kiss

文字数 11,882文字

 昔ながらの商店街でも、出来たばかりのスーパーマーケットでもどちらでも構わない。精肉店舗や鮮魚店舗を見かけると、私はあの日のキスを思い出す。
 
 ある日、私がいつものように仕事から帰っている時の事だった。大通り沿いの歩道を駅へ向かって歩いていると、大通りから路地裏へ入る道によって歩道が途切れる所に差し掛かった辺りで、一台の真っ黒なワンボックスカーが行く手を遮るようにして急停車した。驚き、故意か事故かわかりかねて硬直している所へ、車から勢いよく二人の男が飛び出して来た。迅速ではあったが乱暴な素振りは無く、寧ろにこやかだったが、背中に回した手には強制的な圧力があり、私はその男たちが誘うままにワンボックスカーに乗り込んだ。八人乗りの後部座席には奥の窓際に男が一人乗っていて、私はその隣に押し込まれた。車内に入ってようやく少し頭が働き、咄嗟に乗り込んできた扉の方を振り返った途端、奥の窓際の男が後ろから私の口を塞ぎ、同時に体を羽交い絞めにした。そして再び私の体は硬直した。

「大人しくしてろ。騒いだらただじゃおかねぇぞ、わかったな?」

 男が耳元で言った言葉に、私は慌ててうなづいた。
 扉が閉まると同時に走り出す車。羽交い絞めにされていることで、車の進行方向に対して横を向いて座ることになり、全身が硬直する中で唯一動いた眼が、たった今まで自分がいた歩道を見た。見る見る遠ざかっていくその場所には、若干不思議そうに車を見送っている人がいるものの、人の姿が米粒くらいの大きさになる頃には、その人達も含めすぐに普段通りの人と街の景色に戻っていた。
 ついさっきまでは私もいたのに、もはや戻れない世界。遠ざかっていく景色が幸福との距離を表しているように思えた。
 窓に映る景色が全く知らない景色になってきたことで、いよいよ自分がどこに連れて行かれているかがわからなくなった。ただ、時折景色の端々に大きな橋が増え始めたことや、水面がちらつき出したことで海に近づいているのはわかった。死ぬことになるのか、ひどい辱めを受けることになるのか、どこまで行くのかわからないけど、ただ車が停車するのも間もなくだろうという中途半端な予測が、今にも仕打ちが行われるような錯覚を生みださせ、体中に、恐怖による震えという連鎖反応を起こさせた。私を羽交い絞めにしてる男が気付いたようだったが、特に何も言わなかった。しかし、私を挟んで反対側に座っていた男が、私達の様子に違和感を感じて、私に視線を向けた後、私を羽交い絞めにしている男の方を見た。

「俺らの相手をしてもらうのは、ちゃんと向こうのベッドに着いてからだから心配すんな
 って!」

 再び私の方へ視線を向けると、男は嘲るように笑ってそう言い放った。そうして下卑た男の笑い声がずっと静かだった車内に響き渡った。地獄の正解を聞いてしまった私はさらに体の震えが増し、うまく呼吸が出来なくなっていた。耳元で私の後ろにいる男の舌打ちが聞こえた。
 走る車を見過ごしていく街灯の間隔が徐々に広くなっていき、ついにはほとんど街灯がなくなりだしたころ、車が小刻みな振動を受けると同時に減速しだした。真っ暗になっていた窓の外の景色に突然、表面に小波を打ったような建物の壁が現れ、しばらくすると、車が完全に停止した。

 ついに、到着した・・。

 これから、自分に降りかかる地獄に対する恐怖が今までの比じゃないくらい襲ってきた。もはや突然車に押し込まれて走り続けていたついさっきまでの時間にですら戻りたいと感じるくらいだった。
 ドアを開け、次々と男たちが下りていく。ついに私の手前の男までが下りたが、当然ながら私は動くことが出来なかった。体が硬直していたからじゃなく、ただ単純に嫌だったのだ。たった一人ですら力で男に勝てないのはわかっている。それが複数人なら尚更。でも、この車内から出た先の事を考えると、そんな明白なことは頭で理解しているのに、素直に諦めてくれるはずがないってわかっているのに、ただ素直に拒否反応を起こした。

