第2話 曇り時々、

文字数 6,283文字

あの部屋を訪ねるにあたって、いくつか条件が提示されている。
一、事前に遊びに行っていいか確認を取ること。
家主が不在だった場合、困るのはむしろわたしの方なのでこれに異論はない。
二、最寄駅に到着したら、必ず連絡を入れること。
これは訪問前と帰宅時の両方で送ることになっている。保護者じゃあるまいし、と思うのだけど、これを忘れると結構真面目に怒られる。怒ると言ってもゆかりさんは声を荒げるタイプではないので、淡々とお説教をされる形になるのだが、それが逆に怖かったりする。わたしがどういう対応をされるのが苦手か、実は分かっててやっているのかもしれない。
三、必要な飲食物は自分で用意すること。
ゆかりさんにおもてなしの心は求めていないので、これも問題ない。ただ、ゴミに関してはちゃんと分別するなら捨ててもいいと言われているけど、わたしはなんだかんだで自宅に持って帰っている。エコバッグを持ち歩いているので特に苦にはならないし、あの部屋に物を増やすのが若干申し訳ないという気持ちになる。あと、これは何故なのか自分でもよく分からないが、ゆかりさんにわたしが捨てたゴミを見られることに抵抗がある。別にゴミをわざわざ漁るとは思っていないけど、ただなんとなく嫌だ。すごく嫌。むり。
四、ゆかりさんのことや家へ遊びに行っていること、訪問時あるいはその前後に撮った写真などをSNS等に投稿しないこと。
個人情報保護ってやつですね、分かります。でも、家族や友達に話すのを止めていないところは、ちょっと甘いんじゃないだろうか。まあ、ペラペラ喋ったりはしてないけど。
五、クローゼットやノートパソコンを勝手に触らないこと。
もしかしてわたし、信用されていないのでは。でも、面白半分でそういうことをする人がいるのは知っているので、気持ちは分からなくもない。ちなみにこの項目だけ、発覚時点で一発出禁にされるらしい。怖い。
六、物を壊さない。
当然のことなのでは。正しくは賃貸なので壁に穴開けたり、床に傷つけるなってことらしいけど、言い方が大雑把すぎる。まあ、カーテンはなくてもチェアマットは敷いてあるしね。ただそのうち大家さんに怒られるんじゃないかな。
七、マンション内で騒がない。
完全に信用されていない……。あと、エントランスに他の人がいたら、その人が先に入ってから呼び出すように言われている。エレベーターも同様、相乗りは避けるようにとのこと。わたしって、そんなに他所様に迷惑をかけていそうに見えるんだろうか。あるいは、余計なことを喋りそうだと思われているのか。どちらにしろ傷つく。
今のところはこんな具合だが、この条件は今後増えることもあるらしい。わたしにとっては難易度がどんどん上がっていく形になるけれど、一つ一つの項目を見てもそこまで無理難題を吹っかけられているわけではないので、まだしばらくは問題なさそうだ。
──などと思っていたら、次帰宅時の連絡を忘れたら一週間の出禁、の次をやってしまったので、現在謹慎処分中のわたしである。


なぜ後悔は先に立ってはくれないのか。
ホームルーム終了後、喧騒が飽和した教室から鈍色の空を見上げつつ、わたしは本日何度目になるか分からないため息をついていた。
──あなたが私のことを好きだから、ですかね。
さらっと答えたゆかりさんの顔が脳裏にちらついて、衝動的に呻き声が漏れた。一昨日の夜から度々わたしを苛み続けている羞恥心は薄まることを知らず、気を抜けば時と場所を選ばず荒屋の隙間風が如く襲ってくる。
そんな挙動不審を繰り返しているわたしに、まだ帰っていなかった前席の子が心配そうに声を掛けてくれたが、まさか詳細を語って聞かせるわけにもいかず、曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。何か困ったことがあったら遠慮なく声をかけてね、と本気で労わられて一瞬すべての罪を告白しそうになったが、寸でのところで思い止まり、その良心に謝辞を述べて笑顔で学友の帰宅を見送ることができた。
