名探偵の帽子
文字数 1,934文字
脇目も振らずに『変な店』に逃げ込んだ。
そこには薄ら笑いを浮かべた関節人形や、どうやって使うのか分からない不気味なおもちゃが乱雑に置かれていて、店の一番奥ではいつも本を読んでいるおばあさんがいる。
お母さんと喧嘩してしまった僕は、ムキになって家を飛び出して、ここに来た。それもこれで2度目だ。むっすりとしたおばあさんに横目で見られながら、目尻に涙をためた僕はキョロキョロと辺りを見渡す。
トレンチコートに探偵帽。
珍妙な格好の妖精が、ホコリの被った書籍の隙間から、緩やかな足取りで顔を見せた。
彼はパイプをかぷかぷふかして、小さな小さな安楽椅子に腰かけた。
そうして「やあ、また来たのかい?」と困ったように笑う。僕はこくんと頷いて、涙を拭った。
その妖精は、手のひらにちょこんと乗ってしまうくらい小さいのに、お腹に響くような低音の声だった。
それに僕は密かに憧れている。
大人になったらこんないい声になれるのだろうかと思ったりもしたけれど、僕は大人になんかなりたくない。だって、大人はすぐに嘘をつくから。
「もう夜だよ、こんな時間にここへ来て大丈夫なのかい?」
妖精が探偵帽をクイッと上げて僕を見た。
「いい。どうせお母さんは僕のことなんて全然心配してないもん」
「へぇ、本当かい?」
パイプを口から離し、少し前のめりになった探偵さん。興味深い、といった様子だった。
「親の心子知らずとはこのことだね。……しかしね、真実というものは、その本人に聞くまで分からないものだよ。聞いたとしても、真実を話してくれるとも限らないけれど、聞かないより聞いた方が幾分かいい」
「じゃあ、もし心配してないって言われたら?」
「その時は……またここに来ればいいさ」
「そんなんじゃ、怖くて聞けないよ」
「うむ、そうかい。分かった、それじゃあこれはどうだろうか」
そう言ってすくっと立ったかと思えば、くいくいっと手招きをした。もっと近づけ、という意味だろうか。
「なに?」
「いいかい? 君のお母さんは、走って、息を切らせて、涙目になりながら、ここに来る。君を迎えにね。どうかな。もし、ほんとにそうなったら、それはお母さんが君のことを大切に思っているということにならないだろうか」
「大人は泣かないし、走ったりしないよ。お母さんが泣いてるところ、見たことないもん」
「それは分からないさ。君だって悲しいことがあったら泣いてしまうだろう? 大人だって、泣き方を忘れたわけじゃない。ただ、大人のふりをしているだけで、強くあろうとしているだけで、君となんら変わらないよ」
「なんでそんなことが分かるの?」
「お見通しだからだよ。ほら、私の格好をみて分からないかい? 君やお母さんのことをなんでも知ってて、すっかりお見通しと言えば、あれに決まってるじゃないか」
「ええっと、なんだろう。
探偵? それとも妖精?」
僕が首を傾げると、探偵さんは愛おしそうにはにかんでパチンと指をならした。
「惜しい! 名探偵の妖精だ!」
「ううーん、なんか違うような。僕ね、探偵さんと、ここじゃない他のところで会ったことある気がするんだけど……」
その言葉に、ぴくりと探偵さんの方が反応した。しかし誤魔化すように探偵帽に手をかけると、深くかぶり直す。
「気のせいさ」
その時、入口からなだれ込むように人が入ってきた。骨董品がガタガタと音を立て、荒い息が聞こえる。驚いて、体を机の奥に潜めようとして、探偵さんの方をみると、もうすっかり姿を消してしまっていて見当たらなくなっていた。
「探したのよ!!」
静まり返っていた店に、生きた時間が戻ってきたみたいだった。
そんな大きな声と共に、僕の視界は真っ暗になった。どく、どく、どく、と心臓の音に包みこまれる。
「……お母さん?」
「ごめんね、約束してたのにお仕事で参観日行けなくなって……ごめんね」
すすり泣く声が頭のすぐ上から聞こえる。探偵さんの言った通りになった、と僕は思った。走って来てくれたんだ。
「僕こそ……ごめんね」
「……ううん」
お母さんはぎゅうぎゅうと僕を抱きしめた。
探偵さんが、この状況を正確に予言できたのは、僕達親子のことをよく知っていたからだ。
そう、探偵さんは僕にひとつ嘘をついた。
僕の家の仏壇には、探偵帽をかぶったパパの写真が飾ってある。僕が今よりもっと小さい時に死んでしまったパパ。シャーロック・ホームズをこよなく愛し、僕とお母さんのことが大好きだったパパ。
名探偵の妖精、だなんてどうしようもない嘘をついたパパ。
僕には大人がなんで嘘をつくのか、まだ全然分からないけれど、
どうやら、お母さんもパパも僕のことを大切に思ってくれているみたいなので、もう少し大人には優しくしてあげてもいいのかもしれない。