 「おい!早く降りろ!」

 後ろの男が怒鳴りながら私の背中を押してくる。恐怖で元々震えている体の上から更に大きく首を振った。

 「早く降りろよ、オラ!!」
 「い、いや、いやぁ!」

 男がさらに強く押してきた。私は振り絞るように声を出して抵抗した。

 「おい!さっさと降りろよ!!」
 
 先に降りていた別の男が私たちのやり取りを見て加勢してきた。強く腕を引っ張られ、私は必死で前の席のヘッドレストにしがみ付いたが、後ろの男に乱暴にその腕を引き剥がされ、私は外に引きずり出された。車から降りても尚抵抗する私に対して、手を引っ張っていた男は、さらに強い力で引っ張ると反動で前につんのめった私の口元を、右手で覆い塞ぐように掴むとゆっくり顔を近付けてきた。

 「それ以上騒ぐと、マジでぶち殺すぞ。」

 口を塞ぐ手に徐々に力を加えながら、怒鳴りつけるではなくあえて落とした声で目をじっと見て言われた事で相手の殺意がよりしっかりと伝わって来た。そして、私の体は恐怖で一気に今までの勢いを失ってしまった。

 「おい、その辺にしとけ。」

 助手席から降りてきた男が声を掛けると、私を凍りつけた男は私の目を変わらず睨みつけたまま舌打ちをして、ようやく顔を離した。わずかばかり恐怖が遠のいたと思ったのも束の間、

 「痛っ!」

 男は私の口を押えていた手を離すと、素早く私の右手首を掴んでいた左手と持ち替え、新たに自由になった左手で私の後ろ髪を根元で絡め取るようにして強く引っ張り、頭が上を向いたところで、髪を掴んだまま左手で首の後ろを押し込みながら右手を引き上げることで、私は中腰のような体勢にされてしまった。首元を押さえている手が固定されていることで、私はそれ以上体勢を落とすこともできなければ、男が進めばそこについて行かざるを得なくなってしまった。
 力任せに引っ張られて連れ込まれたのは、真っ暗な廃工場だった。空気は氷のように冷たく、明かりの無い屋内は心臓を締め付けるくらい真っ暗だった。私を連れて男達は慣れたようにどんどん進んでいく。徐々に目が慣れてきても、僅かに物が認識できる程度だった。入り口から真っすぐ進むと、奥に木製パレットの山が見えてきた。男達はその脇を抜け、左に曲がっていく。パレットを抜けた辺りから微かに何か音楽のようなものが聞こえ始めた。進むほどにその音楽は大きくなっていった。左に曲がった先には天井が高いその建物の中で一部分だけロフトの様に中二階が設けられている部分が見えた。そのロフトの真ん中あたりだけぼんやりとした暖色の光を発している。私は連れられるままに、そのロフトへ繋がる階段を上がった。ロフトへ上がると、ついに音楽は明確に聞こえるようになった。ロフトの上は簡易的な応接室の様になっていて。三人掛け程度のソファが二脚L字の状態で置かれ、L字の繋ぎ目に当たる部分には、背の高いスタンドライトが置かれ、黄みがかった明かりをソファの前の低めのガラステーブルの天板に当てている。テーブルの上には、空き缶が2・3個と小さな銀紙が数枚乱雑に置かれており、ライトが照らす明かりの輪の中からは少し外れているが、天板の角の方には拳銃のようなものが見えた。

「ごくろぉさぁん。」

 スタンドの明かりを挟んで反対側のソファに誰かの座っている影が見えた。テーブルに当たる明かりに近い膝は、より色濃く影を作っている。その影が動き出した。立ち上がった人物はテーブルから回り込んで近づいてくるが、明かりの逆光もあって、全く顔が判別出来ない。目の前に立ち、中腰になり、顔を覗き込まれてようやく顔の判別が出来た。スキンヘッドのその男は、首元から額にかけて顔の左半分に鱗の様にトライバル系のタトゥーが入っていて、顎から上下の唇を抜けて右上に向かって深めの刃物による切り傷が入っている。痩せ型というよりも「やつれている」という言葉が適当なくらい頬はこけ、目元は落ちくぼみ、頬骨の上にはクマのようなものも見える。男は私の顔を覗き込むとニヤリと不敵に笑った。私をここまで連れてきた男に顎をしゃくるようにして合図をすると、ようやく私の体は解放された。しかしすぐさま、立ち上がったスキンヘッドの男が私の顎を下から乱雑に掴み、上に引き上げ、再びニヤついた表情で私の顔を眺めた。

