すくい

文字数 3,137文字

 いま私はこの自分のことがよくわからない。ただ、自分がここに存在している意味だけははっきりと理解している。だからこの状態を苦しいとも思わないし、少しの辛さもない。

 目の前のその人はとても困った顔をしながら私の口元に小さなスプーンを近づける。私はその手をはらいのけ、声とはいえない唸りに似た音をお腹の底から吐き出す。床に散らばったものを雑巾で集めているその人の表情には見覚えがある。それはあの時の私とよく似ている。

 誰もが眠りに落ちるころ、このとても使いにくい身体から解放された私は思いのままに時間を過ごす。故郷に帰る。懐かしい場所を訪ねる。それがたとえ銀河という枠を超えた遥か遠い星の裏側だとしても、私にはいとも簡単ことだ。

 そして今夜、自分の長い歴史を振り返る。でもそれははっきりとした記憶を辿ることとは違う。それはイメージのなかを滑る感覚だ。そこには風景すらなく、言葉はもちろん存在しない。

 でもいま私は形のある物を探している。たぶんそれは、あの人を救うための言葉を私が求めたからなのだと思う。

 イメージの海の遥か上空から、白波の隙間のある一点を目指して滑空を試みる。簡単ではない。私はまだ万能ではないのだ。何度かの失敗ののち、その点は私を受け入れた。そして私の意識は波打ち際の湿った砂の上で目覚める。


 そこには風景や言葉のある世界が広がり、あの子の母親として生きた日々が蘇る。あの、言葉には尽くしきれない苦悩とともに。

「どうしてなの?どうしてお母さんをそんなに苦しめるの?お母さんは何か悪いことをしたの?」

私はいつも娘を責めた。ごめんなさいと言って泣いている幼い子を責め続けた。そして泣き疲れて眠る彼女の柔らかな髪を撫でながら泣いた。

「ごめんね。でも、お母さんどうしたらいいかわからないの」

 我が子の起こすトラブルはその成長とともに深刻さを増し、その速さは私が火を消して回る速度をなんなく追い越した。擁護の声は次第に小さくなり、やがて消え、私はひとりになった。非難の輪は不吉な流行り病のように広がり、意図的な嘘はその輪の域を超え真実に化けた。

「どうして?」

そう問いかけることにすら疲れ果てた私にあのとき電話をくれたその人がいったい誰だったのか、いまでは思い出せない。

「一度ゆっくりお話がしたいと思っていたんです」

 どこかで会ったはずなのに彼女の顔を思い出すことができない。でも、いつも口元に笑みをたたえたその表情だけは蘇ってくる。

「娘の遺品を整理していたら、テレホンカードを一枚見つけたんです。支援団体の方からあの子がもらった物だと思います。何か困ったことがあったら使うようにと」

 彼女は娘さんの遺したそのカードだけを手にアパートのすぐ前にある電話ボックスの受話器をあげ、私の番号のボタンを押したのだ。

「このカードが終わるまで、私の話を聞いてもらえますか?」

彼女はそう言った。それが亡くなった娘さんの願いなのだと。

「私が娘を連れてあの夫の元を離れることが出来たのは、あの子のおかげだったんです。ただ私はそのことについて長い間大きな、本当に大きな勘違いをしていたと気づいたんです。娘を事故で亡くした少し後でした」

 失われてしまった幼い命を慈しみながらも、口元に優しそうな笑みを浮かべているのが想像できる。

「自分はどうなってもいいから、この子だけは夫の暴力から守らなければと、そればかり考えていました。家を出ることを何度も考えましたが、生活面の不安もありましたし、逃げきれるという自信もありませんでした。今にして思えば方法はあったんです。でも私は家を出ない言い訳を考え、いつか訪れる平穏な暮らしを妄想し、行動することを避けていたんです」

