狼青年

文字数 31,128文字

 とある病院の敷地の前に、女が一人立っている。
 敷地に入る者の大半は俯き、女になど目もくれない。けれども、中にはどういう訳か挨拶をする者も居て、女もそれに無表情で応じている。
 すると一人の若い男が女に近づいた。女は相変わらず無表情だったが、男の顔を見て突然堰を切ったように話し始めた。
「あらこんにちは、一寸法師さん。お久しぶりですね。大きい体には慣れましたか?そうですか。すんなりとはいきませんよね。勇敢に鬼を退治して、宝と素敵な妻をもらって。でも油断してはいけませんよ。世界は罪で溢れていますから。お話ですか?いいですよ。そうですね、今日は何が良いでしょうか。ああ、こんな話はどうでしょう。あなたもきっと気にいると思いますよ」

「昔々ある所に、羊飼いの青年がおりました…」

 彼との最初の出会いはとある授業だった。
「隣、空いてる?」
 大講義室での文化人類学の授業で偶然隣になった。元々人気のある教授だったが、その日は普段よりも混んでいたように思う。
「あ、えっと…。まあ、空いてますよ」
「いやー良かった、全然空いてる席がなくてさ。ありがとう。今日はいつも以上に混んでるなあ。…あっ」
 彼は鞄の中を覗き込んで大袈裟に声を上げた。
「え、どうしました?」
「しまった、書くもの忘れちゃったよ」
「ははっ。何しに来たんですか」
 その日は授業の後に少し世間話をして別れたけど、そこから大講義室で会う度に彼と話すようになった。名前は尾矢真一と言った。学部は同じだが専攻が違うため、一緒なのはその授業だけだった。
 プライベートでの付き合いはなく、混雑する講義室で運良く会えた時だけ授業を一緒に受け、偶に校内ですれ違えば挨拶する程度の距離感が続いた。

「旅の魅力はさ、何と言っても自分の知らない世界を知覚することだと思うんだよね」  
 彼は旅行好きで、今まで旅した様々な国の話を聞かせてくれた。僕は旅行なんて小さい頃にそれも国内しか行った事がなかったから、彼の話はどれも刺激的で面白かった。
 また、彼は時々不思議な話もした。
「海外での旅はさ、こう…初めて見る文化や様式があって、それを知る度に自分という存在が書き換わる気がするんだ」
「人がアップデートされるってこと?」
「そう。その感覚は何にも変え難い。でもね、実は身近にだって素晴らしい場所が沢山あるんだ」
 彼はそう言って悪戯っぽく笑った。旅の話をする時の彼は、まるで大きな子供のように純粋で輝いていた。
「そんな凄い体験が出来る場所なんてあったかなあ」
 授業がない日は基本学生寮に篭りきりだからかもしれないけど、大学までの道中で感動したり楽しいなんて思った事がない。
「例えば、最寄駅を敢えて通り過ぎてさ。知らない駅で降りて、見た事もない住宅街をあてもなく歩くんだ。勿論携帯の電源はオフ」
「そんなことしたらすぐ迷子になりそう」
「そう、いつのまにか行き止まりや路地裏に来たりしてね。でもね、そういう意図していない時にこそ見つかるんだ。路地裏の暗がりに。空き地の草っ原の陰に。電柱の裏側に…」
 こういう時に彼は話のオチを直ぐに言わないで婉曲に話した。
「何があるのさ」
「はい、えー、時間になりましたので、今日の講義はここまで。みなさんお疲れ様でした」
 彼が口を開こうとすると、いつもいいところで授業が終わってしまうのだ。
「残念、今日はお仕舞いだ」
「なんだよ凄い気になるじゃん」
 勿体つけるのは彼の癖だった。後になって思えば、彼は最初から全て計算ずくだったに違いない。授業の進行度に合わせて話のピークを調整しながら喋っていたのだ。
 だが、いつの間にか講義よりも彼の話を楽しみにしている自分がいた。

「おはよう、調子はどう?」
「おはよう、君の話を聞けるなら、例え落ち込んでたって元気でるよ」
 彼の前では僕も饒舌になったし、彼と話せるなら大学生活も悪くないなとまで思えた。
 彼はいつも大講義室に時間ギリギリに入ってきて、授業後はそのまま居残った。
「で、今日こそ最後まで聞かせてもらうよ。君の話はいつもオチの前で終わってしまうから、結末を聞けないとずっともやもやするんだ」
「はは、それはごめん。じゃあそうだな…一つ実体験を話そうか」

 ついこの間の事だ。俺はいつものごとく見知らぬ駅で降りて、当てもなく町を彷徨っていた。お腹が減れば目についた店で食事をして、隣にいるお客や店のご主人に話しかけて、一期一会の出会いを楽しむんだ。
気になるお店や商品、看板や建物があれば、入ったり周りの人に聞き込みしたりもした。
 そうこうしている内に太陽は西に傾いて、空が段々と赤らんできた。燃えるように綺麗な夕焼けさ。
 サムイ島、ウユニ塩湖、ナイアガラの滝やマチュピチュにオーロラ…。俺は様々な秘境を旅して数えきれない絶景を見てきたけど、住宅街で家と家の隙間から一人見る夕焼けだってそれらに全く負けず劣らず感動的なんだ。見ず知らずの場所に、心地よい疲れとともにいることは、異国と同じ雰囲気を創り出してくれるんだ。
 …いつまでそうしてたかな。いつの間にか涙が頬を伝って、その柔らかな感触で俺は我に返った。心を打たれる体験というのは、別に壮大な景色じゃなくてもいいのさ。
 ああ、今日の旅も得難い体験ができたなと感慨深い気持ちに浸りながら、顔を上げて再び歩き出そうとしたら…。
 ふとね。
 視線を感じたのさ。
 辺りを見回しても誰もいない。
 ただ、塀に伸びた長い影だけがゆらゆらと揺れている。
 おや、と、思ったね。自分はこんなにも揺れていたのかって。
 歩き始めてからも、視界の端にちらちらと映り込むんだ。その影が。どんなに見ないようにしててもね。ずうっと着いてくるんだよ。まとわりつく様にさ。
 何だかおかしいなって考え始めると怖くなって居ても立っても居られなくなって、俺は一目散に駆け出したよ。
 影なんだからさ、普通着いてくるだろ?
 でも、途中でふっ…と体が軽くなったんだ。
 なんて言えば良いのかな。
 あると思って踏み抜いた段差がなかった時のような感触。
 俺は驚いて足を止めると、恐る恐る振り返った。
 ゆっくり、ゆっくりとね。
 そしたらさ、少し離れたところから…。

「影が、じいっとこっちを見てたんだよ」
「いや、流石に嘘でしょ!」
 僕は突っ込まざるを得なかった。彼は時々、こうした怪談めいた話を僕にするのだった。

 前期のカリキュラムが終わり、彼と話す機会はほとんど無くなった。結局飲みに行くことはおろか、連絡先の交換すらしなかった。
いや、出来なかったと言った方が正しいか。僕はもっと仲良くなりたかったが、彼の前には越えられない壁のようなものを感じた。

 彼の周りには常に人が居たように思う。彼は背が高く容姿もよくて、その上話も面白い。かと言って驕らず誰に対しても気さくで、皆が彼を慕っていた。
 僕もそうだ。実の所、僕は大学デビューに失敗した部類だった。いや、今の時点で諦めるのは時期尚早か。
 まあとにかく、昔から一人で何かを決断するのが苦手だった僕は、地元から離れて進学した大学でも案の定誰にも声をかけられずに居て、あれよあれよと言う間に月日は過ぎてしまった。
 誰が悪いと言えば、親だろう。特段酷い親だった訳ではなく、寧ろ過保護だった。僕は一人っ子で何でもやって貰っていたせいか、肝心なところでそのツケがきて、最後の一歩を踏み出す勇気が出ないのだった。
 僕は今も親からアルバイトしなくてもやっていける仕送りを貰っている。だから時間だけはいくらでもあるんだけど、サークルに入る勇気もなく、かと言って彼のように自分の時間を旅など貴重な経験の為に費やすことも億劫で、只々部屋で無為に過ごす日々だった。

 その日、午前中でカリキュラムを終えた僕は、大学から少し離れた場所にある電気屋を訪れていた。待ちに待った新作ゲームの発売日だ。ゲームはいい。漫画には音がないし、小説には絵がない。どちらも備えた映画だって直ぐに終わってしまう。長い時間世界に浸れて、自分で主人公に成り切って世界を旅し、あらゆる事を経験できるゲームこそ、僕にとっての

