第1話

文字数 1,832文字

「いらっしゃい! どこでも座ってー!」
 暖簾をくぐった客に対して、父が威勢のいい声をかける。
 そう、僕が働くアルバイト先には父がいる。と言うよりは、父が経営している居酒屋で僕はアルバイトをしている。
 僕が物心つく前に家を出ていった父。そんな父と言葉を交わすのは、決まってこの店だった。

「ほら、お父さんのところ行くよ!」
 母親がそう言うと喜んでついていった小学生のころ。月に二、三回のペースで、父が働く店を母親と訪ねていた。店に入ると父はとても嬉しそうな顔で出迎えてくれ、そこで楽しく笑う両親を見ることで、僕自身も楽しくなっていた思い出が心に残っている。
 その頃の僕は、どこの家庭も父親は常に働いているので会社から帰ることは無く、父と家で会うことはないものだと思っていた。
 それが当たり前でないと知った後も、僕と母は度々父の店を訪ねる。働いている父親の姿は格好良かったし、父も母も楽しそうだった。
 離婚した夫婦は仲が悪くなると聞いていたので、自分の両親はそうではないのだと安心し、父親のことも尊敬していた。

 すべてを知ったのは高校に入学した時。
 両親がとうに離婚していたことや、父は店のすぐそばで一人暮らしをしていること、お酒を飲んでいる姿を見たことが無い父が昔は大酒飲みだったこと。そしてそのお酒で大きな失敗をしたこと。
 母から全てを聞いた僕は、母の了承も得て父親の店でアルバイトをすることにした。
 僕が働き始めて以来、母は店に訪れてはいない。たまに僕に父親のことを尋ねては、「元気でやっているならいい」とだけ呟く。
 父は父で僕に母親のことをよく聞くが、その大抵が「まだ美人か?」と言った息子には答えづらい質問だったので、僕は自分で確認してよと返す。
 そんな父の店には、近くの大学に通う学生がたくさん訪れる。父はそんな学生たちに安くご飯を振舞うものだから、そのほとんどの人は父のことを親父と呼んでいた。
 嬉しそうな父と共に酒を飲む年上の学生を見て嫉妬しては、自分の心の狭さを何度も恥じる。

 父の元でアルバイトを始めて五年以上が経ったある日の仕事終わり、店を完全に閉めたあとで、父に呼び止められた。
「おい、確か今日で二十になっただろ? 一杯飲んでいかないか?」
 照れくさそうな顔をして、父はそう言って僕を誘った。これまで一度も祝われたことなど無かったのに。
「俺の誕生日なんてすっかり忘れてると思ってたよ。いいよ、飲もう」
 照れ隠しのように僕がそう伝えると、父は急に涙を流し始める。
「すまなかった」
「苦労をかけた」
 しきりにそう謝る父は、誰もいないのをいいことに声を上げて泣いた。
 そんな父の様子を見るのは初めてだったので、戸惑った僕は少し悩んで「謝ってもらうことは何もない」と、素直な気持ちを伝える。
 その言葉は父を落ち着かせたのか、急にピタリと泣き止むと立ち上がって店の奥から一本の酒瓶を持ってきた。
「これはうちの店に通っていたやつが、少し前に持ってきてくれた酒でな、詳しくは知らんが高級な酒らしい。お前が成人したら一緒に飲もうと思ってずっととっておいたんだ」
 子供のような無邪気な顔でそう言った父との二人での晩酌。それほど多くのことを話したわけでは無いが、気が付くと一升瓶が空になっていた。

「親父、起きろよ。こんなところで寝たら風邪ひくぞ」
 気持ちよさそうに眠る父の顔を見て、覚えていないはずの記憶と重なる。
 何度肩をゆすっても起きなかった父は、数十分後に何事も無かったかのような顔で目覚めた。
「起きたか? 明日も大学あるしそろそろ帰るわ」
 よろよろと動き出した父に向かってそれだけを言うと、店の扉に手をかける。そんな僕を今日いちばんのはっきりとした声で父が呼び止めた。
「誕生日おめでとう」
 短くそう言った父は慌ててトイレに駆け込んでいく。
 そんな父の背中を見送った僕は、「また明日!」と大きな声で叫ぶと素早く店の外に飛び出した。滲んだ涙を父に見られないように。
 帰り道はいつも音楽を聞いて帰るのに、今日はイヤホンだけを耳に差して何も流さなかった。
 父に誕生日を祝ってもらえたことの嬉しさや、共に家路につかないことの悲しさ、感謝、憎しみ、労い。様々な感情が一緒くたになって僕を襲っては、そのどれもが間違っているかのように去っていく。
 今日のことを母に伝えようか迷ったが、結局伝えないことにした。僕の記憶にしか存在しない父の姿が、一つくらいはあってもいいと思った。
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