その後、数名のクラスメイトにもへらへらと手を振り、一人残った教室でようやく表情筋を脱力させて深々とため息をついた。
「……そろそろ帰るかぁ」
黒板の上に掲げられた時計を見上げ、のろのろと帰宅の準備に取り掛かる。教室の鍵を職員室に返し、昇降口へ向かう頃には部活生の活気のある掛け声があちらこちらから聞こえ始めていた。
相も変わらず、厚い雲に覆われた空には陽の光が見つからず、どんよりとした気分で上履きを脱いだ。
今日はゆかりさんの家には行かない、というか行けない。先日動揺したまま部屋を飛び出したおかげで、約束の帰宅連絡をすっかり失念してしまい、現在謹慎二日目である。
ただ、いつもだったら落ち込んだに違いないこの処分も、今は正直ありがたかった。こんな落ち着かない気分であの部屋を訪ねるには、わたしの人間強度はだいぶ足りない。
憂鬱なのは遊びに行けないことよりも、これから何事もなく帰宅できるかという不安のせいである。


ゆかりさんの家は、わたしの家からこの学校までの中間地点に位置している。定期券で行ける場所なので非常に助かっているのだが、問題はゆかりさんの通う大学の最寄り駅が同じ路線にあるという点だ。
つまり、登校あるいは下校時に電車内で遭遇する可能性が高い。
初めて会った時もお互い登校中だったことから、朝はあの時間帯に乗っていることが推察できるため、そちらはわたしが少し早めに家を出ることで対策ができるのだが、頭を悩ませなければならないのは帰り時間の方だった。
基本的に訪問を断られる火曜日と金曜日は、遭遇する可能性が低いと踏んでいる。けれど、それ以外の月・水・木曜日に関しては、ゆかりさんがどのタイミングで家に帰っているのか、さっぱり予測がつかない。
大学は時間割が必ずしも一限目から始まって最後の授業まであるというわけではないそうで、ゆかりさんがそれぞれの曜日で何時頃まで講義を受けているのか全く把握できていない。しかも先生の都合などで講義がお休みになることもあるのだと以前聞いたことがある。
あとは土曜日。わたしは午前中で授業が終わりだけど、大学はそもそもお休みだそうだから、何かの用で外出していたゆかりさんと鉢合わせになる可能性も完全には否定できない。
つまり、全ては運に任せるしかないということだ。
昨日は火曜日なのでそこまで神経質にならずに、というか何も考えていなかったのだが、今日は細心の注意を払って帰宅をしなければならない。一応、今日は少し時間をずらしてみたのだが、これが凶と出るか吉と出るか。
──どうか、ゆかりさんが乗っていませんように。
わたしは立ち込める暗雲を背景に、滑り込んできた電車の車内を凝視しながら、誰かに強く祈りを捧げた。
扉が開いて数人が降車すると、前に並んでいた人たちが次々と中へ入って行く。その最後尾の人の影に隠れてコソコソと車内へ足を踏み入れると、わたしは素早く左右を見渡した。
右よし。左よし。それらしき姿は、なし。
──勝った。
わたしは内心でガッツポーズを決めた。謎の優越感が胸を満たし、にまにまと笑みが溢れる。正面の座席に座った人からジロジロ見られたところで、ちょっと咳払いをして表情筋を引き締めた。
翌日も日中は時折呻き声を上げながらも、帰りは前日と同じ時間の電車に乗り、同じように勝利をその手に収めた。喜びは前日ほどではなかったが、ほっとしたことに変わりはなく、気分は上々というところだった。
そして、金曜日。今日も昨日、一昨日と同じく不吉さを思わせる曇り空だったが、天気に反して気分は重くなかった。羞恥心もだいぶマシになり、奇行はほぼなくなったと思う。多分。
