一話完結

文字数 10,235文字


   記憶の疑惑

 新幹線のホームへ上るエスカレーターに合わせて、「近づく22世紀! 新型レールでスピードアップ」という3Dホログラフがついてくる。弥生は、自分へのターゲティング広告がこれなのかとがっかりした。
 現在、街中に設置されたホロ照射機とスマホを連携させることで、スマホを取り出すことなく操作することができる。その代わりに常時広告がつきまとってくるのだが。
 研究に関するワードばかり検索している弥生に最も相応しい広告が、最も当たり障りのないJRの広告というわけだ。
 結婚式のために伸ばした髪を後ろで束ね直しながら、「カチューシャを検索するだけでも少しは新妻らしい広告になるかしら」と、黒目がちの目を足元へ落とした。
 無為な考えを消すようにエスカレーターの上から「古市先生」と呼ばれた気がして視線をあげると、頂上に人影は無く、「わたしのことを『古市』と呼ぶ人はまだいないだろうし、ましてや『先生』をつける人など…」と思い直した。しかしそれは、新婚の夫である古市省吾がすでにホームに到着していることを知らせていた。嬉しくなって、立っていた段を蹴ると、ホログラフも「エスカレーターでは立ち止まってください」という表示に変わってスピードアップした。
 新婚の夫に会いたいのも勿論だが、予定より早く完成させた『感情記憶抽出プログラム』について、古市准教授の意見を聞きたかったのだ。
 ホームに着くと、若くしてブレイン=マシンインターフェース学会で新進気鋭の学者として時の人になった省吾が、見知らぬ老人二人と話していた。老人といっても一人はまだ初老で、どこかの大企業で責任ある立場のよう。もう一人はすっかり老人然としていて、片手に杖の九十歳になるかといった様子だった。
 話しに途中から参加した弥生が理解できたことは、二人が親子だということ。父親のほうが省吾の著書『記憶をコンピュータに記録する』という電子書籍の熱心な読者であること。父親は省吾の今日の講演を聞きに仙台から上京したということだった。
 「『心臓が悪いんだから仙台講演でいいだろ』と言ったんですが『どうしても先生が仙台にいらっしゃる前に』と申すものですから」
息子が言い訳まじりに「わたしも帰省したいんですが…。仙台のホームには弟が迎えに来ることになってますので」と笑った。
 「では責任もってお連れしますよ」と省吾が返し、弥生の新婚旅行は三人での出発となった。
 コンピュータへの記憶転送技術の研究で多忙な中での結婚だったので、省吾の講演旅行に弥生が同伴する形での新婚旅行となったのだった。
 「わたしが自分の名前にこだわって三月の結婚を望んだものですから」と、老人にことの成り行きを説明すると、増山と名乗った老人は動き始めた車窓を横目に、「こんなかわいいお嫁さんなんだから、わがままを聞くのも楽しくてしょうがないでしょう。ねえ、先生」と、顔をしわくちゃにした。
 三月とはいえ、列車がスピードを上げて北へ向かうにつれて雨に雪がまじってきた。
 「人生すべての記憶を記録することはできないということですね」
 「そうです。できたとしても、コンピュータの記憶容量が莫大なものになってしまう」
 弥生は窓側にもたれかかるように座り、夫と老人の話を聞いていた。
 「では、もし、わたしの記憶の一部をコンピュータに記憶させて残しておきたいとします。長い人生のどの記憶を残すかはどうやってコンピュータに選ばせるのでしょうか」
 「選ばせるのではありません。被験者が頭の中でできるだけ鮮明に、時系列に添って記憶を再現するのです。そのときに脳内で起こる電気信号の変化をコンピュータが記録するのです」
 「なるほど……しかし……」
 考え込むように増山は続けた。
 「しかし、もう遠い昔の記憶は、何と言うか、よく思い出せない部分もあるんです。
 いや、思い出せるんです。忘れられないんです。
 ああ、何を言ってるんだろう。
 そう、例えば、夕焼けが赤く美しかったことは記憶しているが、その赤がどんな赤だったのか、いま目の前にある赤と同じなのか。
あの人が悲しそうな、それでいてちょっと嬉しそうな顔をしたということは覚えているんです。でも、その表情が思い出せない…」
 膝の上でつないでいた弥生の手を放すと、省吾は身振りを加えて講義口調で話し始めた。
 「記憶には二種類あると考えています」
 昨年の2060年に新幹線が新型レールに改修されて仙台までの所要時間が約半分になったとはいえ、ちょうどいい時間潰しとでも思ったのか、いつも顔を突き合わせている新妻と話しをするよりも楽しいと思ったのか、省吾は老人に記憶保存研究の基礎を説明し始めた。
 「一つはテキスト記憶、もう一つはイメージ記憶と呼んでいます。
