第1話(完結)

文字数 16,089文字

 生まれて初めて、恋人に会いに行く。

 もちろん経費で――である、そうじゃないと無理だ。リナリカ名義の口座には常にギリギリの額しか入っていないし、仮にリナリカが世界を闊歩する大富豪だったとしても、リアルで他人に会いに行くのは、ヴァーチャル技術が発展した現代、よほどの物好きでもない限りしないことだ。

 そんな現代にて、何の因果だろうか、リナリカは一世一代の大旅行をしている。リアルなハグの魅力を知るという、ただそれだけの目的のために。
 
 ***

 ある日の午後五時半、ヴァーチャル・オフィスをログアウトしようとしたリナリカは、同僚のサクタンに誘われた。曰く、遠地のワインをわざわざ入手したから、自分が酔い潰れないよう見守っていて欲しいのだと。リナリカは「これから料理するんだけど」と言い、サクタンは「それでも良いから」と食い下がったので、リナリカはフルフェイス・ゴーグルを半透過モードに切り替えた。リアルの狭いワンルームと、ヴァーチャルの世界が半々で重なり合う。

 フライパンに油を敷く。

 じゅうっと湯気が上がり、ゴーグルの前面が白っぽく曇る。

 一方ヴァーチャルの世界では、サクタンが夕陽の綺麗なビーチを背景にワインを飲んでいる。だが、彼女のアバターは襟足を刈り上げたスパイラル・ヘアに、髪の色は「銀河色」とかいうサイケデリックな青紫で、おまけに顔にはピエロのような化粧をしているので、瀟洒なサンセットビーチにはあまり似合わない。どうにも絵面が情報過多だ。サクタンの顔に被せるようにハムエッグを焼きつつ、取るに足らない仕事の話をしていると「そういえば、さぁ」と彼女がこちらに水を向けた。

「プレゼン、来月でしょ」

 サクタンが油溜まりのなかからこちらを指さす。

「この間さぁ……データは詰めたけど、なんか心に訴えかけるモンが足りない、みたいな話してたじゃん」
「あー……」

 リナリカは天を仰ぐ。
 あまり気乗りのする話題ではなかった。

 リナリカの仕事は、シリコン樹脂を利用した商品のデザインである。特に最近、口コミで有名になった商品が、温熱コントローラをふんだんに仕込んだ樹脂を利用して作られた、等身大サイズかつ人肌に(ぬく)いドールだ。人と人が直接会うことが稀になった昨今、物理的に緊密な太古のコミュニティを愛した老人たち(御年(おんとし)三世紀を越えた生きる化石)が、往時を偲ぶツールとしてそういうものを求めているのだ。

 リナリカたち若者には理解しがたい需要である。

 しかし、仕事なので。

 老人どもの郷愁を、明日の食事にするために。どうにか、人肌シリコンドールの需要を訴えなければならない。

 どう、とサクタンがこちらを見る。彼女はこう見えて仕事人間なので、今日ワインにかこつけて呼び出したのも、本当はこれが目的かもしれない。

「行けそう? リナ」
「いや」

 リナリカは首を振った。ちなみにフルフェイス・ゴーグルを着用しているので、そのモーションはリナリカのアバターの動きに変換されて、回線の向こうにいるサクタンにも見えている。

「なぁんも、分かんない」

 リナリカが素直に答えると、ぶはは、と噴き出すような笑い声がスピーカーから飛び出した。歯に衣着せない言い方がツボに入ったのか、サクタンはひぃ、ひぃと死にそうな呼吸をして笑っている。

「はーぁあ」

 リナリカは溜息を吐いて、焼き上がったハムエッグをプラスチックの皿に移す。

「いやぁ……自分が要らないものを売りこむって、きっつい」
「だからぁ――パッションよ、パッション! そもそもドールなんて娯楽品なんだからさぁ、あっコレちょっと欲しいかもなぁ、家にあったら楽しいなぁって思わせたら勝ちなんだって。リナの要る、要らんは別の話でしょうよ」

 アバターの手をぶんぶんと回して話すさまは、まさしくピエロのようだった――いや、実物を見たことはないが。

「パッションねぇ……」

 リナリカは呟く。

 アルコールがもう回ってきたのか、サクタンの弁舌は、理屈も発音もどうにも甘めだった。しかしながら納得できる部分もある。端から娯楽品なのだから、一発でかいハッタリをぶちかまして、相手の思考回路がバカになったところで「欲しいでしょう」と囁けば、まあ場の流れで「買った!」となる――ならないだろうか?

