第1話

文字数 9,709文字

 梅雨明けから2週連続の晴天。外出するのに危険を感じるほどの猛暑が続いていた。暦の上では明日立秋を迎えるがその気配も無く、フロントガラス越しの路面に陽炎(かげろう)が立ち昇る。 
 久しぶりのロングドライブに出た沙月(さつき)は、緊張でシートへ背中を沈められずにいた。いつも自分が座る運転席へ免許取りたての夫・俊介(しゅんすけ)が座っているからだ。沙月が愛車の助手席へ座るのは初めての体験だ。
「シュン、もう少し左側開けないと自転車来たら危ないよ。」
いつものんびりマイペースの俊介が、強張(こわば)った面持ちでサイドミラーを見つめる。
「 本当だ、気を付ける。」
 この数ヶ月間、会社帰りにドライビングスクールの夜間教習に通ってきた俊介は、頭脳明晰なおかげで学科を順調にこなした。技能の方も、週末ドライブへ出かける沙月の助手をしていたからなのか、カンが良い、と教官に褒められたという。
 免許証を取得してから、今日が初めてのドライブだ。初心者マークのマグネットが、沙月の愛車フィアット500の前後左右に燦然と輝いている。
「信号変わるよ、もっとスピード落とさないと。」
「ああ、ゴメン!」
ぎこちないブレーキ操作に、派手なレモンイエローのボディがきしんで停まる。
(教習所の教官って、すごい大変なんだろうね…。)
そんな訳で、容赦なく照りつける酷暑の陽射しを忘れるほど、沙月は背筋を冷たくしていたのだった。