 テキスト記憶というのは、人の名前や書籍で読んだ知識。つまり『言葉として記憶されているもの』です。例えば『ホームで初めて会った人の名前は《増山》だった』という記憶です。
 もう一つのイメージ記憶とは、感じたものをそのまま記憶しているということです。視覚・嗅覚・触覚などの記憶ですが、視覚で例えると、増山さんの顔や服装を映像として思い出すことができるということです。
 妻はこの二つに加えて『感情記憶』の研究をしているのですよ」
 省吾は弥生のほうへ一度視線を向けて、放した手を引き寄せて続けた。
 「わたしが最初に疑問に思ったことですが…、モンタージュ写真、増山さんは年齢的にご存じですよね。
 高校生のころ、『本当にあんなことができるのだろうか』と思いましてね。親友の顔ですら家に帰ると子細に思い出せないのに、ましてや、ちらっと目撃した犯人の顔を再現するなど…。
 そこで実験してみると、面白いことがわかってきた。他人の顔を頭の中で再現できるグループと、それが苦手なグループに分かれたのです。
 つまり、人それぞれ記憶の格納方法に大きな差があることがわかったのです。
 増山さんもきっとわたしと同じテキスト型主導の格納だと思いますよ」
 「先生とわたしが同じだなんて、なんだか…」
 膝の間に立てた杖をコトコト鳴らしながら嬉しそうに増山老人は話した。
 「映画のようには思い出せないですが、何が起こったかを克明に説明することができれば、その記憶を保存できるということですね」
 「はい。でも現在の科学技術ではそこまでです。そしてこれこそが、今般わたしが発表した技術なのです」
 省吾はちょっと自慢気な顔をした。
 「しかし、イメージ記憶や感情記憶まではまだまだです。
 それに、テキスト記憶についても人体実験は許可されていません」
 「えっ、そうなんですか…」
明らかに老人の表情が曇った。
 「わたしももうすぐ寿命です。先生の研究が実用化されるまでは待てないでしょう。しかし、ぜひとも残したい記憶があるんです」
 「増山さん、少し勘違いしているようですね。記憶を抽出することは危険なことではないのです。しかし、抽出した記憶を再現する側の人にどんな危険があるかわからないのです」
 省吾は膝の上の高性能コンピュータが入ったカバンをポンポンと叩きながら、
 「増山さんの記憶をこのコンピュータに抽出することは、ほんの一時間もあればできてしまいます。でも、『本当に抽出できたのか』『抽出した内容がオリジナルと同一か』を検証する術がない。検証するには誰かの脳に記憶を書き込む必要があります。しかし書き込まれた人は、『書き込まれた記憶なのか』それとも『もともと持っていた自分の記憶なのか』を判断できないのです」
 省吾のカバンをじっと見つめていた老人は、ゴクリと喉を鳴らすように一息おいたあと、懇願するように言った。
 「ぜひとも、わたしの記憶を保存してください。わたしが死んでからでも構わないから検証できれば…」
 「でも、増山さんなしでは『オリジナルとの同一性』が検証できない。それでは困るのです」
 あまりの老人の剣幕に気おされたようで、少しぶっきらぼうに応じて弥生の手を握った。
 「それほど残したい記憶なのですか」
 弥生は手を握り返した。
口を挟まないことで、新婚旅行に割り込んできた老人に小さな抗議を表すつもりでいたのだが、研究者としての好奇心に負けてしまった。
 「それほどの記憶でしたら、強烈な感情の変化も伴っていませんか」
「勿論。あんな思いをもうしてほしくない。ぜひとも子供たちに記憶を残しておきたいんです」
「保存するだけなら…」という言葉が弥生の口元まで出かかったが、「それほど強い感情記憶ならぜひ自分のプログラムを試したい。だが、今できあがっているのは抽出だけで書き込みができない。それでは再現どころか検証できるかどうかも怪しい」と思い口をつぐんだ。
 しばらく三人の間で沈黙が続いた。
 その沈黙に耐えかねたかのように車内アナウンスが仙台到着を告げた。
 無言のまま下車すると、先ほど別れたばかりの息子とよく似た、それでいて体躯のがっしりとした男が駆け寄ってきて、低く太い声で丁寧に挨拶すると、老人に寄り添うように背を向けかけた。
 「芥川龍之介の『疑惑』を読んだことはおありですか」
 老人の言葉はあまりに唐突で、あまりに脈絡がなかったので、省吾も弥生も返す言葉を失ってしまったが、「いえ、まったく」と図らずも声をそろえて答えると、
 「では明日、その本を持ってお伺いします。先生の仙台講演が終わるころ、会場のロビーでお待ちします。本は今日のお礼にプレゼントします。もし先生の気が変わってわたしの記憶を保存していただけるのなら、オリジナル記憶との検証に使ってください。もしだめなら、それを読んでください。わたしが何を残したかったのかご理解いただけるかと」
 そう言い残すと、老人は返答を待たずに去っていった。