 ――ならないかな。

 世の中、そこまで甘くない。リナリカは自問自答した挙げ句、自分自身の悲観的な部分に打ちのめされて、リビングの低いテーブルに突っ伏した。

「あぁぁ……」
「まあ、頑張りなや」
「もう辞めたぁい……」

 ついに取り繕いきれなくなった弱音を吐き出すと、スピーカーの向こうからまたサクタンの爆笑が聞こえてきた。リナリカは溜息を吐いて起き上がり、少し焦げたハムエッグをフォークで切ってもそもそと頬張った。

 塩と油の、大雑把な味が広がる。

 そう、たとえば――食糧の代用品というのなら、まだイメージできるのだ。味とか香りとか栄養素とか、評価すべきパラメータがいくらでも思いつくから。でも人肌シリコンドールは違う。あれを老人たちは人肌の代用品というが、リナリカたちの世代はそもそも、なぜ老人たちが人間の体温を有り難がっているか、それが分からないのである。

「あぁぁ……何だよ人肌って、くそぉ」

 考えたら次第にイライラしてきて、リナリカがテーブルの天板に爪を立てていると、サクタンがゴーグルのなかで振り向いて「リナは」と心なしか真面目なトーンで言った。銀河色の髪に夕陽のフィルタが反映されて、なかなか煌びやかである。

「最後に誰かと接触したのって、いつ」
「んん? えっと……二十五年くらい前に、入国審査受けたときかな。あのころ、まだ非接触スキャナなかったしね――って言っても、グローブ越しだけど」
「あぁうん……やっぱ、誰しもそんなもんだよね」

 サクタンが頷く。

 スピーカーの向こうから、コツン、という硬い音が聞こえた。ワイングラスを置いた音だろうか――などと考えていると「よっし!」という掛け声とともに、沈む夕陽(のCG画像)を背負ったサクタンがリナリカを指さした。

「プロジェクトリーダーとして、リナに一週間のお休みをあげましょう」
「はぁ!?

 完全に予想外な一言に、リナリカは口からハムの欠片をこぼした。休暇はもちろん嬉しいのだが、このサイケデリックなピエロが何の裏も無しにそんな提案をしてくるわけがない。

「その代わり」

 ほら来た。
 にや、とアバターの目元が歪む。

「経費出してあげるから、リナはその時間を使って、恋人に会いに行くこと」
「……はっ?」

 口から空気の塊が飛び出した。

「え、リアルで!?
「もっちろん。そんでさぁ、人肌のなにが有り難いのかってのを、体感的に学んで来ちゃってくださいよ」
「いっ……いやいやいや、それはおかしいって」

 リナリカは冷や汗をかいて口を歪めた。

 そう、リナリカには恋人がいる。

 古いアニメーション映画の考察を語るスレッドで、偶然知り合った相手だ。タムロというハンドルネームの彼は、経済ニュースのライターというお堅い仕事をしているが、リナリカとよく趣味が合った。彼には理解できないだろう、シリコン樹脂系メーカーの愚痴も、ニコニコと笑って聞いてくれる。リナリカの日常で何か嫌なことがあっても、彼――タムロに話せば精神的には折半できる。彼の包容力というか、懐の深さがリナリカには有り難くて、まあ有り体に言えば大好きなのだった。

 ただ、この世代のニュー・スタンダード、いやリナリカたちにとってはそれが「スタンダード」なのだが、タムロとはヴァーチャルでしか会ったことがない。キスだのハグだのセックスだの、身体的接触で愛を確かめ合う時代は終わったのだ。翻訳ソフトを通じて聞こえる声と、ヴァーチャル世界に浮かぶアバター、そして交わし合う言葉がタムロという男の全てだった。

 直接会おうだなんて、考えたこともなかった。

 猛然と反抗したリナリカに、サクタンは「そぉ?」と首を傾げてみせる。

「わりと妥当な采配じゃん。知らないから、学んでこい。そう言ってんの。アタシは相手いないし、プレゼン担当はリナだし、ほらぁ適任」
「いや横暴だって、越権だって!」

 リナリカはぶんぶんと手を振り回したのだが、サクタンは「そんなに横暴かねぇ」とワイングラス片手に腕を組む。

「だって、プレゼン詰まってるんでしょ? じゃあ聞きますけど、リナちゃんは何もないところから、ズバッと来るような売り文句を捻り出せるんですかぁ」
「……うっ」

 からかうような口調で痛いところを突かれて、リナリカは肩を縮める。たしかにアイデアが煮詰まっていたのは事実だ。しかも経費持ちに休暇付き。リナリカ自身の懐は痛まないのだから、見かけ上は何も失っていないように見える。

 だけど。

「うぅん……」

 リナリカは足をじたばたと動かしながら、フローリングの床に倒れ込む。直接会うということ――アバターもボイスチェンジャーも機械翻訳も通さずに会うということが、タムロという男の印象を変えてしまうのではないか。

 幻滅……してしまうのでは、ないだろうか。

「どうよ?」
「……ちょっと考えさせて。また明日」

 サクタンの言葉に曖昧な回答で返して、リナリカはヴァーチャル・オフィスからログアウトした。切断する直前に「まだ話は終わってない」とサクタンがわめいていた気もするが、酔っ払いの妄言だと思って気にしないでおく。リナリカは食べ終わった皿をキッチンに戻し、そのままベッドに引き返してごろりと転がった。

「リアルで会いに、ねぇ」

 天井を見つめて呟く。
 無茶苦茶なことを言い出すものだ。

 タムロの住んでいる国は、ほぼ地球の裏側にある。その時差は実に十一時間。国と国との主要都市同士を行き来するだけでも丸一日かかるし、費用は片道でも千ドルを超える。サクタンは今回のプロジェクトにかなり熱を上げているようだが、それだけ時間と資金を費やしたところで、最悪の場合リナリカが恋人に幻滅しただけで終わるのだ。

