鬱病漂流記~生かされて生きる~

文字数 10,487文字

 八年前の五月、私は教壇に立ち、中島敦の『山月記』を朗読していた。身体中の毛穴という毛穴から脂汗が滲み出し、顔面蒼白、声の震えを隠すため、ことさら大声で朗読していた。たぶん前列真ん中の女子高生は私の異変に気づいていたと思う。感受性が強く、いつも辛らつな目を向けてくるその子が、今日は、教科書と私の顔を交互に見ていた。その目はいつもの人を小ばかにした目ではなく、明らかに私を危ぶみ、案ずる目であった。この子にもこんなやさしさがあったのかと驚いたが、それほどに私は異状だった。
 往年の俊才李徴が詩人になり損ねて、一地方官吏の職に就いてはみたものの、自尊心の高い李徴はその屈辱に耐えられなかった。一年後出張先の汝水のほとりで発狂し、忽然と姿を消した。やがて虎に身をやつした李徴がかつての親友と再会し、自分の人生の誤ちを諄々と語るという中島敦の傑作である。
 大学生の頃に読んだ時は、「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」に、同人誌で詩作のまねごとをしていた私は共感し、余裕をもって感涙していた。自分にはまだまだ時間はあるし、真面目にやっていれば人生は明るい方へ開けるものと楽観的に信じていたからだ。
 中島敦の文章は格調高雅、意趣卓逸。朗々と読み上げるとまさに龍が天に昇るがごとき思いである。私はずいぶんと前、通勤の車で、俳優の江守徹が朗読するテープを一年間聴き続け、全文をほぼ暗記していた。これまでの教員生活でも何度も取り上げた教材のはずなのに、なぜかこの時は『山月記』が怖くてたまらず、その漢文調の難しい語彙もさることながら、発狂して虎になる李徴の運命がまるで私の未来を暗示しているかのようで、どうやって生徒たちに教えてよいか、わからない。授業の予習をいつもよりも入念にしたにも関らず、誰もいない、朝早いロッカー室で、手で顔を覆い、震えながら泣いていた。その頃は歌集も出していて、歌人の末席に名を連ねていたことが、自分の驕りとなって自分に跳ね返ってきたのだと、短歌を学んだことさえ後悔した。生半可な気持ちで文学者気取りをしていた罰があたったのだ。私こそが李徴だったのだ。
 その日は、なんとか六時間目まで持ちこたえたが、私はとうとう観念した。自分が今にも発狂し、教壇から叫び声をあげそうになるのを必死に隠して、平然を装うのも限界だった。動物園の熊のように、校長室の前を放課後遅く一時間ほど往ったり来たりした。同僚の教師が通りかかると、すぐに隠れた。
 あたりが暗くなって、もうだめだと校長室の扉を思い切って叩いた。自分は鬱病なので休業させていただきたいと、荒れ狂う嵐の海にもがく孤舟のような心とは反対に、淡々とした口調で校長に話した。落ち着いた風格のある校長は、私の「鬱病」という言葉に一瞬首を傾げ、「あなたは今日も普通に授業していたじゃないですか」と励ますよう言った。が、私の今にも泣き出しそうな顔をじっと見て、すぐに教育委員会に電話をしてくれた。
 校長室でうなだれて、その電話を聞いている私は、罪を白状した犯罪者のようでもあり、神父の前で告解を終えた信者のようでもあった。真っ白な頭の中で、ただ「生きねば」という言葉が木霊していた。
 その当時の教育現場の混乱を振り返るたび、申し訳なさと、はずかしさと、情けなさに身を引き裂かれる思いがする。虎となった李徴が空谷に吼えるように、私も声をあげて泣きたくなる。
 その日から八年、肩書きも職業もなくし、所属する集団もない社会的漂流者となった。大変な迷惑をかけた当時の管理職や同僚に合わせる顔がない。生徒たちからすれば、国語教師が忽然と消えたわけで、その驚きと不安はいかばかりであったか、謝っても謝っても私の罪は消えない。
 教壇を去った日から四年の間、私は脱北者のように、帽子と眼鏡で顔を隠して外出した。もはやこの社会の何処にも自分の居場所を見つけられなかった。家では一日中私の後を追い、「ちぃちぃ」と呼ぶ母の声は弱弱しいコヨーテのようでもあり、死ぬまで一緒という恐ろしい呪文のようでもあった。