 県境の大河にかかる橋を渡り、空が地平まで広がると、沙月はようやく肩の力を抜くことが出来た。四角い工場の群れを遠く左手に望み、道幅の広い直線道路を進む。
(おばあちゃんに会えるかな。)
 7か月前のある冬の日、沙月はその海岸線を一人で車を走らせていた。海に沿って続く砂丘。住宅と松林に挟まれ、その一角だけサボテンが群生する不思議な場所。沙月はそこで老婆と出会った。寒空の下で交わした温かな会話と不思議な物語を思い出す。
 ブオオオンッ!ぼんやりしていた沙月の耳をつんざくエンジン音が接近した。初心者マークをつけた愛車へ幅寄せしながら追い越し、無理な車線変更でスポーツカーが割り込んだ。沙月は額に青筋を立て、危ないわね!と窓から身を乗り出そうとした。
俊介がダメダメ、と止める。
「ムカつくじゃないの!」
「あんな煽りにのらないの。ぼくたちも同レベルになっちゃうだろ?」
ーいけませんな、ああいう(やから)は関わらぬがよろしい!
(おばあちゃんにもそう言われそうだわ…。)
沙月はしぶしぶ窓を閉めた。
 風力発電の白いプロペラ機が立ち並ぶ海岸線を右折すると、見覚えある『サボテン群生地』という小さな看板が立っていた。俊介は何度か切り返してようやく駐車すると、ふうっと額の汗をぬぐった。相当緊張していた様子だ。
「ああ、無事到着して良かった!運転って大変だ…ぼくもいつか、さっちゃんみたいにぶんぶん走れるようになるのかな…。」
ぶんぶんって暴走族じゃないんだから、と沙月は笑ってシートベルトを外した。
「今のうちに運転上手くなって、子どもの幼稚園の送り迎えはパパがしてやるとか張り切ってたんだから、弱気にならないでよ。」
 つきあって1年半程で入籍したばかりの二人。挙式も2ヶ月先の秋なので、新婚夫婦という実感はあまりない。沙月からプロポーズをしたあの冬の日、俊介は、嬉しさと自分から言いたかったという悔しさを交互に織り混ぜ、何度もうなづいた。
ー免許取れたら一番行きたいのは、ぼくたちのキューピッドへのお礼参りだよ。
ーサボテンおばあちゃんがキューピッドか…おかしいわね。
 肩を並べて砂混じりの路地を歩いて行くと、通りの向こうからやってくる二つの人影が沙月をじっと見ていた。
「あの方たち、もしかして!」
二人組は足早にこちらへ近づいて来ると、嬉しそうに声を張り上げた。
「やっぱりお嬢さんね!冬に、海っぱたの駐車場でお会いした!ほらあのオシャレな車のエンジンかからなくなっちゃって!」
 サボテンが群生している面白い名所がある、と教えてくれた老夫婦だった。
「まさかまた会えるなんてねえ…ここのサボテン、随分と気に入ったのかい?」
「ええ、すごく!」
沙月はそう答え、傍らの俊介を紹介した。
「素敵なだんなさま連れてくるほど気に入ったのね!ちょうどいい時に来たわ、お花満開なんだから。」
 老夫婦は、先ほど通り過ぎてきたサボテン群生地へ沙月たちと一緒に戻り、ほら、きれいでしょ!と得意げに振り返った。
「うわあ…。」
二人は歩みを止めて絶句した。決して広くない砂丘の一角。自由奔放に腕を広げたウチワサボテンが群生し、数えきれない黄色の花が濃緑のサボテンを鮮やかに縁取る。花弁は降りそそぐ強い日差しに透けそうに輝き、強く堂々と天へ向かって開いていた。
「さっちゃん…すごいな!サボテンも花も、実物見るまでこんなでっかいと思わなかったよ!」
 俊介がはしゃいでカメラを構えると、老紳士が目を細めた。
「ほお、珍しいね。フィルムカメラの一眼レフじゃないかい?」
「ええ、だいぶ前に祖父の形見でもらったんですが、実は最近使い始めたばっかりで…。フィルムの入れ方から撮り方までスマホで調べて、なんとか出来るようになりました。」
シャッター音がカシャッと響くと、老夫婦が、やっぱり昔ながらのいい音だねえと微笑む。
 沙月がサボテンの丘へ上がり、松林越しに見える白い高齢者施設を眺めていると、老婦人がそういえば!と言い出した。
「サボテンおばあさん、最近見ないわね?」
「そうだな、いつから見てなかったか?まさか具合悪いとか。」
沙月の胸に不安が広がった。
「でもあたしたちが来る時間もバラバラだし、すれ違ってるだけかもしれないわよ。」
「たしかになあ、あのばあさんに限って…倒れる事はなさそうだ!」
 ひとしきりにぎやかに話をした老夫婦を見送った後も、老婆は現れなかった。サボテンの丘の様々な角度からファインダーを覗いていた俊介が、カメラを収め沙月を促す。
「おばあちゃんの住んでる『はまゆう苑』行ってみようよ。」
「うん…。」
 ここで会えなかった時は施設を訪ねようと思っていた沙月だが、いざそうなると気が重かった。
(あの元気のかたまりのおばあちゃんが、もし倒れてたりしたらどうしよう…。)
 手土産に携えた焼き菓子の包みを持ち、施設の正面玄関へ降り立つと、受付の若い女性が
「ご親族様へ面会のご希望ですか?」
と声をかけてきた。
沙月はさらに気後れして 口ごもる。
(考えてみたら、名前も知らない数時間だけしか会ったことない人、なんて言ったら…。)
すると、背後から俊介がにこやかに言った。
「ぼくらの大切な友人の『サボテンおばあちゃん』に会いに来たんです。」
受付の女性の怪訝な表情に、沙月は慌てて言葉を補う。
「あの、すぐそこにあるサボテンの群生地で親しくなったおばあちゃんが、こちらの施設に入居されているはずなのです。お名前をうかがっていなくて。」
「サボテン…ですか…?少々お待ちください。」
ますます要領を得ない若い女性が事務室へ消えると、ああ!と大きな声がして、白髪混じりの女性スタッフが出てきた。
「サボテンばっちゃんひそかに有名人ですけどね、面会へ来られる方はあなた方が初めてですよ。きっと喜ばれるわ!」
スタッフはロビーへ続く廊下へ案内しながら、
「最近は勝手にサボテンの所へ遊びに行っちゃう元気も無いものだから、4月から入ったあの受付さん、サボテンばっちゃんと言われてもピンと来ないんですよ。」
こちらでお待ちくださいな、と案内された円形のロビーは、ガラス越しの中庭から明るい光が降り注いでいた。カラフルな色のソファーに腰かけていると、車椅子や杖を利用した老人たちが、スタッフに付き添われて行き来していた。沙月の心中は暗く沈んでいく。
(やっぱり具合悪かったんだ…。)
「さっちゃん、庭にヤギがいるよ。あの口の動かし方、かわいいよね。」
俊介がガラス越しにカメラを向けると、二匹のヤギは草を()むのをぴたりと止め、こちらを凝視した。顎を下げて左右対称に静止した獣へ、俊介が恐縮して深くお辞儀した。