「……はぁ」

 重々しい溜息。

 嫌な想像がいくつも浮かんで消えた。だが、どれだけ頭のなかでぐるぐるとシミュレートしたところで、リナリカの想像力には限りがある。リナリカはベッドから起き上がって、外していたゴーグルを付け直した。

 とりあえず、彼に相談してみよう。

 それでタムロの方から断ってくれば、それを口実としてサクタンに突きつければ良い。金で雇われているリナリカはともかく、タムロにはプロジェクトに協力する義務などないのだから。

 時計を見ると、午後七時半。

 いつもより三十分ほど早いが、タムロに連絡してみることにする。リナリカはゴーグルのスイッチを切り替えて、ヴァーチャル世界のメルヘンで牧歌的なダイニングにアクセスし、地球の裏側にいる恋人を呼び出した。

 二分後。

 木製の丸い窓の手前に、見慣れたアバターが現れる。ビビッドピンクの髪の毛をポニーテールにして、濃いアイラインで縁取られた目の色は金と銀のバイカラー。頭から生えている髪の毛と同じ色のネコ耳――サクタンに負けず劣らず派手なアバターが、半開きの目でこちらを見た。

「――リナ?」
「おっはよ、タムロ」

 リナリカは手を振ってみせる。

 おはよう、と応じるタムロの声はいつもながら眠たそうだった。彼は寝起きが悪いので、リナリカが毎日こうして起こしてやっている。タムロが無事に目覚めてからオフィスに出社するまでの一時間ほど、リナリカは彼が朝の支度をするのを見守りつつ、雑談やら愚痴やらを聞いてもらうのである。

 タムロは時計を見て「まだ早いよ?」とぼやいたが、特に文句を言わずに起き上がって朝の支度を始めた。顔を洗う三分間だけタムロがゴーグルを外すので、リナリカはその時間、足をぶらぶら動かしながら彼の帰りを待つ。

 ――どうしよう。

 リアルで会いに行くよう言われた、とタムロに伝えてみようか? そうしたら、彼は何と答えるだろう。経験上タムロは、場を円滑にするための嘘などはあまり吐かない。従って、会いたくないのであれば、多分ストレートに断ってくる。

『リアルでは会いたくないかな』

 そう言われるところを想像してみると、胃がひゅんと竦んだ。うわ、とリナリカは思わず口元に手を当てる。なんだか後ろに突き飛ばされたような気分だった。別にリナリカだって、リアルのタムロと会いたいわけではないけど。「会いたくない」とはっきり言葉に出して拒絶されたら、それはそれでかなりショッキングだ。

「うぅん……」
「お待たせ、リナ」
「ひゃ!?

 考えあぐねているところに、突然タムロが戻ってきたので、リナリカは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。タムロが金銀の目を細めて「どうしたの」と問いかけた。

「なんか今日、元気ないよね」
「いや――実はさぁ、うちの同僚に」
「うん?」

 優しい声音が続きを促す。

 そう、この声のトーンが好きなのだ――ボイスチェンジャー越しではあるけど、まろやかで相手を責めない丸っこい声音。だからこそリナリカはひとつ唾を飲み込んで、えへへ、と困ったような笑い声を作ってみせた。

「……プレゼン、早く作れって急かされてて」
「ああ……大変だね」

 トポポ、と珈琲を淹れる音とともに、タムロのアバターが眉を下げてみせる。ここで彼が「何のプレゼン?」とか聞いてこないのは、相手の仕事にはお互い干渉しない――というのが、二人の不文律になっているからだ。

 でも、今日は聞いて欲しかった。

 そうすれば、自然な話の流れで、リアルな身体的接触についてどう思う――と尋ねられるのに。リナリカは労働で疲れた頭を捻って、どうにか、彼の口から間接的に「会いたい」もしくは「会いたくない」を引き出せないか考えた。

「――タムロ」

 ぎゅっと胸元で手を握る。

「あのさ……私のリアルの顔って、見てみたいとか思う?」
「リアルのリナ?」

 ぱち、とタムロがひとつ瞬きをする。

「見てみたいってか、知ってるよ俺。リナんとこの会社の、公開データベースに画像があるじゃん」
「あ、あれ――古いし。入社のときに撮った、二十年前のやつ」
「そんなに変わんないでしょ?」
「そ……そうだけど」

 リナリカは言い淀む。

 聞きたかったのとは違う方に、話の流れが行ってしまっている。すると、ヴァーチャルなリビングで、タムロのアバターがこちらに手を伸ばした。リナリカが付けている簡易ゴーグルと違って、タムロのは全身の動きに対応しているから、そういうことができるのだ。