「これがアイツの女かぁ。ククッ。」

 今度は大きく顎をしゃくって合図を出すと、私を連れてきた男達は皆階段を下りて行った。私は乱暴にソファの方へ押し飛ばされた。恐怖とさっきまでの体勢の影響で足に上手く力が入らなかった私は、足がもつれそうになるのをなんとか修正しようとしながらもついにはソファにうつ伏せに倒れ込んでしまった。背後に妙な気配を感じて振り返ると、スキンヘッドの男がズボンのベルトを緩めながら歩いてきていた。私は文字通り考えるよりも早く体が動き、逃げようと体勢を起こした。危機感から体中に発生した力は、自分のコントロール外のものなのか、普段通りの空間認識をしてそれに見合った分の体の動かし方をしているはずなのに、足は想定以上に蹴り上がり、足を下ろしてもまだ着ききっていなくて空を搔いた。そんな風に心と体が上手く連携を取れない、もつれた状態になりながらも私は必死でもがくように逃げ始めた。でも、ソファの端っこまで着いた頃には既に男に追いつかれ、ベルトの辺りを掴まれると、力強く引き寄せられた。

「い、嫌、嫌ぁー!!」

 まるで捕まえられた野兎のように、無茶苦茶に足をバタつかせた。うまく効果が発揮されて男の腕を振りほどくことが出来ると、再び私は逃げようと身を翻し、動き出した。ただ、まだやっぱり体には上手く力が入らない。目の前はテーブルを照らすスタンドライトが立っていた。明かりの光線とスタンドライトの本体の間は影となって真っ暗で、その先に何があるのか、床までの距離はどのくらいか一向にわからない。でも、私はもがくようにソファのひじ掛けの上を越えて、半ば落ちるようにして這い出した。スタンドライトにぶつかり、ライトは大きな音を立てながら倒れた。倒れたライトが偶然私の前方の壁を照らした。私はまるでそれが希望の光であるかのように、必死でその光の方へ這い出した。もうすぐで照らされた壁に手が届くと思った矢先、背中から肺に向かって重く鈍い痛みが走り、私は動けなくなった。

「ジタバタすんなってぇ。」

 男は私の背中を踏みつけると、まるで遊んでいるかのように楽し気に言った。踏みつけられた衝撃で肺の空気のほとんどが吐き出されてしまった私は、声とも呼吸とも取れない音で呻く。男は私の背中から足を離すとすぐに私を仰向けにひっくり返し、腹の辺りに腰を下ろした。両膝で左右の脇の下をそれぞれ固定され、さらに腰よりも上に位置取りをされたことで、押しのける事が不可能になってしまった。男はニヤニヤしながら怯える私の顔を見下ろすと急に私の左頬を平手で打ち付けた。一気に頭が真っ白になった。逃げ惑った為に発熱しているはずなのに、私のコントロールを離れた力の影響か、体はまるで極寒の中にいるような感覚で、ガタガタと小刻みに震え出した。それはさっきまでの男達の恫喝の恐怖によるものとは比にならない程で、体の奥にある気管の筋肉をも締め付け、わずかずつしか空気の出し入れが出来ず、ひきつけのような呼吸になってしまった。

 この先何をしでかすかわからない。本当に殺されるかもしれない。

 見知った知人ではない全くの他人による危害は、真意やその先の行動を予測できない為に、薄皮一枚隣に既に「死」が存在しているように感じられた。心と体の相互作用によって、ついに私は何一つ声を発することが出来なくなってしまった。

「嫌ぁー!誰か助けてぇー!!」

 自分の耳の中にはその声が響いているのに、実際に口からは一切音がこぼれない。ただ、グルグルと平衡感覚を一切失った景色の先にいる男が私に顔を近づけるのを見続けるしかできなかった。男の顔が視界の右端に消えていく。

「自分の女が食われちまった事を知ったら、アイツどんな顔するかなぁ。クヒヒ。」

 耳元で男が囁いた。そして、男の唇が私の首に触れた瞬間だった。金属の爆発するような音と同時にガラスの割れる音がした。男は上体を素早く上げると、音のした窓の方へ振り向いた。その瞬間、さらにいくつかの爆発音とともに細かい発光が横目に見えた。男は姿勢を落としながら、横たわる私の足元のソファの裏に飛び込んだ。次に爆発音がすると、男の隠れたソファがまるでポップコーンが出来上がった時の様に、細かい破裂をいくつも起こした。そして、少し音が止んだ瞬間、男はソファを持ち上げると、前方へ押し投げ、屈みながらテーブルの上の拳銃を取ると、さらに爆発音のする中、前方へ銃を撃ちながらロフトの吹き抜けになっている方へ走り出した。男が視界から消えて行ったのを見て、漸く私は最初の爆発音の方へ視線を向けた。既に何者かの人影が近付いてきていた。過敏になっている私はとっさに後ずさったが、