「お食事中なのに断りなくカメラ向けて、ごめんなさい。ちょっと写真いいですか?」
ぶんと大きく首をふったヤギたちは、揃って俊介に尻をむけ、再び草を食み始めた。俊介は首をかしげる。
「え…おしりからなら撮っていいという意味?じゃ、失礼して撮りますよ。」
ヤギと俊介のやり取りをぼんやり見ていた沙月は、背後から憶えのある声を聞いた。
「なかなかよろしい!礼儀正しい青年ですな!」
「おばあちゃん!?」
沙月は振り返った。背筋を伸ばして立っている老婆は、具合悪さの一欠けらも見せずしゃきんとしていたので、沙月は安堵のあまり涙をにじませた。老婆は顔をほころばせ、沙月を見上げた。
「寒い日に、サボテンのとっておきの話をお聞かせした女子(おなご)さんですな!もしや、あの青年は!」
「ええ!約束通り夫を連れて来ました、おばあちゃん!あたしサツキで、彼がシュンスケです。」
二人は両手で握手し、再会を喜び合った。俊介が老婆へ深々と頭を下げる。
「初めまして、サボテンおばあちゃん!おばあちゃんのおかげで、さっちゃんがぼくを選んでくれたと聞きました。一生この恩は忘れませんよ!」
「これはこれは…お会いできて、私共夫婦も満悦至極(まんえつしごく)でございますぞ!こちらがわが夫です!」
沙月はその時気づいた。男性スタッフが押してきた移動式ベッドに、点滴と測定機器をつけた老人が横たわっていたのだ。
「ああ、どうもありがとう!いつものように、あの窓際にお願いしますな!」
ベッドのタイヤをロックして明るい窓際へ落ち着くと、老婆は横たわる老人の耳元へ声をかけた。
「聞こえてますな?今日は前に話した方… サツキさんが、会いに来てくれましたぞ!ほれ、寒い冬の日、サボテン誕生の秘話を教えて差し上げた人がいると言ったでしょう?」
目を固く閉じ口をわずかに開いた青白い顔は、老婆の問いかけに反応せず、ゆっくり深い寝息を立てていた。医療機器の機械音だけが響く。
(おばあちゃんの旦那様、意識がないんだ…。それでつきっきりなのね。)
「おいしそうなお菓子をいただきましたからお前さんからも礼を言ってくださいな。イケメンなダーリンまで連れてきましたぞ。まあ、若かりし頃のお前さんには勝てないかもしれませんが!」
微かな反応も無い夫へ独り話し続ける老婆。その小さな背中になんと声をかけたらいいのかわからず、沙月の胸に言葉がつかえた。けれど、俊介は笑顔で応じた。
「勝てないかどうかは、ちゃんと近くで見て公平に審査してもらわないとね、さっちゃん。」
「あ、うん…。」
「おおそうか!これはわたくしとしたことが、ついついひいき目にみてしまいましたな!」
俊介は、横たわる老人へそっと会釈し、老婆の隣に座った。
「なるほど、わが夫より目が大きくてパッチリしてらっしゃるな…しかし!鼻はわが夫の方が高いですぞ。」
「たしかに…シュンって…よく見たら鼻低かったのね。」
「ひどいよ、低いって言ったってさっちゃんより全然高いだろ。」
老婆がすくっと立ち上がり、相撲の行司のように腕を振り上げた。
「うーむ、イケメン対決は…引き分け!!」
「そうか…鼻がもう少し高かったらぼくの勝ちでしたよね?」
「まあ、そうなってみないとわかりませんが、整形は反則ですぞ!」
神妙に鼻をつまむ俊介を見て、沙月もぷっと吹き出した。いつの間に胸のつかえは溶けて消えていた。
 その時、ガラス窓越しの中庭でちょっとした騒ぎが起きた。入居者の老人達が運んできたヤギの牧草の籠が転がり、その勢いで数人が尻もちをついたのだ。
「ぼく手伝ってくるよ!」
俊介が身軽に飛んでいった。スタッフと一緒に老人たちを助け起こし、散らばった牧草を拾い集め始める。
「なるほど、サツキさんがおっしゃった通り『心優しい夫』ですな!よろしい!」
「おほめにあずかり光栄です!」
胸のつかえがとれたので、沙月の口から伝えたかった言葉があふれ出した。
「サボテンのお花が咲く夏に間に合うよう入籍して、おばあちゃんに会いに来たの…看病大変でしょうから、まだお花見ていないでしょう?今、すごくきれいなんですよ。」
沙月がスマートフォンで撮った写真を見せた。
「おお、咲いてますなあ!今年の花は、わが夫が目を開けるのを待って一緒に見に行く約束をしたので、まだ見ていませんでした。」
老婆はいつになく静かに言葉を続けた。
「看病なんて大変でもないのです。わたくしはただ、こっちに戻ってきてください、と呼びかけるしか出来ませんからな。毎日、それだけです。」
 急性の脳疾患で一時期危篤状態に陥ったのは春だ。命をとりとめ現在は安定しているものの、意識は依然として戻らず眠り続けている状態だと言う。横たわった病人の銀髪が日差しに輝き、 端整な顔立ちに刻まれたシワが 暗く翳っていく。
「しかし…。」
老婆が急に周囲をキョロキョロ見渡し、声をひそめた。
「この子がおりますからな、わたくしたち、まだまだ頑張らなくてはいけないのですぞ。」
老婆が小さなリュックを開くと、丸い顔を黒白半々に分けた獣がにゅっと顔を出した。
「どうして猫が!」
老婆はしーっと指を口に当てた。猫は沙月を見上げると、ニャと短く鳴き、ごつごつした背をリュックの底で丸めた。老婆はそっとファスナーを閉じる。
「部屋で一緒に暮らしているのですが、ロビーや食堂は禁止ですからな、内緒ですぞ。」
「おばあちゃんたちの猫?ここ、動物OKの施設だったのね!」
「ええそうです。わが息子の大吉(だいきち)ですぞ!と、言っても、もう19歳になりますから、わたくしたちより大先輩ですがな。」
俊介が、額の汗を拭いながら中庭から戻ってきた。
「さっちゃん、ぼくサボテンとヤギの写真撮りすぎちゃって、フィルムなくなっちゃったんだ。うっかり予備を忘れたから買ってくるよ。」
「運転一人で大丈夫?」
「平気だよ、この辺りは道が広いから!おばあちゃん、ぼくにこのカメラで記念写真撮らせてくださいね!イケメンな旦那様とご一緒に。」
「それは楽しみですな!久しぶりです、家族写真なんて。」
俊介を見送ると、老婆は再びリュックを少し開いて大吉の背をなでた。
「俊介さんが持っていたカメラで、面白いことを思い出しましたよ…。我が夫とカメラと、大吉の話を聞いてくれますかな?」
「もちろんです!あたし、おばあちゃんのお話大好きですから。」
老婆は嬉しさを隠せない笑顔を見せ、ソファへ身を沈めた。
「誰にも話したことのない、内緒話ですぞ…。」