今回は教室で時間を潰さずに早々に駅へ向かう。月・水・木曜日に関しては過去に数回帰宅時間が被ったことがあるが、火曜日と金曜日に会ったことはない。多分、講義の終わる時間が他の曜日より遅いのだろう。
そんなことを考えながら電車を待っていると、ふと少し前の自分の姿が頭に浮かんできて、苦い笑いがこみ上げてきた。今とは全く逆の状態だが、出会ってから二週間くらいは電車に乗る度にゆかりさんを探していた時期があったのだった。
再会自体は出会った日の翌朝、同じ時間を狙って駅で待ち伏せしていたら果たすことができたし、その三日後には連絡先を入手して初めてのお部屋訪問に漕ぎ着けていたわけだが、あの時の必死さは現在のわたしからしたら頭を抱えたくなるくらい稚拙で恥ずかしいものだった。そりゃ、他人に興味がないゆかりさんも色々気付いてしまったことだろう。
けれど、あの時の蛮勇さや強引さがなければ、ゆかりさんとこんな風に関わることはなかったとも思う。もっと言えば、途中下車した駅がゆかりさん家の最寄駅じゃなかったら、あの人と知り合うことさえなかったのだろう。
十円玉の件からまだ一か月と少しというところだが、もう彼女に出会う前の自分と今の自分とは、決定的に何かが変わってしまっていた。何がどう変わったのか、はっきりと言葉にすることはできないのだが、やはり違うという感覚が頭の天辺から足の先まで行き渡っているのが分かる。胸の内側で動いている感情も、動き方が今までとは何かが明らかに違っている。少なくとも、これほど強く人に執着したことは今までなかったし、今後頻繁にあるとも思えない。ゆかりさんとの出会いがわたしにとって、とても重要で大きな変化だったことは疑いようもない事実だった。
ただ、それだけ影響を受けているからこそ、最近不安で仕方なくなる時がある。
もし、このまま、ゆかりさんと距離が開いてしまったら。
わたしは一体どうなってしまうんだろう?
いつの間にか俯いて物思いに耽っていると、ホームへ電車が滑り込んできた。突風が髪を乱し、沈んでいた思考が一気に水上へ引き上げられる。はためきかけたスカートをさりげなく押さえた。
──まあ、謹慎が解けるのは来週の月曜日だし、その時考えればいいか。
前髪を整えながら、そうポジティブに気持ちを切り替えて顔を上げると、電車のドア越しにゆかりさんと目が合った。


扉が閉まり、電車はゆっくりと動き出す。
わたしは入り口の片側に寄り、もう片側に立つゆかりさんから目を逸らしつつ向かい合っていた。
ゆかりさんは何も言わない。わたしの存在をあたかも認識していないかのように、ドアの横に少し寄りかかりながら窓の外を眺めている。通過する景色が彼女の瞳に反射しているのが見えた。
「お、お久しぶり、です」
気まずさに耐えかねてありきたりな言葉を絞り出した。微妙な声量だったので聞こえなかったかもしれないと思ったが、ゆかりさんの瞳が流れるようにこちらを向いてわたしを映した。
「三日……いえ、四日ぶりですね。お久しぶりです」
「あ、はい」
「お変わりありませんか?」
「ええ、まあ……。ゆかりさんはどうでした?」
「特に変わりありませんが」
「あ、ソウデスカ」
会話が終わった。ゆかりさんの視線は再び窓の外へと注がれる。どんよりとした空がわたしの心を代弁してくれているようだ。わたし今までどうやってこの人と会話してたんだろう。なんか色々と、振り出しよりマイナスの状態に戻っているような気がする。
というか、もしかしなくともあと十分弱このまま過ごすことになるのでは。そう考えて戦々恐々とし始めた時、ゆかりさんがふと何かを思い出したように、そういえば、とわたしに向き直った。
「あかりさんって中学生なんですね?」
唐突な予期していなかった種類の質問に、わたしは思わず身構えた。
「え、ええ、そうですけど?」
「十二月生まれの十五歳って、以前伺ったと思うのですが……」
記憶をしばし探ってみる。多分言ったような気がするので、そうですよ、と返すとゆかりさんが怪訝な顔をした。