「ヒロミさん!」

 見ず知らずの人間しかいない筈のこの空間で、その人影は私の名前を呼んだ。そしてその声も、私の動きを止めさせた。心身がバラバラで、理性も何もコントロールがきいていない状態で、本能が止めたのだ。
 安心する声。倒れたスタンドライトの明かりがうっすら照らし出したのは、ユウタ君の顔だった。ただの大学生であるはずのユウタ君が、なぜここに急に現れたのか、なぜあんな爆発音がした場所で普通の顔でいるのか、なぜ片手に大きな銃を携えているのかはわからない。ただ、急に知らない男達に囲まれ、命の危機による極限の恐怖に縛られていた私は、気がふれたように縋りついた。何も考えず、何も感じず、私の体はただ声を上げて泣いていた。

「ごめんね、ヒロミさん。もう大丈夫だから。」

 ユウタ君は、縋りついた私の力に応えるように左手でグッと抱きしめると、今度は優しく何度も頭を撫でおろしてくれた。私の泣き声に混じって、階段を駆け上がって来る足音が聞こえる。危険だとはわかってる。でも、極度の緊張感から解放されて緩んでしまった心は、もうわずかな緊張も受け入れる事が出来なくなってしまったのだろう。手に入れた最大の安心材料から少しも離れる事が出来なくなってしまった。
 しかし、ユウタ君は困った様子は一切表さず、手に持っていた銃を放り捨てると、近くにあったもう一つのソファを、階段の方から遮るように私達の前に引き寄せた。滑り込んできたソファが停まり切る前に、ユウタ君は私の頭を左手で抱き込むようにしながら、ソファの陰に潜り込んだ。その瞬間、ソファや周囲の壁からたくさんの破裂音が起こる。それと同時にソファの向こう側から早口の怒鳴り声のようなものが聞こえる。

「おい!もっと撃て!」
「来やがったなぁ!」
「死ねやぁ!!」

 それらの声が起こり、周りの破裂音が少し収まった瞬間、素早くユウタ君は身を起こし、同時に腰の辺りから拳銃を引き抜いて撃ち始めた。今度はソファの向こう側で破裂音がする。ユウタ君の胸を通って聞こえる振動音と破裂音がリンクしている。

「ぐあっ!」
「くそぉあ!」
「あー!!」

 破裂音と同時にソファの向こう側で男達の様々な声が上がった。何かが落下したのかパレットのような木製の何かが割れるような音も起こっている。再びユウタ君がソファの後ろに身を隠すと、複数の破裂音が起こる。ガタガタとソファが揺れる。ユウタ君が私とソファを掴みながら、ズリズリと這うようにして後退し始める。私はユウタ君のその動きを見て察すると、ユウタ君に合わせて同じように後退した。その進行方向には、錆びたロッカーに挟まれた部屋の角が作る行き止まりしかない。その角に到達する頃、再び破裂音が収まり、ユウタ君は後退しながら取り込んでいた最初に持っていた銃を抱えると起き上がり、ソファの向こう側へ発砲し始めた。再びある程度の悲鳴が起こった後、今度はユウタ君は身を屈めずに、ソファの向こう側を伺っていた。そして少しすると私の方へまた優しい顔を向けた。

「ユウタ君・・?」
「ヒロミさん。絶対にここから動かないでくださいね。ここの中なら、安全です。」

 ユウタ君にしがみつく私の手を外しながら、同時に手を握りしめて説くように話しかけた。その優しい表情につられて、私は素直に手を離したが、少し遅れて脳が動いた。

「え?何するの?」
「大丈夫です。もう少しだけ片付けて来るだけですから。」
「・・・ダメ・・ダメ!行っちゃダメ!嫌!」
「大丈夫です。いなくなりませんよ。すぐ戻りますから。一緒に帰りましょう!ね!」