だった。
 ゲームソフトを無事に買い終えて上機嫌の僕は、逸る気持ちを抑えながら帰り道を急いでいた。
 大通りで信号待ちをしていた時の事だ。
 ふと、交差点の向こうである人物が目に止まった。
 彼だ。信号待ちの人溜りの中でも、高身長でモデル体型の彼は一際目立っていた。彼への憧れもあったのかもしれない。
 僕は声を掛けようか随分と迷った。
 実は彼には噂があって、僕だけじゃなくて、プライベートでは一切誰とも付き合わないらしい。確か、病気の母の看病で忙しいとか。携帯電話すら持っていないなんて話もあったけど、それは流石に嘘だろう。まあ、実際に使っている所は見たことないんだけど。
 友達の居ない僕にも聞こえてくるくらい、校内は彼の話で溢れていた。
 そんな僕がプライベートで声をかけるのはやはり迷惑だろうか。いや、でも、向こうがもし僕に気づいてるとしたらそれこそ無視する方が失礼なんじゃ…。
 そうやって逡巡している内にいつの間にか信号は青になっていて、僕は声をかけるどころか横断歩道すら渡れずにその場に固まってしまう。
 いつもそうだ。肝心なところで迷って何も出来なくなってしまう。声をかけるだけ。どちらか選ぶだけ。前に足を出すだけ。なのにその一歩が僕にとっては果てしなく遠かった。
 僕は歩行者の波に飲まれてもみくちゃになる。僕を押し除けて進む者たちから聞こえてくる舌打ちやため息が、より一層自分を惨めにさせた。
 振り返ると、彼はまだ僕の見える範囲にいた。どうやら随分ゆっくりと歩いているようだ。
 僕は街灯に集まる虫のように、ふらふらと引き寄せられるように彼の後について行った。
 このまま黙って帰ることが僕には耐えられなかったんだと思う。けれど、特に何かをしようと思った訳じゃない。というかそんな勇気なんてない。声をかけるでもなく、単に彼が歩いた道を辿って行っただけだ。
 彼は大学にいる時と違って、歩く際は長い背を丸めて帽子を深く被り、足を引き摺るようにして歩いていた。その姿はさながらわかりやすい逃亡犯のようで、僕は段々彼の行き先に興味が湧いてきた。
 信号を渡り、狭い路地を右へ。そこから緩やかな坂を登り、少し行って今度は交差点を左へ折れる。敗戦の将のような足取りの彼の後を、僕は黙ってついていく。
 その時の僕は、まるで映画の主人公にでもなった気分でいた。やってる事はただのストーカーなのに、凄腕の探偵になりきって完全に浮き足だっていたのだ。
 誰かを尾行するなんて初めてだったけど、彼は僕の存在に気づいてないのか一度も振り向かなかった。自分の存在感の無さがこんな所で役に立つとは、人生何があるかわからない。
 そうして歩き続けること約20分、最終的に彼は大きな建物へと入っていった。
 彼が見えなくなって少ししてからゆっくりと建物に近づくと、そこは大きな病院だった。敷地の前のコンクリート壁に付けられた銀のプレートには、柔らかい字体で「誠心記念病院」と刻まれていた。
 病院?何処か具合が悪いのかな。いや、確か母親が寝たきりだったっけ。
「ねえ」
 ぼうっと立っていた僕に、病院から出てきた年齢不詳の女がいきなり声をかけてきた。ベージュのロングスカートに白いカーディガンを着た、どこにでも居そうな印象の女だった。
「何であなたの服は人の皮で出来ているの?」
 僕は一瞬、道を尋ねられたのかと思った。中身は意味不明なのに、女の聞き方はそのくらい自然だった。僕は単語を理解するまでにかなりの時間を要した。
「…え?」
 日本語を理解しても、意味は全くわからない。縋るように女を見返すも、女はきょとんとした顔で僕を見つめていて、心底わからないといった様子だった。
「人の…?え?いや、あの、これ、普通のシャツなんですが…」
 僕はなんて答えていいか分からずその場で酷く狼狽した。
「でも、被ってますよね、皮」
 女の平坦で抑揚のない声は、機械的で録音された音声ガイダンスを想起させた。
 女は僕から目を逸らさず、じっとこちらを見続けている。マスクをしているため、表情はわからない。
「いや、僕は…えーと、普通の人間、です。それしか言えないです、すみません」
 何だか上手く返せない僕の方が悪い気がして、思わずその場で謝罪した。女は少し眉を顰めて考え込んでいたけれど、「ああ、あなたは狼なんですね」と呟いて、1人で納得したように頷くとそのまま何事もなかったように歩き去った。
 取り残された僕は、まるで狐につままれた気持ちでその場に立ち尽くすしかなかった。
 結局その日は家に帰ってもゲームをする気にはなれなかった。インターネットで誠心記念病院を調べると、どうやら精神科専門の病院のようだった。
 きっとあの女の人も精神を病んでいたに違いない。そういった類の人間と初めて接した僕は、姿形は同じなのに、全く理屈が通らない事に心底恐怖を覚えた。
 そういう意味では、彼女こそが、

とでも言えるだろう。
 でも待てよ、彼は何でそんな病院に行ったんだろう。
 僕の中で、小さな疑念が芽を出し始めていた。

 次の日、僕が一人で背中を丸めて学食を食べていると、近くに彼とおそらくゼミの仲間達であろう集団が座ってきた。
 僕と目が合うと、彼は気さくに手をあげ、僕もそれに応じて軽く手を上げて挨拶を交わした。
「あれだれ、真一?」
「授業で仲良くなった友達さ」
「へえ、相変わらず交流広いねあんた」
 派手な格好をした金髪の女は、その辺の石ころを見るような目で僕を一瞥した。きっと、学生時代からずっとスクールカーストの上位で楽しく何の悩みもなく人生を過ごして来たんだろう。
「それよか聞いてくれよお、真一ぃ。昨日はマジで大変だったんだよ。まさか財布拾ったタイミングで職質に合うなんてよお」
 少し後ろにいたヤンキー風の男が、見た目に違わぬ濁声と粗野な口調で強引に話しかけた。派手な女と彼の間に無理矢理割って入ったせいで、僕の椅子に少し足がぶつかって、危うく僕は飲み物をこぼしそうになった。こういう奴は、平気で人を虐め、何でも暴力で解決する。そのくせ、悪びれもせずに仲間は大切です、絆って大事ですって言いふらす。こんな奴、地元のツレと夜中に馬鹿騒ぎして、いつか飲酒運転で捕まってしまえ。
「それは日頃の行いだよ。偶発的に起きたように見える不運な出来事も、元を辿れば自分に原因があるんだ」
「うわあ、辛辣ー。あんたサークルで後輩いびりすぎなのよ」
「んだよみんなして。ったく、勘弁してくれよお」
「ぶふっ。げぇえっほ。えほっ」
 いい気味だ。取り巻き達の視線を痛いほど感じるが、僕は飲み物が器官に入った風を装って難を逃れた。危ない危ない。彼が余りにもすかっとする事を言うもんだから、思わずあからさまに笑ってしまうところだった。
「あ、じゃあ真一君は昨日何してたの?」
「あ、それ聞きたーい」
 彼は、いつものように話の中心にいた。楽しそうに笑う彼と、彼に群がる女たち。
 僕は、ウサギのように折り畳めない耳を恨みながら、残り少ない飲み物をちびちびと啜り続ける。
 話の種はどうやら昨日何をしたか、になったようだった。
「俺かい?いつもと変わらないよ。すぐに帰って、家で母の看病さ」
 あの日僕が見たのは、確かに彼だった。
「偉いなあ真一は。俺ならそんな母親さっさと施設に入れて遊びまくるけどな」
「あんた最低ー」
「んだよ、ちゃんと金入れるんだからいいだろうが」
「でも本当に大変だよね。その若さで両親とも…あ、いや、ごめん」
 突如、女が言い淀む。母親だけでなく、父親もどうにかなっているのか?
「いいさ。こうして大学に通えているのも親父の残してくれた遺産のお陰だし、お袋だって女手一つで俺を育ててくれて、感謝しかない。例え話せなくなっても、近くに寄り添えるのは嬉しい事だよ」
 美談を美談ともしない飾らない性格。
 でももし、その話が全くの作り話だとしたら?果たして彼の取り巻きは一体どう思うだろう。
「真一くん偉過ぎ!私たちで力になれることがあったらいつでも頼ってね!」
「ちょっと、あんただけ狡い、私も私も!」
「そうだぜ真一ぃ、そうは言っても偶には息抜きも大事だからよ、とりあえず遊びに行こうぜ」
「あんたは息抜きしかしてないでしょ」
「ははっ、考えておくよ」
「誠心記念病院」
「え?」
「あん?」
 僕の一言にみんなが一斉にこっちに注目した。
「昨日、君は誠心記念病院に入って行ったよね」
 僕は空になったお皿を見つめながら言った。
「誠心記念病院ってあの精神科の?」
「え、昨日って」
「急に入ってきて何だお前、見間違いだろそんなの」
 彼の周囲が俄かにざわざわし始めたところで、彼はパチンと指を鳴らした。
「ああ、ああ。そうか、見られていたんだね」
 彼はいつものように爽やかに笑ってそう言った。
「おい真一、お前こいつの言うとおり、昨日精神科に行ったのかよ」
 ヤンキー風の男はいつにない強い口調で彼に詰め寄った。
「そうだよ、お袋の薬をもらいにね」
「え、でもお母さんは全身麻痺で…」
「そう。そして、そんな状況だからこそ、眠れない時があるんだ。だから俺が代わりに薬をもらいに行ってる。何も、わざわざそんなところまでみんなに言わなくてもいいだろう?」
「まあ、そりゃそうだな」
「そうだよね、変なこと聞いてごめんね」
 彼の説明に取り巻きたちは納得し、その場にまた穏やかな時間が流れ始めた。
「それにしても、全然気が付かなかったよ。居たなら声をかけてくれれば良いのに」
 彼は、たった今自分を貶めようとした僕に対してすらも、何のわだかまりもなく話しかけてきた。
「遠くだったから」
 僕はそう吐き捨てると学食を後にした。
「何あいつ、感じ悪ー」
 まだ心臓がバクバクしている。あんな大勢に注目されて、恥ずかしさから顔をあげられなかった。人の視線はどうも苦手だ。
 僕の行動は唯の嫉妬で、はっきり言って惨めで醜い。それは自分が一番よくわかっている。
 昔からそうだった。人見知りで友達が出来ないのを周りのせいにして、口を開けば文句や嫌味ばかり。かと言って何かに打ち込む訳でもない。自己嫌悪に陥るだけで、結局は同じことを繰り返す。
 でも、もし彼が嘘をついているとしたら、それはやっぱり納得がいかない。
 取り巻きたちは彼の話を当たり前のように信じこんでいたけど、僕にはあれが本当の事だとは到底思えなかった。
 とはいえ、高々昨日の帰り道の話だ。誰も昨日の天気の話を疑わないし、そもそも記憶にも残らないだろう。
 彼にとっては嘘を吐くことは日常なのかもしれない。それこそ息を吐くように。そうだとしたら、彼を探れば幾らでも嘘の証拠を見つけられるはずだ。  
 そう考えたあの時の僕は、きっと何かに取り憑かれていたんだと思う。あの時に浴びた沢山の視線が忘れられない。彼の嘘を暴いた時、それは賞賛に変わるんだ。そう信じて疑わなかった。
 その日から、僕の授業そっちのけで彼を追う生活が始まった。

