第1話

文字数 4,785文字

玄関先、等身大の鏡。そこに映る顔がなんとも気怠く、やる気の無い事。
そして格子窓から差し込む光の暖かさと、外で鳴く小鳥の囀りが春らしい事この上ない朝の時間。
鏡の中の顔を、輪郭にそってなぞる。
「ミカゲ〜、あんたまだ居るの?初日から遅れるわよ」
母の声がリビングの扉一枚を突き抜け、こちら側へ渡ってくる。
「だいたいあなた、昨日の入学式も……」
「はーい。いってきます」
(私は知っている。どうせ、中学も高校も大して変わらない。ようやく終わった3年間がこれからまた始まるだけ。とても憂鬱だ。)

男女の声で賑わう帰りのホームルーム。窓の隙間から流れ込んでくる温い風だけが、私を唯一癒してくれた。その度に、この教室にも酸素がちゃんとあるんだ、と溜め息をつく。
(んーん。やっぱり中学と何も変わらないじゃん。少し……広くはなったのかな?あとゴミ箱の位置とかは違うかな。黒板の隣にホワイトボードが増えてる……とか……あとは……)
「おいっ、おい本田‼︎聞いているのか?お前と、坂口だけだぞ、どこの部にも所属しないというのは。本当にどこにも入らないのか?」
さっきまでくだらない親父ギャグを言っていた担任の杉田和夫の尖り声が飛んできて、私は急いで教卓辺りに焦点を合わせた。
きっと私の提出した『入部希望届』が空欄だったのが目に留まったのだろう。
因みにクラスメイトである坂口くんに関しては、芸能関係の仕事もしているだとかで、部活には入らないという。
(心底どうでもいい…お願いだから被せないで欲しい。対等な理由を求めないで欲しい)
「…はぁ……」
私の曖昧な応答に眉をひそめる担任。

ホームルーム後、帰ろうとする私を引き止めた担任は、例のごとく"部活の素晴らしさ"を教室内の生徒が一人も居なくなるまで、熱弁した。
くたびれた私はリノリウムの廊下をとぼとぼと力なく歩いていた。
その時、なにかがドンと、ぶつかった。
人だった。上級生だ。それも私とは正反対タイプの"イケてる女子高生"だ。
短いスカートに茶髪のポニーテール、バービー人形みたいに顔が小さい。
イケてる先輩は髪を揺らし、スクッと立ち上がった。
「わあ、びっくりした!え、あんた大丈夫?ていうかヒマ?帰るの?ちょっとコレ持ってよ」
そう言って、半ば強引に一枚のキャンバスを私によこすと先輩はスタスタ歩き出した。
そのまま置き去る訳にもいかなかったので、仕方なくキャンバスを脇に抱え、先輩の後を追う。
暫くすると、ひとつの教室にたどり着いた。
建て付けが悪くなっている扉をガラリと重たそうに開け、先輩は中へ入っていく。
私もそれに続いた。
ふと、教室に入る前、室名札に目をやった。
[美術室]
とても嫌な予感がした。
そしてそれは的中する。
先輩は、部員達がデッサンしている中央のモデル像の前へ立ち、私を紹介し始めた。
「皆聞いてー!今日から美術部に入った……名前なんだっけ?」
「本田ミカゲですけど…」
「本田ミカゲさんでーす!皆仲良くしてね!」
部員達から漏れた言葉は様々だった。
「やったあ!1年ぶりの新入部員!」
「ヒカルちゃん大丈夫?この前みたいに強引に連れて来たんじゃ……」
「あの…夏川さん、ちょっとそこ、邪魔です」
きょとんと立つ私に、先輩は長細いケースを手渡した。
その中身は絵本カッターといって絵本制作の際に使う道具らしい。
「はいコレ、ミカゲにあげるよ!ずっと使ってたんだけど、わたし新しいの持ってるから」
そう言って大切そうに渡されたケースには可愛らしい卵のシールが貼られていた。
そうして私は放課後、決まって美術室へと向う。勿論、美術部員としてだ。
最近では部活の時間を楽しみに登校しているようなものだ。
「ヒカル先輩!美術室の水槽の魚増やしましたー?」
美術室の水槽ー。廊下側に飾られている作品の一つで、大きなキャンバスに歴代部員が魚やら海藻やらヒトデやらを書き加え、今ではとても賑う大水槽となっている。
「あー増やした増やした!よく分かったね?」
「分かりますよ、というかこれって1人一個って決まりじゃあ…」
そういうと先輩は細かい事は気にするな、と笑った。