「……計算が合わないのですが」
困ったように首を傾げられて、ようやく彼女が言わんとしていることを理解した。
「あー……わたし中学上がる前に半年くらい入院してて、一年ダブってるんですよね」
 ダブってるってこの使い方で合ってるかな、と一瞬思ったが、とりあえず意味が伝わればいいので細かいことは気にしないことにした。実際のところ入院していたのは七か月くらいで、そこから自宅療養も含めて丸一年学校に通っていなかったため、勉強のこともあり進学を一年遅らせたというのが正確なところなのだが、そんな細かい事情はおそらく求められてはいない。
わたしの言葉にゆかりさんは少し驚いたような顔をしたが、それからいつもの表情に戻ってからゆっくり二度頷いて、そうだったんですね、とひとり納得したように言った。あ、デジャブ。
「なんで今頃そんな話を?」
再び会話が途切れそうになったところで、慌ててゆかりさんを引き止める。自分の殻に閉じこもり損ねたゆかりさんは、けれど特に気にした様子もなく、ああ、と淡々と答えてくれた。
「一昨日、同じゼミの方と途中まで一緒に帰っていたんですが、あかりさんと同じ制服の子たちを見かけまして。話の流れでそれが、この辺りではそれなりに有名な中高一貫校の、中等部の制服だと教えて頂いたんですよ」
「若干気になる言い方ですけど、なるほど」
ということは、ゆかりさん、これまでわたしのことを高校生だと思っていたのか。それであの七か条は少し子供扱いしすぎている気がする。それとも自覚がなかっただけで、わたしってそんなに子供っぽいんだろうか。
悶々としながら、しかし嘘をついていたわけではないので、その点はしっかり伝えておこうと思う。
「わたしはてっきり制服で気付いているものだと思っていたので……いや、騙すつもりはなかったんですよ?」
「それ騙す気満々だった人が言うやつですよね? まあ、確認しなかった私も私ですけど。……ただ、他県の中学生の制服に詳しかったら、それはそれで怖いと思いますが」
「他県?」
今度はわたしが首を傾げる番だった。察しの良いゆかりさんは、他県から引っ越してきたんです、とあっさり教えてくれた。
「えっ、そうだったんですか。どこのご出身なんですか?」
「いえ、電車内で個人情報を流出するのはちょっと……」
「わたしのはダダ漏れでしたよね!?」
驚愕していると、堪えられなかったのか、ゆかりさんがちらりと微笑った。
ほとんど初めて見るその表情に胸が詰まる。
一瞬の表情が脳裏に焼きついて、わたしは二の句が継げなくなってしまった。
ずるい。
ゆかりさんは、ずるい。
頭の中でぐるぐるとそんな言葉が回る。口に出して言ってやりたかったが、それだとなぜか負けなような気がして、ぐぬぐぬと押し黙るしかなかった。
そうこうしている内に、電車はゆかりさん家の最寄り駅に着いてゆっくりと停止した。いつの間にか十分経っていたらしい。
あ、月曜日、どうしよう。
そう思ってゆかりさんを見ると、呼び掛けてもいないのに目が合った。
「では、また」
さらりと言って、ゆかりさんはしなやかに電車を降りていった。一度も振り返らないその背中を、扉が閉まった後も窓から目で追ってしまう。
では、また。
「ずるいなあ……」
再び動き始めた電車に揺られながら、わたしは片手で顔を覆いながら壁に凭れかかった。
謹慎が終わるまで、あと三日。それまでこんな気持ちで過ごさなければならないなんて、あんまりだ。きっと明日の自分は、無意味に車内を見渡してしまうに違いない。
顔を上げて何気なく窓の外を見ると、ここ数日続いていた曇天は西の空で途切れ、雲の端がキラキラと輝いていた。
西日を見つめるゆかりさんの横顔が重なって、盛大にため息が漏れた。


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