが、四十代ではどこも厳しいと言われたという。話の途中に、高井さんは何度も、僕は変われないのだと言った。自分が伝えなきゃいけないことを強く言えないし、嫌だと思うことも断れないのだと、しきりに言った。
 僕は高井さんの話を聞きながら、ビールジョッキの接地面に水が溜まっていくのを見ていた。段々、時折優しい苦笑いを浮かべながら話す高井さんに何故か腹が立ってきた。本当に何故かわからなかった。優しく、どこか弱々しい高井さんが好きだったはずなのに。
「高井さん、マジでそのままだとやばい気します。職にありつけても、またおんなじことになります。一生懸命頑張っても、誰にも認められないままです。僕そんなん嫌なんですよ。高井さんが、高井さんが大切にしてるもん守るためには変わんないと無理なんですよ」
 僕は強い口調で高井さんにそう言った。高井さんはうーん、そうなんだけどねと、小さい声で呟いて下を向いた。僕は続けざまにまた何か言ってやろうと考えていた。すると、高井さんにしては鋭く、重い声で、「出来ないんだよ」と言った。そして「これが僕だから」とまた言って、ようやく歯茎を見せてわざとらしく大きく笑った。

 帰りの電車に乗りながら、僕は高井さんの色々な姿を想像していた。台風が来た時、道路の通行止めを告げるために、ものすごい風雨の中に十六時間立っていた高井さん。深夜の工事で、クレームが来た時に、ひたすらに謝る高井さん。たまに僕に缶コーヒーを買っておいて、今日は寒いからねと微笑む高井さん。夜勤明け唯一の楽しみだという朝マックを美味しそうにほおばる高井さん。僕と話しているときに見せていた、高井さんの嬉々とした表情。グアムのどこかの海で浮き輪を付けて、誰かに写真を撮ってもらったという目をつぶった少し間抜けな高井さんの顔。何枚かしかない回転寿司の皿の前で、両親と笑う高井さん。しっかりとアイロンがかけられた高井さんの警備服。右手を敬礼のような形にして、「お疲れっ」という高井さんの顔、背中。想像していくうちに、電車の中なのに何故か涙があふれてきて止まらなかった。僕は本当は、そんな高井さんを尊敬したはずだ。僕は本当は、そんな高井さんでいてほしいはずだ。自分の就職活動を終わらせるために、僕はいとも簡単に自分を曲げたから、もう元の僕には戻れないけれど、まだ自分をしっかり持っている人に、生き方はこうあるべきだと矯正することの難しさも、酷さも、僕は知っている。そうであるならば、自分が尊敬した高井さんの姿を、無理やり変えさせる必要は無いに決まっている。
 ふいに、自分の中にあった違和感が顔を出す。その違和感は、本当はずっと心の片隅にあったはずなのだけれど、気がつかないふりをしていた。自分を変えようと懸命にあがいても、その先に見える世界は案外狭い。大海のように広がるはずだった世界は、実はぐにゃりと曲がったワンルーム。一度足を踏み入れると自分は窮屈な体勢をしたまま固定される。高井さんはそれを既に知っていたのかもしれない。高井さんは、僕の顔が赤くても、僕がうまく話せなくても、あるがままの僕を理解しようとしてくれていた。同じように、高井さんにも、あるがままの高井さんを愛してくれる環境がきっとあるに違いないと今では思う。高井さんが、僕と話しているときに見せるような笑顔を浮かべながら働けるような、そんな環境が、きっとあるに違いないと今では思うのだ。僕には、世の中に高井さんの素晴らしさをもっと伝えたいという欲が、もう一度呼び起こされていた。

 次の日、僕はもう一度、高井さんにメールを出した。

「高井さん、昨日はありがとうございました。急なんですけど、明日の午前中とかお時間ありますか? 小林」

 高井さんからは、すぐに返信が来た。

「小林くん こちらこそ。明日も空いています。大宮駅でいいかな? 高井」

 僕には、かつてない自信のようなものがあった。世の中に、僕の尊敬する高井さんを紹介してやりたくてうずうずしている。

「小林くんおはよう。どうしたの?」高井さんはまた僕に敬礼して言った。
「高井さんおはようございます。今日は一緒にハローワークに行きましょう」僕は初めて、高井さんに敬礼をし返した。
「えっ、小林くんも行くの?」高井さんはびっくりしたような顔で言った。
「もちろん。僕が高井さんの素晴らしさを皆に伝えるんですから」
 僕は胸を張る。高井さんの独特な容姿も、拙いコミュニケーション能力も、「気が利かねえな」と言われたことも全然、関係ない。この世界は純粋に良い人こそが勝つんだと、僕が、高井さんが、この世界に教えてやるんだ。
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