ゴールデンウィーク中もほぼ美術室へと通い詰めた私は、ある部活後、先輩と一緒に帰路についていた。
「ミカゲ今日はすぐ帰る?」
「いえ、特に予定もないですが」私はすぐにそう答えた。
この頃になると、家に居るよりも、先輩と居る方がなんだか居心地が良かった。
「じゃあちょっと公園行こう」
「公園…ですか?」
「ブランコ乗ろう」
「ブランコ…ですか?」
「復唱してるね」
「復唱…してますね」
そんな訳で、私と先輩は小さな公園のブランコに揺られていた。
「ねえミカゲはさ、夢とかあんの?」
「夢……ですか?ないですよ、私にはそんなキラキラしたもの」
それを聞いた先輩はまた、くしゃっと笑う。まるで懐っこい犬のよう。
きっと皆、この人のこういう所に惹かれるんだろうな、と思った。
「私はね!絵本作家になりたい!」
ブランコの、自主的に作り出された風を斬りながら、声を張って話す先輩。
「私の両親、小さいときに事故で死んでさ、それからずっと親戚の叔母さん家。小学生の頃とかは寂しかったなー。でもそういう時、私は決まって絵本を開く。すると!どうでしょう!不思議と楽しい気持ちが湧いてくる!……絵本は私にとって宝物だよ」
最後のほう、なんだか切なそうに話す先輩は一冊のノートを取り出した。
「このノートにさ、何でも好きな絵を描いて見せ合おうよ!名付けて【創作交換ノート】!」
それから先輩と私で、来月末にある小学生への絵本の読み聞かせイベントに参加することを決め、日々その為の絵本作りに励んでいた。
「ヒカル先輩、最近髪の毛結わいてないんですね?」
「んー何だか面倒臭くて…ほら、そんな事に労力を使わないで絵本に使おうと思って!」
「髪の毛束ねるのに、どんな労力使ってたんですか!」
二人で、いつまでもクスクス笑った。

授業が終わり、ホームルームが終わる。私はいつものように部室へと向かう。
午後の日差しと絵の具の匂いが絶妙にマッチした空間。
そこはこの学校で唯一、多彩な味が集まっている場所、美術室。
「先輩っ!昨日すごくいいのが描けたんです!見てください!」
そう言いながら扉を開ける。
だがそこに先輩の姿はなく、ジメジメとした重たい空気が充満していた。
滅多に顔を出すことのない顧問の牧野先生が、皆の前に立っていた。先生と目が合う。
先生は静かに、話し始めた。
「本日早朝、夏川さんが、亡くなったと、叔母さんから先程、連絡がありました」
先生は途切れ途切れに、なんとか言葉を繋いでいた。
騒つく教室、だけど私の耳にその雑音は届かない。
(なに?そんな事、あるはずないよ。先輩が死んだ?何かの間違えでしょう?きっと先輩のイタズラだよ。なに騙されてるの?皆は知らないだろうけど、ついこの間、先輩は私に夢を話してくれたんだよ?今月末のイベントのことだって……)
気がつくと、私だけがそこに立っていた。私の側で牧野先生が、沈痛な面持ちで俯いている。他の部員の姿はなかった。
教室中の空気が急に薄くなった気がした。
歯茎中から苦い液体が滲み出てくる。べっとりしたモノが、私の気道を塞いでいた。

先輩が居なくなり、二週間が経つ。私はろくに食事も摂らず、自分の部屋に閉じこもっていた。
三日前に先輩の友達だという、倉見リナさんがやって来た。
倉見さんの話によると、
「ヒカルはクラスでイジメに遭っていた」
「親戚の叔母さんや叔父さんには迷惑かける訳にはいかなかった」
更に倉見リナはこう続けた。
「あなたのことを話す時だけは、いつも楽しそうだった。ごめんなさい。イジメを止めることが出来なくて」
それだけ言うと、倉見リナは帰っていった。