 とはいえ、素人に捜査のノウハウなんてある筈もなく、何から始めていいかわからなかった僕は、とりあえず彼との過去の会話や校内できこえてきた話から、彼の履修科目とそのスケジュールにある程度辺りをつけ、彼が見つかるまで校内をうろついた。
 やっとのことで彼が見つかると、こっそり彼の後をつけ、今度は帰るまでずっと張り込んだ。でも、大抵の場合は途中で見失ってしまうのだった。
 張り込みは予想以上に難しい。ちょっと舐め過ぎていたかも。何度も心が折れそうになって、僕、授業にも出ないで何でこんなことしてるんだろうって多分1000回以上は思った。
 そもそも広い校内で彼を見つけるのがまず難しい。運良く見つけられても、授業中の待ち時間が拷問のようにきついのだ。彼に見つからないように万全を期して、授業には出ず講義室のドアの近くでただじっと立っていなくてはいけない。
 スマホを見てぼーっとしているといつの間にかいなくなっている事は勿論、講義室の出口が上下左右に複数ある所も多く、油断していなくても人の波に攫われて彼を見失ってしまう。
 ドラマで見るような探偵や刑事って本当にすごいんだなと心から感心した。僕は彼らのように聞き込みをする訳にもいかないので、この非効率で気の遠くなる方法を辛抱強く続けていくしかなかった。

 そんな張り込み生活を2週間も続けたお陰で、ようやく尾行しやすい曜日を特定することが出来た。
 他の曜日は教室の広さやコマ数の関係で、張り込みに相当な集中力がいるにも関わらず見失う可能性が高く、心が折れそうになるから避けることにした。
 この2週間授業を殆ど休んだけど、今まできちんと出て内容も理解していたから2回くらい別にどうってことはない。出席カードを大量に確保し、仲間内でノートを共有し、1人を犠牲に遊びまくる。そんなどうやって授業に出ないでも出席した事になるかに躍起になっている程度の低いグループなんかと僕は違う。一人でもちゃんと休まず授業に出る自分のメンタルを褒めたいと思う。
 さて、調査の結果、一番安全なのは火曜日だった。彼の最後のコマが出口が正面にしかない監視しやすい講義室で、彼の専攻で必修の語学授業だから、人も少なく見失いにくい。後はバレないように周辺の空き教室やトイレで張り込んでいれば完璧だ。彼も基本的に授業を休むタイプではなかったのも幸いした。
 よし、次の火曜日から本格的に尾行生活をスタートさせよう。
 僕はまるでドラマの主人公にでもなったように気持ちが昂っていたのだった。


【9月12日火曜日 尾行記録1 対象:尾矢真一】
・今日は初めての尾行。これからは尾行中、尾行後にその結果を簡単に書き留めておく事にする。この記録は後に彼の嘘を暴く証拠資料となるだろう。

・滑り出しは上々だ。上手く教室から彼の後をつける事ができた。火曜日は4コマで終わり、彼は雑談も程々にすぐに帰るはず。
・予定通り彼は直ぐに大学を出た。僕は5メートル程の距離をキープしながら、彼を尾行している。
 彼は寄り道せずに真っ直ぐ駅まで向かうと、山手線に乗った。僕も直ぐに後を追う。
・一つ隣の車両から扉越しに彼の様子を伺っている。彼は空いている席に座ると、すぐに寝てしまった。
 僕の姿はさながら凶悪犯を追ってる探偵のようで、少し興奮している。このままずっと寝ていてくれると楽なんだが。
・彼は渋谷で京王井の頭線に乗り換えると、しばらくして三鷹で降りた。結局、電車に乗っている間彼は常に寝ていて、相当疲れているようだった。
 電車内が混んでいて、降りる時に思ったよりも人がいたこともあり、残念ながら彼を見失ってしまったため、今回はこれにて終了とする。
〈彼は三鷹に住んでいる?〉

【9月19日火曜日 尾行記録2 対象:尾矢真一】
・今日は高井戸で降りた後も見失わなかったぞ。前回の反省が活きた形だ。相変わらず彼は常に寝ていてお疲れ気味だ。
・彼は駅を出るとすぐ目の前の交差点を渡り、住宅街へと続く緩やかな坂を登って行った。
 その間も特に寄り道をする気配はない。彼の後ろ姿は猫背で極度に丸まっていて、顔を下げて常に俯いて歩いており、見るからにどんよりとしていた。大学で見る彼とは全く真逆だ。  
 大学を出るとスイッチがオフになるのかもしれない。
・彼は時折フリーズしたように動きを止め、数分間そのままでいることがある。ある一点をじっと見つめているようだけど、特にそこに何があるようには見えない。
 そうかと思えばキョロキョロしながら突然走り出したりして、行動に一貫性がなくて尾行が難しい。もしかして、ここ最近の僕の視線を感じているのだろうか。
・住宅街の入り組んだ路地で彼を見失ってしまったため、今日はここで終了する。
 〈さて、帰り道はどっちだろう?〉

【9月25日 月曜日 補足メモ】
 僕が調べた雑多な情報を記す。
 ・虚言癖・・・病気。
 嘘は、①必要に迫られる(行きたくない飲み会の誘いを断る)、②見栄を張る(初戦敗退なのに大会でベスト8になった)、③取り繕う(皿を割ったのはこの犬です)といった場合に吐くもの。僕の主観。彼は、どうでも良い小さな事でも平気で嘘を吐く。まるで息を吐くように嘘を吐く。精神疾患と関わりがあるのかも。
 ・誠心記念病院・・・国内有数の精神病院。
 150床の病床数があり、あらゆる精神疾患患者を受け入れている。新患予約は半年待ちだとか。 
 彼を病院で見かけたのも火曜日だった。あれから2週間尾行しているけど、病院に行く気配がない。薬の代理処方は家族であれば可能らしい。これは、僕が匿名で病院に電話をかけて聞いた。受付の人は優しい。けど、やっぱり本人のものだと思う。3週間か4週間毎の通院?
 ・尾矢真一という人物・・・高身長の僕が羨むイケメン。気さくで話も上手く、大学の人気者。母親の介護に忙しく、プライベートでは一切誰とも交流していないという。スマホも持っていないらしい。母親は全身麻痺?大学に行っている間は誰が世話しているのか。なぜ施設に入れないのか。恩を返す→本当に?怪しい所が多すぎる。大学を出ると、別人のようにどんよりしている。精神疾患とは何か。尾行継続。

【9月26日火曜日 仙川 】
 尾行も今日で3回目だけど、どうやら今回は収穫がありそうだ。
 彼はいつも山手線→渋谷→京王井の頭線→三鷹が帰宅ルートだった。いつも三鷹で見失うから家まではわからないけど、少なくとも最寄駅ではあるはずだ。
 それが今回は山手線→新宿→京王線→仙川で降りた。そして仙川といえば誠心記念病院だ。新宿駅の人混みの中で見失わなかったのも何たる暁光。
 今度こそ狼少年、いや狼青年の尻尾を掴んでみせる!
 彼は駅を出るとやはり真っ直ぐ病院に向かっているようだった。彼は寄り道をしないので、その点では尾行する側として非常に助かった。中途半端な時間のせいか辺りに人気は殆どなく、あまりに道が開けているため、このまま尾行継続は危険と判断し、先回りして病院周辺で彼を待つことにした。
 道路を挟んで病院の反対側に、尾行にお誂え向きのコンビニがあるのだ。
 適当に雑誌を立ち読みしていると、予想通り程なくして彼が現れ病院に入って行った。僕は自分の読みが当たって思わずガッツポーズを取った。隣で少年誌を立ち読みしていた学生が僕のことを怪訝な顔で見ていたけれど、そんなのどうでも良いほどに興奮していた。
 僕は彼が敷地内に入った事を確認すると、急いでコンビニを飛び出した。
 病院に近づいた所で、敷地前に見覚えのある女が立っていることに気づく。
「狼さん狼さん」
 女の方も僕だとわかるや否やぐいと顔を近づけて話しかけてきた。この女はどうも苦手だ。根源的な恐怖を感じる。
「すみません、急いでるので」
 Uターンしてそのまま立ち去ろうとした僕を、女はなんと手を掴んで引き止めた。突然の行動に驚いた僕は、つい足を止めてしまった。
「あなたが人間の皮を剥ぐのは腐っているからですか」
「え、腐ってる?」
 やはり女の言っている事は意味がわからない。
「電磁波に晒された黒くてぶよぶよの姿が耐えられないんですか」
 女は戸惑う僕にお構いなしに矢継ぎ早に質問する。
「いや、ちょっと意味がわからないです」
 僕は人見知りだけど、相手の外見から勝手に自分と比べて優劣をつける悪い癖があった。自分より下だと判断すると、どういう訳か上から目線で話せるのだ。
 因みに、上だと判断した相手には自然と敬語になってしまうんだけど、僕はこれが嫌で嫌で堪らなかった。
 僕は掴まれた手を振り解こうとしたが、ふと脳裏にある考えが浮かんだ。
 待てよ。前回ここで彼を見た時も、彼女は病院の前に立っていた。そして今日もいるということは、彼と通院日が被っているという事だ。
 彼女はもしかしたら、彼を知っているんじゃないか?
 今日はトイレに行くふりをして病院に潜入するつもりだったけど、正直それはリスクがある方法だと思っていた所だ。ここは一つ彼女に聞くのが最善かもしれない。
「あの、尾矢真一って知ってます?」
「ええ、もちろんですよ」
 よしっ!と僕は心の中でガッツポーズを取った。
「ええと…彼はなんでこの病院にきてるんですか?」
「追われているんです。良くないものから」
「へえ…。それって彼自身の受診ですか?」
「はい、あそこで匿われています」
 見えているものが違い過ぎるのか、話が上手く噛み合わない。会話ができているのかどうかも怪しかった。
「彼自身の受診という事でいいんですよね?お母さんの代わりとかじゃなくて」
「代わりはいませんよ。死んだらそれっきりです」
「だから、どっちだよ!」
 僕はイライラしてつい声を荒げてしまった。偶々通りがかった患者らしき人が、不審な目をこちらに向ける。
「ああ、私の皮も剥ぐのですか」
 怒鳴ったと言うのに、彼女は相変わらずの無表情で、全く動じないどころかこの期に及んでまだ良くわからないことを話し続けている。
 これ以上彼女と会話を続けるのは無理そうだった。
「お大事に」
 そう吐き捨てると、僕は怪しまれないうちにその場を立ち去った。
 視線を感じて少し離れた所で振り返ってみると、彼女はまだじいっとこちらを見つめていた。