 鬱の海に浮かぶ孤島に母と二人暮らして、二年目から一週間に三回、一時間ずつ、ヘルパーさんが来てくれるようになった。九州出身の明るく、情の深い女性で、御主人を二十年近くも介護しながら働いている苦労人であった。今も通ってきてくれているが、このヘルパーさんの存在なしには、私たち鬱母娘は生きてこれなかったにちがいない。介護殺人のニュースは他人事ではなかった。母が不安のあまり私にしがみつくのを、ヘルパーさんが来る時間をあと十分、あと五分と時計にすがりながら私は待った。雪に閉ざされる季節、母の不安はピークに達し、愚痴とも哀願ともつかないことを繰り返しながら、一日中私を追い回し、私が外に出ないように監視していた。私はストレスから二十キロも太って、虎ではなく、熊に成り果てた。感覚も鈍重となり、教職を退いてから、十四年続けた短歌も、読書さえもできなくなった。世の中の一切の色がなくなり、モノクロームの世界に沈んだ。空が怖いくらい低く、世界がとても狭い感じで、常に閉鎖感があった。自分の鼻が視界に入るのが気になったり、手を洗っても自分の手ではない離人感に悩まされた。
 これらの症状は精神科の主治医の説明によると、脳が自己防衛のため、刺激をなるべく減らしているためらしい。脳が私を私たらしめている。私は脳であり、脳が私なのか。そんな愚問をぶつぶつ口にしながら、夕方低く垂れ込める空の下、母の家の駐車場をお百度参りのように何十回も声も出さずに泣きながら歩いた。夕方になると、隣の家から鰈の煮付けやかき揚げや味噌汁の匂いがして、夕焼け雲を見上げながら、ひとり泣いていた。
 四年経って料理ができるようになった私は、スーパーに買い物に行き、はっとした。咄嗟に隠れようとした、今までの四年間そうしてきたように。なのにその日は違った。あまりにもずっとさびしかったからか、その高校時代の同級生に、「私のこと誰かわかる?」と声をかけてしまった。
 その時の同級生の言葉は今でも忘れられない。「ちーちゃんでしょ。ちっとも変わってないよ」何もかも無くして、世間から隠れように暮らしてきた、この私が変わってないわけがない。嘘でも涙が出るほどうれしかった。彼女は若い時に母親を突然の病で亡くし、高齢の父親を介護しながら働き、しっかり見送っていた。介護中に感情に任せてなげつけた言葉を父親の七回忌まで悔やんでいるようなやさしい人だった。私にこんな後悔はしてほしくないと言い、親が死んでしまったら、投げつけた言葉が自分に返ってきて苦しむ「無間地獄」を繰り返す、と諭してくれた。
 運命は時にその人に必要な出会いを用意するのだろうか。このスーパーでかけた一言が私の閉ざされた重い扉をゆっくり開けることとなった。彼女は私の高校時代の親友を連れてきてくれた。その親友も私たち歳相応の苦労を重ねていた。高校時代から陰日なたなく働く人だった。彼女はそのように歳を重ねていた。二人とは一ヶ月か二ヶ月に一回会って話すのだが、楽しく、つらいこともその問は忘れられた。しかし、一方で、高校時代には感じなかった劣等感に苛まれるようになった。人生の落伍者の烙印を髪で額に隠して、笑顔でごまかし続けるのはつらかった。彼女たちがやさしければ、やさしいほど惨めで、劣等感が強くなっていった。私は熊に成り果てた今でも、昔の自分が持っていたプライドに拘泥している自分を持て余していた。
 このままでは救われないと思い、市が主催する心理カウンセラーのセミナーに参加した。身なりのよい、知性的な女性の隣に座った。私のひねくれ根性は、なんでこんな幸せそうな人が、ここに来るんだろうかと訝しがった。私の不幸は外見に如実に表れていたから、私にとって、不幸そうに見えない人は幸せなんだろうと、一元的なものの見方しかできなくなっていた。
 セミナーの後、その人と立ち話をしたら、水彩画を習っていると聞き、今度一緒に美術館へ行こうと約束をした。その人も癌を経ており、家庭の苦労もあって十年ダブルワークに耐えてきた人だった。十歳年上で、今も姉のように慕っている。よく本を読んでいる人で、音楽にも造詣が深い。お料理も得意で美味しい手作り弁当を何度も御馳走になった。
 この姉のような人に偶然出会えなければ、高校時代の同級生に再会していなければ、私はどうなっていたか、考えるだけでも恐ろしい。孤独は成長の場ともなるが、孤立は病である。