* *

 ひと晩経って、新婚旅行に相応しいホテルのスィートでルームサービスの朝食をとっていると、増山との出来事は新婚夫婦が一緒に見た夢ではなかったかという気がしてきた。しかし昨夜は省吾が期待していた新婚の甘い夜とはならず、弥生が思いつめたようにコンピュータに向かって作業していたことを思い返した。
 「昨夜は徹夜でどんな作業をしていたんだい」
 「完成したと思っていた『感情記憶抽出プログラム』を修正して、先生のプログラムのアドオンとして動くように変更したのよ」
 「新婚旅行で『先生』か…」
 研究の話になるとどうしても夫のことを先生と呼んでしまう。
 「昨日早く聞いてほしくて、急いで駅へ向かったのに、あの増山さんでしょ。話しそびれてしまって…。でも、アドオンに変更して大正解。省吾さんのプログラム経由で、抽出も書き込みもできるようになったわ」
 「先生」という単語を、まだ使い慣れない「省吾さん」に置き換えながらの会話は、どこかぎこちない感じがした。
 「そりゃ、早く実験してみたいものだなぁ」
 「被験者さえいればいつでも。だから、今夜増山さんを連れてきてくださいね」
 弥生は徹夜の疲れも手伝ってか、少し高揚した表情で、いつもより明るく饒舌に朝食を済ませると、まだコーヒーをすすっている省吾の背中に抱きついて、「今夜楽しみにしているわ」とささやいた。このセリフがどう取られるかを気にしていない分、余計に官能的に聞こえた。省吾の鼓動が早くなったのをよそに、束ねたセミロングを解き、甘い香りを残してバスルームへ消えていった。

* *

 午前中は新婚旅行らしく夫婦で市内を観光する予定だったが、弥生が「ひと眠りしたい」と言うので、省吾一人で街へ出てみた。しかし小雪の舞うなかで一人きりというのも味気ないもので、急遽、仙台の大学で次世代ホログラフの研究をしている旧友、時田を訪ねてみた。
 時田は、ホログラフがいつも人々につきまとっていることを利用して、行動分析に活用する研究をしていた。
 お互いの研究自慢をするうちに時間が過ぎ、夜の講演会場へ向かった。
 別れ際に時田がふざけ交じりに言った言葉を思い出しながら、省吾はタクシーのシートにもたれていた。
 「倫理的とか法的とか、そんなこと言ってたら成果はあがらないぞ。
 オレなら人体実験だね。
 小学校の運動会の記憶でも愛する奥さんから抽出する。それをおまえに書き込むんだよ。
 その程度なら問題ないだろ」
 「確かにそうだ」という気もするが、性差、年齢差、環境差という背景の違いを無視して妻の記憶が入ってきたら、自分の記憶との整合性はどうなってしまうのだろうという不安もあった。
「テキスト記憶だけならまだしも、イメージや感情の記憶まで書き込んだら、はたして脳は耐えられるのだろうか」と真剣に考えてみたものの、「どうせなら弥生の初恋の記憶を入れてみたいな」とニヤニヤして、窓の街並みに妻のセーラー服姿を想像して重ねてみた。
 講演会が終わると予告通り増山がエントランスで待っていた。
 「昨日はありがとうございました。
いかがでしょう。
記憶を抽出していただけますか」と古びた紙の本を差し出した。
 「新婚の夜」と「記憶の抽出」の間で省吾は揺れていた。
 「この本に二人の息子の名刺を挟んでおきました。読後に、機会があったら連絡してください」
決心できずに老人のホログラフに目をやると、「若き科学者 古市先生 仙台講演 本日三月十日」という文字と自信に溢れた自分の顔があった。
 ホログラフの自分に「嫁さんのわがままを聞いてやれよ」と背中を押されたような気がした。