 夫婦が海沿いの隣町へ住み着いたのは、老境に差し掛かった頃だった。夫が長年勤めていた都市の動物病院を引退し、故郷に近いその町で第二の人生を始めたのだ。そして二人は、いつかさらに老いたなら『はまゆう苑』へお世話になろうと決めていた。
 二人には子どもがいなかった。若かりし頃ようやく授かった命を、出産直前に亡くしてしまった悲しい過去以来、再び子を成すことはなかったのだ。けれど、動物好きな夫が迎えていた家族のおかげで、家の中はいつも賑やかな声があふれていた。
 そんな時、忙しい現役時代はあまりいじれなかった古めかしいカメラを、夫が引っ張り出した。そのカメラは、ごく普通の販売店で手に入れた新品だったし、なんの不思議もないはずだったが、ある日夫婦は気づいたのだ。被写体にナニカが写りこんでいることを…。

「さあここでクイズですぞ。そのカメラで撮った写真には、何が映っていたのでしょう!!」
沙月はええっと言葉を飲み込んだ。
(おばあちゃんこんなに陽気に言うんだから、まさか心霊写真じゃないわよね…。)
なんだろう…と考え込んでいると、老婆は愉快そうに、
「ブーッ!時間切れです!」
と宣言し、話を続けた。
 
 被写体の瞳をルーペで拡大すると…ある犬には砂浜や野球ボール、ある猫には公園の砂場や段ボール箱といった具合に、近くにはない物体が写りこんでいたのだった。それが、かれらの大好きな場所や物だと発見した夫婦は、不思議なカメラでお互いの顔も写してみようと思いついた。