【同日 誠心記念病院前】
 短い診察が終わり、長い会計の待ち時間終えて支払いを済ませた尾矢真一は、病院の敷地内で塀の側に立っている女性が目に留まった。
「ああ、テラーさん…。お元気ですか」
 彼女は話すこと全てを寓話で例えるので、受診仲間たちからそう呼ばれていた。
「ええ、変わりませんよ、羊飼いさん。今、そこに狼が居たんです。気をつけないと貴方も食べられてしまうかもしれませんよ」
 彼女はいつものように無表情でそう言った。感情のない語り口は、いつ聞いてもストーリーテラーとはほど遠かったが、自分につけられた羊飼いと言う名前はまさに言い得て妙だと感心したのを覚えている。
「狼ね…。でも俺は見なかったな。そんなものより、俺はあれの方が遥かに怖いよ。何せ」
 突然、尾矢が会話の途中で後ろを振り返った。
 尾矢の視線の先には誰もいなかったが、怯えたように後ずさると、帽子を目深に被り直し、まるで逃亡者のように走り去っていった。その場には舞い上がった砂塵に混じり、

気配だけが色濃く残っていた。

【9月28日木曜日 学食】
 僕は例に漏れず一人で学食を食べていた。一昨日の尾行で彼が嘘つきである決定的な証拠を掴むはずが、結局は不完全燃焼に終わってしまった。
 長く尾行を続ければそれだけ彼に気付かれるリスクも上がってしまう。あの女も使えないし、次は僕自身が病院の中に何としても入らないと。
 お気に入りの油淋鶏定食を食べながら流れてくる音楽に身を任せていると、俄かに学食が騒がしくなった。
「あいつ、生意気だからちょっとシメてやったら、即サークル辞めやがってよお」
 あいつだ。酒とタバコで焼けた不快な濁声。
 彼やその取り巻きに合わないようにわざわざ遅めの時間を選んだというのに、運悪く出くわしてしまったようだ。僕は急いで席を立とうとしたが、時すでに遅しだった。
「あ、あの時の感じ悪いやつ」
 派手な女が僕に気づいて声を上げた。
 彼らが一斉に僕を見る。いくつもの視線が否応なく突き刺さり、僕はたまらず下を向いた。
「お、ホントだ。お前いっつもぼっちだな。まあ、その性格じゃ当然か」
 ヤンキー風の男の嫌味は核心をついていたが、それだけに僕はついムキになってしまった。
「僕は本当の事を言っただけだ」
「あ?聞こえねえよ。てか文句あんならこっち見て話せよ。相変わらず態度わりいなお前」
 どう考えてもお前の方が態度悪いだろ!
 …と面と向かって言う勇気は僕にない。
「き、君たちはいいの?嘘つかれててっ。彼はお母さんと同居なんかしてないし逆に精神疾患で誠心記念病院を受診してる」
「じゃあ証拠見せろよ」
「今はないよ。あ、僕は見たけど。じ、自分達で確かめに行けばっ」
 慣れない事をしているせいか、声が上擦り所々吃ってしまう。ヤンキー男が必要以上に騒ぎ立てるせいで、僕へ向けられる視線が増えていくのを感じた。
「はあ?何で俺達が確かめないといけねーのよ。お前が言ったんだから、責任持ってお前が証明しろよ、この法螺吹き野郎」
 ヤンキー男は笑っていた。顔を見なくてもわかる。顔を上げられない底辺の僕を見下して、悦に入っているのだ。そしてそれを、止めもせずに半笑いで見ている仲間たち。
 彼らは、自分達の象徴が汚される事を恐れるだけの有象無象だ。自分は何ら凄くないのに、凄い奴の近くに居るだけで勘違いしてしまう哀れな狐たちだ。
「なら、来週の木曜日。同じ場所で。動かぬ証拠を持ってくるから」
「お、言ったな?楽しみにしてるぜ。ま、逃げても誰も何も言わねーけどな」
 くすくすと嫌な笑い声が辺りに響く。彼は嘘つきかもしれないが、人を傷つけたり嫌な気持ちにさせたりしない。同調もしない。それなのに、こんな嫌な奴らと何で一緒に居るんだろう。
 啖呵を切った手前、逃げ帰ったと思われるのが癪で、僕は彼らが席を立つまで意地でも学食に居続けた。
 ちびちび飲み続けていたジュースが無くなって、氷が溶け出して生まれた水すらも飲み干して、遂には全ての氷が溶け切った所でようやく彼らが席を立った。
 彼らのくだらない雑談と耳障りな笑い声を延々と聞かされたことで、僕の人生の中で最も長い昼食になった事は言うまでもない。

 
 学生寮に戻ると、僕は布団の中で頭を抱えた。ああ、何であんな事言っちゃったんだろう。帰るまでは変な高揚感からどうやって嘘の証拠を掴むかで頭が一杯だったけど、いざ帰って来て冷静になると、途端に激しい後悔が襲ってきた。
 いつもそうだ。小さい頃から人見知りで、そのクセ自分より弱いと思えばあからさまに強く出る。
 いじめっ子とか、ヤンキーとか、自分が苦手な奴らのする事は何もかも嫌悪感を抱く。いつもは一人安全な場所で悪態をついているだけだったのに、何でわざわざ自分の首を絞めるような事を言ってしまったのか。
 とにかくこれで確たる証拠を掴まないといけなくなってしまった。約束を守る義理はないけど、あんな奴らに逃げてると思われるのは本当に癪だ。僕は正しい。来週の火曜日に通院の証拠と別居の事実を必ず掴んで奴らに目に物見せてやる!僕は強く決意して布団の中で静かにポーズを取るのだった。

【10月3日 火曜日 誠心記念病院前】
 今日も首尾は上々だ。段々と尾行も板についてきた気がする。というか尾行開始から3週間で一度も見つからないのは普通に凄い事じゃないか?案外探偵に向いてたりして。

「こんにちは狼さん」
「どうもこんにちは」

 僕は彼が病院に入ったのを向かいのコンビニから確認すると、少しおいて病院の敷地内へ侵入した。
 途中いつもの女がこちらに気づいて挨拶してきたけど、前回みたく呼び止められないように一気に目の前を駆け抜けた。
 敷地から少し奥まった場所にあるその病院は、近くで見ると思っていたより大きかった。かつて白色だったであろう外壁は色褪せて黄色く燻み、所々亀裂が入っていて、お世辞にも綺麗とは言えなかった。確か、前身の誠心総合病院が建てられたのは昭和初期だったはずだ。
 敷地内はぐるっとブロック塀で囲まれているし、
世間一般が持つ精神病院の閉鎖的なイメージそのものだった。いざドアの前に立つと、何となく空気も重く感じられた。入り口の自動ドアを潜ると、視覚障害者用のチャイムですら僕を不安にさせた。
 ところが、中に入ってみると自分の持つイメージと実際のギャップに驚かされた。
 しっかりとワックス掛けされたピカピカの白いリノリウムの床に、LED電球の柔らかい暖色のライトが反射している。真新しいカウンターにはオレンジのリボンをつけた清潔感ある制服を着た笑顔の女性たちが並び、きびきびと患者の対応にあたっている。
「こんにちはあ」
「どうされましたか」
 院内にはオーケストラが流れ、カウンターから飛び交う気持ちの良い挨拶がメロディに旋律を加えていた。
 院内は木をベースにした間接照明がふんだんに取り入れられ、真新しい自動再来機や窓口の案内表示板が放つ青色の光が近未来のネオン街を想起させた。
「ここが、精神科…?」
 僕がイメージしていたような、どんより暗くて重苦しい雰囲気はどこにもない。
 目立つ事を避けるために、ひとまず僕はロビーの空いている長椅子に腰掛ける。平日の午後だというのに、ロビーは患者で溢れていた。僕が知らないだけで精神患者とうのはこんなにも沢山いるものなのか。がやがやとした喧騒の中で、料金計算が終了した旨を告げる柔らかな機会音声が響く。
 これだけの人が居れば、患者でない者が混ざっていても目立たなさそうだ。僕は椅子に座ったまま怪しまれないように周囲を伺った。
「あんね、ひっこしんきょかおりあくてでんでんだめさ。ほんっなにかんがえてんよぎょうせえはさあ。あんなあらよ」
 目の前の椅子に座ってる初老の男性が白杖にサングラスをした女性にしきりに何かを話しかけている。盲目の女性は相槌を打っているが、初老の男は呂律が回っておらず酷く聞き取りにくい。
 自動再来機の横では、白衣の男性がメイド服みたいにフリルのついたドレスを着たツインテールの女の子から言い寄られていた。
「あなたいい顔してますよね。お話も楽しいですし。私と結婚しませんか?どうですか?」
「結婚っていうのは、もっとお互いにきちんと段階を踏んでからするのであって…」
 カウンターに目を向けると、料金精算窓口で納付書と明細書を手渡された女性が、お金も支払わずに帰ろうとして、受付の女性に呼び止められていた。
「あのね、まだお支払いしてないお金があってね」
「今忙しいの!時間がないの!また今度にして!時間ない時間ない時間ないからあ!」
 挙動不審な女性は話しかけられた瞬間に物凄い剣幕で捲し立てると、静止を振り切って立ち去ってしまった。
 隣にある1番の白文字が光るカウンターには小汚い老婆がぶつぶつと呟きながら、ミミズのような字で仕切りに何かをメモしていた。
「私は…わかっています。…おたくは、患者の同意を得ず…身体の拘束と入院措置を…その事実を隠蔽し…不正の証拠を…警察にも通報して…お金も盗まれ…わかっていますから…」