* *

 弥生は雪のやみ間に日が差したような気がして目を覚ました。スィートの厚いカーテンを開けると、相変わらず小雪模様の空だった。
 舞う小雪を眺めていると、徹夜で作業しながら頭の片隅で考えていたことが頭の中央を占めてきた。
 「『疑惑』を読んでしまおうか」 
 学生がカンニングしようか迷っているような罪悪感と躊躇。「黙ってればいい」という、何かが背中を押す感覚。
 「喫茶室でお昼にしよう」と口に出して窓に背を向けた途端、「食べながら読んでしまおう」と心が決まった。
 『疑惑』は、弥生が予想していたよりもはるかに短い小説だった。著作権切れの小説ばかり集めたサイトですぐに見つけることができた。しかし読み慣れた論文とは違い、なかなか読み進めることができなかった。今自分たちが使っている日本語とは異なる言い回しや表現。時代背景の違い。登場人物の状況や場面を読み取るのに時間がかかった。
 はじめは「好物のオムライスを食べ、コーヒーを飲んでいるうちには読み終えるだろう」と高をくくっていたのだが、実際は三分の一程の「中村玄道と名のった人物は……とぎれ勝ちにこう話し始めた。」という一節まででやめてしまった。
 「漢字が難しいうえに意味がなぁ…」と独りごちて席を立った。
ひときわ大きな声でおしゃべりを楽しんでいた老婆たちのテーブルから「明日でちょうど五十年ね」という声が聞こえてきた。
 弥生の頭の中は何からちょうど五十年なのかより、省吾が増山を連れてくるかどうかに加えて、自分のコンピュータの中のアドオンを、いつ省吾のコンピュータにインストールするかという悪戯心でいっぱいになっていた。

* *

 スィートルームの椅子に、増山は希望と緊張の顔で座っていた。
 記憶データ抽出中の事故に関する免責事項、記憶データの利用に関するプライバシー権の放棄などが表示されたタブレットに「増山浩一」とフルネームで署名すると、古市先生のコンピュータから伸びた電線の束の一本一本が弥生の手で頭に取りつけられていった。
 緊張しないようにと、増山は頭皮にときどき触れる若い女性の手の、少し冷たくそれでいて柔らかな感触に集中しようとした。
 「増山さんのしゅ…、熱心さには負けましたよ」
 「執念」という言葉を飲み込んだのだろう。増山を連れてきたことの顛末を言い訳まじりに話したあと、先生は画面を見ながら「東2秒」とか「南1分27秒」とか、何かを弥生に伝えながら作業を進めていった。
 「たまにはそちらの作業もしてみたいわ」
 最後の数本の電極を残したところで、先生と弥生が入れ替わって作業が続けられた。
 「少し北」という弥生の言葉に反応するように先生の手で電極の位置が動いていくのを感じて、「頭を地球儀に見立てて位置を表現しているんだな」と気がついた。
 二人が入れ替わる前よりも多少ペースが落ちたものの、弥生の「OKね」という弾んだ声が装着完了を告げた。その声のほうへ目をやると、弥生が超小型メモリを抜き出して微笑んでいた。その笑みが、大人の目を盗んで落とし穴を作り終えた悪戯小僧のように魅力的だった。
「それでは増山さんの『残したい記憶』を思い出してください」という先生の声が部屋に響くと、やはり緊張した。
その緊張を解くように、
 「慌てなくていいですよ。
ゆっくり深呼吸して。
感情もできるだけ思い出してくださいね。
記憶が鮮明になりますよ」
という弥生の女性らしいやわらかな気遣いの言葉を聞きながら目を閉じて、五十年前の記憶の中へ入っていった。