 アバターの指先が首を抱き寄せる。
 顔の近さに、思わず背中に力がこもる。

「……リナリカ」

 心なしか真剣なトーンになったタムロが、目の前で言った。

「なんかあったなら、ちゃんと教えて。なんか悩んでるのかなって思うけど、俺、察しはあんまり良くないから」
「……うぅ」

 頬がかぁっと熱くなった。

 タムロのまっすぐな言葉に、リナリカは弱い。結局、サクタンから命じられた出張の内容を、守秘義務に抵触する部分を除き、全てありのまま吐き出してしまった。

「なるほどね。それで、困ってたんだ」

 星の真裏にいる恋人は言う。

「俺は良いよ。リナに会ってみたい」
「えぇ!」

 思っていた以上にあっさりとした返答に、リナリカは目を剥いた。「良いの」と素早く問い返すと、タムロは頷いてみせる。

「だって、会ったことないよりは、会ってみたほうが、知らなかったことが知れそうだなぁって思うし」
「そ……そっかぁ、うん、まあ確かに……」
「でも、こっちまで来るの大変だと思うし、危ないこともあるかもだから……リナが不安なら、俺からも、その出張を取りやめてもらうように、なんとか同僚の人に言えないかなぁ……」

 タムロは真剣に考え込んでいて、リナリカは本当のことを告げるタイミングを逃してしまった。

 ――違う。

 お互いの距離の遠さとか、道中の危険とか、そういう理由でタムロに会うのを渋っているわけではない。もっと失礼な――タムロとリアルで会ったら幻滅するのでは、という理由なのだ。

 リナリカはゆっくりと背筋を伸ばした。

「……タムロ」
「うん?」

 やっぱり会ってみたいな。

 リナリカがそう言うと、タムロは喜ぶよりも先に「本当に大丈夫?」と不安そうに訊いてきた。そうだ、彼はこんなに優しい人なのだ。この優しさは、ヴァーチャルで作られたものではない――きっと、そう。だから、リアルで会っても平気なはず。
 
 ***

 タムロと会うことが決まってから、リナリカの日常は一気に忙しくなった。人間が物理的に移動する必要性は、特殊な職種を除き、現在となってはほとんどゼロに等しい。そのため、一介の民間人に過ぎないリナリカが国境を越えて移動するためには、無数の煩雑な手続きが待ち受けていた。

 月曜、ヴァーチャル・オフィスをログアウトした後、夜の自由時間にて。計二十三枚に及ぶ「国外訪問願」を書き上げて、サクタンを通じ会社にもサインをもらってから入国管理局に送信。

 火曜、ヴァーチャル・オフィスをログアウト、以下略。非接触式身体スキャナを利用して、身体の精密検査を受ける。そんなところまで数字にしなくて良いから――と口を出したくなるような詳細なデータを、恥を忍んで送り出す。

 水曜、届いたワクチンキットを使って注射を三本打つ。左腕が肩から上に上がらないほど腫れ上がり、その夜は何度も痛みで目が覚める。

 木曜、旅行仲介業者と半日に及ぶ打ち合わせ。タムロの国では個人用送迎車両の台数がまだ少ないため、道中で待ち時間が発生するかもと告げられる。

 金曜、またまた書類を書かされる。この間書いたばかりなのに――と思ったが、今度は訪問先の国で何が起きてもワタクシは文句を言いません、という意味合いの念書だった。こうなるといよいよ怖くなってきて、リナリカはウェブを駆使してタムロの国の評判を調べ始めた。

 出発前夜、夜更かしして午前二時。

 ひとまず、彼の国で危険な目に遭った――という類いの書き込みは出てこなくて、リナリカはほっと胸をなで下ろした。とはいっても、そもそも渡航者のサンプル自体が五人しか見つけられなかったのだが。

「はぁ~……」

 枕に顔を埋めて、リナリカは溜息を吐く。

 この一週間、とんでもなく忙しかった。タムロに愚痴の一つでもこぼしたいが、向こうの国は真っ昼間であり、彼は地球の裏側で仕事中だ。リナリカはワンルームの床をじっと見つめて、一万と二千キロの向こう側にいるタムロの背中を想像する。

 今頃はランチタイムだろうか。

「……遠いんだなぁ」

 唇を尖らせて、呟いてみる。

 半日だけ先の世界を生きているリナリカの恋人は、ゴーグルを付ければすぐ目の前に現れる。話すことも、顔を見ることも、このワンルームから一歩も出ないままできるのに、今までずっとそうだったのに――本当は、すごく遠かったのだと、リナリカは、その日初めて気がついた。

 翌朝、午前八時。

 リナリカの部屋の前にオートグライダーがやってきた。これは、一世紀ほど前に実用化された、完全無人飛行の小型航空機である。リナリカは二十五年ぶりに引っ張り出してきたトランクと、十五年ぶりにクローゼットから出したダウンコートを持って、オートグライダーに乗り込む。

 リナリカのワンルームは地下五百メートルにあり、場所としては、国が提供している一般居住チャンバーの一角である。チャンバーの間に張り巡らされた通路は、下を切り取られた楕円に似た断面をしている。リナリカが扉を閉めて認証を済ませると、オートグライダーがふわりと浮かび上がって、ベージュ色の通路を進み始めた。

 リナリカは固いシートにもたれて、流れていく外の景色を眺める。

 地下を出るのは、ずいぶん久しぶりだ。以前、チャンバーの安全装置が誤作動を起こしたとき、アラート音が鳴り響くなか地上に避難したけれど――あれも五年、いや六年前だろうか。必要な消耗品は注文したとおりに配達されるし、健康を保つための運動もすぐ隣の施設でできるので、リナリカの生活はせいぜい半径数十メートルで閉じている。