 僕は頭を抱えてその場に項垂れた。確かに院内は明るい。入った瞬間柔らかなロビーに驚かされた。人も多いしゆっくり時間をかけて彼を探そうと思ったさ。
 だが実際はどうだ。人生でお目にかかった事もないヤバい人間のオンパレードじゃないか。こんなところに長くいたら、僕も確実に何かを持って行かれてしまう。
「うっ」
「あ、すみません」
 耐えきれなくなって慌てて席を立とうとして、後ろから来た車椅子の患者にぶつかってしまった。
押している方も乗せられた方も共に生気がなく、どう見ても50代なのに、口を開けて呆けている様子はまるで小学生だった。
 床に落ちた軍手を拾い上げて手渡すと枝のように骨と皮ばかりの手が無言でそれを受け取った。
落ち窪んだ眼窩に異様に鋭い光が見えて、僕は背筋が凍る思いだった。
 そして、彼もまた違和感なくそこに居た。カウンター横の壁際に置いてある長椅子に、何故か壁にピッタリと背中をくっつけるようにして座っていた。
 見られたか…?
 帽子と伊達眼鏡とマスクで変装していたが、今彼がこっちを見たら、僕だとバレてしまうかもしれない。僕は背中に伝う汗もそのままに再びその場に腰掛けた。
 幸い彼は視線を真っ直ぐ受付に固定していて、僕には気づいていないようだった。僕は明らかに挙動不審だったけど、そもそも周りにいるのが僕以上におかしな奴ばかりだったから、彼にも院内のスタッフにも怪しまれずに済んでいるようだった。…ひとまず潜入は成功といえるだろう。
 僕は帽子を目深に被り直すと、目立たないように男子トイレに入った。広くてトイレ内に人がいない事を確認すると、僕は急いで個室に体を滑り込ませる。個室内で上着を脱ぐと、スマホの動画をオンにしてシャツの胸ポケットへしまう。丁度カメラ部分が外に出るように調整してあるので、怪しまれる事なく彼を撮影できるはずだ。
 僕はそのまま何食わぬ顔でロビーへ戻ると、早速カメラで彼を追った。
 とりあえず横顔を撮ろう。それにあの不自然な姿勢も。彼はトイレから戻ってきた後も微動にせずに姿勢良く座っていた。
 僕はさりげなく彼と対角線上の席へ座ると、足を組みながら体を彼の方へ向ける。カメラワークは事前に何度も確認済みで、画面を見なくてもある程度綺麗に撮れる自信があった。
 そこから静止画かと勘違いするほどに動きのない時間が続いたが、ようやく待望の瞬間がやってきた。
 「尾矢さーん、尾矢真一さーん、診察室へお入り下さい」
 彼はスッと立ち上がると、壁に背中を擦り付けながら通路の奥に消えていった。
 やはり彼の受診で間違いなかった!僕は思わず胸の前で小さくガッツポーズをする。この音声と映像だけでも、取り巻き達の鼻っ面をへし折るには十分過ぎる証拠になるはずだ。僕ははしゃぐ気持ちを抑えて静かに席を立つと、何食わぬ顔で病院を後にした。

 外に出ると、敷地の入り口にはまだあの女が立っていた。もしかして、一日中あそこにいるのだろうか。
「こんにちは、狼さん。おばあさんは食べられましたか?」
 気分が高揚していた僕は、意味のわからない彼女の話にも自然に応じていた。
「お陰様でね。けどまだ足りないよ。ここまで来たらもっと証拠を集めないと」
 取り巻きのヤンキー男を完膚なきまでに叩きのめすためにも、今度はこのまま彼が出てくるまでコンビニで粘って、そこから尾行して一人暮らしの証拠を掴むつもりだった。
「欲張ると身を滅ぼしかねませんよ?お腹に石を入れられないように気をつけて下さいね」
 女はそれだけ告げるとそっぽを向いて話さなくなった。
「それはご忠告どうも」
 彼女にどんな意味不明な事を言われようが、はっきり言って何とも思わなかった。むしろ、堪えても堪えても自然と笑みが溢れてくる。
 しばらくして背を極端に丸めた彼が病院から出てきたのを確認すると、本日2回目の尾行が始まった。

【同日、京王井の頭線内】
 ガタンガタンと静かに揺れる電車内で、尾矢真一は座席に座って夕暮れ時の景色を見つめていた。
 周りから見れば少し変わった人間に見えるだろう。大の大人が体を捩って窓ガラスに額を擦り付けてまで齧り付くように外を見ているのだから。努めて無表情を装っていたが、彼の背中は冷や汗でじっとりと濡れていた。
「こらっ。ゆうと、座席に足乗せないの!靴で汚れちゃうでしょっ」
「ええー。でも、あのおじさんだってやってるよ?ねえ」
「しーっ!あの人は見なくていいの!」
 後ろで誰かが自分の事を話している。それだけで彼は安心する。誰かが近くにいて、誰かが彼を見ている事がわかるから。
「次はぁ三鷹ぁ。三鷹ぁ。…お降りの方は、お忘れ物の無いようお気をつけ下さいぃ…」
 車掌のアナウンスから少し遅れてホームに電車が到着すると、尾矢真一は瞬時に前を向いて逃げるように電車を降りた。窓ガラスには強く押し付けられた額と手の油がべっとりと残っていた。
 改札を出ると、尾矢真一は一目散に駅の出口へと走る。そうする事で、まとわりつく何かを振り払おうとしているのだ。
 いつものねっとりとした視線に混ざって、今日は足音までもがはっきりと聞こえて来る。ひたっ。それでも尾矢真一が後ろを振り返る事は決してない。ひたひたっ。
 湿り気を帯びた足音を振り切るように、わざと遠回りをして帰る。入り組んだ住宅街の路地の隙間を縫うように。
 それでも逃げられない。つかず離れず足音はついてくる。だが、捕まらなければそれでいい。足音に追いつかれた時、どうなるかはわからない。ぴちゃっ。ここ最近は、通院の日に限って視線の数が増えていて、余計に神経をすり減らしていた。
 駅から尾矢真一の家まではおおよそ10分で、迷う事もない一本道だ。けれど、追われている時は30分以上かかって命からがら逃げ帰ってくるのだった。はああぁっ。
 崩れた石垣を潜り、行き止まりの路地の塀を乗り越えて、荒れ放題の空き地を突っ切りながら不規則に右へ左へ尾矢真一は走る。延々と遠回りを繰り返しながら、少しずつ家を目指していく。ひたひたひた。
 いつもならその過程で視線と足跡が自然と消えていた。それなのに。あと少しで家に着いてしまうというのに、まだ視線と足音が着いてきている。ねちゃあ。
 最後の抵抗で一度アパートの前を通り過ぎ、ぐるりと周囲を一周してから玄関の前に立ったが、舐めるような視線はまだ続いていた。
 尾矢真一は観念すると、覚悟を決めてアパートの部屋の前に立つ。
 ドアを僅かに開けると、間髪入れずにその隙間に体を滑り込ませ、体全体を使って押し込むようにドアを閉めた。それだけでは不安なのか、尾矢真一はそのままの姿勢でドアを強く押さえ込んだ。その力は細身の体から想像できないほど凄まじく、年季の入ったアパートが何度も軋む。
 しばらくそうしていると、段々と何かの気配は薄くなっていき、やがては纏わりつく視線が完全に消えた。そこでようやく尾矢真一はドアからよろよろと離れると、室内の電気を点けると同時に力尽きたようにリビングに倒れ込んだ。
 いつもそうだ。帰宅すると、最早立ち上がる気力は残っていない。静まり返った家の中で、尾矢真一は丸型蛍光灯の明かりを虚な目で見つめ続けていた。瞬きの度に瞼の裏に黒い穴が残る。蛍光灯の寿命が近づいているのか、白い蛍光管の端と端が黒ずんでいた。まるで自分のようだと尾矢真一は思う。徐々に徐々に日常が何かに侵食されていく。
 ふと。尾矢真一が力なく顔を横に向けた時、カーテンに僅かな隙間がある事に気づく。自分の閉め方が甘かったのか、隙間風で開いてしまったのか。それとも…。
 隙間から僅かに白いレースカーテンが覗いている。築50年のアパートには所々に見えない隙間が開いていて、夏はじっとりと暑く冬は芯から寒い。
 きっと、風の悪戯だ。そう思っても、背中を伝う嫌な汗を止めることができない。尾矢真一は這うように窓際までゆっくりと近づいていくと、恐る恐る顔を上げた。その目で誰もいない事を確認する為に、カビたカーテンの隙間から外を…。
「あっああぁうあぁいいっああああっっ!」
 尾矢真一が窓の外を覗くのとほぼ同時に、外から強烈な光が両の目を襲った。あまりに突然の出来事に気が動転し、奇声を上げながら部屋の中をのたうちまわった。パニックに陥る尾矢真一の瞼の裏には、ぽっかりと空いた黒い穴がいつまでも残っていた。