もうすぐ夜が明ける。窓から見える空はうっすら青白い。私の部屋はいつも通りだった。机も、ベッドも、鏡も、そして掛かっている制服も。
なくなったのは夏川ヒカルだけ。
私は鏡の前に立った。
鏡は窶れた私をありありと写した。その内側にある憎しみまでもをうまく描写していた。
「あなただけは許せない」
(だって、そうでしょう?どうして気付けなかったの?髪を結えなくなった時だって、それに公園での切なそうな先輩の顔……。ごめんなさい、先輩。私一人では何もできないや。)
鞄の中から、絵本カッターを取り出す。
ケースを開け、カッターを手に持つ。
細く光る刃先をそっと手首に当てる。
スタッー。
なにかが床に落ちる乾いた音がした。
足元に小さく折られた紙が落ちている。
ぼやけた視界で文字を追う。
先輩の字だ。
そうと分かると、私の脳は一気に機能し始めた。
【美術室の水槽そろそろ掃除しておいてね】


私は走った。
まだ薄暗い夜と朝の狭間を走る。
新聞配達の原付バイクとすれ違ったような、そうでないような。暑くもないし、寒くもなかった。
いくら走っても全く苦しさを感じない。寧ろ、走っている方が呼吸がしやすいくらいだ。
自販機の灯りを横目に走り、ゴミ捨て場に集まる猫の集団の前を走り抜ける。

当然ながら学校の門はしっかりと閉まっていた。
それでもなんとか中へ入った。今の私には、門が閉まっているとか、いないとか、そんなことは関係なかった。
真っ暗な廊下を走る。
その場所は早朝だろうと、絵の具の匂いが漂っていた。
扉に手をかけ、勢いよく開ける。いつも鍵が掛かっている扉はすんなり開いた。
大きな窓がある室内は、ぼんやりと明るい。
直ぐさま美術室の水槽の前へ滑り込むように立った。すると大水槽の岩の部分、色が同化していて分かりにくかったが、そこにはしっかりとノートが挟まっていた。
「創作交換ノート……先輩こんな所に」
パラパラとページをめくる。「なにこれ」
全てのページに絵が描かれていた。その絵の中に『本田ミカゲ』はいったい何人いたことか。絵の中の本田ミカゲは笑ったり、泣いたり、怒ったり。現実の私よりも活きていた。
(先輩のバカ。私、また一人になっちゃったじゃない……だけど、大好きな先輩の頼みを聞かない訳にはいかないよ。先輩だってズルい…本当に勝手だ。
私だって、先輩のこと、死ぬまで許さないし、忘れない)
ガタン、という物音と共に、聞き覚えのある声が全身を包んだ。
「本田さん⁉︎どうしたの⁉︎」
牧野先生は目を見開いて、嗚咽する私を見ていた。
「先生、やっぱり今月末の小学生への読み聞かせ、参加してもいいですか?……心配しないでください。それまでに絵本、創り上げますから」
そう言う私を先生は懐中電灯を持ったまま、ぎゅっと抱きしめた。


【創作交換ノート】

2017/6/1

ミカゲへ。
無事にこのノート、見つけましたかあ?
実は私が、ずっと持ってました、ごめんね!
辛い時にこれ見ると、なんとかやっていけそうな気がして…。けど、やっぱりダメでした!
私は弱い人間です。誰かに助けを求めることすらしなかった。だけどミカゲはそれができる。
もし、ミカゲが私の事で死のうとしているのなら、私はあなたを許しません。
どうか、私のことを本当に想ってくれているのなら、生きてください。
そしてお願い、私の分まで絵を描いて。描き続けて。アナタにはその才能がある。

最後に、大好きなミカゲ、
相談一つしなくて、ごめんなさい。だけど分かって、あなたまで失いたくなかったの。
一緒にいる時間がなによりも楽しかった。

ありがとう。

ヒカル
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