 その領域を出れば、何か感慨めいたものを抱くかと期待したけど。

 分厚い窓ガラスに額を当てて、リナリカは目を細める。無彩色ののっぺりした壁といい、似たような景色が繰り返すのといい、吃驚するほどつまらない。飽き果てたリナリカは荷物から出したゴーグルを付けて、ヴァーチャル空間にログインした。

 ピンク色の空と海が、リナリカを出迎えた。

 最新型の液晶が実現する、圧倒的に鮮やかな色空間のなかで、現実(リアル)よりリアリスティックな景色が描き出される。リナリカがコマンドを打ち込むと、景色は精細にモデリングされた月面に変わり、#000000の完全な黒色で描画された宇宙に、色調を青っぽく調整された地球が浮かび上がった。

 リナリカは銀河の煌めきに目を細める。

 五感で感じ取れる世界のうち、視覚と聴覚においては、今やヴァーチャルがリアルの上位互換になった。触覚や味覚については未だ開発途中であるものの、ゴーグルに取り付けることで擬似的に匂いや味を再現できる外付けモジュールが数年前に商品化されている。

 最後に残るは触覚。

 リナリカが関わっている人肌シリコンドールのプロジェクトは、大局的に見れば、人類が触覚を再現する試みの一端と言える。物理的に距離があっても、五感の全てをヴァーチャルで満たせるようになったら、そのとき人間は完全に移動のコストから解放される――のだろうか。

 タムロの国の首都まで十五時間。

 移動時間を潰すため、リナリカはオートグライダーの座席に寝転がり、宇宙空間を舞台にしたシューティングゲームをした。途中で二時間ほどうたた寝をして、目が覚めてから今度は映画を見た。古い戦争を題材にした、全体的に埃と硝煙の匂いが漂う(外付けモジュールを使えば実際に匂いを嗅げる)九十五分の映画だ。

 最初の小競り合いのような戦闘が終わり、場面は夜の要塞に移動する。

 翌日の本格的な戦闘に備え、兵士たちがお互いの闘志を確かめ合うシーンだが、どうにも動きが乏しいので退屈だ。リナリカは目を細めて、ウォッカ片手に語り合う兵士たちから、書き割りの星空に視線を移す。

 ふぁ、と欠伸をする。

 座席の柔らかいクッションも相まって、また眠たくなってきた。耳に入ってくる、役者たちの台詞をぼんやりと聞き流していると、だんだん、夢と現実の境目が曖昧になっていく。

 リアル。
 快適で狭い送迎車両のなか。

 ヴァーチャル。
 遠い昔の紛争地帯。

 濾過されたような静謐な夜、スパンコールを撒いた星空。草むらに寝っ転がる下級兵士のリナリカは、ふと、隣に誰かの気配を感じる。

「リナ」

 タムロだ。

 ビビッドピンクのポニーテールが、迷彩柄の軍帽からはみ出している。ネコ耳は折り畳まれて軍帽のなかにしまわれている。金銀の双眸がリナリカを見たかと思うと、眩しいものを見るように細められた。

「リナ、皆のところに行かないの?」
「……行かない」

 リナリカは首を振る。

 酔っ払っている仲間の兵士たちは、うるさい上に乱暴なので、うっかり目を付けられると面倒だ。それよりは星空を眺めているほうが良い。リナリカがそう言うと、タムロは「そっか」と穏やかな口調で言った。

「……リナリカ」

 リナリカの指先に、タムロがグローブ越しに触れた。固くて毛羽立った感触が、リナリカの指の、第二関節あたりの皮膚を擦る。それからタムロの指が、リナリカの指と指の間に入ってきて、ちょっと遠慮した握力でぎゅっと握りしめる。

 固い軍靴のなかで、足の指に力がこもった。

 戦場を模した夢のなかでも、二人は恋人だった。だけど国の威信を背負った兵士でもあるから、次に太陽が昇ってくれば二人は戦場に向かう。そして、もしかしたら、二度と帰ってこられないかもしれない。

 だから最後の夜は、心残りがないように過ごさないと。リナリカもタムロも、口にこそ出さないけど、それをよく心得ているのだ。

 寝転がっているリナリカの身体に、タムロが覆い被さる。耳に引っかかっていた髪の毛がひらりと垂れて、リナリカの頬をくすぐった。

「リナリカ、抱きしめても良い」

 顔が近づいて、耳元で囁く。

 リナリカはちょっとだけ勿体ぶってみせてから「良いよ」と答えて起き上がる。荒々しく伸びた草むらが、つないだ二人の手をちくちくと刺す。少し涼しい夏の夜だった。天球は藍色から濃い水色までのグラデーションに彩色されて、そこを横切る天の川が宝石のようで。

 バイオレットのレンズフレアが、世界を揺らがせる。星光りからこぼれる虹色のゴーストに導かれるように、リナリカは恋人の首に手を回して、ゆっくりと身体を近づけた。

 漸近。
 そして、距離がゼロになる。

 キラキラに彩られた銀河の真ん中で、二人のために美しく飾られた舞台で、映画のヒロインはヒーローと抱き合った。

 そんな、夢だった。

 リナリカはうたた寝から目覚める。映画はもうとっくにエンディングを迎えていて、ブラックアウトしたゴーグルの液晶画面がリナリカの入力を待っていた。変な姿勢で寝たせいかギシギシと軋む腰を伸ばしながら、リナリカは夢の内容を頭のなかで反芻した。