 こんな有り難い友情に支えられながら、私はどうしても変われなかった。私の深いところで、火山に吹き上がるマグマのように、憎しみの炎が寝ても覚めても私の「にんげん」を焼き尽くす。氷河に突然口を開けたクレバスのように、私は自分の深い闇を覗き込んではめまいした。
結婚後三年目から別居するまでの二十五年にわたって繰り返された、夫から受けた心と身体の傷がうめき声をあげるからだと私は知っていた。私の鬱病の本当の原因である。
 私は子供たちのためにも、なんとか家庭を守ろうとした。夫を信じては裏切られ、次第に私は自分が悪いからこんな目に遭うのだと思い込むことによって、この惨状に過剰に適応していった。私は世間的な幸せを守ろうと必死だっだ。それは子供たちのためでもあったが、ひとりでは生きていけない、子供たちを育てられないという恐れからだった。正直、どんなひどい夫でも、ひとりになるのが怖かった。結果、もっとひどい孤独感を抱え込み、子供たちを傷つけてしまった。
 しかし、私のように結婚に失敗しても不幸だが、母のように仲のよい夫婦も不幸になってしまうのは皮肉である。母は父が亡くなって半年後、自殺未遂を起こした。父の浴衣の帯が母の首から外れて助かった。父が助けたのだと思う。その日から私が母にとっての父になってしまった。母娘共依存の始まりであった。
 こんな不幸の総合商社のような私が、再び生き生きとした人生を取り戻せるとはどうしても思えなかった。こんな人生は、死ぬことでしか決着をつけられないと、私は私に失望していた。そのくせ、死ぬ勇気もない。私は生きることも死ぬこともできず、次第に腐っていった、散ることもできず、木に汚く枯れていく椿のように。
 そして一年前の五月、たまたま見たNHKの「こころの時代」という番組で、いかにも修行を積んだ達人らしい禅僧が話すのを聞いた。静かだが力強く、教え諭すわけでもなく、説得力があり、淡々と熱く語っていた。
 矛盾したものをそのまま内包している、器の大きさ。透明な感じなのに、その確かな存在感の不思議さ。ほとんど口を開けずに話すのだが、その声は深く響き、身に沁みる。身につけた法衣も高僧にしては質素だ。テレビに出ているのに「ありのまま」の自然体。どんな修行をしたらこんな境地になれるのかと好奇心が湧いた。
 たぶん、私は禅からはもっとも遠い人種であると自覚する。仏教のほんわかとした寛容さとか、あいまいさを好まなかったし、私にとって禅はなんとなく古く臭く、堅苦しい感じしかなかった。もっとも私は何も信じてなったのだが。そのくせ死ぬ時にジタバタと死んで逝くことが怖かった。
 その番組は六回シリーズで、すべて録画して何回も何回も観た。その頃の私は、学校から逃げ、夫から逃げ、今度は母から逃げ出したかった。母の不安や空虚を埋めるためにだけ生きているような私の日々。母との生活には笑顔も笑い声もない。母は無表情のまま、何でも依存して、私から離れない。呆けているのではなく、母は常に不安の中にいて、正解のない正解を私に求めてくるのだ。
 母は私が大学生の時に鬱病になった。戦後の高度経済成長に伴い、父と二人でトラックに乗って起業し、朝から夜中二時まで、土日もなく働いていた。力仕事に家事、その上つぎつぎと降りかかる家族の病気や怪我。母が一番丈夫で、私たち家族は母に頼りきって暮らしていた。母が倒れたのも当然だった。その後、四十年間母は一年のうち数ヶ月だけは普通に暮らし、後の数ヶ月は家族を巻き込んで、鬱の海に沈んで暮らした。浮上する数ヶ月は歳を追うごとに短くなった。
だが、私が教師という仕事を続けられたのは、私の二人の子供たちを愛情深く育ててくれた母のおかげである。だから、私はどんなことがあっても母を捨てられない。
 私の人生はいつも矛盾に満ちている。母を愛することも、捨てることもできない。一生懸命生きているつもりなのに、いつも心が満たされないのは、境涯のせいなのか、それとも私自身の資質のせいなのか。