 こんな異様な状況で、目に必死さが漲っていたり、呼吸が荒れて言葉が怒涛の如く溢れてきたりすることなく、ユウタ君はいつもと変わらない優しい笑顔と優しい口調を私に向けた。それらが私に不思議と大きな安心感を与えてくれた。私は少し残った不安や緊張を両手に握り込んで胸に抱くと、ユウタ君を見上げて頷いた。ユウタ君はにっこり笑うと、察してか、私の胸前の両手を左手で包んだ。素早くソファを乗り越えると、ユウタ君は両サイドにあるロッカーをソファの前にバリケードの様に持ってきた。それを終えると、素早く振り向きながら、銃を構え小走りで進みだした。私はロッカーとロッカーの隙間から、ユウタ君の姿を追った。ユウタ君は下の階を少し見下ろすと、素早く階段の壁の方へ駆けて行った。壁に背を付けると、そのまま背中を壁に擦らせながら降り始めた。
 改めて、私が今まで知ってきたユウタ君ではない。大学進学を機に、地方から出て来て、生活の為にと始めた仕事場で私と出会った。とても素直で誠実な仕事ぶりで、温和で誰からも好かれる人柄の青年。緊張しながら一生懸命言葉を選んで、私に想いを伝えてくれた恋人。そんな彼が銃を持っている違和感。でもそれは、触り慣れないものを持っている動きのぎこちなさによる違和感ではない。寧ろ扱い慣れている様子で、動きは大変“様”になっている。もとから扱っていたところを見て来たかのように、視覚からの情報はすんなり受け入れられている。ただ、心の部分の違和感が、今になって少しずつ押し寄せて来た。

 なぜ扱えるんだろう?
 なぜここに来れたんだろう?
 なぜ男達と対峙して、驚きや恐怖が無いんだろう?

 そういった違和感が生み出されていく中、急に一発の破裂音が聞こえた。私は驚きで体がビクつくと、すぐに両手で頭を押さえながらソファの陰に潜り込んだ。その破裂音を皮切りに、複数の破裂音が響き合い始める。私は怖くて身を丸めたが、すぐにユウタ君が心配になった。そして、少し身を起こすと、ロッカーの隙間のうち、下の階の様子が見える所を探した。破裂音が消えると少しして、ロフトの陰になってるところからユウタ君が出て来る姿が見えた。ユウタ君は、私の見ている視界では左上の方、階段の位置とは対角線上にあるドラム缶の纏まった方へ駆けていき身を隠した。私の位置からはユウタ君の位置が見えるけど、時間が経ち目が暗闇に慣れてくると、徐々にユウタ君は闇に溶け込んで見えて、認識が難しくなっていく。しかし、間欠的に銃声や閃光が起こることで、定期的にユウタ君の生存を確認することが出来た。倉庫内に反響する銃声は鋭く耳をつんざく。でも、いつの間にかその音が起こることで、私は安堵するようになっていた。
 時折、ユウタ君のいる辺りで足音が聞こえ、ユウタ君らしき影が動いたのが見える時があった。位置を変えて戦っているのだろうが、ユウタ君は常に私の位置から見える所で戦ってくれた。

「ヒャハハハ!」

 気がふれたような笑い声が急に響いてきた。私を襲おうとしたあの男だ。意識とは無関係に、体にグッと力が入った。声が遠いのは理解しているはずなのに、私は咄嗟に周囲を見回した。そんな中、ユウタ君のいる一階で銃声が起こり始めた。今までとは明らかに音の数が違う。閃光の起こる位置、頻度、壁や物に当たって起こる破裂音の位置、すべてがバラバラで今までよりも激しさを増している。銃声に混じって、走る足音も聞こえる事で、ユウタ君もあの男も激しく動き回っているのがわかる。数多く発生した閃光のおかげで、二人の姿を少しの間認識することが出来た。二人はもはや撃ち合いではなく、肉弾戦に移行している。掴み合い、揉み合いになっている二人の姿。不意を突かれ、男の膝蹴りが、ユウタ君の腹部に入る。ダメージからよろけたユウタ君を男は勢いよく持ち上げると、傍にあったドラム缶の山へ投げ飛ばした。投げられたユウタ君がぶつかったドラム缶の轟音が響く。すると、その影響で、傍に積み上げられてあった別のドラム缶の山が崩れ、ユウタ君の上に降り注いでいく。さらなる重い轟音が倉庫内を包んだ。