【12月某日 仙川】
 肌寒い冬の夕暮れに、僕は急足で件の病院に向かっていた。行ってどうなる訳でもないし、あの女がいるかどうかもわからないが、とにかく行かなければ気が済まなかった。ダウンのポケットに入れた手を強く握りしめた僕は、自分でも情けない程惨めな表情をしているのがよくわかった。
 10月、僕は尾矢真一の取り巻きの男に彼が嘘つきである証拠を持ってくると豪語し、実際にそれをやってのけた。
 使命感から彼の通院先であった誠心記念病院の院内にまで潜入し、診察時に彼の名前が呼ばれる瞬間の音声や、ロビーでの不自然な挙動を撮影できたのだ。
 あれだけの啖呵を切った手前、一つの証拠だけじゃ不十分だと思った僕は、更なる証拠を求めて尾行を継続し、遂には彼の住むアパートを突き止めることに成功したのだ。
 何かに追われている風の彼は、追っ手を巻く為なのか何度も予測不能な動きを繰り返していて、尾行は困難を極めた。
 狭い路地や三叉路を出鱈目に曲がり、時には塀を乗り越えたり私有地に侵入し、とにかく必死で後ろの何かを振り切ろうとしているように見えた。
その後ろで僕もまた彼に着いていくのに必死だった。ここで見失えばもう次はない。ヤンキー男に一生負け犬と言われて独りぼっちの大学生活を送る羽目になる。走るのが苦手なのに、一生分のマラソンを走らされた気分だった。
 でも、そのお陰で活路を見出すことが出来たのだ。それまでは見つかるのを恐れてかなり距離を取っていたため、急な方向転換に着いて行けずにいつも途中で見失っていたけど、その日は違った。
彼は後ろを決して振り向かないのだ。何から逃げてるのかわからないが、それは僕ではなかった。大方、精神を病んでありもしない幻覚に怯えていたのだろう。それがわかってからは接近して尾行出来る様になり、振り切られずに済んだという訳だ。
 そんな苦労の果てにようやく探し当てた彼の家は、拍子抜けするほどに普通のアパートだった。実は大豪邸でしたとか、逆に河原でホームレスをしていたとか、そんな超展開は残念がら訪れなかった。
 都合の良い事に、彼の部屋は一階だった。部屋中のカーテンが閉まっていたが、ぐるりと一周すると、ある窓だけほんの少し隙間が空いているのがわかった。丁度アパートの裏手側で、向かいの家の高いブロック塀と斜めの道路のお陰で覗いていても目立たなそうだった。
 僕は彼が家に入ったのを確認すると、早速その隙間から中を覗き見たが、カーテンが閉め切られた室内は薄暗く、残念ながら中の様子は窺い知れなかった。
 だからと言って、何の収穫も無しに帰るわけにはいかない。僕はカメラモードを起動したままの状態で彼が戻ってくるのをじっと待っていた。
 少しするとドアの軋む音が聞こえ、不意に室内が明るくなった。カメラ越しの視界が一瞬白くぼやけ、それに目が慣れると何故か彼は仰向けに倒れていた。
 僕はその様子を淡々とスマホの画面を通して見つめていた。クレヨン画のようにボヤけた視界の中で、彼の存在もまた曖昧だった。
 窓から見える部屋は居間のようだったが、椅子もテーブルも家具什器の類は何一つ見当たらない。間取り的に奥に見える扉が寝室だろう。全介助の母親どころか生活感すら感じられない部屋だった。
 これくらい明るければ部屋の様子を撮影できる。僕は咄嗟にスマホの画面をタップした。
 静寂の住宅街にかしゃあと乾いた音が響き渡り、僕は驚いて思わず周囲を窺った。
 辺りに人はおらず、ほっと安堵したのも束の間、なんと彼の頭がゆっくりとこちらを向いたではないか。
 まさか、のぞいていることに気づかれたのか。咄嗟のことに僕の思考は停止してしまう。壁の薄さでシャッター音が漏れたのか、カーテンからこちらの姿が透けて見えるのか。どちらにせよ彼の顔は強張り、こちらを一点に見つめている。
 もしかしたら、まだこちらには気づいていないかもしれない。ただ、隙間を見ているだけ。だったら何で顔が強張っている?離れるべきだ、今すぐに。でも、今離れたら明らかに怪しまれてしまう。もし顔を見られたら、それこそ一巻の終わりだ。最悪通報されてスマホを調べられて、盗撮で大学を退学なんて事も…。
 頭の中で相反する考えが渦を巻き、僕は蛇に睨まれたカエルのようにその場から動けなくなってしまった。この時ばかりはこうした不測の事態に滅法弱い自分を恨んだ。
 僕の焦りとは裏腹に、時間は刻一刻と進んでいく。その内彼はごろりとうつ伏せになると、体を引きずりながらこちらにゆっくりと近づいてくる。その様子をスマホのカメラ越しに僕はただ黙って見つめている。まるで某ホラー小説の主人公にでもなった気分だ。
ーゆっくり。ゆっくりとね。
 いつかの彼の声が脳裏に響く。恐怖で動けない僕はスマホの画面から這い出てくる彼を見つめることしかできず、なす術なく暗闇に引き摺り込まれて…。
 不意に目の前の画面から彼が消え、僕はようやく我に帰る。画面から見切れただけで、きっと彼は窓枠のすぐ下にいる。何か行動に移すとしたら今しかない。僕は咄嗟の思いつきで撮影モードをフラッシュにすると、彼の頭が画面に迫り上がってきた瞬間、撮影ボタンを連打した。
「あっああぁうあぁいいっああああっっ!」
 すぐに眩しい光が窓ガラスに反射し、機械音を掻き消す程の奇声と転げ回るような地鳴りが部屋の中から聞こえてくる。僕はその混乱に乗じてその場から全速力で離れると、少し先にあった公園の草原に飛び込んだ。
「はあっ…。はあっ…。…うははっ」
 想定外の出来事への焦りと、それを土壇場で回避した興奮から、僕のテンションはいつになくハイになっていた。

 あの時の僕は、やはり何かに取り憑かれていたんだと思う。危険を冒してまで彼のアパートまで戻ると、路地の隙間から観察を継続した。さっき周辺住民にでも見られていたらわざわざ捕まえてくださいと言っているようなものだ。けれど僕はその時点でもうリスクの事など考えていなかった。
 既にとっぷりと日は暮れて、ちらほらと街灯瞬き始めていた。幸いにも僕の読み通り1時間もしない内に彼が外出した。恐らく夜ご飯を買いに行ったか食べに行ったのだろう。僕はお腹が空くのも忘れて尾行にのめり込んでいた。
 こっそり彼を見送った僕は、彼の友達を装って、いかにも部屋がわからないといった具合でアパートの住人に話を聞いて回った。
「…誰?ああ、なんだ、尾矢くんなら隣の部屋。このアパートってみんな表札だしてないからわかりにくいのよねぇ。え、訪問介護?隣の尾矢くんが?そんなの呼ぶわけないじゃない。そもそも一人暮らしなんだから。私専業主婦で日中家にいるからわかるわよ」

「こんばんわぁ。はいはい、下の…オオヤくんだっけ?部屋番くらいちゃんと教えてあげればいいのにね。彼、いつも挨拶もしないしキョロキョロブツブツ気味悪いんだよねぇ。母親と同居?ないない、一人暮らしだよ。そもそも彼の家に誰も尋ねてこないしね。どういう経緯か知らないけど、君も付き合う人はちゃんと選んだ方がいいよ」

 オンボロアパートの住人たちは、面白いように彼の生活状況を教えてくれた。彼らは一様に何か刺激的な事が起きることを期待した目をしていた。本物の探偵も、こうして知り合いに成りすまして何食わぬ顔で個人情報を奪い取っているのだろう。やはり他人は簡単に信用してはいけないな。
 勿論胸ポケットに入れたスマホで住人との会話は全て録音していた。彼らが隣人だという証拠はないけど、その気になれば会って証明して貰う事だって出来るだろう。

 こうして命懸けで証拠を揃えた僕は、約束の日に自信満々にヤンキー男の前に現れると、人を小馬鹿にしたにやけ面に叩き付けに…は行かなかった。
 卑怯で小心者の僕は、手っ取り早く楽な方法を選択した。大学の生徒が多く利用するSNSに隠し撮りした動画と音声データを匿名で流したのだ。その時は自分の中で色々理由を並べてたけど、結局の所僕は対峙するのが怖かったんだと思う。
 僕は動画や音声データをアップした後、少ししてからやっぱり怖くなって削除したけれど、時既に遅し。面白がった奴らの手で彼の嘘は勝手に拡散されていった。
 こうして真実を暴かれた彼の元から、波が引くように人々は去っていった。その後、彼と取り巻きたちがどうなったのかは僕も知らない。ただ、校内の何処にいても自然と聞こえてきていた彼の黄色い噂話が、あの日を境に悪評や嘲笑へと変わっていき、その後何事もなかったようにぴたりと止んだ。きっと、それが答えなんだと思う。
 噂では、彼は犯人探しを望まなかったらしい。後先考えずに行動してしまったけれど、僕のやった事は盗撮であり名誉毀損であり、立派な犯罪だ。彼が被害届でも出そうものなら退学処分になってもおかしくない。そして、取り巻き達なら犯人が僕である事は容易に想像つくだろう。
 あの粘着質な取り巻きたちが黙っているとは考えにくい。ありとあらゆる手を使って僕の事を見つけ出して問い詰めるはずだ。
 取り巻き達も同じように離れたのか?それとも僕がやったと知ってなお庇ったのか?彼は大学から姿を消し、その答えは今もわからないままだ。
 
 今回の件で、僕はその行動力や正義感が評価され、一気に株を上げた。彼の代わりに僕の周りに人が集まり、持ち前の粘り強さが実って可愛い彼女も出来た。イベントサークルにも加入し、毎日授業そっちのけで先輩達とバーベキュー三昧。ここからが僕の真の学生生活の始まりだ!
 …なんて事にも勿論ならなかった。唯一の友人すら自らの手で失い、相も変わらず一人寂しく学生生活を送る日々で、寧ろ後ろめたさを抱えながらひっそりと生きている。

 後に校内で、偶然彼の小学校の同級生だと言う人物と話をする機会があった。あの一件以来、校内の至る所で背筋を伸ばした彼や這い寄る彼のキャプチャ画像を見かけるようになった。彼の人気を疎ましく思っていたのは、どうやら僕だけではなかったらしい。芸能人でもないのに、絶大な影響力を誇っていた事を改めて思い知った。
 そんな画像を怒りの表情で剥がして回っていた女の人がいたものだから、思わず声をかけてしまったのだ。