 そして、一年前の五月、私の心は壊れた。感情のダムが崩壊し、一日中死にたいと泣き叫んでいた。それでも母は変わらなかった。とうとう泣きながら電話をかけた。それは行ったこともない山梨県向嶽寺の宮本大峰老師にであった。宮本老師は、私が勤務していた高校のずっと昔の卒業生だった。宮本老師が創校記念講演会のため来校し、「もう一人の自分」という講演を聞いただけの縁である。この講演を聴いた当時も夫の相次ぐ裏切りに苦しんでいた私に、この宮本老師の講演は大いなる感銘を私に与えてくれた。その録音テープを担当教師から借りて、ダビングして通勤の車の中で一年間聞き続け、二十年経った今でもその内容と声と人となりを鮮明に思い起こすことができた。人の記憶とは不思議なものである。毎日会っている人よりも、たった一回、それも講演を聴いただけで、二十年経っても強烈な印象を残す人がいる。たしかに、宮本老師は私をどこかで支えてくれていた。そして、宮本老師は母の小学校と中学校の同級生でもあった。結局、私は母に悩んで、母の縁に導かれて、宮本大峰老師に電話をする決心をした。
 宮本老師の虚栄心のない、素朴で明朗快活な人柄は二十年前のまま、受話器から伝わってきた。母のこともよく覚えていて「クラス一番の美人さんだったよ。できた人という印象がある」と言われ、今私が見ている母の違う面を思い出させてくれた。その後何回か泣きながら電話をかけた。心配した老師が電話をかけてくれることも何回もあった。
 「私なりに誠実に懸命に生きてきたのに、どうして私の人生はこんなに汚れてしまったのでしょうか。人生は修行だと言うけれど、老師の修行は松の上に積もった雪のように清らかですが、私の修行は泥にまみれた汚い雪のようです」と私は泣きながら老師に訴えた。
 「あなたが苦しむのは、あなたが純粋だからですよ。純粋でなければ、何も考えず、欲望のままに生きていけるんですから」と答えた。私はこの言葉で報われた気がした。
 「あなたの苦しみを代わってやれないが、話を聞くことだけはできるからいつでも電話してください」と老師は言ってくれた。母と同じ八十四歳の老師が、こんなに人のことを思いやって生きている、その人間力に私は驚嘆し、心からありがたいと思った。老師は坐禅を私に勧め、東京にある老師の道場に来なさいと言ってくれたが、コロナのため行けなかった。私がテレビで観た、岐阜県美濃加茂市の正眼寺の山川宗玄老師の名をあげると、正眼寺で雲水として一緒に修行していたと言い、自分の名を告げれば会ってくれるだろうから、正眼寺へ行くように言われた。
 そして五月にテレビで観るようになって半年後の十月、山川老師が住職を兼務している福井県勝山市の清大寺で彼と初めて会った。因みに山川老師は和歌山県の興国寺の住職や正眼短大の学長も兼務し多忙を極めていた。
 しかし、目の前の山川老師は岐阜から着いたばかりなのに、まさに静寂の人であった。テレビで観るのと、全く同じなのだ。たぶん、相手が誰であっても変わらないのだろう。自分を少しでも知的に見せようとあらかじめ考えてきた言葉を私がつらつらとしゃべっても、正三角形に座ったまま微動だにしない。元来、饒舌な私の言葉が岩に沁み入るように、手ごたえがない。玉眼のように澄んだ目は、しっかり向けられて、すべて見透かされているようである。こんな人に今まで会ったことがない。私は自分の虚勢を悔やみながら、雲水さんが運んでくれた抹茶をずずっと音を立てて飲んだ。この人にはかなわないと当たり前のことを当たり前に思った。
 それから清大寺で開かれる禅語の会に参加した。どれほど多くの参加者がいるのかと思ったら十六人ほどで驚いた。NHKの「こころの時代」で異例の六回シリーズでとり上げられた山川老師のお話なのに、もったいないと思った。しかし、おかげで一番前の席に座り聴くことができた。
 山川老師は法話の名人である。むずかしいことをむずかしく話すのは簡単だが、むずかしいことを簡単に話すのは非常にむずかしい。修行をした禅僧でさえ、なかなか理解できない禅語を、私たち俗世の者に理解させるのは至難のわざである。老師はときに「わからんでしょうな」とか「言葉では言い表せないことを言葉で伝えなきゃいかんからな」とひどく困りながらも、それでもいつも誠実に丁寧に話してくれた。
 毎回、私は老師の著作を読み込んで、小賢しく質問し続けた。実生活での惨めな自分を置き去りにしたまま、知識をひけらかすかのように質問し続けた。悪い私の癖だ。それでも老師は嫌な顔ひとつせず、真っすぐに答えてくれた。にもかかわらず、寺を出た途端、暗い思いにとらわれた。山川老師をもってしても私は変われないのかと半ば絶望しかけた。