「へえ、面白い!おばあちゃんの瞳はなにが写ったんだろ。食いしんぼうって言ってたから ごちそうがたくさんとか?」
沙月がニヤニヤしながら言うと、老婆はガハハハッと笑った。
「それが、人間は何の変化もありませんでした。わが夫が言うには、人間は雑念や欲が多すぎて写らないのではないかと。」
「なんだかすごい話ですね…。」
「いやいや、この先の話がもっとすごいんですぞ!」

 ある夏の早朝。サボテンの花を観に歩いてきた海岸線で、夫婦は路上に横たわる小さな生き物を見つけた。白黒の背を丸め、後ろ足に赤い血が滲む野良猫だ。車に跳ねられたらしい。目を閉じてぐったりしている子猫を、夫婦は大急ぎで家に連れ帰った。
 幸い後ろ足の外傷と脳震盪だけで済み、猫はすぐに元気を取り戻した。包帯をまいた足を引きずり、まるでずっと前からそこが我が家だったように、ちょこまか歩き出す。
―元獣医の散歩コースで倒れてるなんて、よっぽどいい運がついてるな、この子は。
包帯を取りながら夫はそう言い、丸顔の小さな雄猫に『大吉』と名をつけた。
 怪我が治った大吉は、大ちゃん、と呼ぶと家のどこにいてもやってきて、他の犬猫や鳥ともすぐに仲良くなった。遊ぶのも食べるのもなんでも好きで愛想がよい大吉。
 夫は例のカメラを向け、他の動物たちのように何が一番好きなのか見てみた。ところが、彼の瞳にはそれらしきものが写らない。カメラ三脚のそばに立っている夫婦が写っているだけなのだ。夫婦は何枚も何度も試してみたが、結果は同じだった。

「さてさて、何故だと思います?サツキさん!」
「…大吉ちゃんだけどうしてだろう…あ、もしかして大吉ちゃん、好きな物が多すぎたとか?」
「ブーッ!」
「カメラの魔法が消えてしまった?」
「 ハズレ!」
大きなガラス窓から降り注ぐ夏の日差しを眺めながら、沙月はしばらく考えた。木漏れ日が時折窓ガラスに眩しい日差しを点滅させる。横たわる老人へ何気なく目を当てた沙月は、その表情が笑顔に見えた気がした。
(気のせいか…。光の加減だよね。)
「降参ですかな?じゃあ、答えをお教えしましょうか。」
沙月がうなづくと、老婆の口調が静かに変わった。
「生まれ変わりだったのですよ、生まれて来られず会えなかった腹の子の。」
「…おばあちゃんたちの…赤ちゃん?」
黙って微笑む老婆に、沙月ははっとした。大吉の瞳には、ちゃんと好きな存在が映っていたのだ。
「おばあちゃんとだんなさまのことが一番大好きだから…。」
「そういうことでした。これまた不思議なのですが、わたくし、生まれてくるお腹の子につけようと思って考えていた名前は、男子なら『大きな樹』と書いてだいきだったのですよ。」
「大ちゃん…おばあちゃんたちに会いたくて、違う身体でやってきたのね。」
「その通り!これにて、大吉とカメラの不思議な物語はおしまい!」
沙月は、こぼれ落ちそうな涙を(まばた)きで散らし、笑顔で拍手をした。ロビーも中庭も談笑する人々が賑やかで、沙月の拍手はかき消された。太陽が、庭の真ん中に立つスズカケの樹の向こうからまだらな光線を送ってくる。横たわった夫に寄り添う老婆は、一枚の絵画のように静かだった。
 その静けさを壊さぬよう、俊介がそっとソファへ腰かけた。
「おかえり、シュン。」
「ぼくも聞きたかったな、カメラの不思議な物語。あとでさっちゃんに話してもらっていいですか?」
「もちろんです、是非聞いてくださいな!さて、いよいよ記念写真ですか!」
よーし!と三脚を広げる俊介に、沙月は少しだけ不安を感じた。
(写真屋さんでプリントするまで失敗したかどうか分らないのよね?怖いなあ。)
沙月の心配をよそに、俊介はのんきに老婆へ声を張り上げる。
「にっこりでお願いしまーす!もっとお顔を旦那様に近づけてーハイチーズ!」
嬉しそうな笑顔の老婆と目を閉じた夫、そしてリュックに収まる大吉に向かってシャッターが何度か切られた後、老婆が手招きした。
「お若い二人も一緒に写れませんか?ほら、セルフタイマーとかいうやつで!」
「もちろんです!さっちゃん、入ってみて。」
俊介がシャッター横のつまみを慎重に動かし、あと10秒ですよ!と小走りでやってきた。俊介がファインダーに収まるのを待っていたように、カシャカシャカシャ…連続でシャッター音が響いた。
「間違ったみたいだ、連写になっちゃったな…。」
と顔を赤くする俊介に、ガハハハと老婆が笑った。
「まあ、いいではありませんか!たくさん撮れたらどれかいいのがあるでしょうよ!」
沙月は増々心配になった。
(シュンて意外におっちょこちょいね…おばあちゃん達ちゃんと写ってればいいけれど。)
何気なく老婆の横のベッドを見た沙月は、あれ!と驚きの声を上げた。
「さっちゃんどうしたの?」
「たった今、旦那様の目がしっかり開いてるように見えたの…。」
「なんと!」
老婆は夫の顔を覗き込み、頬にそっと触れた。しかし、青白いまぶたはとても開きそうになく固く閉じられている。沙月は老婆へ期待させてしまった自分の発言を後悔した。
「ごめんね、おばあちゃん。でもあたし、ほんとに確かに見えたと思って。」
老婆は沙月を振り返り、笑顔で大きくうなづいた。
「いえいえ、わが夫があなた方に感謝の意を表したに違いありません!きっとそのうちしっかり目を開くことでしょうぞ!」
 その時、ロビーに昼食を知らせるチャイムの音が凛々と鳴り渡った。
「ずいぶん長居しちゃったみたいだわ、あたしたち。」
「なんのなんの!けど、病人の点滴もそろそろ交換ですし、大吉も部屋へ戻さないといけませんな。お名残り惜しいですことですが。」
「おばあちゃん、お手紙送ってもいいですか?」
「もちろんです!わたくしまだまだ、目も耳も達者ですからな。」
老婆は沙月と握手をした。そして俊介にも手を差し出す。
「お写真、楽しみにしておりますぞ!」
立ち上がった老婆の背中から、にゃ…と小さな声が聞こえた。沙月は大吉にも声をかけた。
「大ちゃん、また遊びにくるね。おばあちゃんたちをよろしくね。」
老婆は背筋をまっすぐ伸ばして振り返った。
「わたくしは、わが夫と大吉がいる限り倒れられませんからな!心配ご無用ですぞ!」
スタッフが押す移動式ベッドへ付き添い、老婆はさっそうと別棟の病院への渡り廊下を去って行った。沙月と俊介は、一行が姿を消すまで見送っていた。