「ユウタ君!」

 咄嗟に私は叫んでしまった。その声に気付き、男がゆっくりとこちらを見上げる。

「へはは!」

 男は笑うと私の位置を即座に認識し、こちらに視線を固定したまま階段を上がってきた。私は焦ってバリケードから出たものの、唯一の通路である階段には男がいる為、どうしようもできず固まっていた。階段を上り終えた男が、こちらに向かってくる。うっすらではあるが、不敵に笑みを浮かべていることは容易に理解できた。私は恐怖のあまり、勝算は無いものの狭いロフト内を逃げ惑った。しかし案の定、男は幼い小動物でも捕まえるように、あっさりと私の腕を掴んだ。なんとか振りほどこうとするも全く効果は無く、男は私の腕を乱暴に引くと、片手で前から首を鷲掴みにした。死なない程度、しかし一気に喉が絞まる。自然と見開いた両目に急に男の顔が間近で飛び込んできた。顔のいたる所が腫れあがり、所々血も垂れているが、元々の病的な落ちくぼんだ目や瘦せこけた雰囲気は残っており、より凹凸が濃くなっている。
 男は私の首を掴んだまま、さっきまでバリケードにしていたロッカーの方へ歩き出した。私は抗うことが出来ず、男に引っ張られるままにロッカーの前まで連れて行かれ、到着するなり地面に放り捨てられた。表情や仕草は最初と変わらず、飄々とした快楽殺人者のような雰囲気だが、行動の速度や、息遣い、首を掴んでいた手の力加減から苛立ちの気配がありありと伝わっていた。私を地面に放った男は、ロッカーの扉を開けると、中から拳銃を取り出した。

「へ、へはは・・・ひゃはははは!」

 これまでのユウタ君との戦闘で被った傷の痛みや疲労による不快感に対する怒りを、弱者を嬲ることによって得られる優越感で一気に晴らそうという思いからだろうか、男は発狂したように声を上げると、勢いよく私に向かって銃を向けた。引き金に指をかけ、微かにカチッと無気質な音が聞こえた瞬間、離れた場所で起こった破裂音と同時に、私に銃を向けていたはずの男が一瞬で目の前から姿を消した。降り始めの雨の様に、顔に二、三滴の水滴の感触がした後、うっすらと火薬の香りが漂った。脳で感じ取った火薬の香りを再び鼻から吐き出した頃、私はゆっくりと身を起こし始めた。上半身を起こして辺りを見ると、倒れ込む前と変わりない景色の中、目の前から姿を消した男が、私の足元で、私に足を向ける形で仰向けに倒れていた。それを見てようやく大きく息を吐き出した。同時に心臓が再び活発に動き出し、それによって勢いよく流れだした血液や酸素の影響で、目の前の景色は小刻みに揺れ、耳の奥には脈の音が響き、肌は空気の冷たさを鋭敏に捉え始めた。

「ヒロミさん!」

 声のする方を見ると、ユウタ君が階段を駆け上がってきていた。階段を上り終えると、ユウタ君はそのまま私の方へ駆け寄り、膝から滑り込むようにして、座り込んでいる私に抱きついた。

「ヒロミさん、ごめんなさい!怖い思いをさせて。」

 抱きしめる力加減から彼の思いが伝わってきて、私は、今度は彼を落ち着かせるために抱きしめ返し、優しく背中を撫でた。少しすると、ユウタ君はようやく顔を上げ、私の顔を覗き込んだ。不安が顔中に広がっていたけれど、でもそれは今まで見て来たユウタ君の顔だった。ただ、髪が乱れ、所々赤く痣が滲んでいることが、現実か非現実かの判別を不可能にしていた。私の顔を一通り確認すると、ユウタ君は私を優しく立ち上がらせた。私は立ち上がりながら、足元に横たわっている男の方へ視線を向けた。一切何も変わらない体勢で横たわっている男。周囲に漂っているわけではないのに、一瞬血の匂いが鼻腔全体に広がった気がした。