 ところが先日の五月二十二日、朝から鬱がひどく出発の一時間前に起き出し、母の食事の支度をして、相変わらずバタバタと、禅語の会に飛び込んだ。月に一回、これで六回目、どうせ私は変われないとあきらめながら聴いていた。
 しかし、老師が「なぜ禅語を勉強するのか。なぜ坐禅をすすめるのか」と話し出し、「坐」とは、どのような状況でもいながらに静まっていること。坐禅の境地とは静まった気持ちであり、このコロナ禍においてはなおさら必要だ」と話した途端、すっと腑に落ちた。なるほど、私が求めていたものがここにあると初めて確信した。もっと若い時から禅を勉強しておけばよかったと、いつもの後悔癖で言うと、老師は「機が熟さなければわからない。今ここですよ」と答えてくれた。その日の法話はなぜかわかった気がした。
 「犬にも仏心はありますか」
 「すべてのものに仏心はあります。人間が一番仏心が現れにくくなっています。常識が邪魔するからでしょうな」
 なるほど、私の不幸の大半も常識で考える幸福の欠落にちがいない。
 「禅の世界では善し悪しを言わないとありますが、横須賀市役所へリュックサックに小学生の時から貯めた六千万円を、コロナ禍で役に立ててくださいと匿名で置いていく人と、コロナ禍の助成金を詐欺する人とではやはり、善し悪しはあるのではないですか」
 「一般社会ではあるでしょうな。ですが、仏の世界では平等です。悪人が悔い改めたら、悪人でなくなりますし、悪いことも成長の種となることもありますからね。人の世では善と悪は決まっているでしょうが、仏の世では今ここで善と悪を決めないということです」
 老師の言葉に父の最期の言葉が甦ってきた。「人間万事塞翁が馬」。貧しさゆえ、働きながら夜間高校を卒業した読書家の父が、私に遺してくれた言葉である。漢文の授業で生徒たちにも教えてきたが、頭でわかっていても、心でわかっていなかった。老師の言葉が父の言葉に重なった。
 そうか、そうか。苦しまないとわからなかったのだ。本で読んでもわからない。やってみなけりゃわからない。無駄ではなかったんだ、あの苦しみも、この苦しみも、私には必要だったのだ。
 こんな世界があったのかと、私の中で外界と内界を閉ざしていた重い扉が開いて、風通しがよくなった気がした。
 その途端、私は禅の会に以前から通われていた人たちに詫びずにいられなくなった。禅語の会は百二十四回を数えていた。私はたかだか六回目なのに、今までなんと思い上がって、知ったかぶりで質問を繰り返していたことだろう。
 「私は鬱病で、どうしても救われたくて無我夢中で通ってきて、老師しか見えていませんでした。皆さんのおかげで、こうしてよいお話を聞くことができました」と自然に頭が下がった。そしたら、なんと、拍手が起こった。教壇から逃げ去った日から、拍手を受ける日があろうなど思いもしなかった。六回目にして初めて参加している人たちの顔を見た。寺子屋のような温かな雰囲気と、松下村塾のような熱心さがある。参加者は高齢の女性が大半だが、豊かな歳を重ねてきたことがわかる。品があって、やさしい。競おうという気負いがなく、みんな自然体。やはり、禅を学ぼうという人はちがう。禅の教えという素晴らしい知恵をなぜ現代の日本人は大切にしないのかと、日本人の西洋かぶれにはあきれ果てる。と、わずか半年前から学んだばかりの私が憤る。もっとも日本人は生活に忙しく、人生について学ぶ暇がないのだろう。かつての私がそうだったように。
 「一寸坐れば一寸の仏」と山川老師はよく言う。多くの人が一日にほんの少しでも坐禅をしたならば、きっと世の中は変わるだろう。少なくとも、私はきっと変わると思い、毎日坐禅をしている。
 こうして、虚無と徒労の八年の漂流の果てに、私がやっとたどり着いたのは、これもまた、亡き父の口癖「無」を教える世界であった。親子とは不思議なもので、亡くなってから本当の語り合いができる。父が言っていた「無」とはどんなものだったのかを山川老師の法話の中に見つけていきたいと思う。