「ええと…。あの、いきなりすいません。あっ、怪しいものでは全然なくてですねっ。あなたは…そのぉ…。か、彼の知り合い、なんですか?今、剥がしてるそれ…」
 いきなり初対面の異性に話しかけたものだから、顔は半笑いで声もうわずり不審者感に拍車をかけたのだが、そんな僕を見ても彼女は至って普通に接してくれた。
「あはは、凄い顔してたよね、私。でもこういう悪戯って許せなくて。私たちもう大学生だよ?嫉妬してるからだろうけど、やってる事が小学生以下」
 彼女は深いため息を吐くと、彼との関係について滔々と語ってくれた。
「クラスは違うけど、尾矢君とは小学校の同級生だったんだ。大学では殆ど話したことはないけれど。あなたは?」
「あ、えっと、一応友達…です。とある授業が一緒で‥。彼の話は面白くて、いつも授業そっちのけで会うのを楽しみにしてて。でも、いきなりこんな事になって、居なくなってしまって…」
 彼の同級生が目の前で苦しんでいるというのに、僕はこうして息を吐くように嘘を吐いている。何が嘘をつくのは許せない、だ。これではまるで僕が狼青年じゃないか。
「本当に酷いよね、これ。きっと尾矢君は病気で苦しんでいるのに、それをこういう風に面白おかしく笑うなんて、人として許せないっ…!」
 彼女は肩を震わせながら搾り出すようにそう呟くと、握り拳を壁に叩きつけた。彼女の手は血で滲み、そこから静かな怒りが零れ落ちる。他人のためにここまで怒れるなんて、彼女はなんて優しい人なんだろう。
「はい、本当に…ひっ、酷い、です。でも、あの動画を見て、普段の彼との違いにおっ、驚きました。彼自身は、その、凄くっ…いい奴だったから、何でわざわざ嘘なんか吐いたんでしょうか」
 こうして喋っているだけで刺すように心が傷む。彼と違い、僕の嘘は沢山の人たちを傷つけてしまった。でも聞かずにはいられない。これを逃せば、彼を知る機会はもう訪れないのだから。
「それは私にもわからない。でも、彼、昔はすごく大人しい子だったんだ。確か小学校の時にご両親が離婚して…。その後少しして再婚したみたいなんだけど、ある時から急に人が変わったように明るくなった」
「急に明るく…」
「そう。豪邸に引っ越したとか、レアカードがどうとか。とにかく、誰彼構わず人に自慢するようになって」
 小さな子どもは現実と願望の境目が曖昧だと聞いた事がある。彼は大人しい自分を変えたくて、嘘に救いを求めたのだろうか。
「子どもだったら、信じちゃいそうですね」
「うん、最初はね。実際彼の嘘に釣られて周りには色んな子が集まった。いつも一人でいる子だったのに、いつの間にか彼の周りには沢山の人が集まっていたの」
「最初はって事は、やっぱり今回みたいに?」
「結局…ね。家が古いアパートなのを誰かに見られちゃって、そこからは手のひらを返されたように周りから無視されて…。その内学校にも来なくなってね。子供って純粋な分残酷だよね」
 彼女の剥がした紙を握る手に力が入る。
「あの…。彼は、なっ、何で、嘘をついたんでしょうか」
「彼の事を深く知らない私が憶測で物を言うのは違うと思う。でも、私は嘘をつくのにも必ず原因があると思ってる。確かに人を騙すのは良くないけれど、彼の置かれてる境遇や嘘を吐かなければいけなくなった背景を考えようともしないで、表面だけを見ている人が多すぎる。だからこんな面白半分に…。許せない」
 その後も彼女は幾度となく会話の中で許せないと呟き、彼女の言葉の一つ一つが僕の胸を深く抉った。心理学を専攻している彼女の言葉は重く、僕は遂に耐えられなくなって、会話の途中で逃げるようにしてその場を去った。

 僕が彼にした事は一体何だったんだ?
 あの日学食で芽生えた強烈な嫉妬心が、嘘吐きなのに人気者である彼を許さなかった。嘘に嘘を重ねた彼の仮面を引き剥がし、当初の目論みどおりにその素顔を丸裸にしてやった。少し懲らしめてやるつもりが、彼を休学寸前まで追い詰めた。客観的に見れば、僕のミッションは大成功だ。
 それなのに何で僕は今こんな気持ちになっている?
 彼の同級生は言った。嘘を吐くのにも理由があると。嘘を吐くのは悪じゃないのか。理由を知ればそれは同情に値するのか。
 歪んだ正義を掲げた盲信的な群衆に火炙りにされて、僕は今満足なのか?
 終わりのない自問自答を繰り返しながら僕は誠心記念病院へ辿り着いた。病院の敷地前にある塀の端には、あの時と変わらずにあの女が立っていた。その変わらぬ姿を目にして不思議と安堵している自分がいる。
 僕が話しかけようと近づくと、反対に彼女の方から声をかけてきた。
「こんにちは、狼さん。嘘つきの羊飼いを食べられて満足しましたか?」
「え、何でそれを…?」
 彼女は無表情のまま少し首を傾げる。彼女の言う羊飼いとは、尾矢真一の事ではなかったのか。
「世界は全てお話で繋がっているんですよ、狼さん。あなたの物語だって始まった時から既に終わりが定められています。語り手はただ、その通りに言葉を紡ぐだけなんです」
「はあ…」
 相変わらず彼女の話は何を言っているかさっぱりわからないけど、それに救われている自分がいた。
「浮かない顔ですね、狼さん」
 彼女が僕の顔を覗き込んでそう言った。あの日以来、僕はうまく笑えていなかった。毎日毎日夢で彼を追いかけては捕まえる事なく目が覚める。
「そう…ですね…。僕のやった事は、間違い、だったんでしょうか…」
 勝手に追いかけ回して、勝手に後悔して、勝手に不調になって、ここに来た。その答えすら結局他人任とはなんて虫のいい話だと思う。
「狼さんは狼さんらしく、笑顔で肉を喰むのが一番ですよ」
 案の定彼女は僕の気持ちなんてお構いなしに、助言なのか何なのかわからない返をした。
「…ぶっ。くくっ。あはは。あはははっ」
 全く意味がわからなかったけど、本当に久しぶりに声を上げて笑っていた。僕が今日ここに来た事は間違いじゃなかったと改めて感じた瞬間だった。
「あっ」
 そして、ここに来たもう一つの理由が彼だ。今日は火曜日で、彼女が居るという事は彼もまた受診しているということに他ならない。その彼が今まさに病院から出てくる所だった。
「ありがとう!それじゃあ」
 僕は彼女にお礼を述べると、彼に見つからないように慌ててその場を離れようとした。
「いえいえ。それより食べ残しには気をつけないと…」
「気をつけないと?」
「川に落ちてしまいますよ」 
 彼女は額と額が触れそうな程に顔を近づけると、僕の耳元でそう囁いた。女の人とそういう事になった事のない僕は、南国の果実のように甘ったるい匂いと耳を擽る息遣いだけで直立不動になってしまう。
 そんな僕の様子を知ってか知らずか、彼女はそこで初めて満面の笑みを浮かべたのだった。無表情な彼女の透き通るような笑みは美しさを通り越して酷く恐ろしく、僕を映す青く大きな瞳はまるで全てを見透かされているようだった。

 まただ。また見られている。尾矢真一はアパートまでの帰り道を足早に歩いていた。
 一人になると決まって現れるこの視線。俺を値踏みするかのように、付かず離れずじいっと眺めている。生かさず殺さず獲物が弱るのをただ待っている。その度に尾矢真一は自分がしまうまのように惨めな気持ちになるのだった。あいつから逃れるには、つまるところ家に閉じこもるしか手はない。だが、万年引きこもりになどなれるはずもない。
 きっかけは、何だった?
 小さい頃に両親が離婚して、俺は父親に引き取られた。記憶の中の両親は毎日喧嘩ばかりしていて、いつも自分に火種が飛んでこないかびくびくしながら布団をかぶっていた。
 しばらくしてやって来た新しい母親は、とてもとても厳しい人だった。
 母に連れ子はおらず、当時は何故こんなにも自分に辛く当たるのか理解できなかったが、今にして思えば、後妻として完璧であろうとする母なりの苦労があったのかもしれない。
「何なのこの点数はっ!あれ程復習しなさいと言ったでしょっ!」
 母は、あらゆるテストで100点以外は一切認めなかった。目の前で破り捨てられる答案用紙と母の平手打ちの記憶が、今でも何かの拍子に蘇って俺を苦しめた。
「いい?例え貧乏でも、常に心だけは豊かでいなさい。勉強だけじゃない。学校生活でもみんなの模範になりなさい」
 母の言う事はいつだって正しくて、

達成することなど出来なかった。
 ある時、クラスで学級委員を決める投票がある事を知った母は、友達もろくにいなかった引っ込み思案の俺に、学級委員長になるよう命じた。熱い気持ちと清廉潔白な心があれば、息子の当選は確実だと信じて疑わない。
 けれどもそんな高尚なモノは持ち合わせているはずもなく、俺は結局立候補すらできずに余物の美化委員を押し付けられたのだった。例えあの時勇気を振り絞って立候補していたとしても、万が一にも選ばれる事はなかっただろう。
 勉強であれば一人でいくらでも出来るが、人望を集めるのは容易ではない。入学直後ならまだしも、既にクラスで浮いていた子どもがいきなり友達を増やすなんて芸当は不可能だった。
 けれど、そんな理由は母に通用しない。もし正直に言おうものなら、容赦ない罵声と暴力が僕を襲っただろう。父は安月給で土日も仕事に終われ、夜も起きている時間に帰って来た所を見た事がなかった。パートの母と四六時中一緒だった当時の俺に、逃げ場なんて何処にもなかった。
 だから…。
「くそっ、またか」
 尾矢真一は辟易したように呟くと、全速力で明後日の方向に駆け出した。病院の敷地を出て少しした辺りで、視線の数が明らかに増えていた。少し前にもそうした状態が続いた事があったが、最近は収まっていたので少し安堵していたのだが。
 何とかして視線を躱すため、尾矢は敢えて遠回りをすると、入り組んだ路地で法則性のない動きを繰り返す。
「ね、ねえ。僕…。あ、いや、俺…の家、ごっ…豪邸なんだ」
 振り返ると、始まりはそこからだった。
 ひた。
「俺さ、レアカードが好きなだけ貰える店知ってるぜ」
 小さな嘘を重ねるうちに、いつの間にか罪悪感は消えていった。
「あの店さ、父さんの知り合いの店だから、俺だけしか行けないんだ。代わりに俺が好きなの貰ってきてあげる」
 吐いた嘘がバレないように、更に嘘で塗り固めた。
 ひたひた。
 尾矢は這い寄ってくる気配から逃げるように、住宅街で蛇行を繰り返す。
「プロサッカー選手のサインなんかいくらでもあるよ。誰のが欲しい?」
 嘘を吐く度に、自分の中の何かが削り取られていった。それと引き換えにして、俺の周りにはどんどん人が増えていった。それを人望だと勘違いした母も、いつの間にか叩く事はなくなった。
 人生は分からないもので、引っ込み思案の自分に何故か話術の才能があったらしい。いや、嘘を吐く事でしか人を惹きつけられないのなら、詰まるところは詐欺師の才能か。どれだけ子ども騙しの嘘だとしても、不思議と相手を納得させられる力があった。
 大勢の前で話しをする事は、正直にいって今でも苦痛を伴った。本当は注目される事は嫌いだし、他人に見られるのも嫌だった。だが、一人にはなりたくない。


