第1話

文字数 4,260文字

 いつもつるんでいる同じクラスの山ちゃんが、昨日から法事で母親の実家に行っていて、ぼくは一人なのだった。誰かと一緒にいたかったのだけれど。家族以外の誰かと。とはいえ、いくら山ちゃんにでも、あまり詳しいことを打ち明けるのは躊躇われる。家のビミョーなところは山ちゃんにも簡単にしか言ってない。
 総合病院で薬を貰い、さて家に戻るかと思ったら急に、破裂しそうな気持ちが戻ってきた。どうしたらいいのか分からなくなった。で、思わず、病院のコンビニでかき氷メロンを買ってしまった。
 食べる場所が見つからない。どうするんだよ、溶けるよ。アホなぼく。こんなぼくにいつも付き合ってくれて、山ちゃん、ありがとう。
 そのまま病院の外に出る。さっき、ものすごい通り雨があって、珍しく少し涼しい。屋根付きのバス停のベンチ。濡れていない。バスは行ったばかりのようで誰も待っていない。ぼくはベンチに座り、カップの蓋を開けた。一口、口に運ぶ。甘い。ひんやりする。でも、ぼくの気持ちはどうにもならない。黒ずんだ雨雲がどんどん空を流れていく。
「お!」
 すぐ横で聞いたことのある声がした。見上げると、上村くんがアイスコーヒーを飲みながら歩いてきたところだった。ウェイ系で女子にモテる上村くんは、今日も見るからにしゅっとした感じなのだ。
「ああ、うん」
 ぼくは目だけで会釈して、かき氷メロンに戻った。少し緊張する。
 上村くんは、しばらく立ったままアイスコーヒーを飲んでいたけれど、やがてぼくの隣に腰を下ろした。ぼくは、さらに緊張する。
「何? どっか悪いの?」
 上村くんが話し掛けてくる。ぼくは、もう一段、緊張する。
「え、うん、えっと、おばあちゃんの薬を貰いに来た」
「ああ、そうか。おまえ、いつも偉いな」
 誉められてびっくりして、――顔が赤くなってるんじゃないかと思った。
 上村くんたち華やかなグループとぼくとでは、普段、ほぼ関わり合うことはない。ホントなら、ちょっと太っていて運動が苦手で、勉強もできなくて、中2にもなって声変わりもしていなくて、みたいな、ぼくみたいなのは、上村くんみたいな人たちにイジメられるターゲットだろう。実際、隣のクラスとかでは、嫌な話も聞く。
 でもうちのクラスでそうならないのは、実は半分は上村くんのお陰なのだ。彼は正義の人だ。なにしろ、理不尽な上下関係に怒って、バスケ部の先輩たちに一人で真っ向から立ち向かった人だ。揺るがない人だ。イジメっぽい雰囲気を感じると、真正面から正してくれる。
 陰で山ちゃんとは、「ウェイ村」なんてバカにしたみたいに呼んでるけど、実は正直、上村くんにはちょっと憧れもある。言えないけど。
「で、上村くんは? どこか悪いの?」
「母親がここで看護師やってんだよ。うちのバカ親、事務に提出する書類忘れたから持ってきてお願いって、ま、俺も暇だし、親に貸し一つ、みたいな感じで届けに来たんだ」
「うん」
 ――すぐに、会話が途切れる。ぼくたちは同じクラスだけど、一緒に話せるような話題はとても少ない。
 バスが来るまで、まだ一〇分以上ある。汗が出てきたのは、気温がまた上がってきただけじゃないだろう。どうしよう。
 すると、またもや上村くんが話し掛けてきた。
「おまえ、いつも、ばあちゃんに付き添って病院に通ってるんだろ?」
 おばあちゃんのこと。
 ぼくの気持ちが、いっぱいいっぱいになっている理由。
 無力なぼく。
「付き添ってって言うか、まだ一人でも来られるんだろうけど、何かそういう習慣になってるっていうか」
 ぼくには、それくらいしか出来ないから。
「うちのバカ親がいつも言ってるよ。フラフラしてないで、少しは高瀬くんを見習ったら、って」
「あ、何か、ごめん」
「いや、そこ謝るところじゃないから」
「あ、うん。あの、うちは母親もずっと働いていて、ぼくはおばあちゃんに育てられたようなものだから。だから、おばあちゃんもぼくを頼るし、ぼくも気になるし」
「でも、週一で付き添ってるだろ? 学校のある時も。あ、これ、個人情報だよな、バカ親、俺に言うべきことじゃないよな。もちろん、さすがに、おまえのばあちゃんの身体の具合とかは聞いてないぜ」
「うん。別に、隠すようなことでもないから、いいんだけど。――あのね、上村くん」
 なぜだろう、その時、ぼくの中から、するすると言葉が出てきた。なぜ、上村くんに? それはたぶん、上村くんがぼくとおばあちゃんのことを知っていて、それでぼくのことを誉めてくれたから。でも。
 違うんだ、上村くん。ぼくは全然偉くなんかないんだ。買いかぶりだ。だって、ぼくは無力なんだ。
 ホントに、無力なんだよ。
 ぼくは言った。
「おばあちゃん、認知症が出始めてるんだ」
 兆候はもう数年前からあって、でもどうにか一人で暮らしてきて、それがどうにも立ち行かなくなってきた。
「そうか。――それは大変だな」
「今は自転車で一〇分くらいのところの、おばあちゃんの家に、一人で暮らしているんだけど、一緒に暮らせばいいと思うのに、でも、ダメなんだよね」
 ずっと表面張力一杯になっていた気持ちが溢れ出す。上村くんに、こんなこと言ったってしょうがないのに。