 五月の禅語の会は私にとって転機となった。会が終わった後、偶然隣にいた美しい年下の女性に、以前ハープを弾いていたのを見かけたことがあると話したら、そのハープカフェを開けてくれると言う。生まれて初めて、目の前でハープを聴いた。一曲目は「星に願いを」二曲目は「いつも何度でも」人は裡に琴を隠しているのだろうか。琴線に触れるという言葉があるが、私の琴が呼応して鳴り出した。私は人目も憚らず、涙を流した。ハープがこんなに多重的な音を奏で、心に深く響くものとは知らなかった。弾く人の喜びも悲しみも音に乗せて届くようであった。
 それから清大寺の境内で日が暮れるのを待っていた。この夜は東大寺よりも大きな清大寺の純白の大仏殿に、プロジェクトマッピングが映し出されることになっていた。その境内で禅語の会に参加していた禅僧と立ち話をして驚いた。なんと、その禅僧は向嶽寺で宮本老師を師と仰ぎ、雲水として修行していたと言うではないか。宮本老師の話をするときの、なつかしそうな、誇らしそうな禅僧の顔は忘れられない。この人たちの師弟のつながりとは、どんなものなのだろう。今まで私が経験したことのない、欲得抜きの世界である。その禅僧が教えてくれたのは、師匠の厳しさにもいろいろあって、宮本老師は鉄の心ではっきりと叱ってくれ、山川老師は静かに叱るのだが、こっちの方がこわいのだという。また、山川老師はつかみどころのない、不思議な人だとも、こっそり教えてくれた。何年も山川老師のもとで修行をしている禅僧が言うのだから、なるほど私にわかるはずがないと合点した。そしてなぜか、山川老師は、見たこともない龍のような人だと思った。
 夜になって大仏殿に映し出された長谷川章氏による「デジタル掛け軸」は寺の新しい可能性を見せてくれた。着物の柄、燃える金閣寺、海の底、若葉の輝き、ゴッホのような、モネのような、シニャックのような、刻々と様を変える大仏殿に向かってシャッターをきるのだが、すぐに色は移り変わり、美はその一瞬のもので、すぐに記憶の美となった。私は写真を撮るのを止めて見ていた。すべては移りゆく。この瞬間に集中しよう。和太鼓の音が重なり、私はひとりでも見ていても美しいと思える人間になりたいと強く思った。
 そして、駐車場へ向かう帰り道でハープ奏者の人と一緒になったのが午後八時半。それからなんと四時間も私たちは駐車場で立ったまま語り合うことになった。相手の顔もよく見えない暗がりで、魂の会話をした。雲水たちが夜中まで坐禅をするように、私たちは立ちながら「坐禅」をしていた。私は自分の幼さも醜さも隠さず話した。初めて話す人なのに、もう何年も前から知っている人のように話した。彼女は私よりも十歳も年下だが、山川老師に十年も禅を習っている人で、学びが進んでいた。潔い女性で、死ぬ時に「ああ、おもしろかった」と言って死にたいと。そして、山川老師ほど清貧の人はいないと言った。だから老師から「うばう」ばかりではなく、「あたえる」ことを考えないといけないと言った。でも私は無職でお金がないというと、そうじゃなくて自分はハープを弾くことで、老師の恩に報いていると言った。自分なりのかたちで「あたえる」のだと言う。私は「私が変わること」で報いようと決めた。
 彼女は最後に真っ暗な空に向かって、心の中の黒い塊を投げるのよと両手をあげた、その先に真っ暗な塊が漆黒の空まで飛んで、そして金泥が撒かれたように、キラキラと私に降り注いだ。
 彼女に見送られ、午前零時半に駐車場を出発し、北陸自動車道を走って母の家に着いたのが午前三時半。今日一日、出会った人たちのことをふりかえった。まったく、山川老師の口癖「やってみなけりゃわからん」である。
 私は乳がんで左胸も削ぎとり、歯もがたがたの山姥ではあるが、やっとここまで歳をとって、女から人になれるような気がする。還暦とは「生まれ変わり」、今年、私は人生の新たなスタートラインにようやく立った。
 「老師は俗世の混沌から逃げて出家したのですか」
 「いいえ、私は何からも逃げたわけではありません。ただ、右へ行くか、左へ行くか、決めただけです」
 さて、私はこれからどこへ行こう。
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