 まだ、少し胸がドキドキしている。

 それほどロマンチックなハグだった。映画で言うなら、きっとあれはクライマックス。美しい音楽や映像や、ハラハラする演出で観客の想像と期待を掻き立てて、頂点まで達した緊張を解き放つ瞬間――それが、あのハグだ。

 リナリカはゴーグルを外して目をこする。

 オートグライダーの窓は目隠しが降りていて、外の景色は一切見えなかった。事前の説明でも、機密保持のため、地上の景色は基本的に見られないと聞いていたので、そういうことだろう。はぁ、と溜息を吐いて、リナリカは狭い機内の天井を見上げた。

 退屈で地味なのが、現実(リアル)だ。

 それは別に、文句を付けるようなものではない。むしろ、リナリカの先祖たちが代々力を合わせて、地味なリアルを彩るべくヴァーチャルを発展させてきたのだから、リナリカたちは有り難くその成果を享受すべきなのだろう。

 ――でも。

 今からリナリカは、恋人とリアルでハグをしにいく。そのリアルのハグは、多分、夢で見たハグほどドラマチックではない。だって、あんな美しい景色は地上のどこを探してもないし、戦場に向かうような物語性も持っていないから。

 じゃあ。

 リアルのハグの価値って、何だろう?

 リナリカは考える。

 リアルを脚色したのがヴァーチャルだ。言い換えればリアルは、ヴァーチャルを構築するための下書きとか、叩き台みたいなものと言えるかもしれない。リアルにあるものを分析して、その長所をパラメータにして、より強調したものをヴァーチャルで再現する――そんな一連のフローのなかで、今リナリカに与えられているのは「リアルなハグの魅力とは、パラメータで表すなら何と何?」という問いなのだ。

 タムロとリアルで会うことで、その問いに答えが出れば良いのだが――どうにも前途多難な気がしてリナリカが額を抑えた、そのときだった。

 突然、ガタッという衝撃に襲われた。

「な……何々?」

 それまで微動だにせず飛行していたオートグライダーが揺れる。慌ててリナリカが座席にしがみついたのと前後して、壁に付けられたスピーカーから声が流れ出した。

「お客さん、すみません。こちら管制室です。ちょっと、天候荒れてまして――」

 曰く、天候不順のためにオートグライダーの飛行が困難になり、目的地より一キロほど手前で不時着する運びになったという。リナリカに事態を説明してみせるオペレーターの口調は淡々としていて、あまり焦っている様子はない。

「こういうこと、良くあるんですか?」

 リナリカが問うと、オペレーターは「そうですねぇ」と相槌を打った。

「冬場は、どうも多いですね。この季節、山肌に風が吹き付けたのが、ぐるぐるっと渦を巻いてね――軽いグライダーだと舵を取られちゃうんですわ」
「へぇ……」

 なんだか専門的な説明をされた気がするが、上澄みしか頭に入ってこなかったので、リナリカは理解できた部分を口に出す。

「今、冬なんですね」

 地下にいると、季節を自覚することは少ない。リナリカの返事に、オペレーターは面白そうに笑い声を立てながらも「最近の人は、みんなそうですね」とどこか寂しそうに答えた。

 ***

「――はぁぁ!? さっむ……!」

 タムロの国に降り立って、リナリカの第一声はそれだった。

 オートグライダーが不時着したのは、雪深い山の中にある、古びたヘリポートだった。一応は人の通行を想定した道が設けられているものの、天井はなく吹きさらしで、風がびゅうびゅうと吹き付けて体温を奪っていく。

「あの、機内にヒーターあるんで」

 スピーカーの向こうで、リナリカを案内してくれたオペレーターが言う。

「良かったら使ってください」
「……ああ。はい、ありがとうございます」

 リナリカは生返事をする。

 言われるまでもなく、分厚いダウンコートの下にヒーターを装備していた。さらに、機内にあったブランケットも勝手に持ち出して羽織っていた。それでも膝はがくがくと震えて、指先はしびれて麻痺していく。いつも適温の空間で生活しているだけに、温度変化にはとことん弱いのだ。

連絡港(ポート)まで、歩いて十五分くらいなんで」

 申し訳なさそうな声が言う。

「お客さん、申し訳ないですけど、今だけ我慢してください。なんかあったら、すぐ呼び出してくださいね」
「……はぁい」

 リナリカは不承不承頷いた。

 口元のチャックを引き上げて、雪の舞い散る通路を歩き出す。吹雪が激しくて、景色はほとんどホワイトアウトしていた。少し進むと半地下のように道が掘り下げられていて、風が身体に直撃することはなくなった。それでも、身体の芯まで蝕むような寒さは変わらない。骨髄がピシピシと音を立てて凍りついていくような感覚に、リナリカは歯を震わせながら早足で歩いた。

