第1話

文字数 1,157文字

「とにかく聖書、伝道だよ」
 牧師のいつもの口癖を耳の背に、礼拝を終え家路につく。道すがら歩く先、突如広がるセピア色の世界……
 勇ましい軍歌とともにやって来る一群の人々。
「武運長久」「盡忠報國」「祝出征」いかつい漢字ののぼり旗を先頭に、一人の若者を戦場に送り出す隊列のようだった。すると、いきなり――
「このご時世になんという格好なの?」
「その髪型、恥を知りなさい!」
 白い割烹着に「大日本愛國婦人会」の襷をかけたご婦人たちが、ものすごい剣幕でぼくに詰め寄って来た。
「いや、普通に髪を七三に分け、ただカラーシャツにジーンズをはいているだけですよ!」
 そんな抗弁も全く通ぜず押し問答していると――
「何をしておるか!」
 ガチャガチャ軍刀の金具を鳴らしつつ、一人の兵士がやってきた。腕に「憲兵」と、そこだけ色鮮やかな赤文字だった。
「おい、貴様、誰何せよ!」腹に響く重い声。
「えっ、スイカ?果物の?」聞き返す。
「馬鹿者!お前はいったい何者か、名前は?所属は?言え!」
 強圧的な大声に、周りの耳目が一斉に集まった。
「ぼくは、あの、そこのキリスト教会に通っていて、今日は日曜日で、礼拝に行ってきたところです」
「なに!基督教だと!貴様、邪教の信徒か。今日は天長節だ。ちょっと一緒に憲兵隊本部まで来い!」
 有無を言わせず取調室へ。
「おい、貴様!天皇陛下と貴様らの神、どちらを敬う?」
「返答如何では、治安維持法違反、不敬罪で逮捕する!」
「教育勅語を暗唱せよ!」
「邪教を捨てろ!」
「この英米第五列がっ!」
 凄まじい罵詈雑言、罵声と尋問とが続いた。
「違うんです、唯一の神は愛なる方で、私たち人間を救うために神のひとり子イエス・キリストが十字架にかかって死に、三日目に蘇ったのです!」
「私たちの身代わりとなられた主イエス・キリストはやがてこの地上にご再臨されて――」
 次の瞬間、憲兵は拳で机を激しく叩き、怒鳴った。
「ふざけるな!なにが唯一の神だ、再臨だ、笑わせるな!」
「神國日本!貴様、それでも日本人か!」
「イワシの頭様に土下座して謝れ!」
 胸ぐらを掴み土下座を強要してきた。それを拒否すると、憲兵はぼくの右の頬を堅い拳で勢いよく殴りつけた――
「痛っ!」
 気がつくと、そこは見慣れた自分の部屋。脇には一冊の聖書が落ちていた。黙想している間に眠り込み、書棚から落ちた聖書が顔に当たったようだった。聖書を拾い、開いていた頁を見る。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、しっかりやりなさい。」
 伝道はパフォーマンスでもなければルーティンワークでもない。自己満足やポーズでもない。聖書の警告は、今この瞬間も迫りくる現実であり、福音伝道はなさねばならぬ責務なのだ。
「とにかく聖書、伝道だよ」
 白日夢、歴史の暗渠を旅したぼくの、口癖になった。
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