 ぴちゃっ…。
 子どもの頃、嘘がバレて俺の周りから人が去った後、育て上げた獲物の前にあいつは悠々と姿を現した。
「嘘をついてまで人気を得ようだなんて、あなたには失望したわっ!」
 子どもに嘘に頼るしかない程無茶な要求をしておいて、よく言う。
 尾矢真一は目の前に聳え立つ塀を乗り越えて、私有地にも無断で立ち入った。あいつの視線から逃れるためなら、どんな道にだって行ってやる。走って走って走って走って、それでも視線はぴったりと着いてくる。
 迷路のような路地の中で、現在と過去が入り混じる。
「見ろよ、嘘つき野郎が来たぜ」
 ず…。
「真一君、嘘は良くないよ。今までの話は全部嘘だったの?今回の事は先生からお母さんに報告するからね」
 ずず…。
「いいっ?今度こそっ!強くてっ!正しい子にっ!あなたはぁっ!」
 ずりぃ…。
「ねえっ!本当なんだって!見られてる。誰かに見られてるんだよぉ。信じてよお母さん!違うよ、今度は嘘じゃないって!」
 ずるぅ…。
「ねぇ聞いた?あのアパート。そうそう、今朝両親が死体で見つかったって。しかも損傷が酷くて誰だか分からない程だって。怖いわよねぇ」
 はあぁぁ…。
「丸々太った嘘つきの羊飼いさぁん。みぃー、つけ、たぁ」
 あ。
 あぁぁぁぁ。
 見つかった!見つかってしまったっ!俺が完全に一人になった時に現れる何か。

 ー養嘘場で大切に育てられた羊飼いも遂に出荷される時がきたのです。

 一度現れたが最後、俺がどれだけ逃げてもあいつは全てを喰い散らかす。みんな喰われてもうお終いっ!
 尾矢真一は奇声を上げるとなりふり構わず手足をバタつかせて全速力で走り出した。自分の家まであと僅かなんだ。手を伸ばせば、ほら。俺の家は豪邸だ。隠れるところなんていくらでもある。

 ー狼の子ども達はモノクロの飼育映像に涙し、抑揚のないナレーションがそれに花を添えます。
 
 角を曲がればそこはもう安全地帯なのに、曲がり角が近づくにつれて後ろの気配がより一層色濃くなっていった。さっきから目一杯走り続けて腕も足ももう限界だ。

ーでも、食糧は何処までいっても所詮は食糧でしかありません。

 俺の周りにはもう誰も残っていない。既に両親は喰われ、あれだけいた大学の学友たちだっていなくなってしまった。今の俺は丸腰で、あいつの視線から俺を守ってくれる遮蔽物は何処にも存在しないのだ。
 
ー満足した狼の子ども達は、すぐに涎を垂らしながらお皿の上の羊飼いを取り囲みます。

 大丈夫、あと少しで辿り着く。あと少しなんだ。十字路の角を曲がって安堵しかけたところで、突如足が重くなって前に進めなくなってしまった。驚いて下を見ると、コンクリートの地面が泥沼のようにぬかるんでいて、足がどっぷりと浸かっている。
 ああ、あと少しだったのに…。
 ずぶぅり。
 底なし沼のようにもがけばもがくほど体はどんどん沈んでいく。
 ずぶずぶずぶ。
 尾矢真一はあっという間に首から下まで全て地面に埋まってしまい、遂には指一本動かせなくなってしまった。

 ー狼達は羊飼いに感謝すると、両手を合わせて…。

 すぐ後ろにあいつの気配を感じる。犬みたいにはあはあと荒い息遣いが聞こえ、生暖かくどろっとした何かが俺の頭に滴り落ちる。
 母さん、嘘を吐くのはもう疲れたよ。
 辺りが不意に真っ暗になって、それと同時に

も消えた。
 俺はようやく安堵すると、暗闇で静かに目を閉じた。 
 ーいただきます。

 僕は住宅街をなりふり構わず走り回っていた。シャツははだけて涎とか鼻水とかそれはそれは酷い格好をしていたと思うけど、そんな事構ってられないほどに走った。
 彼はいつにも増してめちゃくちゃな道を行き、運動音痴の僕は彼を見失わないようにするだけで精一杯だった。
 どうしてそこまでして彼を追っかけているのかは、正直僕にもわからない。気持ちの整理が付かずに勢いだけでここまで来てしまった。会ってあの日の事を謝罪するのかもしれないし、面と向かうと結局話しかけられないかもしれない。とにかく彼を追わなければならないという使命感に突き動かされていた。
 そうは言ってももうこれ以上は耐えられないという所で、彼の走るペースが極端に遅くなった。自分の足元を何度も見つめ、仕切りに首を傾げている。あれだけめちゃくちゃに走ったら怪我の一つや二つするだろう。今なら僕でも何とか追いつく事ができそうだ。
 でも、今更何を話せばいい?彼のアパートはもうすぐそこだ。このままだとあの日の様にただ帰り道を尾行しただけになってしまう。許してくれるか分からないけど、やっぱりきちんと謝らないと。
 彼は十字路を右に曲がった。いや、倒れ込んだと言った方がいいかもしれない。ここから見ると、彼の足は地面と一体化している様だった。彼の背中が完全に見えなくなったところで僕は曲がり角にそろそろと近づいた。
 今すぐに後を追うと、曲がり角でいきなり鉢合わせする可能性もある。僕は息を殺して耳を澄ませながら一歩一歩踏みしめる様に進んでいく。僕の耳に聞こえてくるのは時折吹く風と飛ばされる砂利の音だけだ。今のところ向こうで彼が走り出した様子もない。
 いいぞ、僕。
 見つからないように、ゆっくり、ゆっくりとね。
 いや、見つかったらそれはそれで覚悟を決めて話が出来るから、逆にその方が良いのか?
 そしたらさ、角を曲がったら彼が…。
 何処にも居なかった。
 しまった、撒かれた。僕はそう思って咄嗟に走り出そうとして、不意に何処からか何かの視線を感じて思い留まった。隣では夕暮れ時の僕の影がゆらゆらと不自然に揺れている。
「ふとね」
 彼の声が耳元で聞こえてくる。
「後ろを振り返るとさ」
 後ろに誰がいるの?
「あなたの物語だって始まった時から既に終わりが定められています」
 しまいには居るはずのないあの女の声まで聞こえてくる始末。
 結末なんて、そんなの狼が嘘つきの羊飼いを平らげて終わりだよ。
 太陽が沈み、辺りが段々と暗くなっていく。僕の体は金縛りにあったように指一本動かすことができない。
「世界は全てお話で繋がっているんですよ、狼さん」
 赤ずきんの狼はその後どうなった?七匹の子ヤギの狼は?
「語り手はただ、その通りに言葉を紡ぐだけなんです」
 物語の狼が辿る結末…。
「あいつが、じいっとこっちを見てたんだよ」
「狼さんは猟師にお腹を裂かれてしまいました」
 そこでぴたりと声が止み、僕の世界に突然夜が来た。暗闇で研ぎ澄まされた頭に浮かんだのは、凍りつく様な彼女の笑顔と大勢に持て囃される僕の姿。
「あははははははははっ」
 そうだ、彼女の言うとおり僕は狼だ。今までずっと勘違いしていた。嘘つきの羊飼いを懲らしめるのは僕じゃない。語り手だ。動物に例えられた愚かな人間たちのひとり。言わば僕の存在そのものが悪なんだ。お腹を裂かれるのは僕だったんだ。
 全てを理解した途端、僕のお腹に経験したことのない激痛が走りその場に嘔吐した。
「おぅえぇぇぇ」
 気の遠くなる程の痛みでも、間髪入れずにお腹に捩じ込まれていく石ころの一つ一つが僕にそれを許してくれない。
「あっ。あっ。あっ。いぎいっ!ぐうぅっ…」
 この石を僕に入れているのは一体誰なんだろう。猟師?群衆?読み手?語り手、彼女…。気の狂いそうな痛みが僕の全てを曖昧にしていく。僕の罪は一体何なんだ?
 ああ、もう喉がカラカラだ…。
 僕は朦朧とした意識の中で、目の前に小さな川が流れていることに気づく。
 飲みたい。今日はやけに喉が渇いている。僕はよろめきながら泉へと近づいた。すぐそこなのに、お腹が重くて歩き辛い…。
 水を飲もうと川へ顔を近づけると、そこに写っていたのは青白い顔をした()だった。
 この結末は老若男女誰でも知っている。でも、僕は狼だから、みんなが喜ぶようにそうしないと。みんなって誰のこと?わからない。わからない。お腹が苦しくてもう何も考えられない。目の前にあるのが川なのか泉なのかもはっきりしない。ただ一つ確かなことは…。
 水を飲まなきゃってことさ。
 僕はお腹の重みで泉の中へ真っ逆さま。助けて助けて僕は泳げないんだ誰かぁ。叫べば叫ぶほど僕の姿は滑稽に映り、嘘つきの僕の声になんて誰も反応してくれない。まさに今の僕にとって相応しい結末だ。
 
「悪い狼はお腹に入れられた石のせいでそのまま泉の底に沈んでしまいましたとさ」

 これで、お終い。

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