 びゅう、と木立を風が揺らした。

 かと思うと、枝に積もっていた雪が落ちてきて、リナリカの肩で弾け、水飛沫みたいに散った。襟の隙間に雪の欠片が入り込んで、ぴりっと刺すように冷たい。

「はぁ……」

 溜息を吐くと、真っ白に濁る。

 ああ、何やってるんだろう――という、虚脱感にも似た感覚がリナリカを襲った。こんな世界の果てみたいな場所で、とんでもない寒さに耐えてまで、特段ドラマチックでもないハグをしにいく。プレゼン資料なんて適当にでっち上げてしまえば良かったのに、どうしてサクタンの口車に乗ってしまったのか。

 じわ、と目尻に涙がにじんだ、そのときだった。

「――リナ?」

 スピーカーから暖かい声が流れ出して、リナリカははっと目を見張る。タムロの声だ。話しかけられたチャンネルがいつもと違い、応答する方法が分からずにあたふたしていると「大丈夫?」とさらに問いかけられた。

「えっと、通じてるのかな? グライダーが不時着したって聞いたんだけど――俺の声、聞こえてるかな」
「あ――このボタンか」

 操作マニュアルを参照して、ようやくリナリカはマイクをオンにする方法を見つけた。耳元のダイヤルを回して、収納されていたマイクを引っ張り出す。

「――タムロ?」
「あ、リナ……!」

 ようやく応答したリナリカに、彼がほっと安堵の息を吐いたのが、回線越しでも分かった。

「繋がって良かった。今、どうしてる?」
「えっと……なんか、歩いてる」
連絡港(ポート)まで?」
「多分そう」
「座標、俺に送ってもらっても良い?」
「なんで……? 良いけど」

 心配されているのか、いつも以上に優しい口調のタムロに、リナリカは短く答えた。自分は疲れているんだから――という甘えがあって、つい突き放すような語気になってしまう。

「あ――届いた」

 座標を送った数秒後、タムロが言う。

「ありがとうね、リナ」
「――うん」

 何か言いたいのをこらえて頷く。

 タムロの口調が穏やかなのが、逆にリナリカの苛立ちを募らせる。彼はいつも通り、快適な居住空間にいるのだろう。こんな過酷な環境でとぼとぼ歩いているリナリカの気持ちなんて、タムロには想像できるはずもない。

「リナ、そっちは寒い?」

 だから、そう問われたとき、リナリカはついに糸が切れて「当たり前じゃん」と叫んでしまった。自分の出した大声に自分で吃驚して、目尻から涙がぽろりとこぼれる。

「寒いに決まってるじゃん、吹雪だもん! 近いって聞いたのに全然着かないし、ヒーター、ぜんぜん効いてないしっ……」
「――リナ」
「もぅ……やだ」

 重たい足をそれ以上前に出せなくて、リナリカはその場で頭を垂れた。

「なんで、こんなこと……私、帰りたい」
「もうちょっとだけ、頑張って、リナ。もう、半分以上来てる。すぐ連絡港(ポート)に着くから」
「やだぁ……」
「リナ」

 宥めるような、困ったようなトーンでタムロが名前を呼ぶ。そのとき、ふと違和感に気がついて、リナリカは顔を上げた。

「……あれ?」

 今、タムロの声が、二重に聞こえた気がした。

 スピーカーの設定を確認するが、特に異常が発生しているわけでもない。リナリカが首を捻ると、応答がないことに心配したのか、タムロが「リナ?」と呼びかけてくる。その声も、ほんの少しのラグを伴って、二重に聞こえた。

「タムロ……」
「あ、良かった、リナ。平気?」
「あのさ――」

 どきどきと鳴る胸を抑えて、リナリカは問いかける。

「もしかして……タムロ、こっちに来てる?」
「……あー」

 はは、と吐き出すような笑い声。

「バレちゃった?」

 遠回しの肯定。

 やっぱりそうなんだ――とリナリカは目を見開く。電波に変換されたスピーカー越しの声と、空気をダイレクトに伝う音波の声が重なり合って、二重に聞こえているのだ。

「ごめんね」

 タムロが言う。

「何となく、リナを吃驚させようかなと思って、黙ってた」
「えっ、でもだって……今って」

 こちらの国では、今は昼間だ。

「仕事中だよね?」
「今日は早退してきた。だって、リナの緊急事態だから」

 何でもないことのようにタムロが言う。

 リナリカは呆然と立ち尽くしながら、緩やかに湾曲した通路の向こうに目を凝らした。掘り下げられた通路に吹雪が叩きつけて、白い煙幕のようになっている。

 その向こうから、動く影がやってくる。

 それはリナリカの方に走ってきたかと思うと、リナ――と叫んだ。あっという間に距離が詰まり、灰色の分厚いコートに覆われた腕がこちらに伸びる。

 正常に認識できたのはそこまでだった。

 驚きで頭が麻痺してしまって、五感と思考がバラバラになる。ガチャン、という何かがぶつかり合う音。何かに埋もれる視界。ふわっと浮き上がる踵と、包み込むような力。気がつけばリナリカは、タムロの腕のなかにいた。

 予期しない展開に、リナリカは硬直する。

 リアルのタムロは「抱きしめても良い?」なんて尋ねなかった。ただ、それが当然の流れだとでも言うように、リナリカの身体を抱き寄せて受け止めた。分厚いコート越しなので、彼の体温はほとんど感じなくて、なのになぜか温かい。