 彼女はその後、夫の暴力が娘さんにまで及び始めたことで家を出る決心をする。相談窓口を通して警察の協力も得られ、支援団体からの経済的な援助と行政上の優遇措置でなんとか生活のめども立った。生活は苦しかったし、夫の影も完全に振り切ることはできない。それでも暴力に怯えて暮らす日々から解放されたことは、母子の人生が大きく好転した瞬間だった。しかしその数か月後、彼女は娘さんを失った。

「私は絶望の中にいました。本物の絶望というのは本当に何もないんですね。娘の死を知った時、私は錯乱状態に陥りました。事故の相手を恨み、守れなかった私自身に憤り、そして神なのか運命なのか、そういったものに対する怒りで私の身体は張り裂けそうでした。時間を戻せるなら戻して、身代わりになれるなら喜んでこの命を捧げるのにと。しかし何日も続いたそんな感情の嵐のようなものが去ってしまうと、次に訪れたのは全く空っぽの状態でした」

 彼女は娘さんの写真を胸に抱いてただぼんやりと数日を過ごした。何も食べず、人にも会わずに時間だけが過ぎ、体力的にも限界に近づいていた彼女の中ではひとつの疑問が繰り返される。

「あの子はいったい何の為にこの世に生まれて来たのだろう?私はそのことばかり考えていました。目の前で繰り返される暴力に怯え、貧しい暮らしに耐えたあげく無残な事故でその短い人生に終わりが来た。まだ10歳にもなっていないのに。彼女に生まれた意味があったのだろうかって、意味があるならどうして、どうしてこんなに短い時間で人生が終わってしまったのかって」

短い沈黙の後、小さな深呼吸が聞こえた。
 
「私は思いました。娘のところへ行こうと。娘の生まれた意味と同じように、私がこれから生きていく意味も分かりません。私はこの子を守る為だけに生きて来たんです。それなのにその必要がもう無くなってしまった。でも人間はそう簡単に死なないものだとわかりました。あの子はあんなにあっけなく死んでしまったのに、わたしは死にたいのに死なないんです。何度も娘の夢を見ました。そして目が覚める。でも何度目を覚ましても、そこはあの子のいない世界なんです」

でもその後、彼女は娘さんに会えた。少なくとも彼女にとってそれは現実だった。 


「あの子は私のために食事を用意してくれたんです。たったひとつだけ大切にしていたおままごとのおもちゃで。夫から逃げるときもしっかりと抱えていたものです」

 彼女はそのとき娘さんに尋ねた。あなたはどうしてこんなに早く死んでしまったのか?辛いことしかなかった短い人生にどんな意味があったのか?娘さんはその問いには答えず、短い言葉を彼女にかけた。

「ねえ、ママ。ママはもう大丈夫だよ。だから、ね、ちゃんとごはん食べてね。それだけ言うとあの子は天使みたいに、本当に天使みたいに優しく微笑んだんです」

 でもそれは、彼女の問いに対する答えそのものだった。

「あの子が存在した意味のすべてである今の自分を大切にしなければと思います。そうすることであの子の短い命の意味が確かなものになると思うんです」

 娘のことで途方に暮れていた私の中でそのとき何かが音を立てた。そして大粒の涙が頬をつたい、私は声を上げて泣いた。娘が起こすトラブルは彼女の問題ではなく、私自身の問題なのだとはっきり分かった瞬間だった。

 私が泣いている間、電話の向こうの彼女はただ黙っていた。号泣してしまったことを謝ろうとしたとき、突然電話は切れてしまった。無音の受話器から波の音がした。気のせいかもしれない。

 私はまたあの人の手を乱暴にはらいのける。床を拭いているその表情は昨日とどこかが違っている。そうです。それが私が今ここに存在している意味なのです。

 生きる目的を知らずに生きることはとても苦しくて放り出したくもなるでしょう。でもそれがここに生まれた意味なのです。だから、焦らなくていいんですよ。あなたの歴史はまだ始まったばかりなのだから。
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