* *

 ホテルのエントランスで少し疲れ顔の増山をタクシーに乗せると、弥生は省吾を最上階のバーへ誘った。まるで新婚旅行とは思えない二日間になってしまったので、今晩の残り時間くらいは研究のことを忘れて新婚らしい夜を過ごすことにしたのだ。
 夜半にバーが閉店すると、スィートルームへ戻り一緒にジャグジーに入った。シャンパンを飲みながらジャグジーの泡の下で弥生の乳房をもてあそびながら省吾がささやいた。
 「きみの初恋の記憶をぼくの脳に書き込んでみないか」
 アルコールで呂律が回っていない。
 「その程度なら差し障りないだろう。それに、きみの初恋の相手を知ることができる」
 「新妻の初恋を知りたがるなんて悪趣味ね」とは言ったが、耳元で「愛するきみのことをもっと知りたい」と抱きしめられると、体が泡風呂に溶けていくような気分だった。
 あまり酒が飲めない弥生は、甘い愛の余韻が引いていくにつれて目が冴えてしまった。ベッドで自分を抱くように熟睡している省吾の鼻を、手持無沙汰につまんでみたが起きる気配がない。ちょっとでも起きてくれればもう少し甘えられるのにと思い、もう一度、今度はさっきより強く鼻をつまんでみた。
 それでも微動だにしない省吾の唇にキスをして「キスで記憶が送り込めたら面白いのに」と空想した。
 「わたしの初恋は先生だから、先生に書き込んだら大変なことになるわ」と呟いて、もう一度唇を重ねた。
そのとき頭に稲妻が走った。
 「ぼくの脳に書き込んでみないか」
 その言葉が頭の中で光ったのだ。
 世界初の感情記憶データと「ぼくに書き込んでみないか」という被験者が目の前にそろっているではないか。
 ランチのときに読んだ感じでは、『疑惑』の内容は二人の男が話しているだけで、さほど被験者に悪影響を与えるようには思えなかった。
 好奇心旺盛な悪戯小僧は、無造作に髪を束ねると裸のまま電極の束を夫の枕元へ運び、クルクルとよく動く黒目がちの目で増山の記憶データを画面で確認した。
 「書き込みには時間がかかる。その間に『疑惑』を読んでしまおう。朝までにはたっぷり時間があるわ」

* *

 翌朝小雪が舞い落ちる窓を横目に、増山は妻の仏壇に線香をあげながら話しかけていた。
 「あの日も寒かったよな。
 何年経っても子どもたちに話せなかったが、子どもたちはきっと許してくれる。
 なあ千歳、そうだろ。
記憶を残せば子どもたちに伝わるだろう。
そしてきっと許してくれるよな」
 小やみになってきた窓の外に、増山の願いがかなったことの暗示のように春の日が差した。
 「墓参りに行くぞ」という次男の低い呼び声に片膝を立てた。
 「母親を奪ったのは誰なのか。きっと解ってくれるよな」
息子の声に続いて、居間のインターネットラジオからニュースが聞こえてきた。
 「市内のホテルで新婚の夫が妻を撲殺。犯人は講演のために仙台を訪れていた科学者三十八歳。『五十年前に殺したはずの妻が隣で寝ていたので怖くなって頭を潰した』と意味不明なことを言っている模様」
 立ち上がろうと仏壇の縁に手をかけた増山は、目を見開き胸を押さえて崩れ落ちた。
薄れる意識の中、昨夜も克明に思い出した記憶、五十年前の今日の出来事が映画のように鮮明に再生されるのを、ただただ見ていた。