「……リナリカ」

 ボイスチェンジャーを通していない、生の声がリナリカの名前を呼ぶ。リナリカはゆっくりと顔を上げて、タムロの顔を見た。髪の色はビビッドピンクじゃなくて、墨色に近い褐色だし、目の色も褐色で、派手なアイラインも引いてない。もちろんネコ耳も生えてない、モノクロ映画から飛び出してきたみたいな地味な男が、リナリカを見つめていた。

「タムロ……」

 でも、間違いなくリナリカの恋人だ。

 リナリカの非常時に、仕事を休んでまで駆けつけてくれる相手は、リアルにしてもヴァーチャルにしても、この人以外あり得ないのだから。

「……会えて良かった」

 リナリカがそれだけ絞り出すと、タムロが苦笑して自分の唇を指さし、緩やかに首を振った。彼がぱくぱくと口を動かしてみせる意味を、数秒考えてようやく察する。普段はボイスチェンジャーと併せて機械翻訳を使っているけれど、リナリカとタムロは母国語が違う。いつの間にか耳から外れていたスピーカーを付け直して、リナリカはもう一度「タムロ」と、回線越しに呼びかけた。

「リナ、さっき、何て言ったの?」

 タムロが機械翻訳を通じて訊いてくる。

 同じことをまた言うのは恥ずかしくて「別に」とリナリカは唇を尖らせる。

「アバターと全然違うなって」
「そりゃあね」

 タムロが、少し不揃いな歯を見せて笑いながら、リナリカの背後に腕を回した。

 首筋に、ふわりと布が掛かる。

 真っ白いマフラーを巻いてくれたタムロが「じゃあ」と言ってリナリカの腕を掴んだ。

連絡港(ポート)まで戻ろう。すぐだから」
「……うん」
「今日はゲスト用チャンバーに泊まるんだっけ」
「そのつもりだったけど……でも、やっぱ連絡港(ポート)で手続きして、今日帰ろうかな」
「え?」

 タムロが驚いた顔で振り返る。

「リナ、せっかく頑張って来たのに」
「でも目標は達成したから」

 リナリカが言うと、タムロは不思議そうに首を捻りつつも「リナがそれでいいなら」と頷いた。タムロが言ったとおり、連絡港(ポート)はすぐそこで、二人はスライドドアを抜けて地下に潜っていった。

 ***

 今回の出張の目標――リアルなハグの魅力を知ること。

「んで?」

 ヴァーチャル・オフィスで、サクタンのアバターがこちらを見た。その髪型はスパイラル・ヘアから、無数の針が立ったような髪型に変わっている。猫のような目がじろりとリナリカを睨んだ。

「予定より、ずいぶん早いお帰りですけど。プレゼン、期待しても良いわけ」
「――うん」

 リナリカは頷く。

「いいもんだわ、ハグって」
「ほーぉ。その心は?」
「何て言うのかなぁ……私、めちゃくちゃ面倒くさい手続きしてさ、途中で緊急事態もあってさ。それでようやくタムロに会えたわけじゃん」
「うんうん」
「控えめに言ってバカじゃん? お金と時間を費やして、得られたモンがそれだけっていうね。でも、そんなバカなことをしても、ってか、ハイコストだからこそ、それでも待っててくれる人がいて嬉しい。つまりハグって、そういう肯定の象徴だと思った」
「……ちょっとぉ。抽象的だな」

 サクタンが頬を膨らませる。

「プレゼンなんだから、ちゃんと言語化してくれないと。要するに、難易度の高いプロジェクトだからこそ、達成したら気持ちいいみたいな話ね――」
「うん、そんな感じかな」

 いかにも仕事人間らしい表現だなと思いながら「あと」とリナリカは補足を付け足す。

「何やっても受け止めてくれる人がいるって、有り難いみたいな話」
「はいはいはい……あれ?」

 頷きながらノートを取っていたサクタンの動きが、ぴたりと止まる。

「それってヴァーチャルで再現できな――」 
「うん、だからねサクタン……私、やっぱりプロジェクト降りても良い?」
「――っはぁ!?
「だって」

 リナリカは、膝掛けにしている白いマフラーをぎゅっと握りしめる。あのときタムロに貸してもらって、そのまま返し忘れてしまったものだ。柔らかくて、ちょっと毛羽立ってちくちくした感触は、人肌シリコンドールなんかより何倍も、あの日のことをリナリカに思い出させてくれる。

「やっぱさぁ……ハグって、そんなインスタントなもんじゃないよ。ちゃんと、頑張って会いに行ったからこその、ご褒美っていうかさぁ……」
「ちょっと待て! こら! アタシはねぇ、リナ、そんな惚気を聞くために何千ドル出してやったわけじゃ」
「じゃあ……私が払うよ。それもハグに必要なコストだから」
「待て待て。リナ、あんたは今バカになっている。落ち着いて考え直して――」

 リナリカは音声を切った。

 無音のなかで騒ぎ続けるアバターの、銀河色をした髪の毛は、オートグライダーのなかで見た夢によく似ている。



 星の真裏の309K 了
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