第1話

文字数 886文字

 10年前の3月11日、多くの人々が亡くなった東日本大震災を特集するテレビ番組を見ながら、僕の母は泣いていた。母の大切な人が亡くなったことを知っているが、残念ながら、僕は母が亡くした大事な人の生まれ変わりですといった、ドラマチックなことはない。僕は一生懸命蹴ったり動いて、一心に母への存在アピールを続ける。この一年くらい誰を親にしようか選んでいたんだが、この母を選んだのは、健気な頑張りを支えたいと思ったからだ。
 こちらの世界にいる今の僕は、何でも知っている。コロナ禍で仕事が減って収入が減り、家計簿をつけながら、お金を一生懸命計算している姿。感染対策をしながら満員電車に乗り続けて通う。僕がお腹へやってきたとわかった時の、母の嬉しそうな報告する声。ただ、今せっかくいろいろ知っているのに、僕は生まれるときに大抵のことは忘れてしまうらしい。お前の母の匂いや声は予め知っているようにしとくから安心しとけと、胡散臭い白い髭を生やした神様は言っていた。
 「この子の予定日、3月11日なの。」
 母の驚いた声にしめしめと思った。僕はずっと泣いていた彼女のためにも、彼女の大切な人の命日を選んだ。あくまで仮なんだけどさ。ぴったりのコントロールは難しいから勘弁してよ。
 終わらないコロナの世界で、母はずっと家で籠っていた。どんどん大きくなっていく僕を抱えて、未知のウイルスへの恐怖はなおさらだろう。父との会話を聞きながら、母の不安を僕も感じていた。話題はとにかく暗かった。
「立ち会いはできないようね。」
「里帰りはどうしようか。諦めようか。」
「母親学級もやっていないみたい。」
「感染対策でマスクを付けて出産するらしいの。」
 暗い話を聞く度に、僕はたくさん壁を蹴り上げた。ママ頑張れと。安心してくれ。僕はきっと当日うまくやりきってみせるからさ。初めの親孝行をさせてほしいよ。
 未知のウイルスで、今日亡くなる人もたくさんいるんだけど、僕のように生まれようと準備している人もいるんだよ。この先たくさんの別れが待っていようとも、たくさんの人との出会いを期待して、望んで、僕はこの世界に生まれたい。
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