* *

 五十年前、浩一は遅めの昼食を自宅でとっていた。社員食堂も安価で食べられるのだが、年度末はどうしても出費が重なり、外回りの途中で海沿いの自宅へ寄って食べることが多くなる。ちょっとの節約だが、それを貯めて後輩を飲みに連れて行く。出世の遅れていた浩一にとって、少しは先輩風を吹かすことのできる楽しみでもあった。
 この日は、来月東京本社へ栄転になる年下の上司の送別会が予定されていた。その上司の後釜としてやっと課長の椅子が回ってきた。同僚たちからは「増山新課長の就任祝いも兼ねているんだから会費は結構ですよ」と言われていたが、そこは金曜の夜のこと、一次会だけで解散となることはないだろう。二次会、三次会となれば後輩たちに奢らないわけにはいかない。
 「軍資金が足りるだろうか」
 そんな浩一の気持ちを見透かしたかのように、千歳がお茶と一緒に封筒を置いて台所へ戻っていった。浩一の正面の庭からは、潮の香りが春風に乗って入ってきた。
 「いつも悪いな」
 千歳の背中に向かってばつが悪そうな声で礼を言うと、その声が届くか届かないかという瞬間、地面が轟音を立てて突き上げられた。
 「地震だ! でかいぞ!」
 その叫びは口から出たのだろうか。それとも間に合わなかったのだろうか。浩一の口から出た言葉、叫びは千歳に届いたのだろうか。それとも轟音に掻き消されてしまったか。
 背後のタンスが浩一めがけて倒れてきた。視界にあった千歳の背中が、右側から飛び出してきた冷蔵庫に突き飛ばされるように左へ消えて行った。
 タンスの襲撃から逃れるように正面の縁側を越えて庭に飛び出した。振り返ると、今度は家の二階が頭の上から迫ってきた。頭を抱えて庭土の上に丸くなった。何かが背中を何度となく打ちつけた。
 轟音がやんで目を開けると、何ということか、庭にいる浩一の目の前に家の二階があるではないか。目を開ける前に背中を打ち付けていたものが、手が届きそうな高さにある屋根から降ってきた瓦だと気がついて、やっと事の重大さが理解できた。
 「千歳! 千歳!」
 何度も妻の名前を呼びながら、二階に押し潰されて高さ数十センチの隙間と化した一階に這いずっていった。
 「千歳!」
 やっとのことで見つけた妻は気を失っているようだった。
 「今引っ張り出すからな!」
 その声に目を開けた妻の表情は、いかにも辛そうで、「足が…足が…」と繰り返すばかりだった。
 数分前まで一階だったはずの隙間を這いずるように移動して妻の足元を確認すると、両脚の太もものあたりに一階の梁がのしかかり、膝から下はその梁に遮られて見えなかった。
 「少し持ち上げるから脚を抜くんだぞ!」
 そう叫んで力を込めてはみたものの、妻の上の梁はピクリとも動かなかった。態勢を変えて力を入れたり、割れた瓦を隙間に突っ込んでみたり、どのくらい時間が経っただろうか、かすれる声で千歳が浩一を呼んだ。
 「わたしはもういいから、子どもたちを迎えに行って」
 浩一は何も言えなかった。
 「わたしはいいから! 子どもたちを!」
 千歳が絞り出すように叫び、額の汗が浩一の口に流れ込んだ。「この状況でも塩辛さを感じるんだなぁ」と、意識がどこか他のところへ飛んでいきそうな感覚が押し寄せてきた。
 そのとき遠くから有線放送の声が耳に飛び込んできた。
 「津波が来ます。大至急、高台へ避難してください」
 「早く! 子どもたちを!」
 「わかった! 子どもたちを非難させたら帰ってくるからな」
 そう言って外へ出ようとすると、
 「生きたまま津波にのまれるくらいなら」
 浩一はわが耳を疑ったが、妻の口ははっきりとそう言った。
 「生きたまま津波にのまれるくらいなら」
 のまれるくらいならどうしろというのだ。そんなことができるわけがない。何を言っているのだ。浩一の口からはどの言葉も出てこなかった。
 暗がりの中で妻の顔を見つめた。千歳はもう何も言わなかった。悲しいような、諦めきったような、未練があるような、それでいてどこか嬉しいような、そんな表情を浮かべて浩一を見つめ返した。
 「子どもたちを頼みますよ」
 「わかった」
 それが最後の会話だった。
 隙間から這い出て空を見上げた。火の手が空を夕焼けのように染めていた。見たことのない赤だった。
浩一の右手にはその夕焼けよりも赤く染まった瓦があった。

* *

「以上が先日市内のホテルで起こった殺人事件に関する、関係者の『追跡型ホログラフによる行動および思考解析』の結果です。
お二人の名刺が現場から発見されたので、大学の時田先生に急遽お願いしましたが、無関係と判断されました。
異議申し立てがなければサインしてください」
増山兄弟は無言でサインすると、警察の一室を出ていった。
ピーポくんが表示されたホログラフを連れて。



            <了>
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