 初心者運転マークをつけたフィアットは、再び熱せられたアスファルト道を走りだす。午前中快晴だった空には、あちこち分厚い綿雲が走っていた。
「ぼくたちも昼飯食べよ。この先にいい景色の砂浜があるんでしょ?」
「うん…。」
沙月は老婆との会話を思い返し、小さな不安を拾い上げた。それは、行く手にそびえる入道雲のように急激に膨らんでくる。
(旦那さんたちがいる限りって、いなくなったら倒れちゃうんじゃないでしょうね?おばあちゃん…。)
 道沿いに立つサボテン群生地の看板が目に入った時、沙月は思い出した。
「あたし、また、おばあちゃんのお名前聞くの忘れちゃったわ!お手紙書くねって言ったのに。」
俊介はハンドルを軽くたたいて笑った。
「いいんじゃない、サボテンおばあちゃん様へで。」
 沙月の心にさきほど膨らんだ心配の雲は、俊介のその言葉でしぼんだ。代わりに、緑鮮やかなサボテンと黄色い花たちが咲き始めた。しゃきんと背筋を伸ばして立つ老婆が『心配ご無用!』と叫んでいる姿も浮かんでくる。
「そうだね、サボテンおばあちゃんだもん…大丈夫よね。」
沙月は、空高くそびえ立つ風力発電の白いプロペラ機へ車窓からスマートフォンを向けた。
「シュンの撮った写真楽しみだな。おばあちゃんのカメラの話みたいに、何か不思議な物が写っていたりして…。」
「あ!その話、ぼくにも聞かせてよ。」
「海についたらね。」
水平線に立ち上がった入道雲の列は、遠く雷鳴を轟かせ始めた。けれど、レモンイエローの車体が走り抜ける海岸線の上は、どこまでも明るい青空が続いていた。

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