もう、あれから、妖精は現れない。
そこには薄ら笑いを浮かべた関節人形や、どうやって使うのか分からない不気味なおもちゃが乱雑に置かれていて、店の一番奥ではいつも本を読んでいるおばあさんがいる。
お母さんと喧嘩してしまった僕は、ムキになって家を飛び出して、ここに来た。それもこれで2度目だ。むっすりとしたおばあさんに横目で見られながら、目尻に涙をためた僕はキョロキョロと辺りを見渡す。
トレンチコートに探偵帽。
珍妙な格好の妖精が、ホコリの被った書籍の隙間から、緩やかな足取りで顔を見せた。
彼はパイプをかぷかぷふかして、小さな小さな安楽椅子に腰かけた。
そうして「やあ、また来たのかい?」と困ったように笑う。僕はこくんと頷いて、涙を拭った。
その妖精は、手のひらにちょこんと乗ってしまうくらい小さいのに、お腹に響くような低音の声だった。
それに僕は密かに憧れている。
大人になったらこんないい声になれるのだろうかと思ったりもしたけれど、僕は大人になんかなりたくない。だって、大人はすぐに嘘をつくから。
「もう夜だよ、こんな時間にここへ来て大丈夫なのかい?」
妖精が探偵帽をクイッと上げて僕を見た。
「いい。どうせお母さんは僕のことなんて全然心配してないもん」
「へぇ、本当かい?」
パイプを口から離し、少し前のめりになった探偵さん。興味深い、といった様子だった。
「親の心子知らずとはこのことだね。……しかしね、真実というものは、その本人に聞くまで分からないものだよ。聞いたとしても、真実を話してくれるとも限らないけれど、聞かないより聞いた方が幾分かいい」
「じゃあ、もし心配してないって言われたら?」
「その時は……またここに来ればいいさ」
「そんなんじゃ、怖くて聞けないよ」
「うむ、そうかい。分かった、それじゃあこれはどうだろうか」
そう言ってすくっと立ったかと思えば、くいくいっと手招きをした。もっと近づけ、という意味だろうか。
「なに?」
「いいかい? 君のお母さんは、走って、息を切らせて、涙目になりながら、ここに来る。君を迎えにね。どうかな。もし、ほんとにそうなったら、それはお母さんが君のことを大切に思っているということにならないだろうか」
「大人は泣かないし、走ったりしないよ。お母さんが泣いてるところ、見たことないもん」
「それは分からないさ。君だって悲しいことがあったら泣いてしまうだろう? 大人だって、泣き方を忘れたわけじゃない。ただ、大人のふりをしているだけで、強くあろうとしているだけで、君となんら変わらないよ」
「なんでそんなことが分かるの?」
「お見通しだからだよ。ほら、私の格好をみて分からないかい? 君やお母さんのことをなんでも知ってて、すっかりお見通しと言えば、あれに決まってるじゃないか」
「ええっと、なんだろう。
探偵? それとも妖精?」
僕が首を傾げると、探偵さんは愛おしそうにはにかんでパチンと指をならした。
「惜しい! 名探偵の妖精だ!」
「ううーん、なんか違うような。僕ね、探偵さんと、ここじゃない他のところで会ったことある気がするんだけど……」
その言葉に、ぴくりと探偵さんの方が反応した。しかし誤魔化すように探偵帽に手をかけると、深くかぶり直す。
「気のせいさ」
その時、入口からなだれ込むように人が入ってきた。骨董品がガタガタと音を立て、荒い息が聞こえる。驚いて、体を机の奥に潜めようとして、探偵さんの方をみると、もうすっかり姿を消してしまっていて見当たらなくなっていた。
「探したのよ!!」
静まり返っていた店に、生きた時間が戻ってきたみたいだった。
そんな大きな声と共に、僕の視界は真っ暗になった。どく、どく、どく、と心臓の音に包みこまれる。
「……お母さん?」
「ごめんね、約束してたのにお仕事で参観日行けなくなって……ごめんね」
すすり泣く声が頭のすぐ上から聞こえる。探偵さんの言った通りになった、と僕は思った。走って来てくれたんだ。
「僕こそ……ごめんね」
「……ううん」
お母さんはぎゅうぎゅうと僕を抱きしめた。
探偵さんが、この状況を正確に予言できたのは、僕達親子のことをよく知っていたからだ。
そう、探偵さんは僕にひとつ嘘をついた。
僕の家の仏壇には、探偵帽をかぶったパパの写真が飾ってある。僕が今よりもっと小さい時に死んでしまったパパ。シャーロック・ホームズをこよなく愛し、僕とお母さんのことが大好きだったパパ。
名探偵の妖精、だなんてどうしようもない嘘をついたパパ。
僕には大人がなんで嘘をつくのか、まだ全然分からないけれど、
どうやら、お母さんもパパも僕のことを大切に思ってくれているみたいなので、もう少し大人には優しくしてあげてもいいのかもしれない。
もう、あれから、妖精は現れない。