「ヒロミさん。」

 ユウタ君の声で再び我に返り、ユウタ君の方を振り向く。

「大丈夫?ひどい怪我とかしてない?」
 「うん。大丈夫。」

 私は一通り体中を確認すると、彼を安心させようと笑顔で答えた。するとようやくユウタ君の表情にも安堵のこもった優しい笑顔が広がった。再びユウタ君が私を抱きしめた。私ももう一度彼を落ち着かせるように抱きしめ返しながら、彼のぬくもりを全身で感じた。そして、ユウタ君は改めて私の顔を覗き込むと、優しくキスをしてくれた。徐々に徐々に私の中にも安堵が広がっていくのを感じた。しかし、なぜか鼻腔の中の薄い血の匂いは消えなかった。
 彼に優しく肩を抱かれながら、私達は出口に向かって歩き出した。ずっと二階にいたから知らなかったユウタ君の戦闘の跡がいたる所にあった。私をここに連れて来た男達が道々横たわっている。私の口を塞いでいた男、激しく恫喝した男、ついさっきまで普通に動いていた人間達が、その辺のパレットやドラム缶と同じく、一切の音を発さず静寂の空間の一つの構成体になっている。そこでもやはり血の匂いが鼻腔をかすめる。「もう動かない」ということが、やはりどこか現実的に実感できず、横たわる彼らを見ている内に、今にも再び動き出しそうな気がして、私はユウタ君のシャツの裾を握った。するとそれに気づいたユウタ君が私の手を上から包み込むようにして握ってくれた。工場の外に出ると私達は、男達のワンボックスカーに乗り込んだ。ユウタ君はエンジンを掛けると、私とずっと手を繋ぎながら、車を走らせてくれた。
 次の日、改めてユウタ君は私の元を訪れ、すべてを話してくれた。
 本当のユウタ君は大学生ではなかった。元々、某国の諜報活動などの隠密的な仕事をする為に子供の頃から育て上げられていたそうだ。そして徐々にそんな自分の運命に疑問を感じて、ある日組織から姿を消した。子供にそんな汚れ仕事を強制させる必要があるほどの貧しく、危険な国と日本が外交的つながりがほとんどなかったことが、彼が第二の人生をスタートさせる場所を決定する決め手となった。そうして誰も知る人のいない環境で新たな人生を過ごしていた中、今回、過去に任務で標的とした犯罪組織の残党に見つかり、素性を調べられ、恋人として名前の出た私が人質として巻き込まれたのだという。
 まるで漫画や小説のような話だが、それを現実として受け入れられるだけの出来事が実際に私の身には起こった。私を恫喝する彼らの表情、声は本物だった。私を殴りつけたり、首を絞めつける力も本物だった。寸前まで生き生きと動いていた人間が、一瞬にして死体となって転がったのも、本物だった。
 そしてまた、彼の思いも本物だっただろう。昨晩、銃を持った男達に対して、私を救うために一人で乗り込んできてくれた。過酷な状況の中でも、私を安心させるためにずっと優しい笑顔を向けてくれた。私の身を案じて力強くも温かく抱きしめてくれた。そして何よりも、私に真実を全て話し、涙ながらに何度も「怖い思いをさせて本当にごめんなさい。もう二度と迷惑はかけません。」と謝罪した後、彼は私の前から姿を消した。彼と会った二日後に職場復帰してから同僚たちに聞いた話だが、ユウタ君が私の元を最後に訪れた翌日、出勤してこない為に電話を掛けた所、使用されていない旨のアナウンスが流れ、番号を再度確認しようと従業員のデータベースを開いても、彼のデータは消えており、履歴書ファイルからも彼の履歴書だけが無くなっていたという。それを聞いて、私も彼の住所を訪ねてみたが、既に空き物件になっていた。
 あれからも幾人かの男性との出会いはあった。しかし、どれも最初のキスをする頃、関係は冷めていった。
 私は、今日も唯一医者に課された午後の散歩に出掛ける。昼食時を過ぎた町には、近所の学校から聞こえてくるリコーダーの音や公園で遊ぶ親子の楽し気な声、忙しなく飛び回る小鳥達のさえずりや、穏やかな風が揺らした木々の葉音があふれている。それらを浴びながら、私は独りで歩いている。気まぐれに歩いた先で立ち寄った商店街。さらに活気が上乗せされたこの場所で、私はある精肉店を見つめて佇んでいる。中では店主らしき男性が仕入れた肉を商品にする為に加工している。鮮やかな赤いブロック肉が細かく刻まれ、プラスチックトレーに乗せられていく。
 私はその光景を黙って見つめている。
 誰とも寄り添わず、触れ合う事がなくなった今、私はあの“人生最後のキス”を思い出している。そして今もまた鼻腔には血の匂いが滲んでいる。



                                   (終)
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