「お母さん、絶対に同居は嫌だって。ずっと、おばあちゃんと合わないのは分かってたんだ。お母さんも、おばあちゃんも、どっちのことも好きだし、人間としても良い人だと思うけど、でもその二人は、一緒にしちゃダメなんだよ。ほら、トイレ洗剤とかであるでしょ? 混ぜるなキケンみたいなの。別に、激しい喧嘩になるわけじゃないけど、無理やり一緒にいると、どっちか、あるいは両方の具合が悪くなっちゃうんだ。胃が痛くなったり、頭が痛くなったり。ホントなんだ。どうにもならない。それは、そういうのを小さい頃から見てきたから、よく分かってる。だから、――一緒に住めばまだ全然、おばあちゃんのことを支えられると思うんだけど、でももう、昨夜、家族で話し合って、施設に入れるしかないって、お父さんも、お母さんも。ぼくも分かってるから、それに反対できない。ぼくには何にもできない、反対すら出来ないんだよ」
 気が付くと、涙がするするっと零れ落ちていた。
「あれ? おかしいな、どうしたんだろう」
 思わずぼくはつぶやく。でも涙は止まらない。ぼくは泣いているのだった。
「あれ? どうしたんだろう。あれ? あれ……」
 上村くんは、無様なぼくを、ただ黙って見ていてくれる。
 車が通りをやってくる。通り過ぎる。あるいは病院の駐車場に入り、出ていく。遠くで、セミが鳴き出す。鳴き止んで、また鳴き出す。幸い、バス停には誰も来ない。ぼくは涙をこぼし続け、上村くんはじっとぼくを見ている。ぼくたちはとても二人だけで、町が生きている証拠のいろんな音がしているのになぜか静かで、不思議な空間だった。
 やがて、どれくらいが経ったのか、きっと涙の水源が無くなって来たんだろう、さっき雨が止んだように、すっと、ぼくの涙は止まる。はちきれそうだった感情は随分、鎮まっていた。そうしたら、ものすごく恥ずかしくなった。
「ごめん」
 ぼくはうつむいたまま言う。上村くんの顔を見れない。
「気にすんな」
 上村くんの声だけ聞こえる。
「ぼくは、こんなふうに何の力もなくて、それで人の世話になってばかりだ」
「そうか? そんなこと、ないだろう?」
「そうだよ。山ちゃんにだって」
 ぼくと山ちゃんは、クラスではBLコンビなんて言われてる。BLじゃないけど。山ちゃんは、ぼくと違って勉強がバリバリに出来て学年では誰もかなわない。ウェイ系とかモテ系じゃないけれど、勉強だけじゃなく、いろんな出来事に自然と気が付いて上手く立ち回れる人だ。山ちゃんとは小学校低学年からずっと一緒で、そういう差みたいのが見えてきちゃってもそれでも一緒にいてくれる。ぼくがイジメられないもう半分は、たぶん、いつも傍にいる山ちゃんの存在――。
「山崎くんにだって、勉強を教えてもらったり、いつも面倒みてもらって」
「いやいや、あいつこそ、どんだけ高瀬に世話になってるか分かんないだろ」
 上村くんは、思いもかけないことを言う。
「いや、そんなことないでしょ」
「あるよ。去年の5月くらいだっけ? あいつ、散歩させてて飼ってた犬に逃げられたことあっただろ。結局、戻って来なくてさ。すげえ、ショックだったみたいで。それに責任も感じてて。嫌ってる俺のところにまで、見かけたら教えてくれって言いに来た。ちょっと引いちゃうくらいの勢いだったから、みんな、遠巻きに眺めるみたいな感じだったけど――、あんときにも、ずっとあいつを支えたの、おまえじゃん」
「ぼく? ぼくはただずっと一緒にいただけで、何もしてないよ」
「してないだろうさ。おまえは、相手がどんなときにでも、いつも変わらず優しいヤツなんだよ。それが相手を癒す。山崎は高瀬とBLコンビだから、近くにいすぎて癒されている実感ないかもな」
 そうなんだろうか。
 ぼくは山ちゃんがつらかった時に、少しでも癒すことが出来ていたんだろうか。
「高瀬、おまえはばあちゃんのことだって、きっと癒していた。おまえは全然無力なんかじゃないよ」
「うん――」
 もし少しでも、ぼくの好きな人たちのために、何か役に立っていたのならうれしい。
「お、バスだ」
 上村くんの声に顔を上げると、通りをバスが近づいてくるのが見えた。太陽がさあっと射して、バスの窓が光る。いつの間に黒雲はいなくなり、夏空が完全に戻っていた。
「行こうぜ」
 上村くんが立ち上がる。彼の手には空になったアイスコーヒーのカップ。ぼくもまた、空のかき氷メロンのカップを持っていた。それからコンビニのビニール袋。ぼくはかき氷メロンのカップをビニール袋に入れ、それで、
「上村くん」
 声をかけ、ビニール袋を広げて見せた。
「おお、サンキュ」
 上村くん、アイスコーヒーのカップを放り込む。
 バスがぼくたちの前で止まり、騒々しく勢いよく、ドアが開く。
 おばあちゃん、ごめんね、とぼくは思う。やっぱりぼくは、たいして役には立てない。でもぼくは、それでも出来ることを出来るだけやって、あとは進んでいくしかないんだね。
 昼下がりのバスはがらがらだ。
 上村くんは一番後ろの長いシートに座り、――ぼくはちょっと躊躇したけれど、上村くんの隣に座った。上村くんとこんなに喋るのは初めてだ。
 バスが走り出す。
 さっきぼくが無様に泣いたバス停は、すぐに後ろの方に飛んで行って、見えなくなった。
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